日課:マタイによる福音書24:37-44
ローマの信徒への手紙13:8-14
皆さんは、「茹でガエル」という話を聞いたことはありますか?生きたカエルをいきなり熱湯に放り込まれれば、カエルは熱さに驚いて、すぐに飛び出して逃げます。しかし、常温の水に入れたまま、ゆっくり温度を上げていくと、カエルはその変化に気づかず、そのまま茹でられてしまうそうです。
この話は、私たち人間の姿をよく映し出しているのではないかと思います。私たちは日々、この世の中に身を置き、生活を楽しみながら生きています。それはまるで、少しずつ温度が上がっていく水の中にいるようなものです。もし、そのままにいれば、やがて茹でガエルになってしまうでしょう。
今日は降臨節第一主日で、教会暦の新しい一年が始まる日です。私たちは、この一年の最初の礼拝を、共に迎えています。降臨節とは、二千年前に主イエスがこの世に来られた出来事を、心に刻みつつ、約束された再びの来臨を思い起こし、その日を待ち望む準備をする期間でもあります。
しかし、なぜ準備をする必要があるのでしょうか?それは、“茹でガエル”にならないためです。私たちは何を、どのように準備すべきなのでしょうか?その答えを、今日の福音書のみ言葉から、共に受け取り、心に留めていきたいと思います。
主イエスは、ご自身の再臨について語られるとき、ノアの時代の洪水の出来事を引き合いに出されました。あの時、人々は日々の生活を楽しみ、全く危機感を持っていませんでした。しかしある日、突然雨が降り始め、みるみるうちに水かさが増して大洪水となりました。箱舟に入った者以外は、誰ひとりとして逃れることができませんでした。気づいたときには、すでに手遅れだったのです。
主イエスは、その再臨の日が、特別な前触れのある日ではないことだと教えられました。男は畑で働き、女は臼を挽く、それは主イエスの時代にありふれた、何の変哲もない日常の光景です。このごく平凡な一日の中に、思いがけず主イエスが来られるのです。
では、主イエスが来られるとき、何が起こるのでしょうか?聖書はこう語っています。まず、すでに亡くなったキリスト者たちが復活し、続いて、地上に生きているキリスト者たちと共に、雲に包まれて引き上げられ、空中で主イエスと出会うのです。(テサⅠ4:16-17)
しかし主イエスは、もう一つの厳粛な事実も示されました。畑に二人がいれば、一人は主のもとに引き上げられ、もう一人は残されます。臼を挽く二人の女のうち、一人は主のもとに引き上げられ、もう一人はその場に留まります。それはまるで、箱舟に入った者と、洪水に直面した者との違いを思い起こさせる光景でもあります。
なぜ、このような違いが生じるのでしょうか?聖書の解釈には二つの見方があります。一つは、二人のうち片方がキリスト者で、もう一人は主を信じていない者であるという理解です。もう一つは、二人ともキリスト者でありますが、そのうち一人は目を覚ましたキリスト者で、もう一人は名前だけの自称“キリスト者”であるという理解です。
私たちは前者であってほしいと願うかもしれません。しかし、どちらの解釈が正しいかを考えるより、それ以上に大切なのは、私たち自身が「目を覚まして主を待ち望む者」として、日々を生きることです。そのように生きるなら、私たちは確かに主のもとに迎え入れられるのです。
ノアは、百年近くという長い年月をかけて、箱舟を造り続けました。人々が食べたり飲んだりしている間も、ノアは箱舟を造っていました。人々がめとったり嫁いだりしている間も、ノアは箱舟をを造っていました。ノアはなぜそこまでして、箱舟を造ったのでしょうか?それは、神が洪水の到来を告げ、その準備として箱舟を造るよう命じられたからです。
もしノアが、神を信じず、神の言葉を真剣に受け止めていなかったなら、箱舟を造ろうとはしなかったでしょう。ノアは、洪水が必ず来ると確信し、与えられた使命に従い続けました。まさに信仰のゆえに、ノア自身と家族だけでなく、人類が生き延びることができたのです。
「夜のうちに泥棒が入ると分かっていたら、目を覚ましているだろう」——主イエスのこのたとえは、まさに的を射ています。私たちも、主イエスの再臨を確かに信じているなら、必ず目を覚まし、主イエスを迎える準備をするはずです。
しかし、目を覚まし続けることは、本当に簡単なことでしょうか?あれほど多くのことを直接受け取った弟子たちは、果たして目を覚ましていたのでしょうか?私たちは、思わずこう問わざるを得ません。
ゲツセマネで、主イエスは十字架を目前にし、弟子たちに言われました。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」しかし、祈りから戻ってこられた主イエスが目にしたのは、眠り込んでいる弟子たちの姿でした。主イエスは言われます。「このように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。」主イエスが再び祈りに戻られた時も、弟子たちはまた眠っていました。そして、三度目も同じ光景が繰り返されました。(26:36-46)
つまり、現実として、弟子たちは目を覚まし続けることができませんでした。およそ三年間、主イエスに従い、み言葉を聞き、数々の奇跡を目にしながら、それでもなお完全には目を覚ましていられなかったのです。ペトロでさえ、三度も「主イエスを知らない」と言ってしまいました。
ところが、使徒言行録を開くと、そこにはまるで別人のように変わった弟子たちの姿があります。大胆に主イエスを証しし、迫害を恐れず、命をかけて福音を語り続けています。何が彼らを、これほどまでに強く、揺るがない者へと変えたのでしょうか?
それは、主イエスの十字架と流された血、復活、そしてペンテコステの日に、天から降られ、弟子たち一人ひとりに満たされた聖霊の力です。弟子たちを変えたのは、自分たちの努力でも意志でもありませんでした。キリストの救いと聖霊の働きこそが、彼らを目覚めた者へと変えたのです。私たちもまったく同じです。だからこそ大切なのは、主イエスを信じ、聖霊の助けを求めることです。
今日の第二の朗読は、私たちにこう呼びかけています。「眠りから覚める時がすでに来ていています。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。」使徒パウロが勧めるこの「光の武具を身に着ける」とは、すなわち、その後に続く言葉が示すように、「主イエス・キリストを着る」ということです。
しかし、私たちはどのようにして、主イエスを着るのでしょうか?それは、聖書を通して主イエスを知り、礼拝や祈りの中で主イエスと交わり、奉仕をもって主イエスに仕えるという、信仰の歩みを日々重ねていくことにほかなりません。その歩みを続ける中で、主イエスは私たちを包み、守り、導き、やがて、私たちは主イエスと「切っても切れない深い関係」を築き上げていくのです。こうして、私たちはまさに「主イエスを着る者」として歩むことができるようになります。この関係こそが、私たちが眠りから、目を覚め続けるための力の源であり、日々の信仰生活を支える揺るぎない力となるのです。
兄弟姉妹の皆さん、私たちは今、この世という水の中に身を置いて生きています。どれほど努力を重ねても、自分の力だけで、そこから抜け出すことはできません。私たちを救い出すことができるのは、ただイエス・キリストお一人です。主イエスは、約束された通り、必ず再び来られます。その時、私たちをこの水の中から、確かに救いへと引き上げてくださいます。
教会暦の新しい一年の始まりであるこの日、私たちは心を新たにしたいのです。茹でガエルにならないように、主イエスを着る者として、共に目を覚まし、信仰の歩みを進めていきましょう。
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