聖書日課:創世記45:3-11,21-28
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:35-38,42-50
ルカによる福音書6:27-38
主イエスの教えの中で、わたしは一番難しいと感じたのは、敵を愛することです。敵とは、いわゆる傷つけられて、苦しめられて、それによって恨みのある相手のことです。幸いなことに、わたしには敵と言えるほどの人は特に頭に浮かべません。しかし、もし自分にそういう人が現れたら、その人を愛することができるのかと言われると、おそらく無理だと思います。
わたしがこう言いますと、皆さんは少しほっとするでしょう。確かに、わたしたちはキリスト者として、常に神のみ旨、主イエスの教えに従って生きて行こうと志しています。しかし、自分の敵を愛することは、決して簡単なことではありません。とはいえ、これは確かに主イエスの教えです、教えというより、しなさいという命令なのです。キリスト者として、わたしたちはどうしたら、自分の敵を愛することができるのでしょうか?
今日のルカによる福音書は、有名なイエスの説教の一部分に当たります。この説教の中で、イエスは敵を愛しなさいと言われました。あの当時、大勢の弟子とおびただしい民衆は集まっていましたが、イエスは弟子たちを見て言われたと書いてありますので、この説教の内容はどっちかというと、一般の人ではなくて、キリスト者、つまりわたしたちに向けた話です。
では、このイエスの説教について詳しく見ていきましょう。
人は生まれながらに善良なものでしょうか、邪悪なものでしょうか?このいわゆる性善、性悪説に対して、いったい聖書は何と言っているのでしょうか?神はお造りになったすべてのものをご覧になって、極めて良かったと言われました。(創1:31)そのため、人は本来善良のはずなのです。しかし、人の祖先であるアダムの不従順によって、人は生まれながらに罪人になりました。罪人であるがゆえに、わたしたちの中に、怒り、妬み、恨みなどといったネガティブな感情が自然に表れてきます。
そのため、わたしたちを傷つけた人、苦しめた人、すなわちわたしたちの敵に対して、呪い、仕返し、復讐といった行動に出るのが容易に理解できます。それに対して、イエスは敵を愛し、わたしたちを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、わたしたちを侮辱する者のために祈りなさい。わたしたちの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならないと命じられました。
人を愛することは、そんなに難しいことではないはずです。わたしたちは自分の夫または妻を愛して、子どもを愛して、親、兄弟、友達を愛します、つまり、人を愛することはできるのです。しかし、そういう人たちもわたしたちを愛してくれるので、イエスが言われたように、自分を愛してくれる人を愛するなら、何の誇りもなく、誰だってできます。敵を愛するとなると、話は別です。わたしたちが愛している人と同じように、愛することはとてもできません。
このイエスの命じられたことに対して、わたしたちが一番よく使う手口は、神が憐れみ深いことをいいことに、きっと許してくださるはずだと勝手に思い込んでしまうことではないかと思います。しかし、本当にそうでしょうか?
イエスは神は恩を知らない者に対しても、悪人に対しても、実に情け深いいと高き方であると言われました、イエスご自身もまた同じです。イエスが十字架につけられたときに、「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです。」と話されました。(23:34)イエスを憎む者、悪口を言う者、侮辱する者、イエスの頬を打った者、鞭した者、服を奪った者、そんな敵である者たちを含めて、イエスは赦すように父なる神に願っておられました。
わたしたちキリスト者は、いと高き方、神の子どもです。そのため、わたしたちの父が憐れみ深いように、神の独り子主イエスが憐れみ深いように、神の子どもであるわたしたちも憐れみ深い者になるはずです。敵を愛し、自分によくしてくれない人に善いことをし、返してもらうことを当てにしないで人に貸すことは、決して神の子どもとなるための条件ではなくて、神の子どもであることの自然な現れのはずです。
神の子どもであれば、人にしてもらいたいと思うことを、人にもして、そして、人を裁かない、罪人だと決めつけない、人を赦し、人に与えます。そうすれば、神から裁かれることなく、罪人だと決められることなく、赦され、与えられます。
主イエスの十字架の死によって、すべての人々の罪を贖い、イエスを信じた、受け入れたわたしたちはもう罪人ではありません。その上、聖霊がわたしたちの内に宿られたことによって、本来であれば、わたしたちには神の性質、いわゆる愛や、憐れみなどといったポジティブな感情が、もともとあったネガティブな感情を覆いかぶさるはずです。しかし現実では、多くの人はそうなっていないようです。
それは、わたしたちの信仰はまだ成長していないことの表れだと思います。今日の使徒書からも、コリント教会の信徒たちの信仰が成長していないことがよく分かります。彼らは信仰の核心である将来の復活に疑問を抱き、パウロから非難をされました。信仰が成長すれば、復活を信じるだけではなくて、まさに使徒パウロが言っている「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる。」(ガラ2:20)そういう状態になります。主イエスご自身が敵を愛しておられることから、主イエスがわたしたちの内に生きておられるのであれば、わたしたちも敵を愛することができるのです。
今日の旧約聖書に書かれたヨセフの出来事ですが、ヨセフは兄たちのせいでエジプトに売られました、しかし、そんな兄たちに対して、ヨセフは悔やんだり、責め合ったりする必要はないと話し、兄たちを許しました。かつて、ヨセフは父ヤコブから晴れ着をもらいました、しかし、それが災いに転じて、兄たちに妬(ねた)まれて、迫害に遭いました。今度は、ヨセフが兄たち全員に晴れ着を与えました。ヨセフが兄たちを仕返すことなく、復讐することなく、彼らを受け入れて、愛しました。
そのヨセフの一連の出来事について、聖書では何度も神がヨセフと共におられたと書かれています。それはどういうことでしょうか?神が常にわたしたちと共におられるはずです。ヨセフは自分がエジプトに売られたのは、実に飢饉から多くの民の命を救うために、神が彼をお遣わしになったのだと悟ったのです、それはまさに神が自分と共におられることの自覚です。そう自覚したからこそ、自分を傷づけた兄たちを愛することができたのです。
わたしたちは洗礼、また堅信の時に、何と誓ったのかを皆さんは覚えていますか?主教あるいは司祭が「あなたは生涯キリストの模範にならい、神を愛しまた隣り人を愛しますか?」に対して、わたしたちは何と答えたのでしょうか?「できます」でもなくて、「できません」でもなくて、「神の助けによって努めます」と答えたはずです。神の助けをなくして、わたしたち人ができることは何一つありません。
その神の助けとは、神がわたしたちの中に生きておられることの自覚であり、神がわたしたちと共におられることの自覚です、それによって信仰が成長します。では、どうしたらそう自覚できますか?わたしは神との交わりは不可欠だと考えています。そして、主日の礼拝はまさに神との交わりの最も効果ある方法だと思います。
わたしたちは神を賛美します。神は聖書朗読、説教を通じてそのみ言葉を届けられて、それに対してわたしたちは信仰告白をします。そして、わたしたちは神に懺悔します。神はわたしたちを赦し、平和を賜ります。わたしたちは信施を献げます。神はその独り子の体と血をわたしたちに与えられ、そして祝福してくださいます。この行ったり来たりの交わりは何とも素晴らしい交わりでしょう。しかし、週一回の交わりだけでは不十分です、日課、祈りなどを日々神との交わりが欠かせません。
主イエスのこの説教は、弟子たちだけに向けられたもので、それは、キリスト者だからこそ神の助けによって努めることができるからです。敵を愛しなさいという主イエスのこの命令に対して、わたしにはできません。しかし、神の助けによって努めれば、わたしは絶対にできる自信があります。
パウロはフィリピ―の信徒への手紙にこう書きました。“わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。”(フィリ4:13)わたしたちキリスト者は、神の助けによって努めれば、必ず神を愛して、兄弟姉妹を愛して、隣り人を愛して、そして、敵を愛することができます。
今現在も続く礼拝を通じて、神との大切なこの交わりの時間をぜひとも楽しんで、それから神と共におられることを自覚できるように、心からお祈り申し上げます。アーメン
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