2025年5月18日日曜日

説教《神に栄光をもたらそう》

日課:ヨハネによる福音書13:31-35 


教会勤務する傍ら、神学院でいくつかの科目の聴講するように要求されました、その一つに宣教についての学びです。日本における宣教を、しっかり勉強しなさいという主教の思いだと受け止めています。とある宣教の資料によると、日本人はできる限り、神と関わらない方が平穏な生活だと理解しているようです。神に頼らないといけないのは、困ったときや、何か願いのあるときだけということだそうです。しかし一方、神と大いに関わるべきだというのがキリストの信仰です。これが宣教の妨げとなって、日本にキリスト者が少ない理由の一つなのかもしれません。


聖書によると、神はご自身の栄光のために人を創造されました。(イザ43:7)そのため、創造主である神と大いに関わって、神に栄光をもたらすことが、本来、私たちの人生の目的なのです。実際、主イエスの一生涯は、すべて神の栄光のためでした。しかし、私たちの多くは、どう神に栄光をもたらしたら良いのか分からないと思います。今日の福音書から、それを知ることができるでしょう。


今日のヨハネによる福音書は、イエスは弟子たちの足を洗って、共に最後の晩餐の席で、自分を裏切ろうとしている弟子のユダに「あなたがやろうとしていることを、今すぐやった方がよい」と言うところから始まります。(13:27)ユダが出て行った後、イエスは何を語られたのかを一緒に見ていきましょう。


神に栄光をもたらそうと願えば願うほど、困難に突き当たるでしょう。イエスは実際、それで命を落とされました。およそ三年間行動を共にしていた弟子に裏切られて、十字架の上で死なれました。


日本では少数人口である私たちキリスト者にとって、宣教は決して簡単なことではありません。迫害はないものの、キリスト者というだけで、変な目で見られることもあろうかと思います。信徒獲得のため、ときに手段を択ばない宗教もあります。それがかえって、人々を宗教から遠ざける原因となって、キリスト教にも影響を及ぼしてしまいます。この日本という大変固い土壌で、宣教の種を育てるには、どうしたら良いのでしょう?どう神に栄光をもたらすことができるのでしょう?


ユダが出て行った後、イエスはユダによる裏切りが確実なものだと確信されたとき、弟子たちに、ご自身は神から栄光を与えられて、神もそれによって栄光をお受けになったと言われました。簡単にいうと、イエスの十字架上の死によって、神は栄光をお受けになったということです。


どうしてイエスの死は神に栄光をもたらされたのか?それは、神はあらかじめイエスの死を定めておられて、イエスの死は神ご自身の人間に対する救いの計画だからです。イエスが死ななければならなかったのは、人間の罪を償い、神ご自身との和解を成し遂げられるためです。神がその独り子を惜しまずにお与えになったほどに、ご自身の創造されたこの世界を愛されたからです。(3:16)この愛によって、その独り子が死なれました、しかし、その独り子の死によって、神が栄光をお受けになりました。


私たちはどのようにしたら、神に栄光をもたらすことができるのでしょうか?主イエスは弟子たちに新しい戒めを与えられました、互いに愛し合いなさいという戒めです。これは当時の弟子たちだけに与えられたものではなくて、キリスト者である私たちすべての人に与えられた戒めでもあるのです。互いに愛し合うことで、神に栄光をもたらされるのです。互いに愛し合うことで、神が再び栄光をお受けになるのです。


人を愛する戒めは、ずっと以前からありました、「隣人を自分のように愛しなさい。」という戒めです。(レビ19:18)主イエスのこの新しい戒めが新しいのは、自分を愛するようにではなくて、主イエスが弟子たちを愛したように、人を愛するからです。しかも、一方的ではなくて、互いに愛し合うことです。それによって、私たちが主イエスの弟子であることを世間は知るようになると言われました。すなわち、互いに愛し合うことが私たちキリスト者のシンボルです。十字架を身につけるのではなくて、互いに愛し合うことで、私たちがキリスト者であることを世に知らしめるのです。


これは宣教において、非常に重要なポイントだと思います。私たちはしばしば、キリスト者として、積極的に人に福音を宣べ伝えて、主イエスの証しをしなければならないと思って、そして、宣教活動を積極的に行わなければ、信徒は増えないと考えているようです。しかし、それがすべてでしょうか?


主イエスが天に昇られた後、弟子たちはその戒めを忠実に守って、みんなが助け合って、そして、よく集まって、ひたすら心を一つにして礼拝を行いました。聖書によると、主イエスは救われる人々を日々仲間に加えてくださったそうです。(使2:44-47)主イエス自らが与えられた戒めで、ご自身は必ず祝福してくださいます。私たちも互いに愛し合うならば、この愛の共同体に入りたい、私たちの仲間になりたいという人たちは必ずいます。主イエスは必ず教会を成長させて、信徒の数を増やしてくださいます。これこそ、まことの宣教です。これこそ、神に栄光をもたらす道です。


主イエスの愛は、自己犠牲的かつ謙遜な愛です。私たちはどのように互いに愛し合えば良いのか、少し戸惑うのかもしれません。主イエスは実際、弟子たちをどのように愛されたのかを示してくださいました。それは、弟子たちの足を洗われたことです。


ヨハネによる福音書には、聖餐に関する記述はありません。しかし、他の福音書にはない聖餐のときに、主イエスが弟子たちの足を洗われる出来事が記録されています。使徒ヨハネにとって、聖餐と洗足は、実に深く関連していて、おそらく主イエスのこの行動から、聖餐のより深い意味を見い出したようです。それは、聖餐は単なる形式にとどまるのではなくて、愛に伴う行動に移さなければ意味がないということです。主イエスは弟子たちの足を洗われたことで、愛を示されたのです。そして、弟子たちに互いに足を洗い合うように告げられました。(13:14)


私は聖パウロ教会でこの愛を実際に目にしました、皆さんも見たのでしょうか?教会をきれいに掃除してくれている人々がいます。礼拝での演奏のために練習に励んでいる人々がいます。丁寧に花を飾ってくれている人々がいます。祭壇の準備、後片付けを黙々とやってくれている人々がいます。早々今日の聖書朗読を決めて、事前に練習した人々がいます。うどんを用意してくれている人々がいます。いろんな活動を計画してくれている人々がいます。これらは、皆さんに与えられた義務では全くありません。ここに来られる人たちがより良い礼拝ができるように、より良い教会になるように、皆さん自らが献げて、喜びの中で行われる奉仕です。これは、教会の兄弟姉妹に対する愛そのものです。この愛がなければ、礼拝は単なる形式にとどまって、教会も単なる建物にすぎません。皆さんは、まさに兄弟姉妹一人一人の足を洗っているのです。


コロナ禍後、教会に戻って来る信徒さんは少なくなりました。それは、教会での礼拝が休止していたからではなくて、礼拝の休止によって、人が集まれなくて、奉仕ができなくて、互いに愛し合う機会が減ってしまったことが根本な原因だと私は思います。


私たちは本当によくやっていると思います。しかし、もっとできるはずです、もっとできると信じています。今度は教会に来られない、礼拝に参加できない兄弟姉妹に対しても、この愛の行動に出る必要があります。まだ、足を洗ってくれるのを待っている孤独で、高齢で、病床にいる兄弟姉妹が大勢います。再び神が栄光をお受けになるために、行動に出ましょう、互いに愛し合いましょう。


主イエスの死によって、私たちの罪は赦されました。主イエスの死によって、神が栄光をお受けになりました。主イエスは、互いに愛し合いなさいという新しい戒めを私たちに与えられました。互いに愛し合うことで、再び神が栄光をお受けになります。


来年創立150周年を迎える聖パウロ教会は、互いに愛し合うという宣教の原点に立ち返って、そして、それに向かわなければなりません。私たち一人一人が互いに愛し合うことを心から願っています、そして、祈っています。ぜひ私たちは心を一つにして、聖パウロ教会を愛に満ち溢れる教会にしていきましょう、聖パウロ教会を神に栄光をもたらす教会にしていきましょう。

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