教会は家族みたいなものです。よく聞かれる話ですが、私は同意しかねます。
最近、よく話をしていた信徒さんが亡くなりました。
あたらめてそう思います。
教会は家族みたいなものではなく、家族そのものです。
日課:マタイによる福音書1:18-25
イザヤ書7:10-17
ローマの信徒への手紙1:1-7
今日は、降臨節の最後の主日を迎えました。毎週一本ずつ灯してきたアドベントクランツのろうそく、今日ついに、四本すべての光を放っています。その光に導かれるように、私たちの心も、主イエス・キリストのご誕生を記念する時へと向けられていきます。いよいよ、その恵みを迎える準備が整いました。
今から二千年以上前、一人の男の子が、おとめから生まれました。医学も科学も今ほど発達していなかった当時、おとめが身ごもり、子どもを産むなんて、とても常識では考えれらないことです。だから、これはただの物語だと受け取る人が、決して少なくありません。
しかし、物語のように思われるこの出来事は、実はその誕生からおよそ七百年も前に、神が預言者イザヤを通して、あらかじめ告げておられた約束だったのです。聖書はこう語っています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
そして、時が満ち、その約束はおとめマリアを通して現実となりました。イエスの誕生によって、七百年もの時を隔てて語られた神の言葉が、ついに歴史の中で確かな事実として実現したのです。
今日の礼拝を通して、「インマヌエル」と呼ばれるこの御子の誕生が、この聖堂に集まる私たち一人ひとりの心に、どれほど大きな恵みをもたらしているかを、ぜひ深く感じていただきたいと思います。
まず、旧約の時代に目を向けてみましょう。イスラエルの民がエジプトを出て、約束の地カナンへと向かう旅路の中で、神は、昼は雲の柱となって進むべき道を示し、夜は火の柱となって足元を照らし、民を守り、導かれました。そこには、民と共におられる神のみ姿がありました。
やがて神は、イスラエルの民に幕屋を造るように命じられました。神はその幕屋に宿り、再び民と共におられました。さらに時が進み、ダビデとソロモンの時代になると、一時的な幕屋に代わり、より堅固で、永続的な神殿が建てられました。神はその神殿に宿り、民と共におられ続けたのです。
しかし、神の「共におられる」という思いは、建物の中にとどまりませんでした。新約の時代に至り、神はこれまでにない、さらに完全な形で、民と共におられることを示されました。それが、一人の男の子——イエス・キリストの誕生です。主イエスこそ、預言者イザヤを通して約束されていた「インマヌエル」でした。「インマヌエル」とは、「神は私たちと共におられる」という意味です。神は、人となられて、私たちと共におられるのです。
そして、主イエスが天に昇られた今も、「インマヌエル」という約束は、続いています。神は今も、教会のただ中におられるからです。ここでいう「教会」は、建物のことではありません。主イエスを信じる一人ひとりが招き集められ、神の民として形づくられた共同体のことです。そして、その教会の内に、神ご自身である聖霊が宿っておられるのです。
かつてもインマヌエル、今もインマヌエル、これからも、そして永遠にインマヌエル。神は、変わることなく、いつも、どんなときも、私たちと共におられるのです。
しかし、「インマヌエル」とは、単に神がそばにいるとか、心の中にいるという表面的な意味ではありません。そこには、私たちの想像を超える、神の恵みが込められているのです。
私たちは皆、生きるために生まれてきます。しかし、「イエス」と名付けられたあの男の子だけは、違いました。主イエスは、すべての人の罪を負い、十字架の上でいのちを献げるために、この世に生まれてきたのです。その十字架と復活こそが、「神は私たちと共におられる」という真実を示しています。
主イエスは、十字架によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちを神の前に正しい者として、立たせてくださいました。この救いの出来事によって、神は遠く離れた天の彼方におられる存在ではなく、私たちの人生そのものに入り込み、私たちを守り、導き、共に歩んでくださったのです。
ヨセフがマリアの妊娠に戸惑い、悩んでいたときも、神はヨセフと共におられました。恐れることなく、マリアを妻に迎えるように、歩むべき道を示されたのです。
あなたも今、大切な決断に迷い、先の見えない不安に押しつぶされそうになっていないでしょうか?夜眠れないほどの重荷、誰にも打ち明けられない悩み、家族や仕事での葛藤、そんなときにも、神は決してあなたを見捨てることなく、励まし、恐れずに一歩を踏み出す勇気と力を与えてくださいます。神は、今この時も、あなたと共におられるのです。
神は、私たちの弱さを担い、痛みを知り、喜びや悲しみを共に分かち合い、孤独や苦しみの中にも寄り添い、慰めと心の平安をもたらしてくださいます。これこそが、「神は私たちと共におられる」という言葉の本当の意味です。これこそが「インマヌエル」なのです。
今日、私たちは「インマヌエル」、つまり「神は私たちと共におられる」という真理を学びました。そして、その現実を確信することができました。しかし、この恵みを日々の生活の中で、豊かに受け取るには、私たち自身が互いに「共にいる」ことを、何よりも大切にしなければなりません。
共に礼拝を献げ、共に聖書を学び、共に喜びや悲しみを分かち合い、共に孤独や苦しみに寄り添う——そのような交わりの中でこそ、インマヌエルの恵みは、目に見える形で現れるのです。
兄弟姉妹の皆さん、どうか忘れないでください。ここには、あなたのために祈る人がいます。あなたの声に耳を傾け、あなたを心に留め、あなたの痛みを共に担おうとする人がいます。
ここは、あなたが一人ではないと気づかされる場所です。ここは、あなたの存在が受け入れられ、あなたのいのちが喜ばれ、あなたがいつでも帰ってきてよい居場所です。だからこそ、今日だけではなく、これからも共に集い、共に祈り、共に歩んでいきましょう。
最後に、今日の第二の朗読の終わりのことばをお借りして祈ります。
神に愛され、聖なる者として召されたすべての人たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。
この聖句を黙想しているとき、「命」
今、自分に与えられているこの命、この豊かさは、
静かに流れる泉の音に包まれながら、主イエス・
ほとんどの教会は、昔では壮年会、青年会、婦人会など、盛んに活動していました。今でもその活動を一部では行っていますが、メンバーが帰る人、年を取る人で、段々と寂しくなっているのが現状です。
あの頃、皆さんはあんなに熱心だったのに、どうして人は増えないのかと疑問にも思います。答えではありませんが、その活動の中に、神さまはおられましたか?神さまを一番にしましたか?こう問わざるを得ません。
どんな活動も、どんな交わりも、神さまがおられなければ、祝福されないと思います。
常に神様のみ言葉、祈りなどを大切にしないといけないと思います。
一年の終わりが近づき、夕暮れが早く訪れるようになると、私たちはいつのまにか、心を温め、希望を灯してくれる光を探し求めるようになります。そんな私たちの心に、静かに語りかける出来事——それが、クリスマスです。
二千年前、神の御子イエス・キリストは、ベツレヘムの小さな家畜小屋でお生まれになりました。人々から見過ごされるようなその場所に、世界を照らす「いのちの光」が宿ったのです。神はその独り子を通して、弱さのただ中に身を置き、貧しさの中に愛を示されました。この出来事は、決して遠い昔の物語ではありません。今もなお、キリストは私たち一人ひとりの「心の小さな場所」に、生まれようとしておられます。
クリスマスの喜びとは、単に救い主の誕生を記念することではなく、今日という日に、その救い主を自分の心にお迎えすることです。たとえ孤独を感じていても、心が疲れていても、キリストはそこに来てくださいます。静かに、私たちの心に光を灯し、闇を照らし、希望を回復させてくださるのです。
最近ニュースになっている土葬の話ですが、キリスト教はどうなんでしょうか?土葬でも、火葬でも、葬式をやらなくても、まったく関係ありません、その行き場はすでに決まってますから。キリスト教は宗教ではないですから、土葬でなければならないとか、火葬でなければならないとか、そういう決まり、ルールはありません。
葬式、埋葬は逝去した人のためではなく、残された家族のためです。
日課:マタイによる福音書24:37-44
ローマの信徒への手紙13:8-14
皆さんは、「茹でガエル」という話を聞いたことはありますか?生きたカエルをいきなり熱湯に放り込まれれば、カエルは熱さに驚いて、すぐに飛び出して逃げます。しかし、常温の水に入れたまま、ゆっくり温度を上げていくと、カエルはその変化に気づかず、そのまま茹でられてしまうそうです。
この話は、私たち人間の姿をよく映し出しているのではないかと思います。私たちは日々、この世の中に身を置き、生活を楽しみながら生きています。それはまるで、少しずつ温度が上がっていく水の中にいるようなものです。もし、そのままにいれば、やがて茹でガエルになってしまうでしょう。
今日は降臨節第一主日で、教会暦の新しい一年が始まる日です。私たちは、この一年の最初の礼拝を、共に迎えています。降臨節とは、二千年前に主イエスがこの世に来られた出来事を、心に刻みつつ、約束された再びの来臨を思い起こし、その日を待ち望む準備をする期間でもあります。
しかし、なぜ準備をする必要があるのでしょうか?それは、“茹でガエル”にならないためです。私たちは何を、どのように準備すべきなのでしょうか?その答えを、今日の福音書のみ言葉から、共に受け取り、心に留めていきたいと思います。
主イエスは、ご自身の再臨について語られるとき、ノアの時代の洪水の出来事を引き合いに出されました。あの時、人々は日々の生活を楽しみ、全く危機感を持っていませんでした。しかしある日、突然雨が降り始め、みるみるうちに水かさが増して大洪水となりました。箱舟に入った者以外は、誰ひとりとして逃れることができませんでした。気づいたときには、すでに手遅れだったのです。
主イエスは、その再臨の日が、特別な前触れのある日ではないことだと教えられました。男は畑で働き、女は臼を挽く、それは主イエスの時代にありふれた、何の変哲もない日常の光景です。このごく平凡な一日の中に、思いがけず主イエスが来られるのです。
では、主イエスが来られるとき、何が起こるのでしょうか?聖書はこう語っています。まず、すでに亡くなったキリスト者たちが復活し、続いて、地上に生きているキリスト者たちと共に、雲に包まれて引き上げられ、空中で主イエスと出会うのです。(テサⅠ4:16-17)
しかし主イエスは、もう一つの厳粛な事実も示されました。畑に二人がいれば、一人は主のもとに引き上げられ、もう一人は残されます。臼を挽く二人の女のうち、一人は主のもとに引き上げられ、もう一人はその場に留まります。それはまるで、箱舟に入った者と、洪水に直面した者との違いを思い起こさせる光景でもあります。
なぜ、このような違いが生じるのでしょうか?聖書の解釈には二つの見方があります。一つは、二人のうち片方がキリスト者で、もう一人は主を信じていない者であるという理解です。もう一つは、二人ともキリスト者でありますが、そのうち一人は目を覚ましたキリスト者で、もう一人は名前だけの自称“キリスト者”であるという理解です。
私たちは前者であってほしいと願うかもしれません。しかし、どちらの解釈が正しいかを考えるより、それ以上に大切なのは、私たち自身が「目を覚まして主を待ち望む者」として、日々を生きることです。そのように生きるなら、私たちは確かに主のもとに迎え入れられるのです。
ノアは、百年近くという長い年月をかけて、箱舟を造り続けました。人々が食べたり飲んだりしている間も、ノアは箱舟を造っていました。人々がめとったり嫁いだりしている間も、ノアは箱舟をを造っていました。ノアはなぜそこまでして、箱舟を造ったのでしょうか?それは、神が洪水の到来を告げ、その準備として箱舟を造るよう命じられたからです。
もしノアが、神を信じず、神の言葉を真剣に受け止めていなかったなら、箱舟を造ろうとはしなかったでしょう。ノアは、洪水が必ず来ると確信し、与えられた使命に従い続けました。まさに信仰のゆえに、ノア自身と家族だけでなく、人類が生き延びることができたのです。
「夜のうちに泥棒が入ると分かっていたら、目を覚ましているだろう」——主イエスのこのたとえは、まさに的を射ています。私たちも、主イエスの再臨を確かに信じているなら、必ず目を覚まし、主イエスを迎える準備をするはずです。
しかし、目を覚まし続けることは、本当に簡単なことでしょうか?あれほど多くのことを直接受け取った弟子たちは、果たして目を覚ましていたのでしょうか?私たちは、思わずこう問わざるを得ません。
ゲツセマネで、主イエスは十字架を目前にし、弟子たちに言われました。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」しかし、祈りから戻ってこられた主イエスが目にしたのは、眠り込んでいる弟子たちの姿でした。主イエスは言われます。「このように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。」主イエスが再び祈りに戻られた時も、弟子たちはまた眠っていました。そして、三度目も同じ光景が繰り返されました。(26:36-46)
つまり、現実として、弟子たちは目を覚まし続けることができませんでした。およそ三年間、主イエスに従い、み言葉を聞き、数々の奇跡を目にしながら、それでもなお完全には目を覚ましていられなかったのです。ペトロでさえ、三度も「主イエスを知らない」と言ってしまいました。
ところが、使徒言行録を開くと、そこにはまるで別人のように変わった弟子たちの姿があります。大胆に主イエスを証しし、迫害を恐れず、命をかけて福音を語り続けています。何が彼らを、これほどまでに強く、揺るがない者へと変えたのでしょうか?
それは、主イエスの十字架と流された血、復活、そしてペンテコステの日に、天から降られ、弟子たち一人ひとりに満たされた聖霊の力です。弟子たちを変えたのは、自分たちの努力でも意志でもありませんでした。キリストの救いと聖霊の働きこそが、彼らを目覚めた者へと変えたのです。私たちもまったく同じです。だからこそ大切なのは、主イエスを信じ、聖霊の助けを求めることです。
今日の第二の朗読は、私たちにこう呼びかけています。「眠りから覚める時がすでに来ていています。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。」使徒パウロが勧めるこの「光の武具を身に着ける」とは、すなわち、その後に続く言葉が示すように、「主イエス・キリストを着る」ということです。
しかし、私たちはどのようにして、主イエスを着るのでしょうか?それは、聖書を通して主イエスを知り、礼拝や祈りの中で主イエスと交わり、奉仕をもって主イエスに仕えるという、信仰の歩みを日々重ねていくことにほかなりません。その歩みを続ける中で、主イエスは私たちを包み、守り、導き、やがて、私たちは主イエスと「切っても切れない深い関係」を築き上げていくのです。こうして、私たちはまさに「主イエスを着る者」として歩むことができるようになります。この関係こそが、私たちが眠りから、目を覚め続けるための力の源であり、日々の信仰生活を支える揺るぎない力となるのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは今、この世という水の中に身を置いて生きています。どれほど努力を重ねても、自分の力だけで、そこから抜け出すことはできません。私たちを救い出すことができるのは、ただイエス・キリストお一人です。主イエスは、約束された通り、必ず再び来られます。その時、私たちをこの水の中から、確かに救いへと引き上げてくださいます。
教会暦の新しい一年の始まりであるこの日、私たちは心を新たにしたいのです。茹でガエルにならないように、主イエスを着る者として、共に目を覚まし、信仰の歩みを進めていきましょう。
クリスマスが近づいてきました。一部の国では、他宗教を配慮し、メリークリスマスの代わりに、ハッピーホリデーと言うそうです。これは一見配寛容のあるやり方に思われますが、違うと思います。
各宗教が平等に、自分の主張が言えることの方が大切で、お互いに祝い合うことこそが寛容ではないかと思います。
日課:ルカによる福音書21:5-19
マラキ書3:13-20b,23-24
年を重ねると、少しずつ体が思うように動かなくなっていくものです。あんなに軽かった足取りが重くなり、目も耳も昔ほど利かなくなります。風邪を引けば治りが遅くなり、体のあちこちに痛みを覚えるようになります。
また、年齢に関わらず、病気やけがを通して、かつては元気で丈夫だった自分の体が、少しずつ弱っていく現実を突きつけられることがあります。
さらに、長く連れ添った家族の病や、親しい友人の死に向き合うときにも、私たちは人生のはかなさや、頼りにしていたものの脆さをを思い知らされます
目に見える強さも、健康も、財産も、人間関係も、どれほど大切であっても、いつかは変わりゆくものです。その事実を前にするとき、私たちは「自分の拠り所は一体どこにあるのか」と改めて問われます。
今日の福音書に登場する人々も、まさに同じ問いの前に立たされていました。彼らは壮大な神殿を見上げ、その美しさと力強さに心を奪われ、「これこそ永遠に残るものだ‘」と信じていました。しかし、主イエスは言われました。「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る。」この言葉は、彼らの心の土台を大きく揺さぶりました。目に見える神殿が崩れる——それは、信仰の拠り所そのものが問われる瞬間でもあったのです。
今日、私たちは、この主イエスの言葉を通して、私たちの「信仰の拠り所」はどこにあるのかを、ご一緒に心に留めていきましょう。
ある人々が、神殿の壮大さや華やかさについて語っていました。見事に積み上げれらた石と、奉納物で飾られたその姿に、人々は息をのんで見とれていたのです。しかし、主イエスは言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る。」信仰の中心であり、民族の誇りでもあった神殿が、完全に崩れ落ちる——そんなことを誰が想像できたでしょうか?
しかし、主イエスの預言は、歴史の中で現実のものとなりました。その40年後、ローマ軍によって神殿は跡形もなく破壊され、まさに「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる」日が来たのです。今エルサレムに残る“嘆きの壁”は、神殿そのものではなく、神殿を囲んでいた外壁の一部にすぎません。ユダヤの人々は、今もそこに立って、失われた神殿を思いながら、祈り続けています。
私たちは今、「さすがは神の子の言葉だ」と素直に受け止められます。しかし、当時その場で聞いた人々にとって、それはあまりにも衝撃的でした。「そんなはずがない!」「何を言っているのか!」そう叫んでもおかしくはありません。ところが、彼らは反論するどころか、主イエスに問いかけました。「そのことはいつ起こるのか?また、それが起こるときには、どんな徴があるのか?」
私たちのまわりにも、心を不安にさせる出来事が後を絶ちません。自分の衰えや病気だけではなく、自然災害、疫病、戦争、暴力、そして詐欺など、まるで心の土台を揺さぶるようなことが次々と起こります。しかし、そのような不安のただ中で、主イエスは今も語られます。「惑わされないように気をつけなさい。」「付いて行ってはならない。」「おびえてはならない。」。
恐れや不安に押し流されるのではなく、神を信頼して立ち続けるようにと、主イエスは呼びかけておられます。「私の名のために、すべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。」この言葉には、深い慰めと確かな約束が込められています。信仰のゆえに苦しむことがあっても、神の守りは決して途切れることはありません。どんな状況に置かれても、神はそのみ手を離されることはないのです。
そして、主イエスは最後にこう締めくくられました。「忍耐によって、命を得なさい。」実際、使徒ヨハネを除くほとんどの弟子たちは殉教の死を遂げました。しかし、彼らは忍耐できなかったのではありません。主イエスが語られた「命」とは、肉体の命のことではなく、苦難や試練のただ中で、なお生き続ける信仰の命、永遠の命のことです。
どんなに立派で、輝かしい建物も、いつかは崩れ落ち時が訪れます。建物だけではありません、教役者もまた、時とともに代わり、やがてその務めを終える日が来ます。目に見えるものに頼る信仰は、一見確かに見えても、実はとても脆く、危ういものです。私たちの信仰の拠り所は、石でできた建物ではなく、移り変わる教役者でもなく、永遠に崩れることのない真の神殿、代わることのない大牧者——主イエス・キリストです。
ルカは詳しく触れていませんが、マタイとマルコによる福音書から分かるように、主イエスが神殿の崩壊について語られた時、その言葉に問いかけたのは、他ならぬ弟子たちでした。弟子たちは主イエスに従い、その教えを聞き、その行いを見つめながら、3年間を共に行動し、強い絆を築き上げました。弟子たちは、何よりもまず、主イエスご自身を信頼していたのです。
では、皆さんはどうでしょうか?皆さんも主イエスを信じ、主イエスが語られたことについて、心から信じているでしょうか?もし、「世界の終わりが近い」と聞かされたら、どうすれば惑わされないでいられるでしょうか?もし誰かが、「これこそ本当のキリストだ」と言って誘って来たら、どうすれば真実を見極め、付いて行かずにいられるでしょうか?また、この不安や混乱に満ちた時代の中で、どうすれば、おびえずに、平安を保つことができるでしょうか?
惑わされないためには、しっかり聖書を読み、聖書を学び、神のみ言葉を心に刻むことが大切です。聖書の中で、神の真理を知るとき、私たちは世のざわめきに左右されにくくなります。また、付いて行かないためには、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、礼拝や祈りを通して、神の声に耳を傾け、神ご自身と直接心を通わせることです。さらに、奉仕をもって神に仕えるとき、私たちは“知識としての信仰”から、“生きた信仰”へと導かれます。このようにして、神との関係を育み、信仰を深めていくとき、どんな危機や試練に直面しても、私たちはおびえることなく、主のみ手の中にある確かな平安を感じることができるのです。
今日の第一の朗読、マラキ書には、こう記されています。「かまどのように燃える日が来る。傲慢な者、悪を行う者はすべてわらになる。その日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。しかし、私の名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。その翼には癒しがある。」
このみ言葉は、神の厳しい裁きを語ると同時に、神の救いの癒しを告げておられます。確かに、私たちの生きるこの時代は、不安や混乱に包まれ、闇のただ中にいます。しかし、神を畏れ、神を信じる者には、“義の太陽”が必ず昇り、希望の光が闇を破るのです。
主イエスは言われました。「あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。」この約束こそ、変わりゆく時代の中にあっても決して揺らくことのない、神の確かな保証です。だからこそ、惑わされず、おびえず、忍耐をもって、主イエスにより頼み続けましょう。その先には、神ご自身が備えてくださった永遠の命が待っておられます。
皆さんの中で、果樹を育てたことがある方はいらっしゃいますか?小さな苗木を土に植えて、水をやって、肥料を施し、しかし、どれだけ手間ひまをかけて大事に育てても、すぐには実を結ばないこともあるのです。次の年、その次の年、その次の次の年、枝は伸びて、葉は茂るものの、実の気配がまったく見えないとしたら、「この木は、本当に実を結ぶのだろうか」と、疑問や不安が押し寄せてくるでしょう。
しかし、ある年、ふと枝先に小さな蕾が見えて、やがてそれが花となって、そしてついに、小さな実が結ばれました。その瞬間、「この木は、実を結ぶ木だったのだ」と大きな喜びと確信へと変わるでしょう。この最初に実った実、それがいわゆる初穂なのです。そして、初穂が実ったということは、やがて続く豊かな実りが必ずやって来るというしるしでもあります。
キリストは「眠っている者の初穂」と呼ばれていました。私たちすべての人は、人生の終わりに「死」という現実に向き合わなければなりません、これは誰にも避けて通れない道です。しかし、その道の先に終わりではなく、始まりがあります。キリストは死を打ち破って、その初穂として、死人の中からよみがえられました。キリストの復活は、そのことを力強く証しています。
日課:ルカによる福音書19:1-10
人生の中で、どうしても変えられない自分の弱さや過ちに悩んで、救いを求めたことはありませんか?教会では、「救い」という言葉をよく耳にします。しかし、この「救い」とは、一体何でしょうか?単に「罪が赦されること」でしょうか?それとも「将来、天国に行けること」でしょうか?私たちは「救われたい」と願いながらも、その「救い」が自分の人生に、どう関わっているのか、はっきり理解できていないのかもしれません。皆さんは、救いをどのように受け止めていますか?
二千年前、ザアカイという一人の男に、思いがけない形で、救いが訪れました。富にしがみつき、人々から嫌われて生きていた男です。しかし、主イエスとの出会いが、彼の人生を根底から変えてしまったのです。
今日の福音書のこのザアカイの物語を通して、救いとは何か、そして、ザアカイはどのように救われたのか、その答えを、一緒探していきましょう。
エリコの町に住むザアカイは、徴税人の頭でした。当時の徴税人は、単に税金を取り立てるだけではなく、自分たちの取り分も上乗せして徴収していました。その徴税人たちを取りまとめていたザアカイは、さらに部下からも手数料を取って、莫大な富を築いていたのです。徴税人は外国の支配者であったローマ帝国に協力して、自国民から金を巻き上げる裏切り者で、罪人だと見なされていました。その中でも、頭であるザアカイは、まさに罪深い人でした。
そんなザアカイは、どこかで主イエスの噂を耳にしていたでしょう。自分と同じ徴税人を弟子に迎えられたイエス、罪人と呼ばれた人々と共に食事をされたイエス、病人や貧しい人々を癒されたイエス、そのようなイエスとは、一体どんな人なのか、ザアカイには、強い関心が芽生えたのです。
そのイエスが今まさに、エリコに入られて、町を通っておられます。ザアカイは、主イエスを一目見ようとしました。しかし、彼は背が低くて、群衆に遮られて見ることができませんでした。それでもザアカイはあきらめることなく、走って、主イエスが通られるであろう道を先回りして、いちじく桑の木に登りました。主イエスの姿が見られることに、望みをかけたのです。
主イエスが、ザアカイのいる木の下にさしかかられると、立ち止まって、上を見上げてこう言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」それは、ザアカイにとって、まったく思いもよらない呼びかけでした。人に嫌われ、避けられ、生きてきた自分の名前を、主イエスが呼んでくださいました。その瞬間、ザアカイの心の中で、何かが動かされたようです。
主イエスがどのようにして、ザアカイのことを知っておられたのか、それは分かりません。しかし、確かなのは、主イエスのほうがザアカイを捜しに来られたということです。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」主イエスははっきりとこう語られたのです。この「失われたもの」とは、神から離れて、神との関係を見失ってしまった人のことです。ザアカイは、まさに富によって、失われたものとなったのです。ザアカイがイエスを捜したのではありません。主イエスがザアカイを捜されたのです。そして、私たち一人ひとりもまた、主イエスによって、見出されたものなのです。
本来、天の高きところにおられ、世の人々を見下ろすキリストでした。しかし、へりくだって、この世に来られ、失われたものを捜してくださいました。今度は、世の人々を見上げるものとなられたのです。その主イエスが上を見上げて、ザアカイに言われたのは、「今日は、あなたの家に泊まることにしている」という明確な意思表示です。それはいつかではなく、“今日”という日です。“今日”でなければならないのです。なぜなら、主イエスは翌日、エルサレムへ向けて、人生最後の一週間となる十字架の道を歩んでしまうからです。
その一方、木の上にいるザアカイは、まさに富によって、他の人より“高い”立場に置かれている彼の姿を表しているのかもしれません。ちなみに、パレスチナのエリコ市内に、今も「ザアカイの木」と呼ばれるいちじく桑の木があります。背の低いザアカイにとって、この居場所は心地よい場所たったはずです。しかし彼は、主イエスの呼びかけに応えて、その高いところから、“降りる”決断をしました。それは、彼が“過去の自分”から降りた瞬間でもあったのです。
ザアカイは急いで木から降りて、喜びに満ちて、主イエスを自分の家に迎え入れました。すると、ザアカイの口から誰もが耳を疑うような言葉が飛び出しました。「財産の半分を貧しい人々に施し、誰からでもだまし取った物は、四倍にして返します。」と言い出したのです。主イエスに出会い、主イエスに受け入れられたザアカイの心に真の悔い改めといのちの変化が生じたのです。
「今日、救いがこの家に訪れた。」主イエスははっきりとザアカイの救いを告げられました。主イエスはかつてこうも語られました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」それを聞いた人々は「それでは、誰が救われることができるのか。」と戸惑って、主イエスは答えられました「人にはできないことも、神にはできる。」(18:25-27)ザアカイの救いは、まさにこの言葉の生きた証です。
かつて、富にしがみついて、罪深い生き方をしていたザアカイが、神の恵みによって、金銭の支配から解放され、愛と正義を実践する者へと変えられたのです。ザアカイは過去の自分ではなく、新しく生まれ変わった者として、そして、救いにあずかった者として、一歩を踏み出したのです。ザアカイを救ったのは、彼自身の努力ではなく、ただ神の恵みによるものでした。
ザアカイはもはや失われたものではなく、いのちを得たものとなりました。そして、「救いがこの家に訪れた」と言われたのは、ザアカイ自身にとどまらず、やがて、その家族にも、神の救いが及ぶことを示されています。神の恵みは一人を通して、その周りに広がっていくのです。
主イエスがザアカイに告げられた「あなたの家に泊まることにしている。」という言葉は、私たち一人ひとりにも向けられています。主イエスは私たちの「心の家」に入ろうとしておられます。主イエスが私たちの家に泊まられることは、主イエスが私たちのいのちの中に住まわれるということです。
ザアカイが木から降りたように、私たちも自分の欲望や執着という「高い木」から、勇気をもって降りてください。そして、主イエスを心の家に迎え入れましょう。主イエスをお迎えするとき、私たちは少しずつ解放され、ザアカイのように、新しいいのちへと変えられていきます。それは、神に対しても、人に対しても、より深く、より豊かに愛するようになっていくのです。
このいのちの変化は、一瞬で起こるものではありません。日々の生活の中で、聖書のみ言葉を通して神を知り、礼拝と祈りを通して神と交わり、そして、奉仕を通して神に仕えるうちに、少しずつ神との関係が深まっていきます。その深まりの中で、私たち自身が変えられていきます。その変化はやがて、周りの人々にも及び、そこに新たな救いの恵みが広がっていくのです。
救いとは、単に「罪の赦し」や「天国への約束」ではありません。主イエスとの出会いを通して、今この世で新しくされ、神を愛し、人を愛する心が育まれていくことです。そこにこそ、真の救いがあります。
主イエスは、今日も失われた者を捜して、救いへと導いておられます。ザアカイに起こった出来事は、決して遠い過去の物語ではありません。今も、ここで、あなたの心のうちに起こり続けています。主イエスは語っておられます、私の口を通して語っておられます。「今日、あなたの家に泊まることにしている。」
兄弟姉妹の皆さん、どうか、この“今日”という恵みの時に、主イエスをあなたの心の家に迎え入れて、新しい人生の始まりの日にしませんか?
5つのパンと2匹の魚で、5千人を満たしました。主イエスがそれらを祝福し、弟子たちを通して、会衆人配られたのです。
私たちには、5つのパンと2匹の魚で、5千人を満たすことはできない、それは神さまのみ業です。しかし、私たちは、そのパンと魚を人々に配ることができます。
日課:ルカによる福音書19:1-10
創世記32:4-9,23-31
私はしつこい人です。「しつこい人」と聞いて、皆さんはどんなイメージが浮かぶでしょうか?正直なところ、あまり良い印象を持たれないかもしれません。何度も頼みごとをしてきたり、断られても食い下がったりして、そんな人には、「ちょっと空気読んでよ」と思ってしまうこともありますよね。
しかし、「しつこさ」や「粘り強さ」は、必ずしも悪いことばかりではありません。子どもが「これ買って!」と何度も親におねだりして、営業マンが断れれてもあきらめずに何度も足を運び続けて、こうした場面では、ある種の熱意や一生懸命さを感じることがあるでしょう。特に、「どうしても伝えたいこと」、「どうしても実現したいこと」があるとき、人は自然と粘り強くなるものです。そして、その粘りが、思いがけない扉を開くこともあるのです。
今日の福音書では、主イエスはある一人のしつこく、粘り強いやもめのたとえを通して、弟子たちにある大切なことを教えてくださいました。このたとえに耳を傾けながら、主イエスが弟子たち、それから二千年後の私たちにどんなメッセージを語っておられるのか、心を開いて、共に受け取っていきましょう。
ある町に、神を畏れない、人をも尊重しない裁判官がいました、つまりこの裁判官は信仰心も正義感も持たない、自己中心的でわがままな人だったのです。そんな彼のもとに、一人のやもめがやってきて、自分を苦しめる相手に裁きを下してほしいと訴えました。
しかし、この裁判官は彼女の訴えを無視して、取り合おうとしませんでした。それでも、このやもめはあきらめませんでした。彼女は、毎日のように、この裁判官のもとを訪れて、裁きを下すようにしつこく、粘り強く訴え続けたのです。
そしてついに、この裁判官は根負けして、彼女の訴えに応じて裁きを下すことにします。しかし、彼がそうしたのは、良心の呵責、あるいは憐れみの心からではありませんでした。なぜなら、神を畏れない、人も尊重しない人だったからです。彼が動いた唯一の理由、それは、このやもめのしつこさ、粘り強さが、あまりにも煩わしかったからです。
主イエスはこのたとえを通じて、弟子たちに伝えたかったのは、祈りはまさにあのやもめのようにしつこく、粘り強く、つまり、絶えず祈るべきです。神を畏れない、人も尊重しない不正な裁判官でさえ、しつこく、粘り強く求め続けられれば、動かされざるを得ません。ましてや、憐れみ深く、正義の神が、昼も夜もご自分に叫び求めるご自身の民を、放っておかれるわけにはいかないでしょう。神は不正な裁判官ではありません、必ず速やかに私たちの叫びに耳を傾けてくださいます。
祈りは、単に神に願いを届けて、何かを得ようとする手段ではありません。私たちが祈るとき、私たちの内にある聖霊の力によって、御子イエス・キリストを通して、天の父なる神につながっています。つまり、私たちが祈るとき、ただ一人で言葉をつぶやいているのではなくて、三位一体の神との霊的な交わりであって、私たちが神との関係を築くために欠かせないものです。
人との関係においても、会話やコミュニケーションがなければ、親しい関係を築くことはできません。神との関係を築くことこそ、私たちキリスト者の霊的な生活において、最も大切なことの一つです。そのため、絶えず祈ることが大切です。そして、たとえ祈りがすぐに叶えられないときでも、決して落胆してはなりません。
弟子たちは主イエスに、悪霊を追い出す方法を求めませんでした。病人を癒す方法を求めませんでした。嵐を静める方法を求めませんでした。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹する方法を求めませんでした。彼らが主イエスに求めたのは、たった一つのことでした。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」(11:1)そして、主イエスが教えたのは、私たちがよく祈っている主の祈りです。
弟子たちは、「何かができるようになりたい」と願ったのではなくて、祈りにおいて神との関係を築くことを何よりも大切にしていました。なぜなら、神との関係こそがすべての祝福の源であると知っていたからです。そして、祈り続けることによって、神との関係を深まることができるのです。
皆さん、「ハドソン川の奇跡」という実話をご存じでしょうか?ハドソン川はアメリカのニューヨークを流れる川です。2009年、あるアメリカ民間航空機が離陸からわずか1分後に、鳥の群れと衝突しました。飛行機の両方のエンジンが損傷し、飛行機は完全に動力を失い、まさに絶体絶命の状態に陥りました。しかし最終的に、その飛行機はハドソン川に見事に着水し、乗員乗客全員が無事に救出されました。この出来事は「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、映画にもなって、多くの人々に感動を与えました。
ところが、当時の機長は、「これは決して奇跡ではありません。」と断言しました。奇跡とは、絶望的でほかに選択肢がなく、ただ運に任せるしかない状況で、運がよければ、それは奇跡であるということです。しかし、あの機長には選択肢がなかったわけではなくて、あえて川への着水を選んだのです。
事故は離陸直後に発生し、普通なら、おそらく空港に引き返すでしょう。しかしあの機長は高度が足らない、引き返すには時間が全くないと判断しました。そこで、彼はより安全な選択をしました。それは目の前のハドソン川への着水です。彼は安全に着水し、乗員乗客全員を救えるという確信を持っていました。その後の調査結果もこれを裏付けして、もし当時、飛行機が引き返していたら、間違いなく墜落していました。
なぜあの機長はそのような冷静な判断ができたのでしょうか?それは、彼が日々積み重ねてきた地道な訓練の成果でした。誰も彼に「いつか川に着水する日が来るから今から練習しろ」と言ったわけではないし、彼の訓練も川への着水方法を学ぶものではありませんでした。彼はただただ毎日普通に練習を続けるだけ、だからこそ、緊急事態や予期せぬ出来事に遭遇した時でも、彼は常に冷静な判断を下し、適切に対応することができたのです。
祈りもまた、それと同じです。毎日の祈りは、まるで筋肉を鍛えるトレーニングのようなものです。すぐに目に見える成果が出るわけではありません。しかし確実に、私たちの内なる人を強め、神との関係が深めていきます。祈りだけではありません、毎週に礼拝に来る、毎日に聖書を読む、こうした神と向き合う習慣が、信仰の土台を着実に築いていくのです。そして、その積み重ねは、やがて突然訪れる人生の危機や試練、あるいは重要な転機に、私たちをしっかりと支えるくれるのです。
前回の信徒懇談会でも皆さんに話ししました、少なくとも毎日5分間の聖書を読む時間、5分間の祈る時間を作りましょう、一日24時間のうち、たった10分間を神に献げるのは、決して無理に強いられることではありません、私たちの霊を養い、神との関係を深める非常に大切な時間です。
今日の第一朗読の創世記では、ヤコブが神の使いと格闘し、神の使いがヤコブに放すように懇願しましたが、ヤコブは「祝福してくださるまでは放しません」と頑固に拒否し、最終的にヤコブは神から祝福されました。このヤコブの姿は、まさにしつこく、粘り強い信仰の象徴です。
主イエスは私たちに、祈りにはこれほどのしつこさと粘り強さが必要だと教えられました。絶えず祈れば、神との関係は深まります。その関係が、私たちの人生に力を与えて、すべての祝福の源となるのです。
兄弟姉妹の皆さん、どうか絶えず祈り続けましょう。み国のためにも、教会のためにも、家族のためにも、そして、あなた自身の信仰のためにも、日々の生活の中で、祈りを習慣として、神との親しい交わりを大切にしていきましょう。神が必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。その確信を持って、信仰の歩みを続けていきましょう。
もう一度言います、わたしはしつこい人です。これからもしつこく、粘り強く、皆さんにみ言葉と祈りの大切さ、そして主イエスの弟子として生きる素晴らしさを訴え続けていきたいと思っています。
あるホームレスの方が、私の牧師館に泊まってます。約2週間共に生活し、彼にはキリスト教のことを少し話をしました。
昨夜彼にあることを言われました。”この2週間で、あなたたちの会話を聞いてみると、これをやってはいけないということは全くなかった。”
彼にとって、宗教はいろんな制限があるだと想像していたでしょう。
もちろん、キリスト教は宗教ではない、キリストは私たちを解放してくださったことを、ちゃんと彼に説明しました。
今日は井の頭公園の近くにあるナザレの家で黙想会を行いました。ここは元々修道院で、修女さんがいなくなったあと、霊的な集いの場所となっています。この中に立派な回廊があって、以前修女さんが毎日歩きながら祈っていました。この回廊をイエス様と歩くという黙想会を企画しました。これはなかなか新鮮で、好評が得られました。
コロナ禍で休止していた手芸の会が再開しました。今まで皆さんが手芸に楽しみ、休憩時に歓談など、交わりの場となっていましたが、私の提案で、始まる前に、聖書1章を読むことにしました。
どんな活動でも、単にその活動だけではなく、すべて宣教のためです。そのため、少しずつ聖書に親しみ、成長していく必要があります。
日課:ルカによる福音書16:1-13
聖パウロ教会に着任して、まもなく半年を迎えようとしています。この半年間、皆さんと共に礼拝を献げ、祈りを分かち合い、日々の交わりの中で、皆さんが私に向けてくださる温かい愛を、日に日に深く感じています。しかし、皆さんの愛を受ければ受けるほど、私はこの教会の将来を心配するようになりました。このままでは、やがて高齢化が進み、信徒の数も減っていくという現実が、私たちの前に立ちはだかるでしょう。これは、聖パウロ教会に限ったことではありません、現在の多くの教会が抱える危機でもあるのです。このような危機に、私たちはどう向き合っていけばよいのでしょうか?
今からおよそ二千年前、主イエスもまた、ご自身の死を間近に控えて、弟子たちの将来を心配しておられました。ここしばらくの福音書では、主イエスが群衆、あるいはファリサイ派の人々に向けて語られる場面が続いていました。しかし今回は、久しぶりに、弟子たちに語りかけられました。弟子たちに語りかけられたということは、私たちにも大いに関わっているのです。
主イエスは弟子たちの何を心配して、彼らに何を語りかけられたのか、私たちも、今日のみ言葉に耳を傾けましょう。
ある管理人が主人の財産を無駄遣いしたとして告発され、解雇されることになりました。追い詰められた彼は、主人に借金をしている人々を呼び出して、その借金を減らしてやりました。これは、自分の将来を考えてのことで、この行動によって、主人に借金のある人たちの誰かが、自分を雇ってくれることを期待していたのです。驚くべきことに、彼のこの行動を主人はなんと「賢い」と褒めました。この管理人はなぜ褒められたのでしょうか?彼のどこが賢いというのでしょうか?要するに、主人が褒めたのは、そのやり方というより、危機の中でも自分の将来を見据えて、行動したその賢さでした。
主イエスが弟子たちに教えようとされたのは、まさにこの点です。このたとえのように、世の人々でさえ危機に直面すると、将来に備えて、何らかの行動を起こします。神の国を待ち望む弟子たちは、なおさら積極的に備えて、行動を起こすべきではないでしょうか。主イエスが求められたのは、「不正の富で友達を作りなさい」ということです。この「不正の富」という表現は少しややこしいですが、不正な手段で得たお金ではなくて、この世のはかないお金を指しているのです。つまり、お金をお返しのできない人々を助け、神を喜ばせることを行うように求めておられたのです。
先月の信徒懇談会で伝えたように、教会の目的は主日礼拝と宣教で、そして宣教を一言で言うと、世を愛することです。お金を用いて人を助けることは、まさに愛の実践であって、宣教そのものです。しかし、お金で人を助けることであって、決してお金に仕えてはなりません。主イエスは、「神とお金の両方に仕えることはできない」とはっきり述べられました。一方を憎んでもう一方を愛するか、一方に献身的でもう一方を軽蔑するかのどちらかになります。私たちは二人の主人に仕えることはできません、神に仕えるのか、お金に仕えるのか、どちらかを選ばなければならないのです。
モーセの十戒の第一条にはこう記されています。「私は主、あなたの神、あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」(出20:2-3;申5:6-7)創造主が私たちの神となって、私たちと関係を持ちたいと願っておられます。しかし、この関係がうまくいくためには、私たちはほかの神々に仕えてはなりません。ここで言っている「神々」は、必ずしも宗教の神々とは限りません。人は幸せを見つけるため、あるいは危険から安心、安全を求めるため、あるいは苦難から逃れるため、信頼を置くもの——それが現代の「神々」です。そして、その最たるものがお金です。主イエスの時代も今の時代も、お金は人々を支配し、信頼を奪う大きな力を持っています、まさに「神々」です。
主イエスはお金のような神々ではなく、主なる神だけに仕えることを求められました。神を愛し、神を一番にすることは、弟子として備えるべき条件です。そして、この世を愛するという宣教を成し遂げるために、主イエスは私たちに弟子になることを命じられました。(マタ28:19)これはまさに私が信徒懇談会で強調したことです。
弟子として歩み、神を愛し、この世を愛することによって、世の終わりの時に、私たちは永遠の住まいへと迎え入れられます。この永遠の住まいは、この世のお金では決して買うことはできません。どんなに大金を持っていてもそこに住むことはできません。ただ、主イエスご自身が迎え入れてくださるときのみ、そこに住むことができるのです。
十字架へと向かうとき、主イエスは弟子たちにこう約束されました、「私の父の家には住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハ14:2-3)これは単なる慰めの言葉ではありません。主イエスは、ご自身の命と引き換えて、この約束を確かなものにしてくださいました。主イエスは、ご自身の血で世の人たちの罪の贖いを成し遂げ、私たちが安心して帰ることのできる「天の家」を用意してくださったのです。そこは、私たちの本当の帰るべき場所、永遠の住処なのです。
この希望があるからこそ、私たちは日々の労苦を担いながらも、弟子としての歩みができるでしょう。この世の旅路は限られています、しかし、その先には、すでに備えられた主と共に住む家が待っているのです。
信徒の高齢化、減少という差し迫った危機に直面して、私たちは今すぐにでも行動を起こす必要があります。今日の福音書はまさにそのことを私たちに呼びかけているのです。
私たちは洗礼を受けて、神の民としての歩みを始めます。しかし、それは決してゴールではなく、スタートに過ぎません。信徒としてとどまることに満足するのではなく、主イエスが命じられたように、弟子として日々成長していくことが、私たちに求められているのです。そのために、私たちにできることはたくさんあります。日々の祈りを大切にすること、聖書に親しむこと、教会の交わりの中で互いに支え合い、励まし合うこと、そして、自分に与えられた賜物を喜んで用いて仕えることなどです。
聖パウロ教会は、皆さん一人ひとりが弟子として歩むことができるように、さまざまな学びの場、交わりの場、そして奉仕の場をこれからも広げていきたいと願っています。それを通して、もっと神を知り、神と交わり、神に仕えることを共に実践していきましょう。その一歩一歩の積み重ねによって、教会全体が主イエスの弟子として成長し、人々にしっかりと福音を受け継がれていく共同体となっていくのです。
主イエスは私たち一人ひとりに忠実であることを求めておられます。大きなことに限らず、日々の生活の中のごく小さなことにおいても、また、この世のお金や、他人のものにおいても、忠実であることを求めておられます。忠実こそが弟子としての証しです。私たちは弟子としての人生を歩み、主イエスに忠実に従わなければなりません。これはまさに信徒の高齢化、減少に直面した危機を乗り越えるために、教会に必要なことなのです。そうする限り、神の祝福は必ず教会に注がれます。
兄弟姉妹の皆さん、この世の富ではなく、永遠の価値を求めて、共に弟子となって、神に仕え、主に従う人生を歩んでいきましょう。
死は、残された人々に深い悲しみをもたらします。涙を流し、胸を痛め、言葉にできないほどの寂しさを覚えることもあるでしょう。しかし同時に、悲しみに暮れる人々に、命の尊さに気づかされる力強いものでもあるのです。死は決して怖いものではありません、本当に怖いのは、死の意味を理解せずに、人生を終えるのではないかと思います。
もし、死をただ終わりとしてしか捉えないのなら、日々の努力や喜びも、やがては消え去るはかないものに過ぎません。しかし、死を避けられない現実として真剣に受け止めるとき、私たちは「どう生きるか」という問いに真正面から向き合うことになるでしょう。
主イエスは言われました——「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハ11:25)。この約束を信じるキリスト者にとって、死は決して終わりではなく、神のもとに帰るための通過点です。絶望ではなく、希望へと変わるのです。それは、死なないという無限の延長ではありません。むしろ、死を超えて、復活という根本的な変化に希望を抱きながら、日々を意味あるものとして、永遠の命に備える生き方をするということです。そのため、キリスト者は復活、そして、永遠に生き続けるために死ぬのです。
日本は経済的に恵まれた国です。私の母国マレーシアも経済成長によって、人々の暮らしが豊かになりました。こうした豊かな国々に暮らす今の私たちは、戦争、飢饉、深刻な貧困に直面することもなく、死ははるか遠い未来の出来事であって、今の自分には関係ない、そう思い込んでいるのかもしれません。
しかし、平穏な日常が当たり前のように続くからこそ、忘れてはならないことがあります。それは、死は必ずいつか、時には突然、何の前触れもなく訪れるという現実を深く受け止めなければなりません。ですから、私たちは実はただ「生きるために生きる」より、むしろ「死ぬために生きる」のです。
「人は何のために生まれ、何のために生きるのか?」これは、誰もが一度は心に抱く問いです。しかしもしかすると、これまで、この問いにじっくり向き合うことなく、日々を過ごしてきたのかもしれません。
私たちがこの世に生まれたのは、決して偶然ではありません。天地万物の創造主である神が、私たち一人ひとりを愛をもって造り、命を授けてくださったのです。まだ母親の胎内で小さな心臓がそっと鼓動を打ち始めたその瞬間から、神はすでに愛の計画の中に私たちを置かれていたのです。
私たちはこのかけがえのない命の意味を見極め、それを豊かに生かし、そして、この世に生まれてきた使命を果たすように召されているのです。そこには、神との関係を深めながら、人との関係の中で、互いに愛し合い、助け合い、分かち合い、そして共に成長していくという使命が込められています。私たちはこの使命を果たすために生きるのです。それはまさに、生きるために生まれたのです。
教会の使命は神を礼拝することだと思います。しかし、この礼拝は単に教会での主日礼拝だと思われがちです。神を礼拝することは、主に主日礼拝と宣教です。
主日礼拝の主な目的は、神を愛すること、そして、宣教の主な目的は人を愛することです。これはまさに主イエスが言われた第一と第二の戒めである神を愛し、隣人を愛することで、教会はそのために存在するのです。
日課:ルカによる福音書14:1,7-14
シラ書10:12-18
私は日本で結婚式と披露宴を挙げました。結婚準備で、私が特に戸惑ったのは「席次」のことでした。日本では、家族や親戚は新郎新婦から一番遠い下座に座るのが礼儀です。ところが、マレーシアでは逆に、親と兄弟姉妹の家族は新郎新婦と一緒に座るのです。国や文化が違えば、席次を含む礼儀作法も大きく違うのだと、改めて実感しました。
二千年前においても、宴会での席次は人々にとって大きな意味を持っていました。今日の福音書では、一見すると、主イエスは席次をはじめ、宴会での主人と客のことを教えておられるように見えるかもしれません。しかし、それはあくまで表面的な理解にすぎません。その言葉の背後には、もっと深い真理が隠されているのです。その真理とは何なのか、これからご一緒に聖書を通して探っていきたいと思います。
主イエスは、ファリサイ派のある議員の家に招かれて、食事の席に着かれました。そこで招かれた他の客たちがやたらと上座を選んでいるのをご覧になって、次のようなたとえ話を語られました。「結婚披露宴に招かれたとき、いきなり上座に座ってはならない。もし自分よりも地位の高い人が来て、主人から席を譲るように言われたら、恥をかくことになるから。むしろ最初は下座に座って、主人から上座へ勧められたら、かえって面目を得ることになるだろう。」
主イエスの時代においても、また現代においても、席次は人の地位を象徴しています。案会で上座を選んだあの客たちは、自分は高い地位にあって、他人より優れていると考えていたのです。現代を生きる私たちはどうでしょうか。肩書き、経歴、成果などといったものにとらわれて、知らず知らずのうちに、「自分こそ上座にふさわしい」と思い込んでしまうことはないでしょうか。
それから、主イエスは食事会に招かれた主人に向かって「食事会を開くときは、自分にお返しができそうな人たちではなくて、むしろお返しのできない人たちを招きなさい。」と語られました。
当時の社会では、食事会は単なるもてなしの場ではなくて、人脈を築き、影響力を強めるための手段でした。そのため、主催者は自然に見返りを期待したのです。この構図は現代の社会も同じです。何事をするにしても、見返りを求め合って、利益を最優先にしてしまうのです。
実は、主イエスが語られたこれらのことは、単なる宴会での礼儀作法のことではありません。新しい道徳倫理を教えたのでもありません。神の国の到来によってもたらされた福音です。
ファリサイ派は、自分たちがアブラハムの子孫、神に選ばれた民であることを自負していました。そのため、誰もが上座に座るのは、当たり前だと考えていたのです。そして、自分たちこそが救われる共同体と信じていました。だから、あまり他の人たちとは付き合いませんでした。
主イエスはファリサイ派の客と主人にそれぞれ語られた言葉の締めくくりにおいて、極めて重要なことを示されました。客に対しては「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と、そして、主人に対しては「お返しを求めなければ、正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」と告げられました。
主イエスは、ファリサイ派の人たちに対して、このまま高ぶるなら、神の国において、低くされてしまうと警告されました。一方で、ユダヤ人でなくても、へりくだって、主イエスを受け入れるなら、その人は高められ、神の民として迎え入れられるのです。今日の第2の朗読であるシラ書でも、「主は、支配者たちの玉座を打ち壊し、代わりに、謙遜な人々をその座に着けられた。」と同じことが書いてあります。そして、お返しのできない貧しい人や体の不自由な人を迎え入れる者は幸いな者で、そのような見返りを求めない行為は、今の世では報われないかもしれません。しかし、正しい人たちが復活するとき、すなわち世界の終わりの日に、必ず報いを受けることでしょう。
神の国において、へりくだる心こそが尊ばれます。下座に座ることは、単なる礼儀作法ではなくて、他人を自分より優先しようとする心の表れで、神ご自身の祝福が伴うと約束されています。そして、利益を超えて、見返りを求めない愛こそが、神の報いへとつながっていきます。
主イエスは、栄光の御子でありながら、人となられて、貧しい人や罪人の友だちとなってくださいました。そして、十字架において、へりくだって私たちに命を与えてくださいました。本来、私たちは神の恵みに値しない者であるにもかかわらず、主イエスは何の見返りも求めず、私たちを神の国へと招いてくださったのです。そして、まさに主イエスご自身の言葉通り、「へりくだる者は高められる」ことが実現されました。神は主イエスを高く上げ、最高の尊厳と権威をお与えになったのです。(フィリ2:6-9)
兄弟姉妹の皆さん、キリスト者として私たちは、世の常識や価値観に流されるのではなくて、神の視点に立って生きることが求められているのです。その生き方とは、へりくだる心と、見返りを求めない愛に根ざしたものです。主イエスはご自身の生涯を通して、その愛を具体的に示してくださいました。だからこそ、この愛に触れた私たちも、日々の生活の中でへりくだる心を大切にして、見返りを求めない愛を実践していくことができるのではないでしょうか。
私はここに来ていきなり皆さんに「先生」と呼ばれていますが、違和感は全くありませんね。なぜなら、以前学校の先生をしていたから、「先生」と呼ばれることに慣れています。しかし、皆さんが私を「先生」と呼んだのは、私が学校の先生だと知っているからではなくて、聖職であるという立場だからでしょう。一般的にそう受け取られるかもしれませんが、私は違う見解を持っています。聖職者が「先生」と呼ばれるのは、信徒を教えるから、信徒に仕えるからです。へりくだるからこそ、「先生」と呼ばれるのです。「先生」と呼ばれるにふさわしい者となるために、どうか皆さんに教える、仕えるチャンスをいっぱい与えていただけるように願っています。
信徒と神職が教会における“自身の席”、すなわち立ち位置をどのように理解しているかは、教会の成長を大きく左右する要因だと考えています。もし、教会は単なる宗教施設、主日礼拝を行う場所だけだと捉えるなら、どうしても聖職が教会の中心になりがちです。しかし、それは本来の教会の姿ではありません。教会が教会であるためには、信徒一人ひとりは決して受け身であってはなりません。むしろ、自らの賜物と使命を自覚して、教会という共同体を豊かにする責任があるのです。
いつも下座に座っている兄弟姉妹の皆さん、教会の主人である主イエスは、皆さんを「もっと上座にお進みください。」と招いておられます。
今日の福音書では、宴会の出来事を通して、私たちにとても大切な真理を示してくれました。それは、キリスト者としての生き方を問い直して、この世の常識や価値観にとらわれず、へりくだる心と、見返りを求めない愛を実践するよう招かれているのです。
私たちはこの招きに応え、日々の生活の中で、一歩を踏み出して、少しずつ形にしていくとき、教会は真にキリストの体として成長して、福音の光を世界に証しする共同体となっていきます。
兄弟姉妹の皆さん、どうか私たち一人ひとりが、へりくだる心と見返りを求めない愛をもって、人に仕える者となりましょう。その先には、神ご自身が備えてくださった御国の祝宴が待っておられます。私たちはそこで招かれて、永遠の喜びにあずかるのです。
信徒と神職が教会における“自身の席”、すなわち立ち位置をどのように理解しているかは、教会の成長を大きく左右する要因だと考えています。もし、教会は単なる宗教施設、主日礼拝を行う場所だけだと捉えるなら、どうしても聖職が教会の中心になりがちです。しかし、それは本来の教会の姿ではありません。教会が教会であるためには、信徒一人ひとりは決して受け身であってはなりません。むしろ、自らの賜物と使命を自覚して、教会という共同体を豊かにする責任があるのです。
先日、あることを聞かれました。” 主イエスを信じるが、洗礼しないとどうなるのか?”
私は疑問に思いました。主イエスを信じるのに、洗礼しない人はどういう人でしょう?
私にとって、信じて、洗礼することはごく自然なことです、洗礼はその一連の過程の一部に過ぎません。ですので、洗礼しない理由は思い浮かびません。
しかし、突然、その理由は分かったような気がしました。一般の人にとって、洗礼はいわゆるキリスト教の入信に当たる儀式で、洗礼することによって、キリスト教の信徒になるということです。だからなんとなく躊躇することが理解できます。すなわち、キリスト教を宗教として捉えているので、自分がこれから宗教の一員になることの不安など、どっかにあるのではないかと思います。
これは全くの違いで、創造主である神、その独り子主イエスを信じて、主イエスと共に死に、復活する決心が洗礼の表れです。洗礼は、決して入信の儀式ではありません。
ですから、主イエスを信じるが、洗礼しない人は、本当に主イエスが唯一の神である創造主であることを信じるのか?
ヤコブには十二人の息子がいて、そのうちのユダがイエスの先祖となりました。どうしてこの4男のユダが祝福されたのでしょうか?一般的に長男のルベンが父の側女と寝て、次男シメオンと三男レビが人を殺したから、それに次ぐ四男のユダが祝福されたと理解されています。
しかし裏に深い理由がありました。ヤコブはレイチェルを愛し、レアには目も留めませんでした。彼女は一、二、三人目の子どもを産むときに、それによって、夫のヤコブが自分に目を向けることを期待していました。しかし、ユダを産んだ時、彼女はヤコブではなく、”今度は、私は主をほめたたえます”と神に目を向けました。
これはユダが祝福された本当の理由だと思います。神さまに目を向けると、必ず祝福されます。
日課:ルカによる福音書12:49-56
エレミヤ書23:23-29
広島と長崎への原爆投下、そして敗戦記念を覚えて、教会ではそれぞれ6日、9日、そして15日の三日間に、平和への願いを込めて、鐘を鳴らしました。8月は特に平和のために祈る期間として、教区事務所からも「平和の祈り」の冊子を作成されました。8月に限らず、私たちは世界の平和のために毎週の主日に祈っています。しかし、今もなおロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナをはじめ、いくつかの地域は戦争状態にあります。国連は今年で創設80周年を迎えました、にもかかわらず、一向に世界の平和は訪れていません。
キリスト者として、私たちは世界の平和を主イエスに委ねて、絶えず祈り続けています。ところが、今日の福音書には、思わず戸惑いを覚えます。なんと主イエスは地上に平和のためではなくて、むしろ分裂のために来たとまで言われました。これは非常に衝撃的な言葉です。キリスト者なら誰もが主イエスは平和のために、この世界に来られたとずっと信じてきたからです。このことの真意は一体何なのか、一緒に探っていきたいと思います。
主イエスは、平和をもたらすためではなく、むしろ分裂のために来たと言われました。主イエスが来られたことで、家族は対立して分かれることになってしまうということです。
主イエスが人々に選択を求められます。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。」(マタ10:37)主イエスを選ぶ人とそうでない人の間に、時に深刻な対立が生まれて、家族の分裂につながります。実はこのような状況について、旧約聖書のミカ書にはすでに預言されていました。「息子は父を侮り、娘は母と、嫁はしゅうとめと対立する。人の敵は家の中の者である。」(ミカ7:6)これは世界の終わりに起こる混乱の様子を描いたものです。
誰も家族の分裂なんか望んでいないでしょう、主イエスご自身も決して分裂を望まれたのではなくて、分裂が避けられないことが分かって、ご自身を受け入れる人に覚悟をするように告げられたのです。
しかし、現代に生きる多くの人々は、分裂への恐れから、主イエスを信じて従う決断がなかなかできないでいます。また、家族との関係が変わってしまうのではないかという不安から、洗礼を受けることに踏み出せない人もいるかもしれません。確かに、平和をもたらすことができないのなら、どうして主イエスを信じる必要があるのでしょうか?
主イエスがお生まれになった夜、天使は神を賛美して、大栄光の歌を歌いました「いと高きところには神に栄光、地には御心にかなう人びとに平和がありますように」(2:14)これは間違いなく、主イエスが平和のために来られたことを高らかに告げるものでした。しかし、その平和とは、私たちが思い描く平和とは違うものです。
一般的に、単に戦争や暴力のない状態のことを平和だと言われています。家族の中に争いがなければ、それは平和と言えます。さらに言うと、貧困、差別、抑圧のない社会構造、文化、価値観のことも平和のうちに含まれます。主イエスは弟子たちにこう語られました「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハ14:27)主イエスの平和は、このいわゆる世界の平和とは違って、それらすべてを越えて、もっと深く、もっと本質的なものです。主イエスの平和は、神との和解で得られる平和のことです。真の平和は、地上だけにとどまるものではありません。天におられる神との和解なくして、この地上に平和はありえません。
今日の福音書の冒頭では、主イエスは地上に火を投じるために来たと言われました。この火について、よく「審きの火」だと言われていますが、私はどっちかというと「福音の火」だと受け止めたいと思います。今日の旧約聖書のエレミヤ書では、主なる神はご自身の言葉を火のようだと言っておられました。これはまさに福音の火です。主イエスは、この福音の火がすでにこの地上で燃えていることを切に願っておられたのです。
しかしあのとき、まだ燃えていませんでした。主イエスは受けならればならない洗礼があるからです。その洗礼とは、十字架を背負うことです。それが成し遂げられるまで、主イエスは苦しんでいました。そして、ついに十字架の上で命を失いました。もし、主イエスの使命が分裂のない、単なる地上の平和であったなら、主イエスは決して十字架につけられることはなかったでしょう。
私たちもまた、時に家族の分裂といった苦しみを経験することがあるでしょう。そのような困難が伴うことを、あらかじめ覚悟しておく必要があります。しかし、恐れることはない、主イエスはこう言われたからです「私によって平和を得る、あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハ16:33)どんな試練の中にあっても、主イエスが共におられ、すでに勝利を得ておられるという確かなみ言葉が、私たちの支えであって、平安と希望を与えてくださいます。
今からおよそ五百年前、いわゆる宗教改革と呼ばれる出来事が起こりました。マルティン・ルターという教会の司祭が立ち上がって、当時の教会の腐敗や誤った教えを批判して、聖書中心の信仰を求める改革運動が広がりました。その結果、教会は改革をもたらしました、しかし同時に、分裂も招きました。それが現在のカトリック、プロテスタント、そして聖公会です。
当時、多くの人たちはルターが教会、さらにいえば世界を分裂させたと激しく非難していました。しかし今日、歴史はその評価を大きく変えています。今では多くの人々が知るように、ルターのしたことは実に正しかったということです。もし、教会の使命が分裂のない、単なる地上の平和であったなら、ルターは腐敗した教会に立ち向かって、福音の真理を宣べ伝える勇気を決して持たなかったでしょう。
分裂のない、単なる地上の平和を追い求めるならば、福音の火が燃え上がることはなかなか難しいでしょう。実際、福音がもたらす真理が対立を引き起こし、分裂につながることから、キリスト教は時に「非寛容な宗教」と批判されることもあります。もちろん、寛容は平和をもたらし、平和への道であると信じています。しかし、「寛容」という言葉の理解に違いがあるのではないかと思います。
寛容な人間になるために、他人の意見に同調して、異なる立場を受け入れざるをえないと思うのかもしれません。しかし、それは言い換えれば、その意見と立場が正しいと認めていることを意味します。その結果、寛容の名のために、私たちはしばしば自分の信仰まで曲げてしまうこともあります。これは決して「寛容」ではなくて、「迎合」だと呼ぶべきだと思います。
寛容とは、他人の意見が自分と異なる場合、意見の違いがあることを認めて、その違いを尊重し、相手が自由に発言する権利を保障することです。つまり、異なる立場の存在を受け入れるのであって、その立場まで受け入れるのではありません。どうか皆さんがご自身の信仰を正しく理解して、歪めることなく、寛容のあるキリスト者となられることを祈っています。
主イエスは気象の変化を見分けることができる群衆に対して、「今」という時の重要性を見失っていることを厳しく指摘されました。私たちもまた、ただ表面的な平和にとどまるのではなくて、神との和解によってもたらされる真の平和を求めるべきです。そして何より、「今」というこの時が、いかに大切な恵みの時であるかを見極めなければなりません。あなた自身の平和のために、今、勇気を出しましょう。
主イエスは地上に火を投じるために来られました。神との和解へ導くために、私たち一人ひとりの心に聖なる火をつけに来られたのです。この火が燃え広がっていきたいのです。制御できないほど大きく、力強く燃え広がることを望んでいます。主イエスがもたらす火が、私たちの心の中で常に燃え続けますように。
イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」
この信徒はあまり教会に来ないから、この人の意見はあまり聞かないほうが良い、この信徒は熱心だから、話に耳を傾けよう、ついついこういうことになりがちです。しかし、このあまり教会に来ない信徒も、熱心な信徒も、神様は全く平等に愛されています。ですから、あまり教会に来ない信徒であっても、その意見を耳を傾け、その考えを真剣に取り組みます。
弟子訓練によって、信徒さんは教会で奉仕するように期待するのではなく、信徒さんが良い親、良い社会人などになることが目的です。
弟子訓練の目的は、教会の成長ではなく、信徒さんの成長なのです。
今日は信徒さんから奉仕とボランティアの違いと聞かれました。私が考えるには、ボランティアは人のためにやるもので、それに対し、奉仕は神様のためにやるもので、それだけでなく、神さまを仕えることを含めて、奉仕なのです。
寛容とは、他人の意見が自分と異なる場合、意見の違いがあることを認めて、その違いを尊重し、発言の権利を与えることです。そして、異なる立場の存在を受け入れるのであって、その立場まで受け入れるのではありません。
日課:ルカによる福音書10:38-42
創世記18:1-10b
私たちは、尽きることのない心配事や、気を散らすものの時代に生きています。毎日流れるニュース、物のあふれる生活、それによって、いろいろなことに気を取られて、ついつい疲れたり、思い悩んだりしてしまいます。
今の時代では、これは避けられないだろうと思います。しかし、どうやら今の時代に限ったことでもないようです。
二千年前、テレビも、携帯電話も、ソーシャルメディアも、現代の私たちの気を散らすあらゆるものが登場する以前から、マルタという女性はいろいろなことに気を遣って、思い煩っていました。マルタが今に生きていたら、どうなっているのでしょうか?
どうすればいろいろなことに気を遣わないで、それらから解放されることができるのか?今日のルカによる福音書の中で、その答えが見つかるのではないかと思います。
主イエスは弟子たちを携えて、エルサレムへ向かって、一行は旅を続けているうちに、ある村に入られました。その村にマルタという女性が住んでいて、主イエスを家に迎え入れました。主イエスは行く先々で、神の国について話されて、このマルタの家に入るなり、さっそくいろいろ話し始められました。
このマルタにはマリアという妹がいて、マリアは主イエスの足元に座って、主イエスの話をじっと聞いていました。一方のマルタは、主イエスをいろいろともてなしのため、それどころではありませんでした。なんで妹がこんなにものんきでいられるのか、マルタはイライラし始めました。きっとこういう状況は初めてではなかったでしょう、マルタは自分が妹に頼んでも、手伝ってくれないのを分かっていたから、主イエスに助けを求めました。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
さて、この出来事の中で、マルタの問題は何だったと思いますか?やっぱり、マリアのように、ちゃんと座って主イエスの話を聞くべきでしょう。いたるところで大勢の人たちは主イエスの話を聞こうと集まっていました。今はまさにその主イエスの話を聞く特等席が用意されていて、マルタはこのせっかくのチャンスをつかむべきです。
おそらく多くの人はそう思っているでしょう、私は実にそう思っていました。しかし、主イエスは何とおっしゃったか聞いてみましょう。
マルタは家の主で、主イエスを客として自分の家に迎え入れて、その客の足を洗ったり、お茶を注いだり、食事を用意したりするのは、客に対する尊敬の意で、ごく当たり前のことです。今日の旧約聖書の創世記では、神の一行がアブラハムの前に現れた時、アブラハムは終始神をもてなしました。主イエスをもてなす、つまり主イエスに仕えることは、とても素晴らしいことです。ですから、主イエスはマルタに仕えるのを止めて、座って話を聞くように求められませんでした。もし、マルタも最初から座って主イエスの話を聞いていたら、みんなお腹が空くでしょう。
マルタの根本的な問題は、主イエスから引き離されてしまったことです。マルタはいろいろもてなしのために忙しくしていたとありますが、この忙しいのギリシャ語には、引き離すという意味もあります。つまり、マルタはいろいろもてなしのために、心が主イエスから引き離されてしまったのです。マルタは主イエスのことだけではなくて、妹のことも気にして、自分と同じようにあってほしいと思っていたから、思い煩わってしまいました。それに対して、主イエスはマルタにこう言われました。「必要なことは一つだけである。」
これはマリアにも起こりうることで、もしマリアもいろいろなことに気を遣って、主イエスに「主よ、マルタは私を一人にして、自分だけ忙しくしていますが、何とも思いになりませんか。座って話を聞くようにおっしゃて下さい。」と話したら、間違いなく主イエスから同じことを言われるでしょう。しかしマリアは、姉のマルタとは対照的でした。彼女はいろいろなことから、一つだけ自分にとって良いほうを選びました。マリアが選んだその良いほうは、座って主イエスの話を聞くことです。それで、誰もマリアからそれを取り上げて、違うことをさせてはなりません。
主に仕えるにせよ、主の話を聞くことにせよ、大切なのは、主と一緒に過ごす時間に集中することです。心が主イエスから引き離されないために、主イエスに目を留めることです。主イエスに目を留めていれば、いろいろなことに気を遣うこともなくなって、思い煩うこともありません。
礼拝のために教会に足を踏み入れたとき、私たちに必要なことは一つだけ、主イエスに目を留めることです。遊ぶ子供たちの声や車の通り過ぎる音は聞こえるかもしれませんが、それに気を取られないように、オルガンの演奏、聖歌の歌声、み言葉だけに耳を傾けましょう。
他の人がどうであるかを見るのではなくて、私たちに必要なことは一つだけ、主イエスに目を留めることです。目の前の十字架は、主イエスが私たちのために死と復活をなさっとことを思い出させてくれます。灯されたキャンドルは、主イエスが私たちを照らしてくださることを知らせてくれます。そこに生けられた花は、その香りを嗅ぐことはできませんが、その美しさを感じることはできます。花の美しさだけではなくて、生けてくれた人たちのその心の美しさを感じることもできるのです。
礼拝の後も教会ではざまざまなプログラム、活動が用意されます。マルタのように奉仕を望む人もいれば、マリアのように信仰の話を聞きたい人もいます。すぐ家に戻って、夫、妻、親、子どもの面倒を見たい人もいます。夫、妻、親、子どもも、神さまが私たちに授けてくださったもので、その人たちの面倒を見ることは、神さまへの感謝です。ですから、皆さんそれぞれ自分にとって良いほうを選べば、それで良いのです。
そして、教会から出た後も、私たちに必要なことは一つだけ、主イエスに目を留めることです。主イエスに目を留めていれば、日常生活の中で、いろいろなことに気を遣うこともなくなって、思い煩うこともありません。
神に愛されるために、神に仕えたり、神のみ言葉を聞いたりしなければならないと私たちは思っているようです。しかし、これは間違った考えです。なぜなら、これらのことをしなくても、神は私たちを愛しておられるからです。使徒パウロは、私たちがまだ罪人であったとき、主イエスが‘私たちのために死んでくださっとことによって、神は私たちに対する愛を示されたと教えてくれました。(ロマ5:8)つまり、神がまず私たちを愛してくださったのです。しかし、この愛を一方的なものにしてはなりません、ただ神に愛されるままにしておくわけにはいきません。
マルタもマリアも主イエスを愛していました、その愛の表現が違っていただけです。今日の福音書には、マリアが単なる一人の先生ではなくて、主の足元に座ったと記されています。そして、マルタがイエスのことを主と呼んだことが記されています。二人ともイエスが主であることをはっきりと知っていたし、この主が自分たちを愛してくださっていることも知っていました。
ヨハネの手紙にはこう書かれています「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(Ⅰヨハ4:19)神がまず私たちを愛してくださったからこそ、私たちも神を愛するのです。そして、主イエスに仕えて、主イエスのみ言葉を聞くことで、神への愛を示すのです。
私たちは確かに、心配事や、気を散らすものが周りにあふれている時代に生きています。今の世界では、怒りや苦しみを抱くことはあまりにも簡単で、恐れや不安が愛や許しを押しのけてしまうことも少なくありません。
今日の福音書は、毎日毎日、本当に大切なことに再び目を留めることを教えてくれました。主イエスに目を留めましょう、主イエスに目を留めることこそ、いろいろなことに気を遣うことがなっくなって、思い煩うことから解放されます。
主イエスの足元に座って、聖書を読って、祈って、神との時間を過ごしましょう。そして、奉仕を通して、神に仕える喜びを味わいましょう。
神はイスラエル民族を神の民として、アブラハム、イサク、ヤコブと契約した(神の民=救われた民)。そして、神の民となるにふさわしい聖なる者となるために、律法を与え、それを守らせる。
律法を守り抜くことはいかにも難しく、無理である。このことから、人間はいかに無力、神の助けなしには、何もなしえないことを分からせた。
そのため、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストを受け入れることが人生に必要不可欠なことである。
主イエスがこの世に来られたことは、大変な恵みですが、これは恵みだと思われない人がほとんどです。
一万円をもらったら、大変な恵みです、しかしイーロン・マスクが一万円をもらっても、恵みを感じないでしょう。
主イエスの到来が恵みと感じるには、自分は罪人であると自覚する必要があります。
日課:ルカによる福音書10:25-37(子ども向けメッセージ)
イエスさまは神の国に入るためには神さまを愛し、隣人を愛さなければならないと言いました。ある人がイエスさまに「私の隣人とは誰ですか?」と聞きました。イエスさまは、その人の隣人が誰なのかは答えませんでした。その代わりに、他人の隣人になるよう求めました。そして、他人の隣人になるには、憐れみの心が必要だと言いました。
誰かと友だちになりたいなら、まずその人の友だちになるようにしなければなりません。つまり、自分の目線に立って物事を考えるのではなく、他人の立場に立って考えるのです。イエスさまは、憐れみの心をもって、実行することの大切さを教えてくださいました。そのように実行しましょう、きっと他の人の友だち、他の人の隣人になれるはずです。
イエスさまも憐れみのゆえに、私たちの神さまとなったのです。
先日に地域の魅力を発信する団体による取材があって、と言っても子どもたちが中心でいろいろ質問します。その中で、この教会のこれと言ったイベントは何ですかという質問があって、バザーやらコンサートと回答しました。
今考えますが、教会らしいイベントと答えられなかったことは悲しいですね。教会は教会であるために、もっと教会らしいことを行わなければならないですね。
ペトロはすべての教会を巡回し、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。そしてそこで、体が麻痺して八年前から床に着いていたアイネアと言う人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆、アイネアを見て、主に立ち帰った。(使9:32-35)
私たちの口を通して、人々を救うことができるのです。主イエスが天に昇って、この世を去って後、ペトロはこの事実を私たちに示してくれました。
聖書の中で、神さまの友だちであることを唯一言及している人物はアブラハムです。アブラハムは神さまから選ばれ、神さまのみ心に従って、独り子を献げるほどです。信仰のアブラハム同様、私たちも強い信仰を持てば、神さまのともだちになれるかもしれません。
私たちは決して偶然にこの世に生まれたのではありません、創造主である神さまが私たちに命を授けてくださったのです。小さな心臓がまだ母親の胎内で鼓動を始めたとき、神さまはすでに私たちの人生を計画しておられました。私たちはこの命を見極め、この命を生かし、そして、この世に生まれてきた目的を果たすように召されているのです。
日課:ルカによる福音書9:51-62
列王記上19:15-16,19-21
ガラテヤの信徒への手紙5:1,13-25
最近、有名人のスキャンダルが相次いでいます、特にその有名人たちを追っかけている人には、かなりの衝撃を与えているのではないかと思います。そもそも誰かに従うことは、それなりに時間、お金などといった代償が必要です。そこまでして、従う価値があるかどうかを考えなければなりません。
主イエスは私たちに従うようにと呼びかけておられます。しかし、その代償のために、主イエスに従うのをためらっている人は多いかと思います。主イエスに従うことは、そんなに大変なのでしょうか?そして、どうして主イエスに従う必要があるのでしょうか?今日の日課から、それらについて理解していきましょう。
イエスは自分の使命を果たすために、エルサレムに向かって、十字架の道を歩むことを決意されました。その途中で、サマリヤ人の村に入られましたが、村人に歓迎されませんでした。これは初めてのことではありませんでした、イエスは自分の使命を始められた時も、多くの困難に遭いました。故郷ナザレの人たちには受け入れなくて(4:16-30)、ファリサイ派の人たちにもさんざん悩まされました(6:1-11)。
もちろん、イエスに従いたいと思う人たちもいて、イエスも人たちを呼ばれました。今日のルカによる福音書には、イエスは三人の人との会話が記されています。一人目はイエスに従っていこうとした人で、イエスはその人に対して、自分に住む場所がないことを告げました。二人目の人については、亡くなった父親を葬りに行かせてほしいとも読み取れますが、そうではなくて、父親が亡くなるまでイエスに従うのを待ってほしいという意味合いが強いと思います。三人目の人も家族に別れを告げてから、イエスに従いたいと願いました。それに対して、イエスはすぐにでも付いてきなさいと言われました。
今日の旧約聖書の列王記には、この福音書と同じ状況でありながら、全く対応が異なっていました。エリヤに従うことを決めたエリシャは、まず自分の両親に別れを告げたいと願って、エリヤはその願いを受け入れました。これはイエスの対応とはまるっきり違うのです。イエスはそんな人情味のない人なのでしょうか?
イエス自身には住む場所がなくて、イエスに従ったとしたら、今後、イエスと共に苦しまなければならないでしょう。それに、イエスが語った家族に対する態度は、とても受け入れがたいものです。それは、今日の価値観からしても、同じことが言えると思います。
世間にとって、おそらくイエスは数多くある宗教の一つであるキリスト教の創始者、教祖に過ぎないと思われているでしょう。宗教って、幸せをもたらして、人をより良くして、より良い人生を送れるようにすることではないでしょうか?それなのに、イエスは全く逆のことを言っているように聞こえます。だとしたら、どうしてイエスを信じて、イエスに従う必要があるのでしょうか?
二千年前、ユダヤ人にとって主イエスは彼らを律法から解放して、自由をもたらされました。これは、今日の使徒書で、使徒パウロがガラテヤの信徒に語っていたことです。主イエスは自らの犠牲によって、律法を完成されたからです。(マタ5:17)
しかし、今もなお主イエスを信じないユダヤ人は、律法の束縛の中で生き続けています。イスラエルに行けば、きっとそれを感じることができると思います。律法では安息日である土曜日に一切の労働が禁じられていて、エレベーターのボタンを押すのも労働と見なされます。そのため、イスラエルでの土曜日になると、エレベーターのボタンを押さなくても、家にたどり着けるように、各階で自動的に止まる仕組みとなっています。しかしこれは、上層階に住んでいる人たちにとって、非常に不便で、ストレスを感じるでしょう。
律法はあくまでユダヤ人に与えられたもので、ユダヤ人でない私たちにとって、何の関係があるのでしょうか?その答えは、主イエスは私たちを罪から解放して、自由を与えてくださいました。この自由こそが私たち人生において、もっとも大切なことです。
これをしてはいけない、あれをしてはいけない、こうしなければならない、ああしなければならないという、いろん決まり事があるのは宗教で、宗教は人々を束縛します。多くの人が宗教を拒否する理由は、おそらく束縛を感じるからでしょう。しかし、主イエスは私たちを自由へと召されたのです。真の自由とは、神の愛と真理に基づいて生きることです。そういう意味で、主イエスは決して教祖なんかではありません、キリスト教も単なる宗教ではありません。そのため、教会は神からの自由を感じるところであって、絶対に束縛を与えるところであってはなりません。
私たちは、ある重要なことをはっきりと認識しなければなりません。それは、主イエスだけが私たちの罪を背負ってくださいました、主イエスだけが私たちのために十字架につけられました、主イエスだけが私たちを罪から解放してくださいました。主イエスだけが私たちに自由を与えてくださいました。そして、主イエスだけが神の子であるということです。主イエスに従うことと、有名人や、エリヤに従うことは、全く違うということです。主イエスに従うことは、まさに人生であって、命なのです。
主イエスは、私たちがこの世界のことよりも神の国を優先することを望んでおられます。後ろを振り向かないで、神の国を告げ知らせて、神の国にふさわしい者となることを望んでおられるのです。
イエスが漁師のペトロに、人間をとる漁師になるようにと言われた時、ペトロ、ヤコブとヨハネはすべてを捨てて、イエスに従いました。(5:10-11)イエスが徴税人のレビに私に従いなさいと言われた時、レビは何もかも捨てて、イエスに従いました。(5:27-28)イエスは弟子たちに対して、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、誰一人として私の弟子ではありえないと言われました。(14:33)
主イエスに従うために、私たちもすべてを捨てなければならないのでしょうか?その通りだと思います、しかし、私たちが捨てるのは、自分のプライド、怒り、妬み、分裂、無関心といったものです。これらはあまりにも深く根付いているから、捨て去ることは難しいでしょう。主イエスに従うことは、決して簡単なことではありません、だからこそ教会が必要で、聖職者の助け、兄弟姉妹の愛が必要です。
皆さんがより忠実に主イエスに従うことができるように、私はこの聖パウロ教会に来ました。私にとって、今の務めは生活のための仕事ではなくて、趣味でもなくて、使命です。使命とは、たとえ好きでなくても、苦しくても、やらなければならないことです。皆さんも主イエスに従うことが難しいと感じているでしょう、しかし一人ではない、教会の皆が支え合うことによって、私たちは一緒に主イエスに従うことができるのです。
十字架の道は、決して世間から歓迎されません。しかし、それは主イエスの正体及びその使命を理解していないからだと思います。もっと多くの人々が主イエスのことを知って、主イエスを信じて、主イエスを受け入れて、それによって、罪から解放されて、自由を手にする必要があります。そのため、私たちは主イエスに従って、神の国を人々に告げ知らせなければなりません。
主イエスに従う道は困難に満ちています、それでも主イエスに従う人たちがいました。来週の福音書では、主イエスが七十二人の弟子をお遣わしになったことが記されています。主イエスに枕する所がなくても、この七十二人は主イエスに従って、神の国を告げ知らせていました。
主イエスは私たちの罪のために、エルサレムに向かうことを決意されました。私たちの救い主である主イエスのために、皆さんも主イエスに従うことを決意したのでしょうか?ぜひ一緒に主イエスに従いましょう、そして、神の国にふさわしい者になりましょう。
イエスが漁師のペトロに、人間をとる漁師になるようにと言われた時、ペトロ、ヤコブとヨハネはすべてを捨てて、イエスに従いました。(5:10-11)イエスが徴税人のレビに私に従いなさいと言われた時、レビは何もかも捨てて、イエスに従いました。(5:27-28)そして、イエスは弟子たちに対して、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、誰一人として私の弟子ではありえないと言われました。(14:33)
主イエスに従うために、私たちもすべてを捨てなければならないのでしょうか?私はその通りだと思います。しかし、私たちが捨てるのは、自分のプライド、怒り、妬み、分裂、無関心といったものです。
これをしてはいけない、あれをしてはいけない、こうしなければならない、ああしなければならないといういろん決まり事、制約があるのは宗教で、宗教は人々を束縛します。多くの人が宗教を拒否する理由は、おそらく束縛を感じるからでしょう。しかし、主イエスは私たちを自由へと召されたのです。真の自由とは、神の愛と真理に基づいて生きることです。そういう意味で、主イエスは決して教祖なんかではありません、キリスト教も単なる宗教ではありません。そのため、教会は神からの自由を感じるところであって、絶対に束縛を与えるところであってはなりません。
聖職者として、主日礼拝に説教台に立ち、会衆の視線を浴びて、私たちがこの舞台の主人公であると勘違いしていないのでしょうか?
二千年前に、多くの人が洗礼を受けるため、洗礼者ヨハネのところにやってきました。そして、彼に従って、弟子となった人も大勢いました。洗礼者ヨハネがあのメシアではないか、あるいは偉大な預言者エリヤだと考える人もいました。しかし、洗礼者ヨハネ自身は勘違いしていませんでした。
洗礼者ヨハネは、花嫁を迎えるのはあくまで花婿であって、自分はただの花婿の介添え人だと分かっていたからです。人々に悔い改めを呼びかけて、洗礼を授けるのは、すべてこの花婿である主イエスが来られた時、スムーズに花嫁を迎えて、花道を歩むための準備でした。
主イエスは、救われる人々、すなわち教会を迎えるために再び来られます。今度は、私たちが介添え人となって、耳を傾けて、主イエスの声を聞いて、その準備をしなければなりません。もっと多くの人に主イエスを信じて、主イエスを受け入れて、そして、私たちの仲間である教会になってもらわなければなりません。
勘違いしてはなりません、私たちは介添え人であって、主イエスこそ花婿です。主日礼拝の主人公は、私たちではなくて、主イエスです、そのため、主イエス自らのみ言葉を会衆に届けなければなりません。主日礼拝という晴れ舞台で、私たちは一介添え人に徹して、会衆の視線が主人公である主イエスに浴びるように、説教台を主イエスに譲りましょう。
会衆のすべてが耳を傾け、その主イエスのみ言葉を聞いて大いに喜べるように、また介添え人の私たちも喜びで満たされていることができるように祈ります。
説教を書くのに、なかなか時間がかかります。聖書の釈義だけなら、簡単かもしれませんが、教会の状況、需要に合わせて、それを適用させないと、単なる勉強会となって、あまり意味がないからです。となると、教会の状況、需要に合わせることは、かなりの頭の労力が必要です。今現在も頭を使って、説教を書いている最中です。
聖書日課:ヨハネによる福音書16:12-15
今日は三位一体主日です、そして、父の日でもあります。世の中のすべての父親たちに神さまの祝福があり、健康と平和を与えられますようお祈り申し上げます。私は父の死をきっかけに、20年間暮らしていた日本を離れて、故郷に戻ったその年に、主イエスに出会いました。自分が今ここにいられるのは、地上の父にも天におられる父にも心から感謝しています。
私たちキリスト者は、よく神さまのことを天におられる父と呼んでいます、おそらくひげをたくわえたおじいさんのイメージをしているのではないかと思います。しかし実際、私たちの言っている天におられる父は、別に男性のことではありません、もちろん女性でもありません。神は霊ですので(4:24)、そもそも性別というものはありません。神さまを父と呼ばれているのは、単なる一種のたとえであって、それは古代の文化において、神の性質を表すのに男性の性質に最も適していたからです。
それに、神さまは天におられるだけでもありません。なぜなら、神は三位一体だからです。この三位一体の概念を理解するのは、なかなか難しいと思います。それより、三位一体の神それぞれが、私たちのためにしてくださったことを知ることの方が、よっぽど重要です。そして、今日のヨハネによる福音書から、それを知ることができるのではないかと思います。
十字架の受難を控えた前日の夜、主イエスは弟子たちに、聖霊の到来及びその働きについて、繰り返し語られました。いよいよ自分の使命を果たして、聖霊にバトンを渡す時が来ました。主イエスの使命は何だったのでしょうか?そして、聖霊は何のため来られるのでしょうか?一緒に見ていきましょう。
人が神を背いて、それが罪であって、神とを隔ててしまいました。再び神のもとに行くには、まず、罪を贖わなければなりません。主イエスがすべての人の罪を贖うために、神によってこの世界に遣わされました。これが父なる神の救いの計画です。
そして、子なる神である主イエスはこの世界に来られました。すべての人の罪を背負って、十字架の死で、その罪を贖いました。これは主イエスに与えられた使命です。それによって、人は神と和解して、神のもとへ行くことができるのです。要するに、救われることです。しかし、主イエスがすべての人の罪を贖ったという紛れもない真実である一方、主イエスを信じなければ、すなわち、主イエスが神の子であって、主であって、その死と復活を信じなければ、もはや自分には何の関係もなくて、救いも得られません。
これを理解してもらうために、例を挙げたいと思います。ここに一つのレモンがあると想像してみてください。このレモンは酸っぱいです。酸っぱくないレモンもありますが、このレモンは本当に酸っぱい、とてつもなく酸っぱいです。このレモンが酸っぱいのは事実です、しかし、このレモンをかじらなければ、酸っぱいであることは、私たちには全く関係のない、意味のないことです。主イエスを信じなければ、主イエスが自分の罪を贖ったということが、自分に関係ないのとまったく同じです。
主イエスを信じるのは、私たちの信仰です。これは本来なら、すべての人の信仰であるはずです。なぜなら、主イエスはすべての人の罪のために犠牲になられたからです。しかし、主イエスを信じるのは、全く容易なことではありません。それは、人の知恵と理性で理解して、信じることができるものではないからです。
主イエスの話、その証しを通して、主イエスを信じさせることにつながります。聖霊は主イエスのことをお教えになって(14:26)、主イエスの証しをなさるために(15:26)、神によってこの世界に遣わされました。これも父なる神の救いの計画です。
主イエスは弟子たちに、聖霊が彼らをあらゆる真理に導いてくださると告げました。その真理とは、何のことでしょう?主イエスはその前にこう言われました、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(14:6)その真理とは、まさに主イエスのことです。主イエスを信じれば、父なる神のもとに行くことができます、主イエスを信じれば、永遠の命が得られます。主イエスは唯一の道、命の与え主です。
そして、聖霊なる神はこの世界に来られました。主イエスを信じるように導くために来られました。聖霊はあらゆる真理に導いてくださるから、真理の霊と呼ばれています。その真理の霊は勝手に語るのではなくて、父なる神から聞いたことを語るのです。そして、父なる神のものでもある子なる神のものを受けて、これから起こることを人々にお告げになるのです。
聖霊が来られて、弟子たちを満たされました。当初、堪えられなかった弟子たちもいろんなことに堪えることができました。そして、私たちも聖霊によって、いろんなことに堪えることができるはずです。
父なる神は救いの計画をなさいました。子なる神はこの計画に従って、実際に十字架の上でこの計画を実行されました。聖霊なる神もこの計画に従って、人々を主イエスへの信仰に導かれます。こうして、個々の人に対する救いの計画の完結となります。
御父が計画し、御子が実行し、聖霊が完結させます。これは実際、世界の創造についても同じことが言えます。御父が天と地、大自然、動植物、そして人間を含むこの世界を計画されました。それらを御子によって造られました(コロ1:16)。これだけではまだ終わりではなくて、聖霊が私たちの内に宿られて、この世界で働いておられることで、生き生きとした創造の完結と言えるのです。
父と子と聖霊それぞれが果たすべき役割は異なりますが、心が一つで、同じことに向かって働いておられます。神は三位一体だけではなくて、一心同体でもあるのです。三位一体の神のそれぞれの役割、そして、私たちのためにしてくださったことを知ることで、三位一体の神への理解をより深めることができるのではないかと思います。神さまはただ遠い天におられる存在ではなくて、私たちと親しい親子関係で、私たちのために死んでくださって、私たちの内に宿ってくださる存在なのです。
聖霊の働きは二千年前から変わっておられません。聖霊が私たちの内に宿られることて、その働きは私たちを通して行われることを意識しなければなりません。それは、人々をあらゆる真理に導くのは、私たち、すなわち教会に与えれらた使命であることを意味します。
今から149年前、神さまはこの聖パウロ教会を設立されました。この149年間、聖パウロ教会を通して、働き続けてこられて、多くの人々をあらゆる真理に導きました。多くの人々を主イエスを信じさせました、多くの人々を父なる神と和解させました。そして、父なる神にも、子なる神にも栄光をもたらされました。
聖パウロ教会は創立150周年に向けて、先週からいよいよカウントダウンとなりました。これからも神のこの偉大な救いの計画に参与して、人々にあらゆる真理に導き続けなければなりません。そのためには、聖書を読むことから始めましょう。この真理をより深く知り、この真理である主イエスとより深い関係を持たなければならないからです。
神さまの偉大な計画を成し遂げるために、私たち一人ひとりに異なる賜物、いわゆる才能が与えられました。私たちは教会でさまざまな奉仕、役割を担っていますが、ぜひ三位一体の神のように、心が一つで、与えられた使命に向かって進んでいきましょう。
聖霊なる神は、子なる神である主イエスへの信仰に導いて、父なる神の救いの計画を完結させるためにこの世界に来られました。神は三位一体であることは必然です。この三位一体の神は、キリスト教だけではなくて、全人類の神です。三位一体の神に栄光を献げましょう。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
全能者である神、万軍の主
かつておられ、今おられ、やがておられる方
その栄光は全地に満ちる
最近は話題である夫婦別姓の問題ですが、私は国際結婚なので、一応別姓です。夫婦別姓は日本だけだそうですので、マレーシアはもちろん別姓で、母だけ苗字が違います。それであまり困っていることはなく、私も当初、別姓が当たり前で、日本も夫婦別姓に賛成の立場でいました。
しかし今では考えが変わりました、夫婦同性の賛成に回ったわけではなくて、日本には、戸籍、家という伝統、制度があって、それを深く理解せず、一外国人の私がうんぬんいう話ではないと悟ったからです。私は他の宗教に対しても同じ立場で、その宗教に深く勉強せず、安易に批判すべきではないと思います。結局キリスト教を批判する人たちも、キリスト教の外側しか見てなかったからだと思います。批判するなら、まず深く理解してから。
教会に勤務する前に、聖書の勉強会に参加したいのですが、ほとんどの教会の聖書の勉強会はなぜか平日の午前中が多いです。この時間ですと、仕事があって、参加が困難です。マレーシアの教会では、基本的に信徒の都合に合わせるため、夕方で開催することが多いです。
今勤務する教会は、どういうわけか、聖書の勉強会は夕方7時からです。それで先日に全然この教会の信徒でもない方から、参加したい旨の連絡をもらいました。話を聞いたら、キリスト者ではなくて、キリスト教に興味があるとのことで、聖書の勉強をする前に、この信仰についての勉強をした方がよいと提案し、Zoomで約一時間半で信仰についての勉強会を行いました。
勉強会の時間も内容も、聖職者の個人の都合ではなく、求道者、信徒に合わせる方が大いに意味があると思います。
主イエスの説教で、一部の弟子が離れてしまいました。パウロの話はつまらないと言われました。(コリⅡ10.10)説教は面白い話をして、人を惹きつけるのではない、大切なのは、真理を宣べ伝えることです。
今日は聖霊降臨日、いわゆるペンテコステです。洪水の後、人間は自分の名をあげるため、バベルの塔を造ろうとして、結局神様が人間に異なる言語を与えられた、人間を分散させました。ペンテコステに神様は再び人間に異なる言語を与えられました。それは、世界各地のすべての人に神の福音がわかるように、人々を一致させるためです。今度は人間の名を上げるのではなく、神様の名を上げるのです。
約月1回説教を載せてありますが、この説教は載せるための文章ではなくて、いわゆる話すための文章です。文章には書く言葉と話す言葉があり、後者の方にあたります。それを書き言葉として、修正したりしませんので、原稿そのままを載せています。
昇天日から聖霊降臨節の間、全世界の聖公会(おそらく)では、「み国が来ますように」という祈りを行っています。主イエスの愛と平和を知ってほしい友人や家族・知人を覚えて、その人たちのために祈っていきます。
最初の数日やってみたら、一人でやるのはもったいないと思ったので、Zoomで一緒にやるようにと信徒さんに呼びかけました。賛美、礼拝などもそうですが、キリスト信仰は、個人の信仰ではなく、グループの信仰です。そのため、神さまは教会を設立されました。
教会の牧師補として就任して、あっという間に2ヶ月経ちました。生活も仕事も慣れてきましたが、逆に気が緩んだところも多々あります。
焦らず、信徒さんの変化をすぐに求めない、ただ神様を信じるだけです。
異端は必ずしも悪いではないと思います。キリスト教の異端とは、単なる神学の解釈が異なるから、異端にされました。ちなみに異端かどうかの判断基準は何かといいますと、ニケア信経です。それは異端を認定するために、造られたものですから。
簡単に言いますと、ニケア信経を認める教会と認めない教会は、異端の分岐です。下のニケア信経を読んで、それに同意できない場合、自分が異端かも?
わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。
また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます アーメン
宗教のキリスト教と信仰のキリスト教をごちゃ混ぜ、キリスト教の本質が理解せず、教会を離れ、信仰を失うなどのことにつながります。これはすべて聖職者の責任であると痛感し、聖職者自身も分からないか、ちゃんと教えてこなかったことがすべてだと思います。
あなたが信じているのは宗教のキリスト教、それとも信仰のキリスト教?
二泊三日の人権の研修に行ってきました。主に部落差別についての研修で、マレーシアでは、若干の人種はありますが、いわゆる出身地による差別はあまり認識していません。
かつて、主イエスの弟子になる前のフィリポも、出身地による差別ともとられる発言はありました。「ナザレから何かよいものが出るだろうか」(ヨハ1:46)フィリポも主イエスに出会った、人生を変わった一人でした。私たちも主イエスに出会い、変わらなければなりません。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:32)
主イエスを信じることは、自由が得られることです。キリスト者は何かに縛られるのではなく、自由のはずです。洗礼をし、キリスト者となったものの、自由がないのなら、その信仰は間違いです。
日課:ヨハネによる福音書13:31-35
教会勤務する傍ら、神学院でいくつかの科目の聴講するように要求されました、その一つに宣教についての学びです。日本における宣教を、しっかり勉強しなさいという主教の思いだと受け止めています。とある宣教の資料によると、日本人はできる限り、神と関わらない方が平穏な生活だと理解しているようです。神に頼らないといけないのは、困ったときや、何か願いのあるときだけということだそうです。しかし一方、神と大いに関わるべきだというのがキリストの信仰です。これが宣教の妨げとなって、日本にキリスト者が少ない理由の一つなのかもしれません。
聖書によると、神はご自身の栄光のために人を創造されました。(イザ43:7)そのため、創造主である神と大いに関わって、神に栄光をもたらすことが、本来、私たちの人生の目的なのです。実際、主イエスの一生涯は、すべて神の栄光のためでした。しかし、私たちの多くは、どう神に栄光をもたらしたら良いのか分からないと思います。今日の福音書から、それを知ることができるでしょう。
今日のヨハネによる福音書は、イエスは弟子たちの足を洗って、共に最後の晩餐の席で、自分を裏切ろうとしている弟子のユダに「あなたがやろうとしていることを、今すぐやった方がよい」と言うところから始まります。(13:27)ユダが出て行った後、イエスは何を語られたのかを一緒に見ていきましょう。
神に栄光をもたらそうと願えば願うほど、困難に突き当たるでしょう。イエスは実際、それで命を落とされました。およそ三年間行動を共にしていた弟子に裏切られて、十字架の上で死なれました。
日本では少数人口である私たちキリスト者にとって、宣教は決して簡単なことではありません。迫害はないものの、キリスト者というだけで、変な目で見られることもあろうかと思います。信徒獲得のため、ときに手段を択ばない宗教もあります。それがかえって、人々を宗教から遠ざける原因となって、キリスト教にも影響を及ぼしてしまいます。この日本という大変固い土壌で、宣教の種を育てるには、どうしたら良いのでしょう?どう神に栄光をもたらすことができるのでしょう?
ユダが出て行った後、イエスはユダによる裏切りが確実なものだと確信されたとき、弟子たちに、ご自身は神から栄光を与えられて、神もそれによって栄光をお受けになったと言われました。簡単にいうと、イエスの十字架上の死によって、神は栄光をお受けになったということです。
どうしてイエスの死は神に栄光をもたらされたのか?それは、神はあらかじめイエスの死を定めておられて、イエスの死は神ご自身の人間に対する救いの計画だからです。イエスが死ななければならなかったのは、人間の罪を償い、神ご自身との和解を成し遂げられるためです。神がその独り子を惜しまずにお与えになったほどに、ご自身の創造されたこの世界を愛されたからです。(3:16)この愛によって、その独り子が死なれました、しかし、その独り子の死によって、神が栄光をお受けになりました。
私たちはどのようにしたら、神に栄光をもたらすことができるのでしょうか?主イエスは弟子たちに新しい戒めを与えられました、互いに愛し合いなさいという戒めです。これは当時の弟子たちだけに与えられたものではなくて、キリスト者である私たちすべての人に与えられた戒めでもあるのです。互いに愛し合うことで、神に栄光をもたらされるのです。互いに愛し合うことで、神が再び栄光をお受けになるのです。
人を愛する戒めは、ずっと以前からありました、「隣人を自分のように愛しなさい。」という戒めです。(レビ19:18)主イエスのこの新しい戒めが新しいのは、自分を愛するようにではなくて、主イエスが弟子たちを愛したように、人を愛するからです。しかも、一方的ではなくて、互いに愛し合うことです。それによって、私たちが主イエスの弟子であることを世間は知るようになると言われました。すなわち、互いに愛し合うことが私たちキリスト者のシンボルです。十字架を身につけるのではなくて、互いに愛し合うことで、私たちがキリスト者であることを世に知らしめるのです。
これは宣教において、非常に重要なポイントだと思います。私たちはしばしば、キリスト者として、積極的に人に福音を宣べ伝えて、主イエスの証しをしなければならないと思って、そして、宣教活動を積極的に行わなければ、信徒は増えないと考えているようです。しかし、それがすべてでしょうか?
主イエスが天に昇られた後、弟子たちはその戒めを忠実に守って、みんなが助け合って、そして、よく集まって、ひたすら心を一つにして礼拝を行いました。聖書によると、主イエスは救われる人々を日々仲間に加えてくださったそうです。(使2:44-47)主イエス自らが与えられた戒めで、ご自身は必ず祝福してくださいます。私たちも互いに愛し合うならば、この愛の共同体に入りたい、私たちの仲間になりたいという人たちは必ずいます。主イエスは必ず教会を成長させて、信徒の数を増やしてくださいます。これこそ、まことの宣教です。これこそ、神に栄光をもたらす道です。
主イエスの愛は、自己犠牲的かつ謙遜な愛です。私たちはどのように互いに愛し合えば良いのか、少し戸惑うのかもしれません。主イエスは実際、弟子たちをどのように愛されたのかを示してくださいました。それは、弟子たちの足を洗われたことです。
ヨハネによる福音書には、聖餐に関する記述はありません。しかし、他の福音書にはない聖餐のときに、主イエスが弟子たちの足を洗われる出来事が記録されています。使徒ヨハネにとって、聖餐と洗足は、実に深く関連していて、おそらく主イエスのこの行動から、聖餐のより深い意味を見い出したようです。それは、聖餐は単なる形式にとどまるのではなくて、愛に伴う行動に移さなければ意味がないということです。主イエスは弟子たちの足を洗われたことで、愛を示されたのです。そして、弟子たちに互いに足を洗い合うように告げられました。(13:14)
私は聖パウロ教会でこの愛を実際に目にしました、皆さんも見たのでしょうか?教会をきれいに掃除してくれている人々がいます。礼拝での演奏のために練習に励んでいる人々がいます。丁寧に花を飾ってくれている人々がいます。祭壇の準備、後片付けを黙々とやってくれている人々がいます。早々今日の聖書朗読を決めて、事前に練習した人々がいます。うどんを用意してくれている人々がいます。いろんな活動を計画してくれている人々がいます。これらは、皆さんに与えられた義務では全くありません。ここに来られる人たちがより良い礼拝ができるように、より良い教会になるように、皆さん自らが献げて、喜びの中で行われる奉仕です。これは、教会の兄弟姉妹に対する愛そのものです。この愛がなければ、礼拝は単なる形式にとどまって、教会も単なる建物にすぎません。皆さんは、まさに兄弟姉妹一人一人の足を洗っているのです。
コロナ禍後、教会に戻って来る信徒さんは少なくなりました。それは、教会での礼拝が休止していたからではなくて、礼拝の休止によって、人が集まれなくて、奉仕ができなくて、互いに愛し合う機会が減ってしまったことが根本な原因だと私は思います。
私たちは本当によくやっていると思います。しかし、もっとできるはずです、もっとできると信じています。今度は教会に来られない、礼拝に参加できない兄弟姉妹に対しても、この愛の行動に出る必要があります。まだ、足を洗ってくれるのを待っている孤独で、高齢で、病床にいる兄弟姉妹が大勢います。再び神が栄光をお受けになるために、行動に出ましょう、互いに愛し合いましょう。
主イエスの死によって、私たちの罪は赦されました。主イエスの死によって、神が栄光をお受けになりました。主イエスは、互いに愛し合いなさいという新しい戒めを私たちに与えられました。互いに愛し合うことで、再び神が栄光をお受けになります。
来年創立150周年を迎える聖パウロ教会は、互いに愛し合うという宣教の原点に立ち返って、そして、それに向かわなければなりません。私たち一人一人が互いに愛し合うことを心から願っています、そして、祈っています。ぜひ私たちは心を一つにして、聖パウロ教会を愛に満ち溢れる教会にしていきましょう、聖パウロ教会を神に栄光をもたらす教会にしていきましょう。
イザヤ書43:7では、神は自分の栄光のために万物を創造されたとあります。そしてコリント書一8:6では、万物はキリストのために創造されたとあります。創世記にある神の創造は、すでにキリストに深く関わっているのです。
キリストは単にある御子だけではなく、神によって創造された私たちには深く関わっているのです。
好きな作家の作品をいくつか読んだことがありますが、聖書を読んだことはありません。
追いかけているスターのためなら何でもしますが、イエスのために捧げようとは考えない。
イエスはこの人たちよりも価値はありません。
昨日の深夜一時に電話がかかってきて、なんか信徒に大変なことがあるのかと思いましたが、結局知らない大阪在住のクリスチャンの女性で、インターネットで教会を調べて、いろいろな教会に電話を掛けたそうです。
ここではあまり詳細は明かせませんが、悩みがあって、二時間ぐらい話をして、電話を切ろうとすると、見捨てないでくださいと言われました。私は神さまを信じてくださいと言い続き、神さまを信じるなら、あなた自分で電話を切って、神さまに感謝して、寝るようにして下さいと言いました。最終的に、彼女から電話を切りました。私は彼女を見捨てないし、神さまも彼女を見捨てません。
罪は、辞書で調べますと、道徳・法律などの社会規範に反する行為ということです。この定義のもとで、自分は罪人だと思いますか?一方、キリスト教のいっている罪はいわゆる神の義(正義、正しさ)に反することです。この定義のもとで、自分は罪人だと思いますか?
愛する天の父なる神様、この母の日に、世界中のすべての母のために、心からお祈りします。
母親を通して、あなたが創造されたこの美しい世界に私たちを連れてくださいました。母親を通して、私たちに輝かしく美しい人生を与えてくださいました。そして、母親の愛の中であなたを見つけることができました。
どうか世界中のすべての母親を祝福してください。若かろうが老いていようが、貧しかろうが裕福だろうが、すべての母親を祝福し、幸せにしてあげてください!そして、子供たちが自分たちを愛していることを知らせてください。
世界中のすべての母親に、あなたの特別な祝福を願い、彼女たちに幸せ、平和、健康をお与えください!そして、あなたの子供たちが、どんな時もあなたを賛美し、讃えますように!主キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン!
聖書の中で、これほど悲しい神のみ言葉はないだろう
主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」(創6:7)
神の創造の学びの私の私見です。
神の創造はもちろん無からの創造ですが、それだけに着目すると、単に神が世界を創造して、それで終わりだと感じるに否めません。
創世記における神の創造の主旨は、混乱から秩序あるものであることを理解し、さらに、三位一体の神を信じていれば、神は今もこの混乱の世界を創造し続け、深く関わっていることが分かります。
神は一度良しとされ、しかし再び混乱になってしまったこの世界を、秩序あるものにすることが、キリスト者の使命で、それは聖霊が私たちの内に宿られた理由でもあります。
ゆえに、私たち教会として、主日に礼拝を行うだけではなく、職場、学校、家庭、日常生活の中において、神の助けで、この混乱の世界をいかに良い世界にしていく努力をしなければなりません。
大斎節で食事制限をした関係で、ちょっと痩せましたが、よくそれは信仰、宗教の理由かと聞かれます。若干説明しますと、一部の宗教では、その宗教の法律で決められていて、それに従わないと、罰せられることもあります。そういう場合の食事制限は宗教の理由です。キリスト教の場合でも、宗派によっていろいろあるようですが、私自身がいる宗派は、推奨、指針はあるものの、まったく強制力はありません。あくまで欲を抑えるとか、集中して神様と向き合うためで、個人の意思によるものです。一応それは信仰の理由と言えるのでしょう。
説教を準備しているときに、本当にいろいろ発見があります。自分の思いを勝手にしゃべるわけにはいきませんので、それでいろいろ考えて、聖書の他の箇所と照らし合わせて、聖書解釈の本を調べるなど、その都度、なるほどなということがしばしばありました。やっぱり、説教はおろそかにしてはならない、そして大事にするからこそ、自分も勉強になります。
毎週の週報に載せている療養中、ご高齢の代祷リストがあります。毎日一人一人を覚えて祈ってますが、この方々の現状がどうなのか気になって、それで電話番号の分かる方に電話し、現状を確認しました。そして今日、その一人のお宅を訪問しました。
祈りはもちろん大事です、もっと大切なものもあります。
(ヤコブ2:15-16)もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
私たちは物事を個人的な視点や数字で見ることが多いです。確かに世の中ではそれが一般的です。しかし、キリスト者、特に聖職者の場合は、それだけではなく、神様の視点はどうであれ、神様のみ心どうなのかと常に考えなければならないと思います。ですから、ときに変人だと思われ、変な目で見られることもあります。それで委縮して、結局世界一般の人の歩調に合わせてしまいます。今日も勇気と知恵を求めて神様に祈ります。
昨日の説教で、聖書朗読は神聖な奉仕であることを話したら、さっそく来主日聖書朗読者が決まりました。私は単にお願いだからやってくださいとかではなくて、その意味を教えることによって、信徒さんが心からやりたいと思えるように望んでいます。聖書の朗読だけではなく、教会はそのすべての奉仕、献金などにおいてそうであるべきだと思います。それは宗教施設、クラブではなく、真の教会だからです。
日課:ヨハネによる福音書20:19-31/使徒言行録5:12a,17-22,25-29/ヨハネの黙示録1:9-19
人は自分の目で見るまではなかなか信じないものです、頑張って信じるようになるものでもありません。ですから、人は目に見える偶像を崇拝する傾向に陥りやすいのです。実際、イスラエルの歴史の中では、子牛の鋳像を造って、神として拝んでいたことが何回かありました。では、どうしたら、人は目で見ていなくても、神を信じることができるのでしょうか?どうしたら、人に主イエスの復活を信じてもらえるのでしょうか?
主イエスの復活を信じないのは、何も世間一般の人だけではありません。今日のヨハネによる福音書では、3年ぐらいも主イエスに従って、主イエスの教えを聞いて、多くの奇跡を見てきた弟子が、それでも主イエスの復活を信じていなかったことが分かります。それでは、詳しく見て行きましょう。
二千年前に、主イエス・キリストが本当に復活をなさいました。その日の夕方に、さっそく弟子たちの前に現れて、二回も「あなたがたに平和があるように」とあいさつをされました。その場にいなかった弟子の一人のトマスに、ほかの弟子たちは主を見たと告げると、トマスは、実際イエスの手の釘の跡を見て、指をその釘跡に入れて、手を脇腹に入れてみなければ、決してイエスの復活を信じないと言い出しました。それで、今でも「疑惑のトマス」というレッテルを貼られてしまいます。
しかし、私はこれが単にトマスだけの信仰のなさの問題ではなくて、他の弟子たちは、ドアに鍵をかけてあった家の中にイエスが現れて、手と脇腹とをお見せになったから、信じただけの話です。そうでなければ、おそらくトマスと同じように信じていなかったと思います。実際、ルカによる福音書では、イエスの復活を目の当たりにした女たちは、弟子たちにそのことを知らせたのに、弟子たちはその話がまるで馬鹿げたことだと書いてあります。(ルカ24:10-11)
それもそのはず、十字架につけられて死んだ人が復活するなんて、にわかに信じがたい、あり得ない話です。ですから、世間一般の人にとって、イエスの復活は事実ではなくて、単なる伝説、一種の神話にすぎません。
この信じられないことが、イエスの出現によって現実のものとなりました。トマスを含む弟子たちはイエスのみ姿を見て、イエスの復活を信じました。そして、イエスが主であって、神であることを確信しました。
やはり人は見ることによって信じるのです。もし今主イエスがこの世界に現れたなら、もっと多くの人が主イエスを信じるでしょう。しかし、主イエスはすでに天に昇られて、少しの間はこの世界には降りてきません。イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。私を見ないで信じる人は、幸いである。」と言われました。どうしたら、見ないで信じることができましょうか、どうしたら、その幸いな者になれましょうか?
今日の福音書の著者である使徒ヨハネは、イエスが神の子メシアであることを人々に信じさせるために、この福音書を書いたと語ってくれました。そして、今日のヨハネの黙示録では、この使徒ヨハネに対して、見たこと、今あること、また後に起こることを巻物に書き記せと命じられました。主イエスは、人が見ないで自分が神の子メシアであると信じることができるように、ご自身の教え、行いを弟子たちに書き記させられたのです。
主イエスが神の子メシアであることを信じるとは、すなわち、神が人間となられて、乙女によってこの世界に生まれて、十字架の上に死なれることによって、すべての人の罪を贖って、三日目に復活したことを信じることです。しかし、これらのことをとても人間の知恵、理性だけでは、信じることはできません。むしろ、信じない方が普通なのです。それは、あまりにも非常識、非科学的だからです。
どうして私たちはこんな馬鹿げたことを信じてやまないのでしょう?使徒パウロはコリントの信徒への手紙では、こう教えてくれました。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。」(Ⅰコリ12:3)私たちが信じるのは、心を改めて、み言葉を心に留めて、それから、聖霊が働いてくださるからです。人間の力で信じるのではなくて、神が人間を信じさせるのです。皆さんは主イエスが神の子メシアであることを、心から信じるならば、聖霊を受けたことで、皆さんの中には聖霊が宿っていると確信を持って言えます。
聖霊が働くには、神のみ言葉が必要不可欠です。まず、そのみ言葉に耳を傾ける必要があります。これは、神がご自身のことを書き記させられたゆえです。それは旧約聖書においても、新約聖書においても全く同じです。
私はキリスト者である妹の影響で、キリスト者になりました。しかし最初は、特に神の創造などを信じていなくて、とりあえず、あまり深く考えないという態度を取っていました。当時は聖書に興味があって、創世記からほぼ毎日読んでいました。そのあと、教会に通って、日曜学校の手伝いもさせてもらいました。ある時、日曜学校の子どもたちに、人間は神によって創造されたのよと話しました。これを口にしたことに、自分でも驚いていました。というのは、私は単に聖書の物語を教えようとしていたのではなくて、心から信じたことを自然に出たからです。あっ、いつの間にか、私は本当に創造主である神を信じたのだと初めて気づきました。
この変化の理由として、私が思いつくのは、聖書を読んでいたことに他ありません。聖書は単なる小説ではなくて、神のみ言葉です、そのみ言葉には力が満ちています。私は主イエスを信じるのは、主イエスを見たからではなくて、もちろん主イエスを見たことはありませんでした、み言葉にある主イエスの教え、主イエスの行いが私を信じさせるのです。私自身のこの経験から、皆さんにもぜひ聖書を読んでいただきたいと願っています。
私が週報を作っているとき、奉仕表に埋まらないのは、たいてい聖書朗読の奉仕です。私はこれ、非常にもったいないなと思いました。もちろん奉仕には区別がなくて、これが重要な奉仕とか、重要でない奉仕とかはないはずです。しかし、私の神学校で礼拝学を教えていたある先生が、聖書の朗読は説教よりも神聖であると教えていました。というのは、説教者は多かれ少なかれ、個人的な意思が混じってしまいます。しかし、聖書の朗読者は、神のみ言葉をそのまま会衆に届けるからです。ぜひ、皆さん一人一人が神のみ言葉を愛して、それを声に出して朗読するこの神聖な奉仕に、大いに携わることを祈ります。
今日の使徒言行録では、主の天使が使徒たちを牢屋から救い出して、命の言葉を残らず民衆に告げるように命じました。これはまさに主イエスが弟子たちに、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と言われたことです。私たちもまた、主イエスによって遣わされているのです。主イエスのみ名によって人々に命を得るように遣わされているのです。より多くの人にイエスが神の子メシアであると信じるように、私たち一人一人が神の命の言葉を伝えなければなりません。必ず聖霊が働いて、日々救われる人々を私たちの仲間に加えてくださると信じています。
今から二千年前、主イエス・キリストが復活をなさいました。しかし、あれから二千年経ったのに、いまだにそれを信じない人が大勢います。目で見えない神の子メシアである主イエスを信じるのに、神のみ言葉をよく読んで、よく聞いて、そして心に留める必要があります。信じない者のままではなくて、信じる者になりましょう、幸せな者になりましょう。そして、信じている私たち、幸せな者である私たちも、神のみ言葉をよく読んで、よく聞いて、そして心に留めることによって、ますます神との関係が深まって、信仰も強くなるでしょう。
この一週間、皆さん一人一人が主の平和の中で時を過ごして、神のみ言葉に傾けて、心に留めて、そして、神とのより深い関係を育んでいくことを、心からお祈り申し上げます。
明日は日本での初めての説教です。実はこのブログも何回か説教を載せましたが、厳密にいうとそれは説教ではなく、勧話です。今までは一信徒の立場で壇上で話をさせてもらいましたが、今回は聖職者としての立場です。名称だけが違うのかというと、それも厳密では違います。基本的な内容は変わりませんが、勧話の場合、基本的に”わたしたち”が基本ですが、説教となると、”皆さん”が多くなります。それは聖職者は神様を代表して話すので、私たちではなく、皆さんとなります。
今の教会で初の説教となりますので、私の言葉を思いが神さまのみ心にかないますように。
私は今神学院で説教学の聴講をしています。その説教学を教えている先生はとても説教が有名な先生で、説教塾の主催なども行っています。しかし、その先生が牧師として勤めている教会のある信徒さんはほぼ毎主日に私のいる教会に来ています。話を伺ったら、その説教があまり気に入らないとのことです。
私自身は学校で数学の先生をしていましたので、クラス全員が私の教えを理解するわけではありませんでした、分かりやすいという人もいれば、逆に全然わからないという人もいます。説教も同じで、万人受けの説教はあり得ません。説教で養ってもらうことはもちろん大事ですが、礼拝において、神様との交わりをもっと重点を置くべきだと思います。
キリスト教は神様に近づくという考えですが、日本人はいかに神様に関わらない方が無難であるようです。それは、神様のことがはっきりわからないからだと思います。創造主である神様は、信じようが信じまいが、私たちの人生に関わるのです。なので、神様から遠ざけるのではなく、いかに近づき、関係を築くことが大事です。
今日は復活後の月曜日、一応教会暦では祝日扱いで、私のいる教会では、こういった祝日は普段九時に行う朝の礼拝の代わりに、朝の七時半に聖餐式を行います。聖餐式が終わり、八時半ぐらいにいつも九時の朝の礼拝に参加する信徒さんが現れて、私は今日の七時半に聖餐式があったことを告げ、その信徒さんは少し落ち込んで、九時の礼拝はないよねと尋ねてきました。
しかし、私は九時に朝の礼拝をその信徒さんと二人で行いました。教会はルールを死守するのではなく、神様と信徒をつなぐためにあるものです。信徒の心を満たすために、必要なことをしてあげることが聖職者たるものの務めです。
奉仕についての相談があり、私はその都度、頑張らないで、気楽で楽しくやってくださいとアドバイスします。私から基本的に何かの要求はしません。教会は宗教ではないから、何かに縛られてはなりません。縛られると、ストレスになりますし、良い信仰生活はできません。
先日の旧約聖書の勉強会で、聖書が好きになる、聖書を読むことを好きになってもらうこと、これらに向けて考えたものでした。早速信徒さんから、聖書を読み始めるという話をいただきました。これ以上うれしいことはありません。本当に心から神様を愛し、もっと神様のことが知りたいから、聖書を読むのです。
旧約聖書の学び会を担当することになりました。今までのやり方は、聖書の輪読でしたが、やり方をかえって、とりあえずまず旧約の概要を教えることにしました。第一回は旧約全体の概要、その後、旧約内容のテーマ(神の創造、人の罪、・・・)を沿って勉強していこうと思っています。こっちの方が資料の準備は大変ですが、輪読より役に立つと思っています。毎月第3水曜日の夜7時(5月のみ第1水曜日)Zoomでやりますので、興味のある方、お知らせください。
教会の休館日が火曜日で、自然的にその日が自分の休日となります。しかし、その火曜日に、神学校で一科目を聴講しに行かなければなりません。
となると、自分には安息日がないということになるようです。しかし、そもそも安息日は、一切の仕事を止めて、神様を礼拝することが目的です。神学校での聴講は、私には自分の霊的成長につながって、それは神様への礼拝ですので、安息日であることには変わらないと思います。
神学院に通ってた時に、朝の礼拝を終え、ほぼ毎日三十分のジョギングをしていました。しかし卒業したら、運動がピッタと止まりました。昨日約2年半ぶりにジョギングを再開し、毎日しないつもりですが、健康維持に努めたいと思います。
神から与えられたこの体の健康維持もまた、神を礼拝するのです。
教会では事務作業が多く、聖職者は忙しいように見られます。ここに着任する前の教会の牧師に言われたのが、聖職者は忙しいように見られてはならない、それだと信徒さんは誰も話がしに来ないというアドバイスでした。なるほど、確かに本来の仕事は、信徒さんの霊的成長です、信徒さんと話をしないと成り立ちません。
今日あたりから、やっと仕事にも慣れ、心の余裕が出ました。これから信徒さんのために努めます。
今日はエイプリルフールですが、冗談ではありません。
今まであまり自分の宗派とか、教会の話をしませんでした。それほど重要ではないと思ったから、もちろん今もそう思っています。重要なことは、神の僕、主イエスの弟子として、その使命を果たすことだと思っています。
本日から日本聖公会東京教区への転籍に認められ、祐天寺にある聖パウロ教会の牧師補として、務めさせていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://www.nskk.org/tokyo/church/paul/
アメリカのトランプ大統領が就任の翌日に、恒例である首都ワシントンにある大聖堂の礼拝に出席しました。その礼拝の説教の中で、マリアン主教が、不法移民を取り締まる法令に署名したトランプ大統領に対して、憐れみを求めました。この“憐れみ”について、メディアの報道では“慈悲”、日本聖公会では“慈愛”という言葉に訳していますが、今までの聖書では“憐れみ”と表現してますので、ここで“憐れみ”を使わせていただきます。
一般の人から見ると、大統領として、国を治めるのに、不法移民を取り締まるのは、ごく当然のことです。その大統領に対して、不法移民に憐れむように求めるのは、あまりにも筋違いではないでしょうか。そのため、マリアン主教は多くの批判を浴びたようです。
イエスの時にもこれに似たような局面はありました。イエスはいわゆる律法を守らない人たちを受け入れて、一緒にご飯を食べて、この人たちがイエスの話を聞こうとして、イエスに近寄って来ました。ファリサイ派の人々や律法学者たちがそれを見て、イエスに不満を言いだしました。それに対するイエスの返答として、今日のルカによる福音書にあるたとえを話されました。(1-3)イエスはこのたとえを通して何を話されたかったのでしょうか、それが分かれば、マリアン主教の思いも分かるのではないかと思います。
ではまず、このたとえを見て行きましょう。
ある人に二人の息子がいて、ある日、弟の方が将来相続する予定の財産を今くださいと父親に言いました。本来なら、父親がいなくなったときにしからえないはずの財産を、今すぐ寄こせと求めました。この理不尽極まりない要求に対して、父親はそれでも応じました。財産をもらった弟は、全部をお金に換えて、旅に出て、放蕩の生活を送ったあげく、お金を使い果たしてしまいました。食べることに困った彼は、ある人のところに身を寄せて、その人の畑で豚の世話をして、お腹を満たすために豚の飼料を食べたいとさえ思うほどに陥てしまいました。
このとき、この弟は正気に戻って、ようやく罪の意識をしました。それで、ちゃんと父親に謝って、雇い人にしてもらおうと父親のところに戻りました。意外なことに、父親の元に戻ってきた彼は、父親に迎えられて、最上である肥えた子牛を屠って、祝宴を始めました。
ところが、もう一人の息子の兄がこのことを知って、非常に怒りました。この兄は父親に背いたことなく、一生懸命仕えてきたのに、宴会のために小山羊の一匹もくれませんでした。それに対して、弟は父親の財産を食いつぶして、好き勝手な生活をして、今帰ってきたら、肥えた子牛を屠って祝宴をするとは、あまりにも父親が不公平だと思うでしょうし、本来自業自得のはずの弟が、今はまったく何事もなかったかのようで、その兄の怒りに同感できる部分は多々あるかと思います。
同様に、不法移民はそもそも法律に違反して入国していますので、その法律に違反している人たちには同情の余地がないというのが、一般の人の考えです。
この弟に対して、本来一番怒るべき人は、ほかならぬ、その父親なのです。にもかかわらず、自ら息子のところまで走り寄って首を抱き、接吻しました。それだけではなくて、息子に良い服を着させて、指輪をはめさせて、履物を履かせて、ちゃんと息子として受け入れて、愛情を注ぎました。
この父親がこんなにも親不孝な息子を許すことができたのは、いなくなった息子を見つけて、憐れに思ったからです。実際、イエスが語られたこのたとえの父親とは、まさに神のことを指していたのです。神は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい方です。(詩103:8)
イエスは実にファリサイ派の人々や律法学者たちに「あなたたちが、まさにあの憐れみのない兄だ」と指摘したかったのです。彼らは神の律法を忠実に守って、本来は神に一番近い存在のはずです。しかし、律法の真意を理解せず、全く神のみ心を分かりませんでした。
それでもイエスは、あえて父親になだめられた兄からの反応を述べていませんでした。それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスに耳を傾けようとしいる人たちのことを喜んで、受け入れるように呼びかけたからです。しかし、残念ながら、彼らは心が固いまま、そうしなかったようです。
わたしたちはかつて神を知らずに、神のみ旨に従うのではなくて、自分の好き勝手に生きてきました、それはまるで世界の中で放蕩していたようなものでした。しかし、今日のコリントの信徒への手紙は、神がわたしたちの過去の行いに責任を問うことなく、和解してくださると教えてくれました。ここで皆さんに注意していただきたいのは、わたしたちが神との和解を求めるのではなくて、神が自らわたしたちと和解してくださるのです。それは主イエスがわたしたちに代わって、すべての過ちを背負って、十字架の上で死んでくださったからです。
わたしたちは神の和解を受け入れて、その独り子主イエスを信じて、天におられる父の元に戻ったあの日、あのとき、神は大喜んで、祝宴を開いたに違いありません。パウロは手紙の中で、キリスト者はまさに生まれ変わった者だと述べています。そのため、わたしたちは、一般の人たちの見方、考え方と違ってしかるべきです。一般の人たちは、同情に値しない、受け入れるべきではない、そういった人たちに対しても、わたしたちキリスト者として、神のように憐れみを示して、受け入れるべきです。
去年の11月に、わたしと同じ信仰と生活委員会の下にある共育プロジェクトのメンバーに招かれて、彼の所属している聖オルバン教会の難民支援の活動について知る機会がありました。それがきっかけで、日本にいる難民のことについて、少し理解が深まりました。
彼らは戦争や、政治などの事情で、自分の国から逃れて、日本に来ました。しかし、そのまま不法滞在となって、収容所に入れられて、今仮放免をされています。その多くは難民申請をして、審査の結果を待っているのが現状です。しかしその間、働くことが禁じられて、それで、住む場所も食べる物もかなり難しい状況に陥ています。
一部の人から見ると、彼らはそもそも日本の法律において不法滞在者で、同情に値しない、支援すべきではないと思われています。しかし、こういった人たちに対して、聖オルバン教会は、服、食べ物、日常生活用品などの支援物質を配って、礼拝に参加できるように、交通費を支給して、普段困っていることにも相談に乗ります。これこそまさに、キリスト者があるべき憐れみの表れなのではないかと思います。
世の中には、難民支援を含む社会奉仕活動を行っている非政府組織、いわゆるNGOはたくさんあります。しかし、教会がこれらの活動に携わることには、大きな意義があるのです。他のところと違って、教会だけがなすことのできる唯一の働きは、人々が救われるように助けることです。そのため、伝道活動と社会奉仕活動のこの両者のバランスが非常に大切で、もっと言いますと、教会はこれら二つの活動を一つとして捉える必要があるとわたしは思います。
人が生活していく上で、欠かせないものを満たしてあげるだけではなくて、その魂の救い、すなわち、神の和解を受け入れさせるようにすることを含めると、教会にしか成し得ないことなのです。
わたしたちは、聖オルバン教会のようにはできないのかもしれません。しかし、その活動に協力することもまた、神から与えられた使命を果たすための努力ではないのでしょうか。
今日のみ言葉を通して、神がどれほど憐れみ深い方であることをあたらめて思い知らされました。マリアン主教が憐れみを求めたのは、アメリカ合衆国の大統領というよりかは、キリスト者であるドナルド・トランプに対してのメッセージだとわたしはそう思います。神が憐れみ深いように、キリスト者も憐れみ深い者にならなければなりません。不法移民であろうが、不法滞在者であろうが、難民であろうが、他の宗教の信者であろうが、神から見れば、すべて自分にかたどって創造されたかわいい子どもです。その人たちに憐れみを示して、受け入れて、また、神が喜ばれるように、その元に返して差し上げることがわたしたちの務めです。
この大斎節の間、ぜひ皆さんがよく黙想して、神の愛、神の憐れみについて、もっと深く知ることができますように、また、皆さん一人ひとりが憐れみ深い者になりますように、心からお祈り申し上げます。アーメン
教会で今後に向けての話し合いがありました。私から二つの教会をきれいにするとの提案をしました。まず一つ目の教会は、いわゆる建物としての教会、きれいにすることは、別にリノベーションなどではなく、信徒以外の方から見て、ごみのない状態などで、また信徒にとってはキッチンなど、使いやすい環境であることです。二つ目の教会は、キリストの体である私たち自身としての教会、他人から見て、清潔感があり、また、私自身の内面において、信仰深く、神様のように愛や憐れみに満ちることです。
この二つの教会をいかにきれいにすることが大事です。
見えないものになかなか信じることは難しいです。私たちは風の存在を信じるのは、感じるからです。
しかし、神様は見えないし、感じもしない、どうした信じることはできますか?まずは、信じることです。それによって、感じるようになるし、見えるようになります。
昨日ある信徒の懇談会に出て、そこで信徒の方々がいろいろな提案をしました。教会では牧師が一番偉いというのが常識です。しかし、わたしはもっと信徒の声を大事にして、その声を実現できるように、牧師なり、聖職者なりが神の御心なのかを見極めて、それを助けることの方が大切だと思います。
教会では、信徒の数は圧倒的に聖職者よりも多く、信徒の持ってる知識や能力は聖職者よりも優れているのです。信徒がなりないのは、その考え方は神学的に正しいかどうかだけで、それを補うために、聖職が必要です。もちろん、時には、聖職者が自ら提案して、信徒の協力を得て、一緒に教会のため、宣教のために働かなければなりません。
聖職者と信徒は協力し合う立場で、だれが偉いということはありません。神様が一番偉いからです。
神学院で神学を勉強しますが、それはどういう勉強でしょうか?神様について勉強をするのでしょうか?実は、神様について勉強できないのです。なぜかと言いますと、神は霊だから、研究しようがないので、勉強できないのです。
神学院で勉強するのは神の御言葉です。なので、私たちは勝手に自分の神様を作るのではなく、神の御言葉から神のことを理解するのです。
私たちは良い行いによって救われたのではなく、救われたから、良い行いをすることです。それと同様に、献金をしたから、祝福を受けるのではなく、すでに神の祝福を受けたので、神様に献げるのです。
これ理論はなかなか理解が難しいでしょう。これが神様の偉大さ、素晴らしいところです。
私の国籍はマレーシアです。以前、この国籍を絶対に変えたくありませんでした。しかし、考えが変わりました、だからといって、別に今のところ国籍を変える予定はありません。私はこの国籍がそんなに重要ではないと思ったからです。それより、もう一つの国籍、天国にある国籍の方がよっぽど大事です。
地上のことをこだわるより、天国のことを大切にするのが今の自分です。
昨日は、聖書や主イエスの教えを基本的に非キリスト教信者には適用しないと話しました。この世の中に愛や慈しみをあふれさせるには、無理矢理人に強いることではなく、主イエスを信じさせ、神の助けによって成し遂げることです。
そのため、宣教は非常に大事です。
主イエス、または聖書の教えについて、その多く(すべてと言ってもいいほど)は、キリスト者にしか適用できないと思います。一番多く語られる愛だとか、慈悲だとか、すべて神様の力に頼って初めて理解できることです。
分かりやすい例をいいますと、敵を愛することで、これは神の助けをなくしてとても成し遂げることはできません。しかし、信仰のない人は神の助けはなく、そういう人たちに敵を愛することを求めるのはとてもナンセンスです。
キリスト者は神様の助けができるように、日々神様との関係を育むことが大切です。
モーセの十戒や八福の教えなど、これらの聖書箇所の説教について、私が今まで聞いていたのはほとんどその一つ一つの説明でした。そのため、説教の時間も長く、全部覚えられません。
一つ一つ説明するのは、私は説教ではなく、聖書の学びでやるべきだと思います。説教と聖書の学びを混同してしまうケースが結構多いです。
モーセの十戒と八福の教えであれば、十、八ではなく、一にすべきです。すなわち、神が十戒を与える理由、主イエスが八福の教えの真意は何なのか、一つ一つの説明よりも大切だと思います。
大斎節の間、主日以外、1食を減らして、肉魚を口にしないようにしています。今日スーパーで弁当を買いに行って、焼きうどんにしましたが、中に肉2枚ほどありました。
結果的に、おいしくいただきました。もしそれを食べなければ、自分は単なる律法主義で、肉魚を食べないことも一種の宗教行為になってしまうでしょう。
キリスト者には自由があります、食べても食べなくても自由です。
聖書と神学、よく混乱します。聖書は神のみ言葉、ずっと変わりません。一方の神学は、いわば聖書の解釈です。これは人によって、時代によって、研究によって、変わることもあります。
ですから、私がここで述べていることも私の神学に基づきますので、ぜひうのみにせず、よく聖書を読んでください。
いつからか、なるべく自分の考えを持たないようにしています。考えのない人ではなく、常に聖書は何と言っているのか、神様の考えは何でしょうかをまず考えることです。
人間の勝手な考えは、神の御旨であるとは限りません。となりますと、結局より神様のことを知らなければ、神様の御旨がわかりません。
映画館の看板を掲げる建物に入って、実際映画の放映がなければ、映画館を言えるのでしょうか?教会も教会と書いてあるのに、もしかして教会と言えないものもあります。となると、教会は何をもって教会と言えるのでしょうか?礼拝だけを行う場所であれば、それは教会というより、礼拝堂と言った方が適切なのかもしれません。
やはり教会はちゃんと教会としての使命、役割があるはずです。もちろん、社会や地域のため教会が行動に出ることも大切です、ただ、福音を宣べ伝えることは教会だけがなすことのできる唯一の働きであることも忘れてはなりません。
今日祐天寺にある聖パウロ教会のランチタイムコンサートに行ってきました。パイプオルガンによる演奏をちゃんと聞いたのは、初めてかもしれません。毎月第1金曜日の13:20から約三十分、無料でどなたでも参加できます。
何がいいかと言いますと、教会でやっているということです。教会は礼拝するところだけではなく、地域のためにあるものだと私は考えています。このパイプオルガンの音色が聞きに来たすべての人に憩いが与えられるように祈ります。
今日は灰の水曜日と言って、今日から、日曜日を除いて40日間の大斎節に入ります。主イエスが自分の奉仕を始めるにあたって、荒野で40日間を過ごしていました。キリスト者にとって、この大斎節はまさに主イエスに見習い、自分を見つめ直す期間、より神とともにいることに集中する期間など、大切な日々でもあります。
一般にこの期間において、1食を減らすなどをしますが、これは決して一種の宗教行為にならないで、あくまで上記に書いてある目的のために、自分の欲望を抑える、鍛える手段です。食事制限は目的ではなく、手段です、このことが重要です。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これはパウロがテサロニケの信徒への手紙の中の1節です。最初と最後のものに関しては分かりますが、しかし、絶えず祈ることはほぼ不可能ですね。
射祷という祈りがあり、いわゆる矢を射るような短い言葉を繰り返す祈りで、これを呼吸に合わせ、日々やって、訓練すれば、そのうちに無意識で、呼吸をしていると、祈りをしているとことになります。
そんなみ言葉でも良いのですが、いくつかを紹介します。
主よ、来てください
主イエス・キリストよ、我を憐れみ給え
主よ、速やかに私たちをお救いください
素晴らしい言葉を目にしましたので、分かち合いたいと思います。
祈りとは私たちの内での神の働きである。
これはどういうことがと言いますと、キリストが私たちの心の内にいます。聖霊を通して、父に向かって、あなたの愛するみ゙子はここにいると祈ることになるのです。
なんて素晴らしいこと、祈らずにはいられなくなりました。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。」これは主イエスの言われた話ですが、しかし、多くの人にとって、自分が求めたのに、全然与えられてないじゃないかと文句を言うでしょう。実は新約聖書の本来のギリシャ語の文法では、継続型となっています。つまり、本来の意味は、求め続けなさいなのです。
根気よく求め続けてみてはいかがでしょう。
神は三位一体であることは、なかなか理解しづらいです。完璧に説明し尽くせるわけではありませんが、私はよくこれを太陽に例えします。太陽は一つで、光は地上に照らし、これはまたも同じ太陽からで、そして太陽の熱量も同じ太陽からです。太陽、光、熱量、これはまさに父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様に近いです。
よく祈りとは、神様に何かを求める、お願いするとの認識はほとんどです。しかし、求めるだけではなく、神様への賛美、懺悔、感謝も祈りなのです。何もかも神様に求めるだけではなく、神様への賛美、懺悔、感謝もしましょう。
休息と沈黙のリトリートにスタッフとして参加し、主に厨房での仕事でしたので、あまり休息できなくて、沈黙もできませんでした。
しかし、そんな中で、参加者を仕える喜びを味わいました。おいしい料理を提供し、参加者一人一人が神様に近づけるようになることも、また私たちの役割です。
昨日から二泊三日のリトリートに参加しています。休息と沈黙のリトリートといって、スタッフとしての参加です。料理の支度の手伝いいや皿洗いなど、自分はあまり休息になってないし、沈黙もあまりできませんが、参加者たちへのもてなしそのものが、神様への奉仕です。
休息と沈黙なら、別に家でもできますが、ここは元修道院で、かつてシスターたちが毎日祈りを献げてた場所でしたので、霊的な力が満ちていると思います。
リトリートは先生曰く、エデンの園に戻るというイメージで、リトリートを通じて、神様と2人きりであることを彷彿させます。
神様にもっと近づけるように祈ります。
聖書日課:創世記45:3-11,21-28
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:35-38,42-50
ルカによる福音書6:27-38
主イエスの教えの中で、わたしは一番難しいと感じたのは、敵を愛することです。敵とは、いわゆる傷つけられて、苦しめられて、それによって恨みのある相手のことです。幸いなことに、わたしには敵と言えるほどの人は特に頭に浮かべません。しかし、もし自分にそういう人が現れたら、その人を愛することができるのかと言われると、おそらく無理だと思います。
わたしがこう言いますと、皆さんは少しほっとするでしょう。確かに、わたしたちはキリスト者として、常に神のみ旨、主イエスの教えに従って生きて行こうと志しています。しかし、自分の敵を愛することは、決して簡単なことではありません。とはいえ、これは確かに主イエスの教えです、教えというより、しなさいという命令なのです。キリスト者として、わたしたちはどうしたら、自分の敵を愛することができるのでしょうか?
今日のルカによる福音書は、有名なイエスの説教の一部分に当たります。この説教の中で、イエスは敵を愛しなさいと言われました。あの当時、大勢の弟子とおびただしい民衆は集まっていましたが、イエスは弟子たちを見て言われたと書いてありますので、この説教の内容はどっちかというと、一般の人ではなくて、キリスト者、つまりわたしたちに向けた話です。
では、このイエスの説教について詳しく見ていきましょう。
人は生まれながらに善良なものでしょうか、邪悪なものでしょうか?このいわゆる性善、性悪説に対して、いったい聖書は何と言っているのでしょうか?神はお造りになったすべてのものをご覧になって、極めて良かったと言われました。(創1:31)そのため、人は本来善良のはずなのです。しかし、人の祖先であるアダムの不従順によって、人は生まれながらに罪人になりました。罪人であるがゆえに、わたしたちの中に、怒り、妬み、恨みなどといったネガティブな感情が自然に表れてきます。
そのため、わたしたちを傷つけた人、苦しめた人、すなわちわたしたちの敵に対して、呪い、仕返し、復讐といった行動に出るのが容易に理解できます。それに対して、イエスは敵を愛し、わたしたちを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、わたしたちを侮辱する者のために祈りなさい。わたしたちの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならないと命じられました。
人を愛することは、そんなに難しいことではないはずです。わたしたちは自分の夫または妻を愛して、子どもを愛して、親、兄弟、友達を愛します、つまり、人を愛することはできるのです。しかし、そういう人たちもわたしたちを愛してくれるので、イエスが言われたように、自分を愛してくれる人を愛するなら、何の誇りもなく、誰だってできます。敵を愛するとなると、話は別です。わたしたちが愛している人と同じように、愛することはとてもできません。
このイエスの命じられたことに対して、わたしたちが一番よく使う手口は、神が憐れみ深いことをいいことに、きっと許してくださるはずだと勝手に思い込んでしまうことではないかと思います。しかし、本当にそうでしょうか?
イエスは神は恩を知らない者に対しても、悪人に対しても、実に情け深いいと高き方であると言われました、イエスご自身もまた同じです。イエスが十字架につけられたときに、「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです。」と話されました。(23:34)イエスを憎む者、悪口を言う者、侮辱する者、イエスの頬を打った者、鞭した者、服を奪った者、そんな敵である者たちを含めて、イエスは赦すように父なる神に願っておられました。
わたしたちキリスト者は、いと高き方、神の子どもです。そのため、わたしたちの父が憐れみ深いように、神の独り子主イエスが憐れみ深いように、神の子どもであるわたしたちも憐れみ深い者になるはずです。敵を愛し、自分によくしてくれない人に善いことをし、返してもらうことを当てにしないで人に貸すことは、決して神の子どもとなるための条件ではなくて、神の子どもであることの自然な現れのはずです。
神の子どもであれば、人にしてもらいたいと思うことを、人にもして、そして、人を裁かない、罪人だと決めつけない、人を赦し、人に与えます。そうすれば、神から裁かれることなく、罪人だと決められることなく、赦され、与えられます。
主イエスの十字架の死によって、すべての人々の罪を贖い、イエスを信じた、受け入れたわたしたちはもう罪人ではありません。その上、聖霊がわたしたちの内に宿られたことによって、本来であれば、わたしたちには神の性質、いわゆる愛や、憐れみなどといったポジティブな感情が、もともとあったネガティブな感情を覆いかぶさるはずです。しかし現実では、多くの人はそうなっていないようです。
それは、わたしたちの信仰はまだ成長していないことの表れだと思います。今日の使徒書からも、コリント教会の信徒たちの信仰が成長していないことがよく分かります。彼らは信仰の核心である将来の復活に疑問を抱き、パウロから非難をされました。信仰が成長すれば、復活を信じるだけではなくて、まさに使徒パウロが言っている「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる。」(ガラ2:20)そういう状態になります。主イエスご自身が敵を愛しておられることから、主イエスがわたしたちの内に生きておられるのであれば、わたしたちも敵を愛することができるのです。
今日の旧約聖書に書かれたヨセフの出来事ですが、ヨセフは兄たちのせいでエジプトに売られました、しかし、そんな兄たちに対して、ヨセフは悔やんだり、責め合ったりする必要はないと話し、兄たちを許しました。かつて、ヨセフは父ヤコブから晴れ着をもらいました、しかし、それが災いに転じて、兄たちに妬(ねた)まれて、迫害に遭いました。今度は、ヨセフが兄たち全員に晴れ着を与えました。ヨセフが兄たちを仕返すことなく、復讐することなく、彼らを受け入れて、愛しました。
そのヨセフの一連の出来事について、聖書では何度も神がヨセフと共におられたと書かれています。それはどういうことでしょうか?神が常にわたしたちと共におられるはずです。ヨセフは自分がエジプトに売られたのは、実に飢饉から多くの民の命を救うために、神が彼をお遣わしになったのだと悟ったのです、それはまさに神が自分と共におられることの自覚です。そう自覚したからこそ、自分を傷づけた兄たちを愛することができたのです。
わたしたちは洗礼、また堅信の時に、何と誓ったのかを皆さんは覚えていますか?主教あるいは司祭が「あなたは生涯キリストの模範にならい、神を愛しまた隣り人を愛しますか?」に対して、わたしたちは何と答えたのでしょうか?「できます」でもなくて、「できません」でもなくて、「神の助けによって努めます」と答えたはずです。神の助けをなくして、わたしたち人ができることは何一つありません。
その神の助けとは、神がわたしたちの中に生きておられることの自覚であり、神がわたしたちと共におられることの自覚です、それによって信仰が成長します。では、どうしたらそう自覚できますか?わたしは神との交わりは不可欠だと考えています。そして、主日の礼拝はまさに神との交わりの最も効果ある方法だと思います。
わたしたちは神を賛美します。神は聖書朗読、説教を通じてそのみ言葉を届けられて、それに対してわたしたちは信仰告白をします。そして、わたしたちは神に懺悔します。神はわたしたちを赦し、平和を賜ります。わたしたちは信施を献げます。神はその独り子の体と血をわたしたちに与えられ、そして祝福してくださいます。この行ったり来たりの交わりは何とも素晴らしい交わりでしょう。しかし、週一回の交わりだけでは不十分です、日課、祈りなどを日々神との交わりが欠かせません。
主イエスのこの説教は、弟子たちだけに向けられたもので、それは、キリスト者だからこそ神の助けによって努めることができるからです。敵を愛しなさいという主イエスのこの命令に対して、わたしにはできません。しかし、神の助けによって努めれば、わたしは絶対にできる自信があります。
パウロはフィリピ―の信徒への手紙にこう書きました。“わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。”(フィリ4:13)わたしたちキリスト者は、神の助けによって努めれば、必ず神を愛して、兄弟姉妹を愛して、隣り人を愛して、そして、敵を愛することができます。
今現在も続く礼拝を通じて、神との大切なこの交わりの時間をぜひとも楽しんで、それから神と共におられることを自覚できるように、心からお祈り申し上げます。アーメン