去年3月の後半から、朝のみで10分から30分の聖書通読、ついに今日は完了しました。聖書協会共同訳聖書(続編付き)
明日からどうしようかな、英語聖書の通読をチャレンジしようかな。
聖書の御言葉から出発し、聞く人の現実を通り、キリストへ導き、最後には聞く人自身が神の前に立たされる。
1. 最初から「答え」を言わない
2. 聖書を説明するのではなく、聖書に出会わせる
3. 最後には必ず「キリスト」が見える
4. 会衆を神の前に立たせる
一般的に考える公平は、左の絵に示すものではないでしょうか。
全員に全く同じものを与えることが公平です。
しかし、神の国では、人間が考えるような公平とは異なります。
AさんとBさんがともに困っていて、Aさんにだけ助けるとしたら、不公平と思うでしょう。
しかし、そもそも、Aさんにも、Bさんにも助ける義務が全くなく、Aさんだけ助けるとしたら、それはAさんにとって恵みであって、決してBさんに対する不公平ではないです。
教会は、神の国の基準で物事を考えるべきです。
日課:マタイによる福音書 16:21-28
先週の福音書で、ペトロは信仰告白の頂点に立っていました。
「イエスこそがメシア、生ける神の子である」と告白したのです。(16:16)
しかし今週、まさにその同じ対話は、思いもよらない展開を迎えます。
ペトロは、主イエスから厳しい言葉を受けます。
「サタンよ、引き下がれ。」
一体、何が起きたのでしょうか。
この出来事は、私たちが主の道に従って歩むために、何を問いかけているのでしょうか。
ペトロは確かに真理を知っていました。
しかし、その真理のすべてが見えていたわけではなかったのです。
今日は、その「まだ見えていなかった真理」を、聖書の言葉に聞きながら、共にたどっていきたいと思います。
主イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっていることを、ここで初めて弟子たちに打ち明けられました。
「イエスこそメシア、生ける神の子である」と告白した、まさにその直後のことです。
では、なぜこのタイミングだったのでしょうか。
弟子たちは、主イエスがメシアとはどのようなお方なのか、まだ理解していなかったからです。
だからこそ、主イエスは、メシアの本当の姿を、ここで初めて明らかにされたのです。
あの信仰告白をしたペトロは、これを聞いて真っ先に主イエスを脇へお連れし、いさめ始めました。
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」
ペトロは、メシアならば、力と栄光によって神の救いを成し遂げてくださると考えていたのではないでしょうか。
しかし、主イエスが示されたメシアのお姿は、ペトロの思い描いていたものとは、あまりにもかけ離れていました。
そのため、苦しみ、死に向かわれるメシアなど、ペトロはどうしても受け入れることができなかったのです。
ペトロの姿は、私たち自身の姿でもあります。
私たちもまた、知らず知らずのうちに、
「神とはこういうお方であってほしい」
「神はこういうことをなさるはずだ」という、
自分なりの神のお姿を描いてしまうことがあります。
神さまなら、苦しみから守ってくださるはず。
神さまなら、幸せへと導いてくださるはず。
神さまなら、願いをかなえてくださるはず。
確かに、神は憐れみ深く、慈しみに満ちたお方です。
しかし、その憐れみや慈しみさえも、私たちは自分の願いに合わせて受け止めてしまうことがあります。
私たちは、神を愛し、神を信じているつもりであっても、いつの間にか、自分が願う神のお姿を神ご自身に重ねてしまうことがあるのです。
その結果、私たちは聖書が示す神ではなく、自分の期待に合わせて思い描いた神を信じているつもりになってしまうのです。
ペトロは、主イエスを愛していなかったわけではありません。
むしろ、主イエスを思うあまり、自分が思い描いていたメシアのお姿に、主イエスを合わせようとしたのです。
主イエスは、振り向いてそんなペトロに厳しく言われました。
「サタン、引き下がれ。」
この言葉は、主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑を退けられた時にも使われた言葉です。
それほどまでに、ペトロの言葉は、主イエスが歩まれる救いの道を妨げるものだったのです。
続けて主イエスは、「あなたは私の邪魔をする者だ」と言われました。
そして、その理由をこう語られます。
「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」
「神のことを思う」とは、どういうことなのでしょうか。
そこで主イエスは、弟子たちにこう言われます。
「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」
「自分を捨てる」。
それは、自分を嫌いになったり、自分の人生を否定したりすることでもありません。
主イエスが求めておられるのは、自分を中心に据えて生きる歩みを手放し、自分の思いを神の御心に委ねていくことです。
ペトロは、自分が思い描くメシアのお姿に、主イエスを合わせようとしました。
しかし主イエスは、自分の考えに神を合わせるのではなく、神の御心に従うことを求められます。
そして、「自分の十字架を負う」。
それは、主イエスに従って歩むことです。
神を第一として生きる中で、重荷を負うことや、苦しみを受けることもあります。
自分の思いを押し通すのではなく、神の御心に従って歩むのです。
最後に、「私に従いなさい」。
ここで大切なことが分かります。
自分を捨てることも、自分の十字架を負うことも、苦しみを求めることが目的なのではありません。
すべては、主イエスに従って歩むためなのです。
主イエスは、苦しみそのものを求めておられるのではありません。
ゲツセマネの園で、「私の願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り、ご自身を父なる神の御心に委ねられました。
そして、人々の罪を背負って十字架への道を歩み、最後まで父なる神に従われたのです。
主イエスご自身が、誰よりも先にその道を歩まれました。
その主イエスが、「私に従いなさい」と言われます。
私たちは、主イエスが先に歩まれたその道へと招かれているのです。
そして、ここで忘れてはならないことがあります。
主イエスから「サタン、引き下がれ」とまで言われたペトロは、その後も迷い、失敗します。
それでも主イエスは、ペトロを見捨てることなく、導き続けられました。
私たちも、すぐにすべてを理解できるわけではありません。
いつも神の御心が分かるわけでもありません。
時には、自分の思いを神に重ねてしまうこともあります。
それでも主イエスは、私たちを見捨てることなく、私たちの先を歩みながら、私たちを招き続けてくださるのです。
私たちは、往々にして、自分を捨てずに、自分の十字架を負わずに、主イエスに従おうとしてしまいます。
しかし主イエスは、こう言われます。
「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。」
私たちは、自分の人生を思いどおりにしようとするとき、それが本当の命につながると思ってしまいます。
しかし主イエスは、その逆だと言われます。
自分を神の御手に委ね、自分を捨て、自分の十字架を負って主イエスに従うところにこそ、本当の命があるのです。
ペトロは、この時はまだ、その意味を理解することができませんでした。
しかし、後に十字架と復活の主と出会い、主イエスに導かれる中で、少しずつ変えられていきました。
自分の思いではなく、神の御心に従い、自らも主に従って十字架の道を歩む弟子とされたのです。
私たちもまた、同じ主イエスから招かれています。
自分の思いに神を合わせるのではなく、自分を神の御心に委ねていきましょう。
自分を捨て、自分の十字架を負い、主イエスの後に従って歩んでいきましょう。
私たちの先には、すでに主イエスが歩んでおられます。
その主イエスを見上げながら、この新しい一週間の歩みへ遣わされていきたいと思います。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン
日課:マタイによる福音書 15:21-28
この一週間、私たちは終戦の日を迎えました。
平和週間の中で、戦争が残した傷跡と、その深い苦しみを覚えています。
とりわけ沖縄には、今もなお消えることのない記憶と、理不尽な痛みがあります。
私たちは、その苦しみを前にして、軽々しく答えを与えることはできません。
なぜ、このようなことが起こったのか。
なぜ、人はこれほどの苦しみを経験しなければならなかったのか。
私たちは、ただ戸惑いながら問い続けます。
今日の福音書もまた、私たちを戸惑わせます。
そこには、助けを求める一人の母親がいます。
しかし、彼女に対する主イエスの応答は、私たちが思い描く愛と憐れみに満ちた主イエスの姿とは、大きく異なっていました。
なぜ、苦しんで助けを求める人に対して、そのような言葉を語られたのでしょうか。
今日の福音書は、その理由を説明しません。
むしろ私たちを、この戸惑いのただ中に招き入れます。
そして私たち自身に問いかけるのです。
「あなたは、この主イエスをどのように受け止めるのだろうか」と。
今日の福音書に登場するのは、カナンの女です。
彼女は異邦人であり、当時のイスラエル社会では、神の救いの外側にいる者とみなされていました。
その彼女が、悪霊にひどく苦しめられている娘のために、必死の思いで主イエスのもとへやって来ました。
ところが主イエスは、何もお答えになりません。
重い沈黙です。
さらに、ご自分はまずイスラエルの民のために遣わされていることを示されます。
しかし彼女はそこで引き下がらず、ひれ伏して助けを求め続けます。
すると主イエスは、こう言われました。
「子どもたちのパンを取って、子犬たちに投げてやるのはよくない。」
この言葉は、まるでこの女性を「子犬」とさげすむようにも聞こえます。
それを聞いたとき、私たちの戸惑いは、やがて反発へと変わっていかないでしょうか。
助けを求める母親に対して、なぜすぐに助けてくださらないのだろうか。
なぜ、これほど厳しい言葉を語られるのだろうか。
そう考え始めるのです。
そして気がつくと、私たちは主イエスを、自分自身の基準で量り始めています。
「この言葉は正しいのか。」
「この対応は適切なのか。」
私たちは、主の御心の深さを尋ねるよりも先に、主イエスを評価し、裁く側に立ってしまうのです。
しかし、そのときカナンの女はどうだったのでしょうか。
彼女もまた、深く傷つき、言葉を失うほど戸惑ったはずです。
それでも、彼女はこう応えたのです。
「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
彼女は、イスラエルの民が先であることを否定しませんでした。
それでも、主の食卓からこぼれるものを求めたのです。
彼女は立ち去りませんでした。
主を裁く者にはなりませんでした。
突き放すような言葉を受けても、なお、この主に望みを置き続けたのです。
主イエスは最後に、こう言われました。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」
主が「立派だ」と言われた信仰とは、いったい何だったのでしょうか。
カナンの女は、主イエスの言葉の真意を、すべて理解していたわけではないはずです。
なぜ沈黙されたのか。
なぜあのような厳しい言葉を語られたのか。
彼女には分からなかったでしょう。
それでも彼女は、「主よ、ごもっともです」と答えました。
主を裁くのではなく、自分の理解を越えておられる主に、なお望みを置いたのです。
だからこそ主は言われたのです。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そして、その時、娘は癒されました。
私たちもまた、日々の歩みの中で、カナンの女と同じような時を経験します。
祈っているのに、答えが見えないことがあります。
なぜこんな苦しみが起こるのか分からず、神が遠く感じられることもあります。
そのような理解できない現実の中で、私たちは主を自分の基準で量り、裁く者となるのでしょうか。
それともカナンの女のように、なお主にすがり続ける者となるのでしょうか。
信仰とは、すべてを理解することではありません。
自分の問いにすべての答えが与えられることでもありません。
理解できなくても、なお主に信頼することです。
自分の理解を越えておられる主に、それでもなお望みを置くことです。
自分の正しさではなく、主の憐れみと恵みに、ただ寄り頼むことです。
主イエスは、そのような信仰を「立派だ」と言われるのです。
主の食卓から落ちるパン屑。カナンの女は、そのわずかなパン屑の中にも、主の確かな憐れみがあることを信じました。
そして、その憐れみは娘を癒しました。
その小さなパン屑にさえ、人を生かす主の憐れみがあったのです。
だからこそ私たちも、その憐れみに信頼して歩みたいと願います。
私たちは今、その主の食卓に招かれています。
聖餐式において「神の子羊」と唱える前に、私たちがささげる祈りの中にも、あのカナンの女の言葉が重なります。
祈祷書には、このようにあります。
「わたしたちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐れみを信じてみ机のもとに参りました。わたしたちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りないものです。」
それでも主は私たちを招き、ご自身の体であるパンを与えてくださいます。
主の憐れみは、イスラエルの人々だけにとどまるものではありませんでした。
カナンの女にも及び、今では私たち異邦人にも及んでいます。
神の憐れみは、私たちが引いてしまう境界線さえも越えて、広がっていくのです。
だから私たちもまた、争いと分断の残る世界の中で、主の平和を求めてまいりましょう。
このあと私たちは、沖縄の話に耳を傾けます。
そこにもまた、今なお続く苦しみと、私たちには簡単に答えを出すことのできない現実があります。
私たちもまた、カナンの女のように、すべてを理解できない中にあっても、主に望みを置きながら、主の平和を祈り求め、新しい一週間を歩んでまいりましょう。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン
私たちは、しばしば主イエスのために走ります。
「主よ、あなたのためにこれをします!」
教会の仕事
教会の行事
宣教
会議
計画
一見、とても献身的です。
しかし、主イエスが隣にいることを忘れてしまいます。
自分が先に走って、神に「ついてきてもらう」のではなく、神と歩調を合わせることこそ
大切です。
日課:マタイによる福音書 14:13-21
イザヤ書 55:1-5
「渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。」
この恵みに満ちた招きは、今日の旧約聖書の朗読で、預言者イザヤを通して私たちに届けられています。
金を払わなくてもいい。
何の代価もいらない。
神の恵みを、ただ受け取りなさい。
そんな招きです。
そして今日の福音書では、この招きが主イエスによって、目に見える形で現れます。
でも、こういう招きを聞くと、私たちの心には、少し警戒心が生まれます。
「ただより高いものはない。」
そんなことわざがあるように、あまりにも話がうますぎると、あとで何か見返りを求められるのではないかと思ってしまうのです。
私たちは、何かを得るには、何かを支払わなければならない社会に生きています。
働いたら給料を受け取り、お金を払って商品を買う。
何かを手に入れるには、それに見合う努力や犠牲が必要だ。
そんなふうに、私たちは考えるようになります。
だからこそ、「金を払うことなく」「何の代価もなく」という神の招きに、戸惑いを覚えるのです。
本当に、そんな恵みを受け取っていいのでしょうか。
今日の福音書に登場する群衆もまた、主イエスに何かを求めて集まってきた人たちでした。
しかし、そこは荒れ野でした。
食べ物は十分にありません。
自分たちでは、その必要を満たすことができませんでした。
弟子たちは、現実を見て言います。
「群衆を解散して、自分たちで食べ物を買いに行かせましょう。」
それは、もっともな提案でした。
食べ物を手に入れるには、村へ行かなければなりません。
人は自分で必要を満たさなければならない。
弟子たちは、その当たり前の現実に立って語ったのです。
ところが主イエスは、弟子たちにこう言われます。
「行かせることはない。あなたがたが、あの人たちに食べ物をあげなさい。」
弟子たちは戸惑いました。
手元にあったのは、五つのパンと二匹の魚だけだったからです。
五千人を超える群衆の前では、あまりにも少なすぎます。
しかし主イエスは、そのわずかなパンと魚を受け取られ、祝福して、弟子たちに渡されました。
弟子たちはそれを群衆に配りました。
すると、みんなが食べて、満腹したのです。
しかもパンは余るほどでした。
まるで、イザヤの預言がその場で実現したかのようです。
群衆は、この恵みを受けるために、何の代価も支払っていません。
それでも、満腹するまで与えられたのです。
しかし、ここで一つの問いが残ります。
本当に、この恵みに代価はなかったのでしょうか。
今日の福音書は、この問いへの答えを、静かに示しています。
主イエスは、五つのパンと二匹の魚を受け取られると、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちに渡されました。
この姿は、主イエスが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと最後の食事を共にされた場面を思い起こさせます。
「取って食べなさい。これはあなたがたのために与えられる私の体である。」
この荒れ野の食事は、ただの奇跡ではありません。
主の十字架へと、私たちの目を向けさせる出来事なのです。
主イエスは、パンを与えられただけではありません。
ご自身を、私たちのために与えてくださったのです。
群衆は確かに、何も支払いませんでした。
しかし、代価がなかったわけではありません。
主イエスは、ご自身を代価として与えてくださったのです。
だからこの恵みは、決して安っぽいものではありません。
私たちには無償で与えられます。
でも、主イエスはご自身を与えてくださいました。
それは、私たちの手では到底受けとめきれないほどの恵みなのです。
では、この恵みを受けた私たちは、どう生きていけばよいのでしょうか。
私たちは礼拝のたびに、み言葉と聖餐を通して、この恵みを受けています。
そして、この出来事の中で、もう一つ心に留めたいことがあります。
主イエスは、祝福したパンを、直接群衆に配られたのではありませんでした。
弟子たちにお渡しになり、弟子たちがそれを群衆に配って歩いたのです。
弟子たちは、自分でパンを生み出したのではありません。
ただ、主から受け取ったパンを配っただけです。
でも、その「受け取って配る」という奉仕を通して、多くの人々が養われました。
弟子たちは、恵みの源ではありませんでした。
しかし、主の恵みを届ける者とされたのです。
私たちも同じです。
私たちは、人の渇きを満たすことも、その人の必要を満たすこともできません。
でも、私たちは主イエスから恵みを受けています。
特に聖餐において、私たちは十字架によって与えられた恵みを受け取ります。
そして、その恵みを受けるだけで終わるのではありません。
主は私たちを、それぞれの生活の場へと送り出されます。
家庭へ、職場へ、地域へ。
そこで私たちは、主から受けた愛を携えて歩むのです。
そして主は、その歩みを通して、ご自身の愛を人々へ届けてくださるのです。
時には、一つの励ましの言葉かもしれません。
時には、誰かの話に耳を傾けることかもしれません。
時には、赦しや思いやりを示すことかもしれません。
主イエスは今日も、祝福されたパンを弟子たちの手に託されたように、その恵みを私たちに託しておられます。
私たちはその恵みを受け、また分かち合う者として歩むのです。
「渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。」
この招きは、今日も私たちに向けられています。
イザヤは問いかけます。
「なぜ、糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか」と。
私たちは、しばしば、本当に私たちを生かすものとは違うものを求めて歩んでしまいます。
しかし主は、私たちを真に満たす命の恵みへと、今日も招いておられるのです。
私たちは何も持たずに来ます。
でも主は、何も持たない私たちを空腹のまま帰されません。
主イエスが、ご自身を与えてくださったからです。
だから私たちは、安心してこの恵みを受け取ることができます。
今日も主は、み言葉と聖餐を通して私たちを養い、満たし、それぞれの生活の場へ遣わしてくださいます。
主の愛を携えて歩む一週間となりますように。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン
私はキリスト教は単なる宗教ではないといつも言ってますが、もちろん宗教の部分もあることを否定しません。
よく、すべての宗教はよいと言われます、この良いというのは、人を正しいことに導くという意味だと理解しています。しかし、だからといって、すべての宗教が正しいとは限りません。
四人の人がそれぞれ違うところを指さして、ここは”北”だと言って、その四人のことをそれぞれ信じている人が疑いもなく、それぞれ指した方向が”北”だと信じています。しかしだからといって、すべての人ではなく、一人だけ正しいのです。
世の中にはいろんな宗教があります。しかし、細かく分析すれば、それぞれ矛盾があります。となると、すべてが正しいわけではありません。
唯一正しい道に歩めるように祈ります。
日課:マタイによる福音書 13:24-30,36-43
今日私たちに与えられたみ言葉は、マタイによる福音書13章の「麦と毒麦のたとえ」です。
このたとえ話を深く味わうために、まず先週のみ言葉とのつながりに目を向けてみたいと思います。
先週の福音書では、主イエスが種まきのたとえを語られました。
そこでは、「人はみ言葉をどのように受け止めるのか」、「み言葉を受ける人の心」が焦点となっていました。
しかし今週の福音書では、その視点が少し広がります。
先週が「み言葉を受ける私たち」に目を向けていたとすれば、今週は「私たちが生きるこの世」に目を向けています。
私たちは毎日の生活の中で、さまざまな矛盾や不条理に出会います。
「どうしてこんなことが起こるのだろう」
「なぜ悪いことをする人が栄えているように見えるのだろう」
「なぜ神はすぐに正してくださらないのだろう」
そのような問いは、信仰を持つ私たちの心にも、繰り返し湧き上がってきます。
主イエスは、この問いに答えるために、「麦と毒麦のたとえ」を語られました。
神がお造りになったこの世界に、なぜ悪が入り込んでいるのでしょうか。
そして、なぜ神はそれをすぐに取り除かれないのでしょうか。
主イエスは、このたとえを通して、その問いに光を当ててくださるのです。
私たちが生きるこの世には、神の御心に反するものが数多くあります。
それらは私たちの周りにあるだけではありません。
気づかないうちに、私たちの心にも入り込んでくるのです。
たとえば、誰かを「もう関わりたくない」と排除しようとする思い、「あの人が悪い」と決めつけてしまう心です。
しかし私たちは、それを悪だとは気づかないことがあります。
むしろ「正しいこと」と当たり前のように受け止めてしまうことがあります。
知らず知らずのうちに、私たちは神の御心に反するものに囲まれ、その影響を受けながら生きているのです。
主イエスは今日のたとえ話で、「人々が眠っている間に、敵が麦の中に毒麦を蒔き、やがて毒麦も現れた」と、この現実を語られました。
毒麦は麦の中にそっと紛れ込み、気づかないうちに広がっていきます。
そのような現実の中で、麦でありたいと願う私たちもまた、その影響を受けてしまいます。
だからこそ私たちは、「今すぐ毒麦を取り除くべきではないか」と考えるのです。
しかし主イエスは、その単純な思いをそのままにはされませんでした。
麦と毒麦が同じ畑に生えているように、この世には善と悪が入り混じっています。
そして、そのようなこの世に生きる私たちもまた、心の中で善と悪との葛藤を抱えているのです。
神に従いたいと願いながら、同時に自分の正しさを守りたくなります。
人を愛したいと思いながら、気づけば人を裁いてしまうのです。
実際に、教会の長い歴史を振り返っても、「正しさ」を守ろうとするあまり、かえって人を傷つけ、居場所を奪ってしまった痛ましい出来事がありました。
私たちもまた、自分では良かれと思いながら、「あの人が悪い」「あの考えは間違っている」と決めつけてしまいます。
そうして気づかないうちに、人との間に線を引いてしまうのです。
しかし、そのような人間の裁きは、本当に守るべき人まで傷つけてしまうことがあります。
それはまさに、毒麦を抜こうとして、大切な麦まで一緒に抜いてしまうことなのです。
だからこそ、主イエスは、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われたのです。
一見すると、これは消極的な対応に思えるかもしれません。
しかし主イエスは、悪を見過ごしているわけではありません。
そうではなく、悪をただ正そうとすることよりも、主に従って生きようとする人を、一人も失わないことを選ばれたのです。
そこには、神の深い忍耐があります。
神は、畑を放置しておられるのではありません。
「刈り入れまで」の期間、麦が豊かに育つことを願いながら、忍耐をもって見守っておられるのです。
私たちもまた、その忍耐によって今日まで生かされてきました。
その「刈り入れまで」という神の長い忍耐の時間によって、私たちは生かされ、守られているのです。
しかし主イエスの「刈り入れまで」という言葉は、もう一つの大切な真理を示しています。
私たちは、人の心の奥まで知ることはできません。
だからこそ、私たちは裁き主となることはできないのです。
常に正しさを決めつけようとする生き方は、気づかないうちに私たちの心を疲れさせていきます。
人を見るたびに良し悪しを決め、心の中で線を引く生き方は、やがて私たちから人を愛する自由を奪ってしまいます。
その結果、人を見るとき、愛よりも判断が先に立つようになってしまいます。
人の心を完全に知り、最終的に正しく裁くことがおできになるのは、神ご自身だけなのです。
刈り入れの時、すなわち世の終わりの時には、全能なる神が、善と悪のすべてを明らかにされます。
だからこそ私たちは、握りしめていた“自分の正義”や裁きの思いを、静かに手放していくことができるのです。
人を裁くことではなく、神に育てられる一人の麦として生きることこそ、私たちに与えられた歩みなのです。
私たちは、この世界という畑の主人ではありません。
この大きな神の畑で、主に育てられている麦なのです。
だから、毒麦を取り除こうと躍起になる必要もありません。
誰かを裁くことで、自分の正しさを証明しようとする必要もありません。
神は今も、そのような私たちを見捨てることなく、太陽の光を注ぎ、豊かな雨を降らせてくださいます。
そして、私たちが悔い改め、立ち帰り、実を結ぶことができるよう、忍耐をもって待っていてくださるのです。
どうか、これからの日々の中で、自分の正しさにこだわりそうになるとき、誰かを裁きたくなるとき、主イエスのこの言葉を思い出してください。
「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」
人を裁くのではなく、人を愛する者として歩めるよう、裁きを神にゆだねましょう。
やがて来る刈り入れの日に希望を置きながら、今日与えられたその場所で、神に育てられる麦として、主に従って歩んでまいりましょう。
そのように歩もうとする私たちを、主は今日も恵みによって育て続け、やがてご自身の畑に豊かな実を結ぶ麦としてくださるのです。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン
日課:マタイによる福音書 11:16-19,25-30
こんな寓話があります。
ある親子が、一頭のロバを引いて市場へ向かっていました。
すると、それを見た人が言いました。
「ロバがいるのに、どうして乗らないのか。なんて愚かな親子だ。」
そこで今度は、親がロバに乗ることにしました。
ところが、それを見た人は言います。
「子どもを歩かせて、自分だけ楽をするなんて、ひどい親だ。」
そこで親は降りて、今度は子どもが乗ることにしました。
すると今度は、「親を歩かせるなんて、親不孝な子どもだ。」と言われます。
そこで二人ともロバに乗ることにしました。
するとまた、「二人も乗ったらロバがかわいそうだ。」と言われてしまいました。
何をしても、人々は納得しませんでした。
そこには、人の評価に縛られて生きる人間の姿があります。
まさに同じような息苦しさの中で、私たちもまた、人の評価や期待の中に生きています。
「人からどう見られているだろうか。」
「期待に応えられているだろうか。」
「誰かを失望させていないだろうか。」
その思いに追われながら、知らず知らずのうちに心が疲れ、重荷を負って生きているのではないでしょうか。
今日の福音書で主イエスは言われます。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
主イエスは、この重荷の中にいる私たちを、どのように休ませてくださるのでしょうか。
ご一緒にみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。
主イエスは、当時の人々の姿の中に、いつの時代にも変わらない人間の現実を見ておられました。
洗礼者ヨハネは、厳しい生活を送り、断食しながら神の言葉を語りました。
ところが人々は、「あれは悪霊に取りつかれている」と言いました。
一方、主イエスは人々の中に入り、食卓を共にし、罪人と呼ばれる人々とも交わりました。
すると今度は、「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と非難されました。
主イエスはこの姿を、こうたとえられました。
「広場に座って、他の子どもたちに呼びかけている子どもたちのようだ」と。
結婚式ごっこをして、笛を吹いても踊らない。
葬式ごっこをして、弔(とむら)いの歌を歌っても悲しまない。
つまり、自分の思い通りでなければ、何も受け取ろうとしないのです。
しかし聖書は、この姿をただの批判として終わらせません。
そこには、神が何をなさっているのかを見分けることのできない人間の現実が示されています。
神の知恵は、人の評価によって左右されるものではありません。
人々がどう評価しようとも、その実りによって神の知恵は明らかになるのです。
実は、この人々の姿は、私たち自身の姿でもあります。
私たちもまた気づかないうちに、「こうあるべき」という物差しを握りしめています。
「あの人はこうあるべきだ。」
「子どもはこうあるべきだ。」
「教会はこうあるべきだ。」
「人生はこうあるべきだ。」
その物差しが現実とずれると、不満や失望が生まれ、ときには人を責めてしまいます。
そしてその同じ物差しは、私たちにも向けられます。
家庭で、職場で、地域で、教会で。
「期待にこたえなければならない」
「失敗してはいけない」
「認められなければならない」
その結果、心は休むことができません。
認められてもまだ足りない。
努力しても十分ではない。
期待は終わりなく続いていきます。
そのような重荷を負って生きる私たちの姿を、主は見ておられます。
だからこそ、神の知恵として、この世界に来てくださったのです。
「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
主イエスは、こう招いてくださいます。
「もう、重荷を隠さなくてよい。
強がらなくてもよい。
人の期待に応え続けようとしなくてもよい。」
主は、「もっと頑張れるようになってから来なさい」とは言われません。
疲れきって、一歩も進めないような私たちを、そのまま招いてくださるのです。
その重荷を下してから来るのではありません。
そのままのあなたで、私のもとへ来なさい、と言われるのです。
そして主のもとに来た者は、主と共に歩むように招かれます。
主イエスは「私の軛を負いなさい」と言われます。
軛とは、本来、二頭の牛が共に荷を引くために用いられる道具です。
ここで、軛につながれた二頭の牛を思い浮かべてみてください。
経験ある強い牛が、まだ力の弱い牛を導きながら歩んでいく姿です。
主イエスは、そのように私たちを導いてくださる方なのです。
だからこそ、ただ「軛を負いなさい」ではなく、「私の軛を負いなさい」と言われたのです。
その軛を共に負ってくださるのは、主ご自身です。
私たちは、一人で軛を背負うのではありません。
主が私たちの隣に立ち、その軛を共に負ってくださるのです。
そこに、私たちの真の安らぎがあります。
もう、私たちは一人ではありません。
主と共に歩む者として、生かされているのです。
だから、安心して歩んでいくことができるのです。
これまで私たちは、人の評価という軛、「こうあるべき」という重い軛を、一人で背負ってきました。
しかし主イエスは、私たちを裁くためではなく、共に担うために来られた方です。
できないから突き放すのではなく、弱さのただ中へ降りて来てくださる方です。
主イエスは柔和で、心のへりくだった方です。
私たちを見下ろすことなく、私たちと同じ低さに立ってくださいます。
主イエスご自身も、人の非難や拒絶の中を歩まれました。
それでも父なる神を信頼し、最後まで十字架への道を歩まれました。
父の愛に支えられて十字架への道を歩まれたその主が、復活の主として今も私たちと共にいてくださいます。
だから私たちも、人の評価ではなく、父なる神の愛に信頼して歩むことができるのです。
今日、私たちは主の御前で、疲れたままの自分を受け止めていただきました。
主は、そのような私たちを安らぎの中へと迎え入れてくださいました。
明日から、私たちはまた、人の評価や「こうあるべき」という期待の中へと戻っていきます。
しかし主イエスは言われます。
「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い。」
私たちの人生から重荷がなくなるわけではありません。
課題も、不安も、今もなお私たちの中にあります。
それでも、主は共にいてくださいます。
そして、共に担ってくださいます。
人の評価に振り回される生き方ではなく、神に愛されている者として生きる歩みへ。
一人で背負う軛ではなく、主と共に負う軛へ。
その歩みへと、主は今日も私たちを招いておられます。
その招きを受けて、私たちは今週も、それぞれの重荷を抱えて歩んでいきます。
しかし、私たちは決して一人ではありません。
柔和でへりくだった主イエスが、共に歩んでくださいます。
人の評価ではなく、父なる神の愛に信頼して、この一週間も主と共にその軛を負い、歩んでまいりましょう。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン
日課:マタイによる福音書 10:24-39
エレミヤ書20:7-13
私たちが生きているこの日本では、キリスト者はほんの数パーセントです。
明らかな少数派です。
私の故郷のマレーシアでも、日本より割合は多いとはいえ、やはり少数派であることに変わりはありません。
だからでしょうか。
周りのほとんどがキリスト者ではない環境の中にいると、私たちはどうしても人の目を気にしてしまいます。
「自分がキリスト者です」と打ち明けるのをためらったり、信仰を持っていることを、どこか隠してしまったりすることがあります。
信仰を持っていること自体を、どこか恥ずかしいことのように感じてしまう。
それは、現代を生きる私たちにとって、とてもリアルな弱さではないでしょうか。
でも、今日読まれた福音書を聞くと、そこに大きな慰めがあります。
なぜなら、そのような弱さは、決して今の私たちだけのものではないからです。
主イエスの弟子たちもまた、人の目を恐れ、心を揺らしながら歩んでいました。
主イエスは、まさにそのように恐れの中にある者たちに向かって、み言葉を語っておられるのです。
先週に引き続き、主イエスが十二人の弟子たちを宣教に遣わされる前に語られた言葉に、共に耳を傾けてまいりましょう。
主イエスは、「人々は私を悪霊の頭と呼んだのだから、あなたがたも同じように悪く言われるだろう」と、これから向かう道の厳しさを率直に告げられます。
人々から悪く言われれば傷つきます。
人の目を恐れて、自分の信仰を隠したくなってしまうこともあります。
主イエスは、弟子たちのその弱さをよくご存じでした。
だからこそ、彼らを支えるために、「恐れるな」と語られたのです。
その言葉の根拠は、ただ一つです。
私たちが父なる神に深く愛され、その御手に守られている子どもだという事実です。
この世で深く傷つくことがあっても、私たちの命は天の父の御手の中にあります。
主イエスは、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われました。
それは、神が私たちを遠くから眺めておられるのではありません。
私たち一人ひとりを深く知り、私たちのすべてを受けとめておられるということです。
さらに、雀のたとえを通して語られます。
小さな存在でさえ神のまなざしの中にあるのなら、まして私たちは、はるかに尊い存在とされているのです。
この神のまなざしの中に生かされた者として歩んだ一人が、今日の第一朗読に出てくる預言者エレミヤでした。
神のみ言葉を語ったために、人々からそしられ、嘲られ、深い孤独の中に置かれました。
あまりの苦しさに、「もう語るのをやめよう」と思うほどでした。
しかし彼は、そのただ中で、主が共におられることを知っていました。
だからエレミヤは、人の評価ではなく、主のまなざしに支えられて歩み続けたのです。
そのエレミヤと同じように、私たちもまた弱さの中を生きています。
主イエスは、今日も私たち一人ひとりに語りかけられます。
「恐れるな。
あなたは、父なる神に深く知られている。
髪の毛まで数えられているほどに、大切にされている。
雀よりも、はるかに尊い存在なのだ」と。
だから私たちは、その言葉に信頼を置き、神の子どもとして、明日もまた一歩を踏み出していくのです。
主イエスは、この「神の子どもとしての安心」を語ったうえで、さらにこう言われます。
「誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。」
このみ言葉は、私たちに問いを投げかけています。
それは、「信仰をうまく語れるかどうか」という話ではありません。
問われているのは、「あなたはどこに立って生きているのか」ということです。
人の評価の前か。
それとも、神のまなざしの前か。
人々の前で主を認めるとは、義務としての信仰告白ではありません。
大好きな親を、周りの人に紹介するような、子どもとしての自然な姿です。
私たちは、家庭にいるとき、仕事をするとき、誰かと話すとき、「私は神の子どもなのだ」という事実に立って生きています。
そのとき、私たちの生き方そのものが、主を認める歩みとなっていくのです。
だからもう、人の目に自分を合わせて縮こまる必要はありません。
神に知られ、愛されている者として、恐れの中にあっても、一歩ずつ歩んでいけばよいのです。
私は、聖パウロ教会の牧師補であり、日本聖公会の執事でもあります。
しかし、それらの前に、私は神の子どもであり、主イエスの弟子です。
そしてそれは、私だけのことではありません。
ここにおられる皆さんもまた、同じです。
親である前に。
夫である前に、妻である前に。
学生である前に。
働く者である前に。
私たちは皆、すでに神の子どもとして名を呼ばれている存在なのです。
だから私たちは、自分の価値を肩書きや役割の中に探す必要はありません。
それらは大切な働きですが、私たちの本質を決めるものではありません。
状況が変わっても、立場が変わっても、評価が揺れ動いても、私たちは神の子どもです。
その事実は決して変わりません。
私たちはすでに、天の父の前で主イエスに認められ、受け入れられている者だからです。
だからこそ、私たちは恐れの中でも歩むことができます。
失敗しても立ち直ることができます。
人の評価に押しつぶされずに、もう一度立ち上がることができます。
なぜなら、私たちは神の子どもだからです。
多くの人の中で生きていると、自分がとても小さな存在のように思えてしまうことがあります。
でも私たちは、自分を大きく見せる必要も、人に認めてもらうために背伸びをする必要もありません。
たとえ目立たない、ありのままの姿であったとしても、私たちは神の前でかけがえのない存在だからです。
私は、自分がキリスト者であることを誇りに思っています。
主イエスご自身が、天の父の前で私を認めてくださっているからです。
そして、その恵みは私だけのものではありません。
私たちには皆、神の子どもとして生きる誇りが与えられているのです。
「恐れるな。」
今日も主イエスは、私たち一人ひとりにそう語りかけてくださいます。
その主の声を胸に抱き、人の評価ではなく、神のまなざしの中を、神の子どもとして歩んでまいりましょう。
私はせっかちです。なんでもすぐやってしまい、終わらせたい性格です。
人から何かを頼まれたら、できるだけすぐにやります。
すぐに応えてあげたい気持ちと、やることリストを減らし、少しでも楽になりたい気持ちがあります。
イエスさまは安息日に、手の萎えた人を癒されました。
安息日に行われたことで、ものすごく批判されました。
その手の萎えた人は、昨日今日そうなったわけではなく、長い間その状態だったはずです。
ですから、「わざわざその日ではなく、次の日に癒してあげればよかったのに」と思う人もいたかもしれません。
しかしイエスさまは言われました。
「あなたがたのうち、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちたら、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」
イエスさまの目から見ると、手の萎えたその人は、まさに穴に落ちた羊でした。
だからイエスさまは、安息日であっても助けることをためらわれませんでした。
もちろん、イエスさまが安息日に癒された理由は、私のせっかちさとは違います。
イエスさまは、安息日にも善を行うことが神さまの御心であることを示されたのです。
それでも、苦しむ人を見たらすぐに助けたいというイエスさまの心に触れると、せっかちな自分も少し慰められる気がしました。
日課:マタイによる福音書 9:9-13,18-26
私たちの日常を振り返ると、つい「正しさ」を優先して、目の前にいる人への「優しさ」を忘れてしまうことはないでしょうか。
「決まりだから」と冷たく突き放してしまったり、自分の正しさを振りかざして批判してしまったり。
そうして私たちは、知らず知らずのうちに、人を裁く心を抱いてしまうのです。
主イエスの時代の宗教的な指導者たちも、まさにそうでした。
彼らは、神の律法を厳密に守り、きちんと宗教的な務めを果たすことこそが最も重要だと考えていたのです。
しかし、そんな彼らの思い込みを打ち砕くように、主イエスは今日の福音書でこう言われます。
「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」
この言葉は、徴税人や罪人たちと共に食事をしておられる主イエスに反発していたファリサイ派の人々に向けて語られました。
しかしこれは、今ここにいる私たちすべての者にとっても大切な問いかけです。
神が、いけにえではなく、慈しみを望まれるとは、私たちにとってどういうことなのでしょうか。
今日は、「行って学びなさい」という主イエスのこの招きに応えて、その意味を共に学んでいきたいと思います。
主イエスのこの言葉は、今日の第一朗読でも耳にした預言者ホセアの言葉です。
ホセア書には、こう記されています。
「私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。」
現代を生きる私たちにとって、「いけにえ」とは、家畜や農作物を献げることではありません。
教会に仕え、礼拝を支え、献金をすることなど、自分の時間や才能、金銭を神に献げることです。
それらもまた、神への大切な「いけにえ」と言えるでしょう。
しかし、主イエスは言われます。
神が本当に喜ばれるのは、ただ「いけにえ」を献げることではなく、そこに「慈しみ」があることなのだと。
つまり、宗教的な熱心さだけではなく、そこに慈しみがあるかが問われているのです。
どれほど豊かな知識があっても、そこに慈しみがなければ。
どれほど立派な奉仕をしても、そこに慈しみがなければ。
どれほど多くを献げたとしても、そこに慈しみがなければ。
神が本当に喜ばれるものにはならないのです。
では、その神が求める「慈しみ」とは何でしょうか。
私たちは、その答えを主イエスご自身の中に見ることができます。
今日の福音書で主イエスは、徴税人マタイを招かれました。
また、罪人たちと共に食事をされました。
さらに、長く病に苦しんだ女性を癒やし、ある指導者の娘を生き返らせてくださいました。
主イエスは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。
自分は正しいと思い込んでいる人ではなく、自分の弱さを知り、神の慈しみを必要としている人のもとへ来られたということです。
見捨てられ、苦しみの中にいた人々に近づき、主イエスは深い慈しみを示されたのです。
もしこれが慈しみでなければ、いったい何が慈しみでしょうか。
そして、その慈しみの歩みは、ついに十字架へと向かいます。
主イエスは、私たちの罪をすべて背負い、ご自身を「最高のいけにえ」として十字架の上に献げられました。
それは、ただ神をなだめるための、冷たい宗教的儀式ではありません。
むしろ主イエスの十字架は、神がこの世界を救おうとされた、その限りない慈しみの現われでした。
主イエスは、その生涯と命のすべてを通して、神の慈しみを私たちに示してくださいました。
そしてその慈しみは、今もなお、ここにおられる私たち一人ひとりに向けられているのです。
たとえ、どれほど多くを教会に献げたとしても、困っている人に無関心であるなら。
たとえ、どれほど美しい賛美を歌ったとしても、その口で人を傷つけているなら。
それは、神が本当に喜ばれるものにはならないのです。
私たちが毎週こうして集まるのは、宗教的な義務や務めを果たすためではありません。
ここは、主イエスが私たちの日々の重荷を降ろし、慈しみで満たし、新しく生かしてくださる「命の現場」なのです。
私たちはここでみ言葉に耳を傾け、聖餐にあずかります。
主の慈しみを受け取った私たちは、ここから再び、それぞれの現実へと遣わされていきます。
行事を終えて帰るのではなく、主と共に歩む新しい一週間を、ここから始めるのです。
主イエスは、「行って学びなさい」と言われます。
頭で聖書の知識を詰め込むだけではなく、あなたの生きる現場で学びなさい、ということです。
家庭に帰って、学びなさい。
学校や職場へ行って、学びなさい。
人との関わりの中で、日々の生活のただ中で学ぶのです。
そこで何を学ぶのでしょうか。
主イエスが示してくださった「慈しみ」を学ぶのです。
私たちの教会が、先日祖国マレーシアへ帰られた王さんと共に歩んできた日々も、主が教えてくださった慈しみを学ぶ歩みの一つであったのではないでしょうか。
そして何よりまず、自分自身が主の慈しみによって生かされ、赦されている存在であることを忘れないこと。
その喜びを土台として、弱っている人に目を向けること。
失敗した人を切り捨てないこと。
小さな愛を惜しまないこと。
裁くよりも、寄り添うことを。
傷つけるよりも、慰めることを。
見捨てるよりも、共に歩むことを。
「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない。」
神が喜ばれるのは、形式だけの信仰ではありません。
主の慈しみを受けた私たちが、それぞれの場所で、その慈しみを生きていくこと。
その目立たなくとも真実な歩みこそが、神が最も喜ばれる「生きた礼拝」なのです。
「慈しみ」を学ぶ旅に、終わりはありません。
私たちは明日からもまた、失敗したり、「正しさ」を振りかざして誰かを裁き、傷つけてしまったりすることがあるでしょう。
しかし、そのたびに、主イエスの「行って学びなさい」という招きを思い出してください。
主イエスは、完璧な人を求めておられるのではありません。
不完全なまま主の慈しみにすがろうとする私たちを、喜んで受け入れてくださいます。
この一週間も、主があなたと共に歩んでくださいます。
主から受けたその慈しみを、あなたの隣にいる人へ、ほんの少しでも手渡していくことができますように。
日課:マタイによる福音書28:16-20
日本には、長い年月をかけて受け継がれてきた伝統技術があります。
和紙の製法、陶芸の技法、刀鍛冶の技術——世界中から賞賛されるものばかりです。
それらは、一人の職人が長い年月をかけて身につけてきた技であり、言葉だけで簡単に伝えられるものではありません。
だからこそ、職人は弟子を取り、その技を伝えていきます。
しかし今、その多くが消滅の危機に瀕しています。
なぜでしょうか。
製品を買ってくれる人がいないからではありません。
むしろ問題は、後継者がいないこと。
つまり、次の弟子が育っていないのです。
どれほど優れた技であっても、受け継ぐ者がいなければ、やがて消えてしまうのです。
では、信仰はどうでしょうか。
私たちが受け継いできた福音も、これと同じではないでしょうか?
主イエスが示してくださった神の愛と救いは、単なる知識ではなく、人生をかけて生きる命そのものです。
もし私たちが、この恵みを受け取るだけで終わるなら、福音は私たちのところで止まってしまいます。
だからこそ、主イエスは地上を去る最後のときに、弟子たちに、そして今の私たちに、大切な使命を託されました。
今日はこの主イエスの言葉を、私たちがどのように次の世代へとつないでいくのか、共に受け止めていきたいと思います。
今日読まれたマタイによる福音書で、復活された主イエスは、まず弟子たちにこう告げられました。
「私は天と地の一切の権能を授かっている」と。
主イエスが、ご自身の働きを始められる前、悪魔から、「この世のすべての国々とその栄華を与えよう」という誘惑を受けられました。
しかし主イエスは、その誘惑を退けられました(4:8-10)。
十字架という苦難を避け、安易にこの世の栄華を求めるのではなく、どこまでも父なる神に従う道を歩まれたのです。
そして今、十字架と復活を経て、主イエスは天と地の一切の権能を授かっておられます。
その絶対的な権威のもとで、主イエスは弟子たちにこう命じられたのです。
「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と。
ここで主イエスは、「ただ人を集めなさい」とは言われませんでした。
与えられたのは、「弟子にしなさい」という使命です。
弟子とは、主と共に歩み、その生き方にあずかる者です。
そして重要なのは、この使命が「一度限りで終わるものではない」ということです。
弟子は、さらに新しい弟子を育てていきます。
主から受けた恵みを、自分のところで止めるのではなく、次の人へと手渡していくのです。
そのようにして、主イエスの福音は、時代を越え、場所を越え、今ここにいる私たちにまで届けられてきました。
もし最初の弟子たちが、「自分たちは信じればそれでよい」と考えていたとしたら、この福音は、私たちにまで伝わることはなかったでしょう。
では、どのようにして弟子が生まれるのでしょうか。
主イエスは、こう語られました。
「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」と。
守るとは、ただ規則に正しく従うことではありません。
主のみ言葉が、私たちの生活そのものになっていくことです。
だからこそ、ここで言われている「教える」とは、単に言葉で説明することではありません。
職人の世界では、技術は教科書を読んだだけでは身に付きません。
親方と共に生活し、その背中を見ながら、時には失敗しつつ身に付けていきます。
信仰もまた、同じです。
共にみ言葉に耳を傾け、共に祈り、生活の中でキリストの愛をどう生きるのかを、時間をかけて学んでいくのです。
しかし、ここに決定的な違いがあります。
信仰は、単なる技の継承ではありません。
主イエスは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命じられました。
洗礼とは、人が神のものとして新しく生かされることです。
主イエスが望まれるのは、人が神を知り、神と共に生きるようになることです。
その歩みは、決して簡単なものではありません。
時にはうまくいかず、迷い、つまずくこともあるでしょう。
それでもなお、共に歩み続ける中で、少しずつキリストの姿に近づいていくのです。
そのような歩みを通して、人は弟子へと導かれていきます。
それが、主イエスが私たちに託しておられる弟子の歩みなのです。
そして実際に、私たちはそのような歩みを、この教会の中でも経験しました。
昨年の10月、私たちの教会は、一人の外国人の方を受け入れました。
当時、住む場所もなく困難な状況の中にあった彼のために、居場所を整え、他の教会とも協力しながら生活を支え、共に祈りつつ歩む日々が与えられました。
それはまさに「寝食を共にし、キリストの愛を生きる」実践でした。
その中で、彼は主イエスの福音に触れ、ついに洗礼へと導かれました。
そして今日、彼は36年ぶりに祖国へ帰って行かれます。
これは、決して私たちの力だけで成し遂げたことではありません。
主ご自身が彼を招き、私たちの手を用いて、彼を導いておられたのです。
私たちは、その出来事を通して改めて教えられました。
「弟子とする」とは、ただ教えを語ることではなく、痛みを分かち合い、共に生きることなのだということです。
主イエスは、「行って、すべての民を弟子にしなさい」と言われました。
それは、遠い場所へ行くことだけではありません。
今、目の前にいる一人と共に歩み、その人が神と共に生きるようになることを願いながら歩むことです。
そのような私たちの日常の歩みの中で、主は今も、人を招き、洗礼へ導き、そしてそれぞれの場所へ遣わしておられるのです。
今日、36年ぶりに祖国へと帰って行かれるワンさん。
そして明日からまた、それぞれの日常へと遣わされていく私たち。
これから歩む道には、新たな困難や、孤独を感じる日があるかもしれません。
しかし、恐れることはありません。
主イエスは、この使命を与えられた最後に、私たちに確かな約束を与えてくださいました。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
私たちがどこへ遣わされようとも、天と地の一切の権能を授かっておられる主ご自身が、いつも共にいてくださいます。
この力強い約束に支えられながら、私たちもまた、キリストの愛を生きる弟子として、それぞれ遣わされた場所で歩んでいきましょう。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。
"何々と私は思う"って言ったとき、自分の考えのことを示すことになります。しかし、キリスト者としてこう話すとき、別の意味を持ってほしいと私は思います。
それは、"私は神さまがそう思われるのを思う"。
つまり、自分の考えではなく、神さまの考えに基づくのです。
その神さまの考えを知るため、私たちは聖書を読み、勉強するのです。
日課:ヨハネによる福音書 17:1-11
私たちは皆、いつか必ず、死と向き合う時を迎えます。
その「いつか」が、もし今日、あるいは明日だったとしたら。
人生の終わりに近づき、残された時間がわずかになったとき。
私たちは、何を思い、誰のことを心に留めるでしょうか。
おそらく、自分のことよりも、残していく家族や、大切な人たちのことではないでしょうか。
その人たちのこれからの歩みを思い、神に託すように祈る。
そのような祈りをささげるのではないでしょうか。
主イエスが、まさに十字架というご自身の死を目前にしたその最後の夜、誰のために、何を祈っておられたか。
聖書は、その祈りの言葉を私たちに伝えています。
その祈りは、静かでありながら、私たちへの熱い思いと深い愛に満ちた祈りでした。
今日は、この主の祈りに耳を傾け、そこに込められた神の愛を、共に受け取っていきましょう。
今日の福音箇所は、主イエスが弟子たちと共に最後の晩餐を終えられた後の場面です。
主イエスは天を見上げて、祈りをささげられました。
この祈りの中で、私たちは驚くべきことに気づかされます。
全人類を救うために世に来られた主イエスが、ご自身の苦しみが迫るこの時に、「世のためではなく」、ご自分に与えられた人々のために祈っておられるのです。
その「与えられた人々」とは誰のことでしょうか。
それは、父なる神から与えられた言葉を受け入れ、主イエスが神のもとから来られた救い主であることを知り、神から遣わされた神の子であると信じた人々です。
あの夜、不安に揺れていた十一人の弟子たち。
そして、今ここに集められている私たちのために、主は祈っておられるのです。
地上で過ごす最後の夜に、主イエスは、他でもない私たちのために祈られました。
そして、こう祈られたのてす。
「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と。
主イエスはこれから、父の御もとに帰るために、十字架へと向かわれます。
ご自身の苦しみが迫る中にあっても、心に留めておられたのは、世に残される私たちのことでした。
私たちの歩みが、決して容易ではないことを、主はよくご存じだったのです。
何より主イエスは、今目の前にいる弟子たちが、数時間後には恐れのあまり、自分を見捨てて逃げ出してしまうことも知っておられました。
弟子たちの弱さ、脆さ、裏切りさえも、主イエスはすべて見通したうえで、それでもなお、深い愛を持って私たちのために祈り、とりなしてくださったのです。
この祈りの中の「守り」とは、単に危険や苦しみから守られるということではありません。
どれほど深い苦しみの中にあっても、どれほど自分の弱さに打ちのめされても、決して信仰が失われることなく、神のみ手からこぼれ落ちることがないように、という祈りなのです。
そして主イエスは、その守りが何のためであるのかを語られます。
「私たちのように、彼らも一つとなるためです」と。
「一つとなる」。
しかしそれは、私たちの弱さを思うとき、決して簡単なことではありません。
教会の中であっても、違いや行き違いはあります。
良かれと思って語った言葉が、思うように届かなかったり、自分の思いが理解されずに悲しい思いをしたりすることもあるでしょう。
同じ主を信じているはずなのに、どうして分かり合えないのかと、心が痛み、孤独を覚えることさえあるのです。
それでもなお、私たちは主にあって一つとされています。
それは、決して私たちの努力によるのではありません。
あの夜、主イエスが私たちのために祈ってくださったからこそ、私たちは今も、一つとされ続けているのです。
主イエスはなぜ、私たちが守られ、一つとされることを、これほど切に祈られたのでしょうか。
私たちが生きる社会には、分断や争いがあふれています。
違いを恐れ、誰かを排除し、孤独の中で傷ついている人がたくさんいます。
そのただ中で、不完全な私たちが、時に傷つき合いながら、それでもなお、ゆるし合い、共に礼拝をささげ続ける教会の姿そのものが、この世における主イエスの愛の証しとなるのです。
そして人々は、その一つとされる教会の姿を通して、主イエスの愛に触れていくのです。
主イエスは、十字架を目前にした祈りの中で、「ご自身に栄光を現してください」と父なる神に願われました。
それは、ご自身を通して、神の愛がこの世に、誰の目にも見える形で現されるためでした。
そして主イエスは、その愛を持って、今ここにいる「私たち」のためにも祈ってくださいました。
主イエスが願われたのは、私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知り、その愛の中で生きるという「永遠の命」を受け取ることです。
そして、十字架の業を成し遂げられた主の祈りは、今もなお、私たちのただ中に生き続けています。
主に守られ、一つとされた私たちを通して、神の愛はこの世に現されていきます。
私たちの何気ない、時に不器用な日常の歩みを通して、主の命が世へと届けられていくのです。
明日からまた、私たちはそれぞれの日常へと遣わされていきます。
家庭、学校、職場、そして地域社会。
そこには、思い通りにならない現実や、心をすり減らすような出来事、答えの出ない問いが待っているかもしれません。
時に疲れ果てて、「もう祈る言葉もありません」と、一人うずくまってしまう夜もあるかもしれません。
しかし、どうか思い出してください。
あなたは決して、一人で祈っているのではありません。
あなたが祈れない時も、主イエスご自身が、あなたのすぐ傍らで、あなたの代わりに祈ってくださっています。
「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」と、今も天において、あなたのためにとりなしてくださっているのです。
私たちは決して一人ではありません。
目には見えなくても、主の祈りと愛によって、私たちはすでに結ばれています。
どうかこの一週間も、主の御名によって守られ、主にあって一つとされた者として、主の平安のうちにそれぞれの場所へと歩み出していくことができますように。
とある信徒さんからの話です。
彼女が同僚のご主人の葬式に参加しましたが、最後の献花のときに、その信徒でない人は外に出され、献花に参加させてもらえませんでした。
非常に悲しかったと言っていました。
葬式は、一つの宗教儀式であれば、信徒でない人に参加させないことは理解できます。
だから、結局そこにとって葬式は宗教儀式ですのようですね。
私にとって、葬式は遺族、友人を慰める場であって、決して宗教行為ではありません。
いつも言ってますが、キリスト教は宗教なんかではありません。
天の父なる神さま。
今日、私たちは母の日を迎え、世界中のお母さんたちを覚えて、心から感謝をささげます。
あなたは、お母さんを通して、私たちに命を与え、この世界へと送り出してくださいました。
そして、日々の優しさや祈り、励ましや支えを通して、あなたの愛を私たちに示してくださいました。
どうか、世界中のお母さんたちを祝福してください。
喜びの中にいるお母さんも、疲れの中にいるお母さんも、子育てに悩んでいるお母さんも、離れて暮らす子どもを思っているお母さんも、みなあなたが守り、支えてください。
若いお母さんにも、年を重ねたお母さんにも、豊かな慰めと平安、健康と希望をお与えください。
そして、お母さんたちが、自分の歩みが決して無駄ではなく、深く愛され、大切にされていることを知ることができますように。
また私たちも、お母さんへの感謝を忘れず、その愛に応えて生きることができますように。
天の父なる神さま。
あなたの大きな愛の中で、すべての家庭を守り導いてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。
アーメン。
日課:ヨハネによる福音書 14:1-14
私たちはみんな、人生という長い旅を続ける旅人です。
一日の歩みを終えて、家に帰って休息をとる——それは本当に大きな恵みです。
どんなに疲れていても、帰れる場所があるからこそ、私たちはまた新しい一日へと踏み出していくことができます。
しかし、私たちの歩みも、やがてこの地上の旅を終える時を迎えます。
そのとき、私たちは一体どこへ帰るのでしょうか。
道に迷うことは不安です。
しかし本当に恐ろしいのは、道が分からないこと以上に、帰るべき場所そのものを見失ってしまうことではないでしょうか。
私たちには、最後に帰るべき「本当の家」があるのでしょうか。
そこへ至る道は、どこにあるのでしょうか。
今日は、この問いに対して、主イエスご自身が語られたみ言葉に、共に耳を傾けたいと思います。
私たちは、この地上での歩みがすべてであり、ここが最終的な居場所であるかのように思い込んでしまいがちです。
しかし主イエスは、はっきりとこう語られました。
「父なる神の家には住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」
私たちが最後に帰るべき場所——それはこの地上ではなく、父なる神のもとにあります。
そこは、主イエスが私たちのために備えてくださる住まいです。
主イエスの弟子パウロもまた、コリントの信徒にこう証ししています。
「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物がある。それは人の手で造られたものではない、天にある永遠の住まいです。」(Ⅱコリ5:1)
パウロはここで、私たちの人生を、いつかは畳まなければならない「幕屋」にたとえました。
しかし神は、その先に、決して揺らぐことのない「建物」としての永遠の住まいを備えてくださっています。
ですから、この地上は終着点ではありません。
私たちは今、真の故郷を目指して歩む旅の途上にあるのです。
それでも、私たちは不安になります。
「どうやってそこへ行くのか。自分は本当に、そこにたどり着けるのだろうか」と。
この戸惑いは、私たちだけのものではありません。
主イエスのすぐそばにいた弟子のトマスも、全く同じ問いを抱いていました。
トマスはたまらず、こう訴えました。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょうか。」
これは、今を生きる私たち自身の問いでもあります。
この問いに対して、主イエスは「その道を教えよう」とは言われませんでした。
戸惑うトマスに、そして今、不安の中にいる私たち一人ひとりに向かって、こう言われたのです。
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」
主イエスご自身が、父なる神のもとへ導く「道」そのものなのです。
この方のほかに、道はありません。
もし、主イエスを通らなくても、そこへ至る道があるとするならば、「私は真理である」と言われたその言葉は、成り立たなくなってしまいます。
主イエスが真理であるからこそ、この道は決して揺らぐことがありません。
私たちはもう、他の道を探して迷う必要はないのです。
主イエスご自身が、私たちの道となってくださっているからです。
主イエスは、世の罪をその身に背負って、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活されました。
この復活によって、死に打ち勝たれたのです。
「私は命である」という主イエスの言葉が、ここに確かな現実となりました。
主イエスが命であるからこそ、私たちが歩むこの道は、永遠の命へと続く道なのです。
私たちは、死を恐れて立ち止まる必要はないのです。
主イエスご自身が、私たちの命となってくださっているからです。
だからこそ、主イエスという道は、私たちにとって最も確かな道なのです。
この道がある限り、私たちの歩みは、行き止まりで終わりません。
この確かな道が示された今、私たちは、復活の主イエスに導かれる者として、それぞれの生活の場へと歩み出していくのです。
明日、あなたが家族のために食卓を整えるとき。
あるいは、職場へと向かうとき。
その何気ない日常の足元に、主イエスという道は確かに続いています。
この道を歩むとき、喜びの日もあれば、涙の日もあるでしょう。
時には、足が止まりそうになることもあるかもしれません。
それでも、私たちは一人で歩むのではありません。
道である主イエスが、私たちを導き、共に歩んでくださるからです。
主イエスは約束されました。
「私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」と。
道に迷いそうなとき、私たちは主の御名によって祈ることができます。
そして私たちには、旅の仲間が与えられています。
互いに祈り合い、道を見失いそうなときに支え合う、教会という名の旅の家族です。
だからこそ私たちは、再び立ち上がり、歩み続けることができます。
主イエスという一つの道の上を、共に祈り、支え合いながら、明日への一歩を踏み出していきましょう。
天の父なる神様。
私たちは、あなたのもとへ至る道が、主イエスご自身であることを知りました。
私たちは、いつか天に帰る者であるだけではありません。
すでに今、この時から、主イエスによってあなたのもとへと導かれている者です。
私たちはもう、自分自身で道を探し回る者ではありません。
主イエスという道に導かれている者です。
どうか、私たちの毎日の歩みが、孤独なものではなく、主と共に、そして与えられた仲間と共に歩む、希望の旅路となりますように。
道が見えない夜も、立ち止まりそうになる朝も、
私たちの足元を照らす主イエスという道を見失うことなく、共に歩み続けることができますように。
最後の一歩を終えるその日まで、この確かな希望のうちに、私たちを歩ませてください。
道であり、真理であり、命である、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。
アーメン
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。(ルカ7:36-38)
この短い聖書箇所を読んで、あなたは印象に残ったことは何でしょうか?
おそらくある女がイエスに香油を塗ったことではないでしょうか?
合ってますか?
私たちはどうしても”人”の方に目が行ってしまうのです。
正解不正解はありませんが、もっと”神”に目を向けませんか?
イエスさまがファリサイ派の人の家に入られたのです。
どんな恵みでしょうか!
神さまが今も私のうちに入っておられるのです。
日課:ルカによる福音書24:13-35
私たちは毎週日曜日、こうして主日の礼拝に集まっています。
長く教会に通っていると、礼拝がいつしか習慣となり、その意味をあまり意識しなくなることがあるかもしれません。
そこで、あらためて問いたいのです。
私たちがささげているこの礼拝は、一体何を意味しているのでしょうか?
今日の福音書に記されているのは、エマオへ向かう二人の弟子の物語です。
それは、主イエスが復活されたその日、日曜日に起こった出来事でした。
実は、この出来事の中に、私たちが毎週ささげている礼拝の姿が、すでに示されているのです。
そしてその姿を通して、礼拝の意味が、そこに明らかにされているのです。
今日は、このエマオへの道を、弟子たちと共に歩むようにして、私たちの礼拝が本当は何を意味しているのかを、聖書から共に聞き取っていきたいと思います。
エルサレムからエマオへ向かう道を、二人の弟子が重い足取りで歩いていました。
深い失望と疑問の中で、彼らは主イエスのことを語り合っていました。
自分たちの救い主として期待していたイエスが、十字架につけられて死なれたからです。
この二人をエマオへの道に結びつけていたのは、主イエスにほかなりませんでした。
そのときです。復活された主が彼らに近づき、共に歩み始められました。
私たちがこうして主日の礼拝に集うのは、まさにこれと同じなのです。
実に、私たちをここへと結びつけているのも、主イエスにほかなりません。
ここに来るのは、「たまたま時間が空いたから」とか、「来ないと落ち着かないから」といった理由だけではありません。
むしろ、私たちの思いを超えて、父なる神が、主イエス・キリストを通して、今、私たちをここに招き、集めてくださっているのです。
主のみ名のもとに集められるとき、復活の主が、目には見えなくても、確かに私たちのただ中に来てくださるのです。
しかし、私たちはそのことに、いつも気づいているわけではありません。
エマオへの道を歩いていた二人の弟子も、目は遮られていて、主イエスが目の前におられても、それが主であると気づくことができませんでした。
また、救い主は苦しみを受け、その後に栄光に入らなければならないという、神の御心を理解することもできませんでした。
人間の知恵や力だけでは、神の御心を知ることはできないのです。
だからこそ、主イエスご自身が語ってくださるのです。
そこで主イエスは、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを解き明かされました。
彼らがそのみ言葉に耳を傾けているうちに、閉ざされていた心は次第に開かれていきました。
後になって二人は、こう語り合いました。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。
私たちもまた、今、礼拝において、聖書朗読と説教を通して、神のみ言葉に耳を傾けています。
それは単なる知識ではなく、今を生きる私たちに、主イエスが語りかけてくださる「生きた言葉」です。
そのみ言葉が語られるとき、閉ざされていた心は開かれ、冷えていた心に、聖霊が再び火を灯してくださいます。
消えかけていた信仰の火が、み言葉によって再び燃え上がるのです。
主の言葉によって、弟子たちの心は燃えていきました。
やがて日も暮れ、夜が更けかけるころ、その燃える心に導かれるようにして、二人は主イエスを引き止め、「一緒にお泊まりください」と強く願いました。
そして共に食卓に着かれると、主イエスはパンを取り、祝福して裂き、それを彼らにお渡しになりました。
すると、彼らの目が開かれ、目の前におられる方が主イエスであると分かったのです。
しかしその瞬間、主イエスの姿は彼らの目には見えなくなりました。
私たちもまた、礼拝においてみ言葉に耳を傾け、心を燃やされるとき、主イエスを人生にお迎えし、共に歩み、共にとどまっていただきたいと願うようになります。
主は、その願いに確かに応えてくださいます。
それが、私たちに与えられている聖餐です。
この聖餐において、私たちは復活された主イエスご自身との交わりにあずかります。
十字架で裂かれた主の体と流された血によって、私たちは今、主の命にあずかり、生かされているのです。
目に見える姿ではなくとも、主イエスご自身は今、私たちの内に、また私たちのただ中に共におられます。
この聖なる食事を通して、私たちは復活の主イエスと結ばれ、その命に生かされる者とされているのです。
主イエスだと分かった二人の弟子は、暗闇が深まる中にもかかわらず、すぐにエルサレムへと引き返しました。
出発の地であったエルサレムが、再び向かうべき場所となったのです。
かつてエルサレムを離れるとき、弟子たちの心は失望と疑問に満ちていました。
しかし今や、その心は希望と確信へと変えられていました。
彼らは、一つの使命に燃えていました。
それは、復活された主イエスに出会ったこの出来事を、他の人々に証しするという、主から託された使命でした。
その喜びはあまりにも大きく、彼らはそれを伝えずにはいられなかったのです。
私たちもまた、この礼拝に集められ、み言葉と聖餐によって養われ、そして、それぞれの歩みの場へと遣わされていくのです。
それは、主から託された使命を担って、この世へと送り出されるということです。
「主と共に行きましょう」「主の御名によって」との呼びかけの通り、復活の主イエスご自身が、今も、そしてこれからも、私たちと共に歩み、この使命を共に担い、私たちを導いてくださるのです。
私たちは、この世のただ中から教会へと招かれ、集められます。
そして、み言葉によって心を燃やされ、聖餐によって霊の目を開かれます。
こうして私たちは、復活の主イエスの良き知らせを携え、それぞれの生活へと遣わされていくのです。
それは、エルサレムからエマオへ向かい、そして再びエルサレムへ戻った弟子たちの旅のようなものです。
これこそが、私たちがささげている礼拝の意味なのです。
礼拝は、ここで終わるのではありません。
教会を出た後も、私たちの日々の歩みの中で続いていくのです。
私たちの一週間の生活そのものが、神にささげられる礼拝となり、御心に応える歩みとなるのです。
その歩みの中で、私たちは再び主のもとへと集められます。
ですから、私たちは日曜の朝、教会に「来る」のではなく、一週間の旅を終えて神の家へ「帰ってくる」のです。
ここへ来たら、互いに「ただいま」と言いましょう。
そして、「おかえりなさい」と迎え合いましょう。
今日の礼拝で受けたみ言葉と、これからあずかる聖餐の恵みを携え、主と共に歩むその日々こそが、私たちの真の礼拝なのです。
復活の主は、今日も私たち一人ひとりの歩みの中に、確かな命として共におられます。
日課:ヨハネよる福音書20:19-31
去年の四月、私がこの教会に着任して、初めて皆さんにお分かちした説教が、まさに今日のヨハネによる福音書の箇所でした。あのときの説教を、皆さんは覚えているでしょうか。もし今日、まったく同じ説教をしたなら、「ああ、去年と同じだ」と気づかれるかもしれませんね。
しかし、聖書のみ言葉とは本当に不思議なものです。同じ箇所を読んでいるのに、その時々で、新しく心に響いてきます。私たちの歩みの中で、またこの教会の歩みの中で、聖霊が、同じみ言葉を「今を生きるための言葉」として届けてくださるからです。
この一年を共に歩んできた今、改めてこのみ言葉に向き合うとき、私たちは何を聴くのでしょうか。今日は、この聖書箇所との「二度目の出会い」として、神が今、私たちに語りかけようとしておられることに、共に耳を傾けていきたいと思います。
主イエスが復活されたその日の夕方、弟子たちは深い恐れの中にいました。自分たちの先生であった主イエスが捕らえられ、十字架につけられて殺されたからです。「次は自分たちの番ではないか。」その恐れが、彼らを一つの家の中に閉じ込めていました。
扉には固く鍵がかけられ、外から誰も入って来られないようにしていました。しかし、その恐れに満ちた空間に、復活された主イエスが来られ、弟子たちの真ん中に立たれたのです。そしてこう言われました。「あなたがたに平和があるように。」
主イエスは、十字架で釘に打たれたその手を、また槍で突き刺された脇腹を、弟子たちにお見せになりました。弟子たちは、その傷跡を見て喜びました。目の前におられる方が、確かに自分たちのために、十字架で死なれた、あの主イエスであることが分かったからです。
今の私たちにとっても、その傷跡は喜びのしるしなのです。それは単に主イエスであることを証明するものではありません。私たちの罪と恐れをすべて引き受け、死に打ち勝たれた主の勝利のしるしだからです。
そして主イエスは、もう一度言われました。「あなたがたに平和があるように。」この言葉は、ただの挨拶ではありません。恐れている弟子たちをなだめるための言葉でもありません。
主イエスは、最後の晩餐の席で、すでに弟子たちにこう約束しておられました。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)この平和は、世界が与えることのできる平和ではありません。主イエスご自身が与えてくださる、主イエスの平和なのです。
さらに、主イエスはこう言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(16:33)この平和は、十字架の苦しみを通して、主イエスが世に勝ってくださったことによる平和なのです。
だからこそ、復活された主イエスは、恐れの中にいる弟子たちに言われました。「あなたがたに平和があるように。」そしてこの平和は、今、ここにいる私たちにも語られている言葉なのです。
先ほどまで、弟子たちは恐れの中に閉じこもっていました。外の世界を恐れていたのです。その弟子たちに、主イエスは言われました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
閉じこもっていた者たちが、今度は世界へと遣わされる者となるのです。しかし、それは弟子たちが強くなったから、勇気を持ったからではありません。主イエスが、彼らに平和を与えてくださったからです。主イエスが与えてくださるこの平和は、人を閉じこもらせる平和ではなく、世界へと遣わしていく平和なのです。
復活された主イエスは、今も私たちのただ中に立っておられます。そして同じ言葉を語りかけておられます。「あなたがたに平和があるように。」そして、その平和を与えたうえで、こう言われるのです。「私もあなたがたを遣わす。」
以前、「ミッション探究」をテーマとした信徒懇談会で、皆さんにこのお話をしました。ミッション、すなわち宣教という言葉は、「遣わす」という意味を持っています。父なる神は御子イエスをこの世に遣わし、さらに聖霊をお与えになりました。そして今、私たちは主イエスから宣教という使命を託され、この世界へと遣わされています。つまり教会とは、神によってこの世界へと遣わされた群れなのです。
私たちもまた、この世の中で、様々な不安や恐れを抱えながら生きています。心の扉を閉ざしてしまうこともあります。しかし主イエスは、鍵のかかった家に入るようにして、その閉ざされた場所に来てくださいます。そして私たちに、平和を与えてくださるのです。
その平和によって、私たちは再び歩み出すことができます。いや、むしろ歩み出さずにはいられません。復活された主イエスが与えてくださる平和の中で、私たちはこの世界へと遣わされていくのです。
一年前、この同じ福音書の箇所から、「信仰」をテーマに皆さんと分かち合いました。主イエスが「見ないで信じる人は、幸いである。」と言われた、あの場面です。あれからの一年、皆さんの歩みをそばで見つめてきました。そして今、教会の皆さんの中に、確かで豊かな信仰が育っていることを深く実感しています。
何人かは聖書を読むようになったと聞きます。教会の活動も広がり、信徒同士のつながりも強くなり、教会は以前よりも生き生きとしてきました。信徒の数が急に増えたわけではありません。しかし、主日礼拝に集う人数は、少しずつ増えています。それは小さな数字かもしれません。それでも、その一人ひとりが、神に招かれてここに集められているのです。
それは、神がこの教会の中で、静かに、しかし確かに、働いておられるしるしではないでしょうか。聖書のみ言葉が読むたびに新しく私たちに語りかけるように、神はこの教会の中でも、日々新しい働きを続けておられるのです。
信仰は、教会の中で育てられるものです。しかし信仰は、教会の中だけにとどまるものではありません。信仰を与えられた私たちは、今度はこの世界へと遣わされる者となるのです。
一年前、私たちは「信仰」を共に見つめました。そして今、主イエスは私たちをこの世界へ遣わしておられます。ですから、私たちは今日、ただ礼拝を終えて帰るのではありません。それぞれの家庭へ、学校へ、職場へ、そして、この社会の中へと遣わされていくのです。
この一年の実りを胸に、宣教という使命を担い、主イエスの平和を携えて、それぞれの場へと歩み出していきましょう。
カトリックの神父が聖公会に転入したら、司祭にはならない、あくまで一信徒です。
このように、神父、司祭、牧師などは、あくまで宗教においてのタイトルです。
私たちは、主イエスで弟子であり、宗教のタイトルに固執せず、弟子にふさわしく、日々邁進したいと思います。
洗礼者ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ 1:29-34)
大人になり、かつて親が整えてくれていた日々の営みを自ら担うようになって、どれほどの配慮と労苦に支えられてきたのかに気づかされます。当たり前だと思っていた平穏な生活が、実は誰かの尊い犠牲の上に成り立っていたことを知るとき、そこに注がれていた愛の深さに、言葉にならない感謝を覚えるのです。
大斎節に、私たちはもう一つの「愛の重み」と向き合います。降誕の喜びの背後には、神が独り子を「世の罪を取り除く神の子羊」として与えてくださったという厳粛な事実があります。主の十字架に心を向けるとき、自分がどれほど大きな犠牲によって生かされているかを深く知らされます。この愛を胸に、謙遜な祈りをもって主と共に歩みましょう。
日課:ヨハネよる福音書4:5-42
私たちは、なぜ、今日、ここに集まっているのでしょうか?
考えてみれば、ここは不思議な場所です。体を癒したいなら、病院があります。心の安らぎが欲しいなら、静かなカフェがあります。願いを叶えたいなら、「よく当たる」と評判の場所もあると聞きます。人とのつながりを求めたいなら、地域の集まりという選択肢もあります。そして、正しく生きたいなら、あえてキリストを信じなくても、立派に、誠実に歩んでいる人は大勢います。
それでも——。それでも、私たちは、ここにいます。なぜでしょうか?
今日の福音書は、一人のサマリアの女が井戸に水を汲みに来る場面から始まります。彼女が求めていたのは、ただ生活のための水、のどの渇きを癒す水でした。しかし、その井戸で、彼女が出会ったのは、単なる水ではありませんでした。
私たちもまた、それぞれに何かを求めて、ここに来ているのかもしれません。満たされているはずなのに、どこか渇いている。忙しく生きているのに、心の奥に空白がある。その「名付けられない渇き」に気づいているからこそ、私たちは今日、ここにいるのではないのでしょうか。
時刻は正午ごろ。一日のうちで最も暑い時間です。主イエスは井戸のそばに座っておられました。焼き付くような日差しの中、旅に疲れ、そこに身を置いておられます。そこへ、一人の女がやってきました。サマリアの女でした。
当時、サマリア人とユダヤ人の間には、長い歴史の遺恨がありました。民族としての偏見があり、礼拝の場所をめぐる宗教の対立がありました。互いに距離を保ち、言葉を交わすことさえ避ける関係です。そのユダヤ人の男である主イエスが、サマリア人の女に、自ら声をかけられました。当時の常識を覆す出来事でした。単なる挨拶ではありません。彼女の人生の奥底へ分け入っていく、長く、深い対話の始まりでした。
この女が背負っていたものは、「サマリア人」という立場だけではありません。彼女には五人の夫がいました。そして、今連れ添っている人も夫ではないという複雑な背景がありました。詳しい事情は記されていません。しかし、彼女が周囲の目線を避けながら、生きて来たであろうことは想像できます。だからこそ彼女は、誰も来ない暑い正午を選んだのでしょう。できることなら、誰にも会わず、何も語らず、ただ水を汲んで、静かに帰りたかったはずです。
しかし、その井戸で、彼女は主イエスに出会いました。主イエスは、彼女の過去も、隠しておきたい現在も、すべて知っておられました。それでも決して責め立てることなく、問いを重ね、語り続け、彼女を真実へと導かれました。
主イエスは、歴史の遺恨を越え、民族の偏見を越え、宗教の対立を越えて、一人の人間にまっすぐに向き合われます。主イエスが見ておられたのは、彼女の内にある、満たされることのない渇きでした。そして、その渇きは、今ここにいる私たちの内にもあるのではないでしょうか?
のどの渇きを一時的に癒すだけなら、どんな水でも構いません。ひと口含めば、その瞬間の渇きは収まるでしょう。しかし、しばらくすれば、また渇きます。井戸の水とは、そういうものです。
あのサマリアの女も、水を飲んでまた渇き、そのたびに井戸へ足を運びました。その繰り返しは、彼女の人生そのもののようにも見えます。満たされたはずなのに、なお空しさが押し寄せる。そんな日常の中で、彼女は常に何かを求め続け、歩みを重ねてきたのでしょう。それは、現代を生きる私たちの姿と、どこか重なってはいないでしょうか。
人は、この心の渇きを、さまざまな方法で満たそうとします。宗教はその一つです。世にある様々な宗教には、守るべき教えがあり、生き方を導く知恵があります。しかし、どれほど真面目に教えを守り、熱心に修行を積んだとしても、それは一時しのぎの水。言わば「外から与えられる水」に過ぎません。心の奥にある渇きを、完全に消え去ることはできないのです。
そんな私たちに、主イエスはこう言われました。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。」この水は、私たちが汲みに行く必要はありません。主イエスが与えてくださるのです。この水は、人の内で泉となり、絶えず湧き出る生ける水です。私たちの内で、永遠に生き続ける命の水なのです。
この命の水を与えることができるのは、ただ、主イエスしかおられません。なぜなら、主イエスだけが、私たちの渇きの根源である罪を、背負ってくださったからです。主イエスだけが、私たちの代わりに、あの十字架につけられました。主イエスだけが、罪の結果である死を引き受け、葬られました。そして、主イエスだけが、その死を打ち破り、復活されたのです。その復活の命こそが、今や尽きることのない命の泉となって、私たちの内に湧き出続けているのです。
だからこそ、私たちが信じるものは、単なる「宗教」ではありません。外から人を支えようとするものではありません。内から命が溢れ出す「信仰」なのです。
主イエスこそが、約束の救い主であると確信したとき、あのサマリアの女は、水を汲むために持ってきた水がめを、井戸のそばに置いたまま、町へと駆け出していきました。もはや彼女にとって、何度も渇きを繰り返す井戸の水を、汲み続ける必要はなくなったのです。彼女の内には、すでに、決して渇くことのない生ける水が湧き始めていたからです。
彼女は、その命の水を、自分だけのものにしておくことができませんでした。この水を、他の人たちにも飲んでほしい——その思いが、彼女を町へと向かわせました。かつては、人の目線を恐れ、避けるようにして生きてきた彼女が、今や自ら、人々であふれる町の中へと飛び込んでいきます。変えられたのです。内から、新しくされたのです。永遠の命に至る水が、彼女の内から湧き上がって、彼女を外へと押し出したのです。
やがて、彼女の言葉を聞いた町の人々もまた、主イエスを信じました。彼らが信じたのは、彼女の言葉よりも、生まれ変わった彼女の、その生き生きとした姿を見たからではないかと思います。町の人々は、主イエスを自分たちの町に迎え入れ、そのみ言葉を聞き、さらに多くの人が主イエスを信じました。生ける水は、一人の心にとどまることなく、町全体へと広がっていったのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん。あの井戸の出来事は、決して遠い昔の物語ではありません。主イエスに出会うとき、同じ命の水が、私たちの内にも湧き出始めます。水がめは、もう必要ありません。主イエスの前に、置いて良いのです。その新しくされた命で歩み出すこと——それこそが、主イエスが語られた「霊と真実をもって献げる礼拝」なのです。
日課:マタイよる福音書17:1-9
出エジプト記24:12-18
ペトロの手紙Ⅱ1:16-21
教会暦の中には、主イエスの変容に関わる日が二つあります。一つは、8月6日の「主イエス変容の日」です。そしてもう一つが、今日迎えている大斎節前主日です。
同じ出来事を記念する日ではありますが、そこに向けられるまなざしは、少し異なります。8月6日の「主イエス変容の日」は、主イエスの栄光そのものに、焦点が当てられる日です。それに対して、大斎節の入り口に立つこの主日は、栄光だけに目を向ける日ではなく、むしろ、その栄光が、どこへ向かっていくのかを、問いかける日なのです。
今日、この礼拝に集まっている私たちの中には、喜びのただ中にある人もいれば、先の見えない不安や、言葉にすることのできない重荷を抱えている人もいるでしょう。そのすべてを主のみ前に置きながら、今、与えられているみ言葉に、共に心を傾けていきたいと思います。
聖書は、イエス・キリストが、やがて栄光のうちに、再び来られると約束しています。しかし、そのは単なる遠い未来の出来事ではありません。今日、私たちは、主イエスの弟子ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネの目を通して、その来るべき栄光を、あらかじめ垣間見ることができるのです。
今日の第二朗読、ペトロの手紙で、ペトロは力強く証言しています。主イエスの変容の出来事は、人の心を引きつけるために、巧みに作られた作り話ではありません。彼自身がヤコブ、ヨハネと共に、その厳かな瞬間を確かに目撃した出来事だったのです。
主イエスは、三人の弟子を連れて、高い山に登られます。そこで、主イエスの姿が変わりました。その姿は、もはや「マリアの子」としての姿ではなく、まことに神の子であることを示す、栄光そのものでした。
さらにそこに、モーセとエリヤが現れ、旧約の律法と預言者を体現する二人が、主イエスと語り合っていました。ルカによる福音書は、彼らが語り合っていたのは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる十字架の死であったと記しています。栄光のただ中で語られていたのは、苦難と死への道であったのです。
ペトロは、この光景にすっかり心を奪われ、思わずこう言います。「ここに幕屋を三つ建てましょう。」思い起こせば、その六日前、主イエスが初めてご自身の死と復活について、弟子たちに打ち明けられたとき、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、それを受け止めることができませんでした。そのペトロにとって、この山の上で示された栄光は、あまりにも魅力的で、ここにとどまりたいと願ってしまうほどのものでした。
ペトロのこの気持ちは、私たちにもよく分かります。日々の暮らしの中で、私たちもまた、目の前の厳しい現実から目をそらし、居心地のよい場所にとどまっていたくなることがあります。この礼拝のひととき、この信仰の喜びの中にいるとき、思わず「このままでいい」と感じ、山を下ることをためらってしまうのです。
しかし、ペトロが話しているそのとき、雲が彼らを覆い、その雲の中から、声が響きました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」この声は、ただ栄光に輝く姿を見つめよ、という呼びかけではありません。むしろそれは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語ってこられた、あの主イエスの言葉に、今こそ聞け、という、神ご自身からの招きなのです。
弟子たちは、ひどく恐れました。それは、神の声そのものへの恐れであったのか、それとも、自分たちもまた十字架の道へと招かれているという現実への恐れであったのか、分かりません。そのような弟子たちのもとへ、主イエスは近寄り、手を触れて言われます。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」そして、主イエスは、弟子たちを連れて山を下って行かれます。それは、栄光を捨てるためではありません。人々の罪を担い、神と関係を回復し、まことの神の栄光を、この世界にもたらすためでした。
弟子たちがやがて目にするのは、太陽のように輝く顔ではなく、茨の冠を被せられた主イエスの顔です。白く輝く衣ではなく、衣をはぎ取られ、十字架につけられる主イエスの姿です。そのとき、彼らは恐れ、つまずき、逃げ出してしまうでしょう。主イエスの変容は、ご自身がまことの神の子であり、この十字架の先に、確かな栄光があることを、示してくださったのです。
キリストの信仰は、山の上に残される感動ではありません。主日の礼拝は、確かに「山の上」です。ここには賛美があり、平和があります。しかし私たちは、やがて、それぞれの現実へと遣わされていきます。そこには、思い通りにならない現実が広がっています。家庭で、職場で、病の中で、不安や別れのただ中で、私たちは山を下って生きて行かなければなりません。
しかし、私たちはすでに、ペトロたちと共に、主イエスの栄光を垣間見た者です。だからこそ、どのような現実の中にあっても、主イエスの歩みの先に、必ず命と栄光があると信じて、歩み続けることができるのです。
今日の福音書に記されている主イエスの変容は、山の上で輝く栄光を見せるためだけの出来事ではありません。大斎節前主日にふさわしく、それは私たちのまなざしを、これから始まる大斎節へと向け、さらに、私たちが歩んでいかなければならない、厳しく、時に理解しがたい道を支えるために、神から与えられた希望なのです。
今週の水曜日から、大斎節が始まります。この四十日余りの歩みの中で、私たちはあらためて、主イエスの言葉に聞き、その歩みに心を向けて生きるよう招かれています。山の上で弟子たちが目撃した栄光は、決して過去の出来事にとどまりません。今度は私たち自身が、それぞれに遣わされる場所において、主イエスの栄光を証しする者として、歩み出していくのです。
兄弟姉妹の皆さん、どうか忘れないでください。山を下る弟子たちに触れた、あの温かな手は、今、ここにいる私たち一人ひとりの背中にも、確かに置かれています。主イエスは、私たちを山の上に置き去りにはなさいません。また、私たちを一人きりで山を下らせることもありません。だからこそ、恐れることはありません。
山の上で示された栄光を心に刻みながら、主イエスと共に山を下り、主イエスと共に、それぞれの日常へと出て行きましょう。家庭へ、職場へ、病や不安、別れのただ中へ。そこにこそ、大斎節の道があり、十字架を通って、命へと続く、主イエスの道が備えられているのです。
前の主日や、なかなか礼拝に来なかった信徒さんが私を見ると、礼拝に来なかったことについて、謝ってきました。
宗教だと捉えれば、教会の教役者(牧師など)に謝るかもしれませんが、信仰であれば、謝る対象は神様です。
日課:ヨハネによる福音書1:28-42
皆さんは今日、どのような思いを胸に、この教会に来られたでしょうか?私たちは日々の生活の中で、意識しているかどうかに関わらず、何らかの「目的」を抱いて行動しています。学校で学ぶのは、知識を身につけるためです。働くのは、生活を支えるためです。
では、私たちは何を求めて、主イエスに従っているのでしょうか?主イエスに従うことで、私たちは何を期待し、何を願っているのでしょうか?安心でしょうか?癒しでしょうか?それとも、今の抱えている苦しみからの解放でしょうか?
しかし、もし私たちが、主イエスを「自分の願いをかなえてくださる方」としてのみ求めているとしたら、その願いが思い通りにならないとき、私たちはたやすく失望してしまうかもしれません。
今ここで、少し立ち止まって、自分自身に問いかけてみてください。あなたは、主イエスに何を求めて、この教会に来ているのでしょうか?
ヨハネによる福音書で、主イエスが最初に語られた言葉は、「何を求めているのか」でした。洗礼者ヨハネは、自ら洗礼を授けた主イエスを見かけ、そばにいた二人の弟子にこう告げます。「見よ、神の子羊だ。」その言葉を聞いた二人は、主イエスの後について行きました。すると、主イエスは振り返り、彼らを見つめて、こう問いかけられました。「何を求めているのか」。
考えてみてください。このとき、主イエスには、ほかにいくらでもかける言葉があったはずです。「こんにちは」と挨拶することもできたでしょうし、「なぜ、ついて来るのか?」「何か困っているのか?」と尋ねることもできたでしょう。
それでも主イエスは、この問いを選ばれました。それは、信仰の強さを測るための問いではありません。立派な答えを引き出すための問いでもありません。むしろ、自分でも気づいていない、心の奥の願いに目を向けさせる問いです。
この問いは、決して二千年前、その場にいた二人だけに向けられたものではありません。主イエスの後を歩もうとするすべての人、一人ひとりに投げかけられている問いです。
私たちもまた、それぞれの思いを胸に、主イエスの後を歩もうとしています。信仰に確信をもって歩んでいると感じるときもあれば、迷いや不安の中で、ただ後ろについて行っているだけのように思えるときもあるでしょう。
しかし主イエスは、そんな私たちの歩みをも振り返り、一人ひとりを見つめ、今日も同じ問いを投げかけておられるのです。「何を求めているのか」。
この問いに向き合うために、あらためて、洗礼者ヨハネの言葉に導かれて、主イエスの後について行った二人のことを、もう一度思い起こしてみましょう。彼らが主イエスに従ったのは、洗礼者ヨハネが、主イエスを指してこう告げたからです。「見よ、神の子羊だ。」では、「神の子羊」とは、いったい何を意味するのでしょうか?
当時、人々は罪の赦しを願い、子羊をいけにえとして神に献げていました。その小羊は、自分自身の罪を贖うために、一人ひとりが備えるものでした。しかし、洗礼者ヨハネが指し示した主イエスは、人が備えた小羊ではなく、神ご自身が備えられた小羊そのものです。だからこそ、主イエスは「神の子羊」と呼ばれるのです。
人が備える小羊が贖えるのは、限られた一人ひとりの罪に過ぎません。しかし、神が備えられたこの小羊は違います。主イエスは、ただ一人のためではなく、世の罪を除くために来られた、まことの神の子羊なのです。
「何を求めているのか」。この問いの前で、私たちはやがて、気づかされます。世の罪を除く神の子羊である主イエスご自身が、すでに私たちに与えられていることを。そして、この方のほかに、真に求めるものは何もないということを。
私たちが主イエスに従うのは、何かを得るためではありません。私たちが主イエスに従うのは、主イエスが、私たちの罪を背負い、私たちの罪を取り除く、神の子羊だからです。
少し前に、主教宛に行われた個別アンケートの中に、「教会に何を求めているのか?」という問いがありました。そこには、神に近づきたいという願い、信徒同士の交わりを大切にしたいという思い、心の安らぎを求める声、そして、誰にとっても安心していられる場であってほしいという、多くの切実な声が寄せられていました。
では、これらの願いは、どのようにして実現されるのでしょうか?そのカギとなるのは、主イエスのもとに「泊まる」ことです。今日の福音書で、二人の弟子は主イエスのもとに泊まりました。ここで言われている「泊まる」とは、ただ一時的に立ち寄ることではありません。そこにとどまり、主イエスとの関係の中に生きることを意味しています。
昨年から、手芸の会やお花クラブの活動の中に、聖書の朗読や祈りを取り入れてきました。そして今年は、聖書の学びの機会をさらに充実させていきます。こうした取り組みを行うのは、私たち一人ひとりが、神の子羊である主イエスのもとに泊まるためです。教会の中心に、いつも主イエスがおられること——それこそが、何よりも大切なのです。
今日の福音書で、迷いながら歩む二人に、主イエスはこう言われました「来なさい。そうすれば分かる」。この言葉は、今も私たち一人ひとりへの招きです。その招きに応え、主イエスのもとに泊まるとき、私たちは、神の子羊である主イエスを、知識としてではなく、いのちとして本当に知るようになるのです。
主イエスのもとに泊まるとき、私たちは変えられていきます。シモンが主イエスによって、「岩」と名付けられ、後に使徒ペトロとされたように、私たちもまた、主イエスとの交わりの中で、少しずつ、しかし確かに変えられていくのです。そして、私たち一人ひとりが変えられていくとき、教会もまた、変えられます。
教会は、神に近づく場となり、信徒同士が心を通わせる場となり、真の安らぎを見い出す場となり、そして、誰もが安心して、身を置くことのできる場となっていくのです。
今日も主イエスは、私たち一人ひとりを招いておられます。「来なさい。そうすれば分かる。」その招きに応え、行きましょう。主イエスのもとに泊まりつつ、神の子羊である主イエスと共に、今週の歩みへと遣わされていきましょう。
黙想会で、今後信徒さんをどう導いていくのかを神さまに問いました。低木の樹のところに導かれ、その樹の枝に、ところどころに葉っぱが残っています。信徒さんがまさにこの樹のようだと嘆きます。葉っぱが残っている人もいれば、葉っぱが落ちてしまう人もいます。
しかし、ふと下を見て、すべてが一つの根っこにつながっています。私に何を教えたいのだろうかとさらに黙想しました。ある一つのことが分かりました。
春になれば、葉っぱが出てきます。でなくても、その樹につながっている限り、必ずいつかは出てくるでしょう。葉っぱを出させるのは、私の役目ではありません。私は枝をその樹から断ち切らないようにすることだけに集中すればいいのです。
あけましておめでとうございます。新しい年の初めに、私たちは主イエスの“割礼”と“命名”という、二つの大切な出来事を覚えます。ユダヤの習慣では、生まれて八日目に男の子に割礼が施されます。主イエスもまた、人としてこの世に生まれ、律法に従って、割礼を受けられました。
元旦は、ちょうど主イエスの降誕から八日目にあたります。この日、救い主に「イエス」という名前が正式に与えられました。
私たち一人ひとりもまた、生まれたときに名前を与えられてきました。その名前には、きっと家族の思いや願いが込められているでしょう。「健やかに育ってほしい」「人を思いやる人になってほしい」、親は子どもに名前を付けるとき、その子のこれからの人生に希望を託すのです。
では、「イエス」と名付けられたこの幼子には、どのような使命が託されていたのでしょうか?新しい年の始まりにあたり、この御名に込められた神のみ心を、私たちもしっかりと受け止めていきたいと思います。
聖書によれば、「イエス」という名前をお与えになったのは、母マリアでも、父ヨセフでもありません。父なる神ご自身です。マリアが身ごもったその時すでに、その子を「イエス」と名付けるように告げておられました。では、なぜその名前は「インマヌエル」ではなかったのでしょうか?というのも、神はすでに預言者イザヤを通して、「おとめが身ごもって男を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタ1:23)と約束しておられたからです。
ここで注目すべき大切な点があります。「インマヌエル」は、“付けられる名前”というより、“呼ばれる名前”だということです。インマヌエルとは、「神は私たちと共におられる」という意味で、これは、人間の側から見た救い主の姿を表しています。つまり、人々は、この方の存在そのものを通して、確かに「神は私たちと共におられる」という現実を見い出すのです。
一方、「イエス」という名前は、ヘブライ語で「神は救い」の意味を持ちます。この名前は、神の側から示された救い主の本質と使命を表しています。つまり、独り子が地上に遣わされた目的は、人を罪と死から救い出すという、神の確かなみ心にありました。その神の救いのご計画が、「イエス」という名前に込められているのです。
多くの人は、全能の神であれば、「光あれ」と言われたときに光があったように。救いもまた一瞬で実現できるのではないかと考えます。そのため、人は、自ら救いを得ようとして、さまざまな手段を試み、善い行いに励み、努力を重ね、「神に喜ばれる者にならなければ」と思い込んでしまいます。
しかし、神の救いの道は、人間の想像をはるかに超えるものでした。「イエス」と名付けられた神の子は、まことの神でありながら、あえて人となられ、人間の姿で現れ、私たちと同じ世界のただ中に来られました。病気の人を癒し、失われた者を捜し、罪人に手を差し伸べ、ついに、すべての人の罪を負って、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活されました。
その全生涯こそが、「イエス」、すなわち「神は救い」という御名の意味を、余すところなく示しているのです。
主イエスが弟子たちに祈りを教えておられたとき、最初に口にされた言葉は、「み名が聖とされますように」でした。祈りの冒頭にこの願いが置かれていることは、神の御名がいかに尊く、中心的なものであるかを示しています。
今日の旧約聖書、民数記においても、神の御名こそが祝福の源であることが語られています。神は「私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう。」と約束されました。神の御名には、人を守り、照らし、恵みを注ぎ、そして、平和を与える力があるのです。
そして、今日の使徒書、フィリピの信徒への手紙は、神が主イエスを高く上げ、「イエス」という名前を、いかなる名前にもまさる名前としてお与えになったと告げています。それは、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、この御名の前にひれ伏し、イエス・キリストを主と告白するためでした。
このように、「イエス」という名前は、決して単なる呼び名ではありません。その御名には、天地創造の初めから決して変わることのない神のみ心と、人間への計り知れない愛が深く込められています。だからこそ私たちは祈るとき、「イエスの御名によって」祈るのです。この尊い御名は、確かに私たちを父なる神ご自身へと結び付けてくれるのです。
兄弟姉妹の皆さん、新しい年の初めにあたる今日、私たちはもう一度、「イエス」と名付けられた救い主を、心に迎えたいと思います。
自分の力では救うことのできない私たちのために、神はその独り子を世に遣わし、「イエス」という御名を与えて、そのみ心を明らかにされました。この御名を呼ぶとき、闇の中に光が灯され、私たちの内に新しい希望が芽生えます。
だからこそ、この一年も、私たちはこの「イエス」という御名を繰り返し呼びながら歩んでいきましょう。この御名と共に始まり
、この御名に支えられ、この御名に導かれて歩む一年としましょう。
去年3月の後半から、朝のみで10分から30分の聖書通読、ついに今日は完了しました。聖書協会共同訳聖書(続編付き) 明日からどうしようかな、英語聖書の通読をチャレンジしようかな。