日課:ルカによる福音書9:51-62
列王記上19:15-16,19-21
ガラテヤの信徒への手紙5:1,13-25
最近、有名人のスキャンダルが相次いでいます、特にその有名人たちを追っかけている人には、かなりの衝撃を与えているのではないかと思います。そもそも誰かに従うことは、それなりに時間、お金などといった代償が必要です。そこまでして、従う価値があるかどうかを考えなければなりません。
主イエスは私たちに従うようにと呼びかけておられます。しかし、その代償のために、主イエスに従うのをためらっている人は多いかと思います。主イエスに従うことは、そんなに大変なのでしょうか?そして、どうして主イエスに従う必要があるのでしょうか?今日の日課から、それらについて理解していきましょう。
イエスは自分の使命を果たすために、エルサレムに向かって、十字架の道を歩むことを決意されました。その途中で、サマリヤ人の村に入られましたが、村人に歓迎されませんでした。これは初めてのことではありませんでした、イエスは自分の使命を始められた時も、多くの困難に遭いました。故郷ナザレの人たちには受け入れなくて(4:16-30)、ファリサイ派の人たちにもさんざん悩まされました(6:1-11)。
もちろん、イエスに従いたいと思う人たちもいて、イエスも人たちを呼ばれました。今日のルカによる福音書には、イエスは三人の人との会話が記されています。一人目はイエスに従っていこうとした人で、イエスはその人に対して、自分に住む場所がないことを告げました。二人目の人については、亡くなった父親を葬りに行かせてほしいとも読み取れますが、そうではなくて、父親が亡くなるまでイエスに従うのを待ってほしいという意味合いが強いと思います。三人目の人も家族に別れを告げてから、イエスに従いたいと願いました。それに対して、イエスはすぐにでも付いてきなさいと言われました。
今日の旧約聖書の列王記には、この福音書と同じ状況でありながら、全く対応が異なっていました。エリヤに従うことを決めたエリシャは、まず自分の両親に別れを告げたいと願って、エリヤはその願いを受け入れました。これはイエスの対応とはまるっきり違うのです。イエスはそんな人情味のない人なのでしょうか?
イエス自身には住む場所がなくて、イエスに従ったとしたら、今後、イエスと共に苦しまなければならないでしょう。それに、イエスが語った家族に対する態度は、とても受け入れがたいものです。それは、今日の価値観からしても、同じことが言えると思います。
世間にとって、おそらくイエスは数多くある宗教の一つであるキリスト教の創始者、教祖に過ぎないと思われているでしょう。宗教って、幸せをもたらして、人をより良くして、より良い人生を送れるようにすることではないでしょうか?それなのに、イエスは全く逆のことを言っているように聞こえます。だとしたら、どうしてイエスを信じて、イエスに従う必要があるのでしょうか?
二千年前、ユダヤ人にとって主イエスは彼らを律法から解放して、自由をもたらされました。これは、今日の使徒書で、使徒パウロがガラテヤの信徒に語っていたことです。主イエスは自らの犠牲によって、律法を完成されたからです。(マタ5:17)
しかし、今もなお主イエスを信じないユダヤ人は、律法の束縛の中で生き続けています。イスラエルに行けば、きっとそれを感じることができると思います。律法では安息日である土曜日に一切の労働が禁じられていて、エレベーターのボタンを押すのも労働と見なされます。そのため、イスラエルでの土曜日になると、エレベーターのボタンを押さなくても、家にたどり着けるように、各階で自動的に止まる仕組みとなっています。しかしこれは、上層階に住んでいる人たちにとって、非常に不便で、ストレスを感じるでしょう。
律法はあくまでユダヤ人に与えられたもので、ユダヤ人でない私たちにとって、何の関係があるのでしょうか?その答えは、主イエスは私たちを罪から解放して、自由を与えてくださいました。この自由こそが私たち人生において、もっとも大切なことです。
これをしてはいけない、あれをしてはいけない、こうしなければならない、ああしなければならないという、いろん決まり事があるのは宗教で、宗教は人々を束縛します。多くの人が宗教を拒否する理由は、おそらく束縛を感じるからでしょう。しかし、主イエスは私たちを自由へと召されたのです。真の自由とは、神の愛と真理に基づいて生きることです。そういう意味で、主イエスは決して教祖なんかではありません、キリスト教も単なる宗教ではありません。そのため、教会は神からの自由を感じるところであって、絶対に束縛を与えるところであってはなりません。
私たちは、ある重要なことをはっきりと認識しなければなりません。それは、主イエスだけが私たちの罪を背負ってくださいました、主イエスだけが私たちのために十字架につけられました、主イエスだけが私たちを罪から解放してくださいました。主イエスだけが私たちに自由を与えてくださいました。そして、主イエスだけが神の子であるということです。主イエスに従うことと、有名人や、エリヤに従うことは、全く違うということです。主イエスに従うことは、まさに人生であって、命なのです。
主イエスは、私たちがこの世界のことよりも神の国を優先することを望んでおられます。後ろを振り向かないで、神の国を告げ知らせて、神の国にふさわしい者となることを望んでおられるのです。
イエスが漁師のペトロに、人間をとる漁師になるようにと言われた時、ペトロ、ヤコブとヨハネはすべてを捨てて、イエスに従いました。(5:10-11)イエスが徴税人のレビに私に従いなさいと言われた時、レビは何もかも捨てて、イエスに従いました。(5:27-28)イエスは弟子たちに対して、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、誰一人として私の弟子ではありえないと言われました。(14:33)
主イエスに従うために、私たちもすべてを捨てなければならないのでしょうか?その通りだと思います、しかし、私たちが捨てるのは、自分のプライド、怒り、妬み、分裂、無関心といったものです。これらはあまりにも深く根付いているから、捨て去ることは難しいでしょう。主イエスに従うことは、決して簡単なことではありません、だからこそ教会が必要で、聖職者の助け、兄弟姉妹の愛が必要です。
皆さんがより忠実に主イエスに従うことができるように、私はこの聖パウロ教会に来ました。私にとって、今の務めは生活のための仕事ではなくて、趣味でもなくて、使命です。使命とは、たとえ好きでなくても、苦しくても、やらなければならないことです。皆さんも主イエスに従うことが難しいと感じているでしょう、しかし一人ではない、教会の皆が支え合うことによって、私たちは一緒に主イエスに従うことができるのです。
十字架の道は、決して世間から歓迎されません。しかし、それは主イエスの正体及びその使命を理解していないからだと思います。もっと多くの人々が主イエスのことを知って、主イエスを信じて、主イエスを受け入れて、それによって、罪から解放されて、自由を手にする必要があります。そのため、私たちは主イエスに従って、神の国を人々に告げ知らせなければなりません。
主イエスに従う道は困難に満ちています、それでも主イエスに従う人たちがいました。来週の福音書では、主イエスが七十二人の弟子をお遣わしになったことが記されています。主イエスに枕する所がなくても、この七十二人は主イエスに従って、神の国を告げ知らせていました。
主イエスは私たちの罪のために、エルサレムに向かうことを決意されました。私たちの救い主である主イエスのために、皆さんも主イエスに従うことを決意したのでしょうか?ぜひ一緒に主イエスに従いましょう、そして、神の国にふさわしい者になりましょう。
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