2025年3月30日日曜日

説教《憐れみ深い者になろう》

 アメリカのトランプ大統領が就任の翌日に、恒例である首都ワシントンにある大聖堂の礼拝に出席しました。その礼拝の説教の中で、マリアン主教が、不法移民を取り締まる法令に署名したトランプ大統領に対して、憐れみを求めました。この“憐れみ”について、メディアの報道では“慈悲”、日本聖公会では“慈愛”という言葉に訳していますが、今までの聖書では“憐れみ”と表現してますので、ここで“憐れみ”を使わせていただきます。


一般の人から見ると、大統領として、国を治めるのに、不法移民を取り締まるのは、ごく当然のことです。その大統領に対して、不法移民に憐れむように求めるのは、あまりにも筋違いではないでしょうか。そのため、マリアン主教は多くの批判を浴びたようです。


イエスの時にもこれに似たような局面はありました。イエスはいわゆる律法を守らない人たちを受け入れて、一緒にご飯を食べて、この人たちがイエスの話を聞こうとして、イエスに近寄って来ました。ファリサイ派の人々や律法学者たちがそれを見て、イエスに不満を言いだしました。それに対するイエスの返答として、今日のルカによる福音書にあるたとえを話されました。(1-3)イエスはこのたとえを通して何を話されたかったのでしょうか、それが分かれば、マリアン主教の思いも分かるのではないかと思います。


ではまず、このたとえを見て行きましょう。


ある人に二人の息子がいて、ある日、弟の方が将来相続する予定の財産を今くださいと父親に言いました。本来なら、父親がいなくなったときにしからえないはずの財産を、今すぐ寄こせと求めました。この理不尽極まりない要求に対して、父親はそれでも応じました。財産をもらった弟は、全部をお金に換えて、旅に出て、放蕩の生活を送ったあげく、お金を使い果たしてしまいました。食べることに困った彼は、ある人のところに身を寄せて、その人の畑で豚の世話をして、お腹を満たすために豚の飼料を食べたいとさえ思うほどに陥てしまいました。


このとき、この弟は正気に戻って、ようやく罪の意識をしました。それで、ちゃんと父親に謝って、雇い人にしてもらおうと父親のところに戻りました。意外なことに、父親の元に戻ってきた彼は、父親に迎えられて、最上である肥えた子牛を屠って、祝宴を始めました。


ところが、もう一人の息子の兄がこのことを知って、非常に怒りました。この兄は父親に背いたことなく、一生懸命仕えてきたのに、宴会のために小山羊の一匹もくれませんでした。それに対して、弟は父親の財産を食いつぶして、好き勝手な生活をして、今帰ってきたら、肥えた子牛を屠って祝宴をするとは、あまりにも父親が不公平だと思うでしょうし、本来自業自得のはずの弟が、今はまったく何事もなかったかのようで、その兄の怒りに同感できる部分は多々あるかと思います。


同様に、不法移民はそもそも法律に違反して入国していますので、その法律に違反している人たちには同情の余地がないというのが、一般の人の考えです。


この弟に対して、本来一番怒るべき人は、ほかならぬ、その父親なのです。にもかかわらず、自ら息子のところまで走り寄って首を抱き、接吻しました。それだけではなくて、息子に良い服を着させて、指輪をはめさせて、履物を履かせて、ちゃんと息子として受け入れて、愛情を注ぎました。


この父親がこんなにも親不孝な息子を許すことができたのは、いなくなった息子を見つけて、憐れに思ったからです。実際、イエスが語られたこのたとえの父親とは、まさに神のことを指していたのです。神は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい方です。(詩103:8)


イエスは実にファリサイ派の人々や律法学者たちに「あなたたちが、まさにあの憐れみのない兄だ」と指摘したかったのです。彼らは神の律法を忠実に守って、本来は神に一番近い存在のはずです。しかし、律法の真意を理解せず、全く神のみ心を分かりませんでした。


それでもイエスは、あえて父親になだめられた兄からの反応を述べていませんでした。それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスに耳を傾けようとしいる人たちのことを喜んで、受け入れるように呼びかけたからです。しかし、残念ながら、彼らは心が固いまま、そうしなかったようです。


わたしたちはかつて神を知らずに、神のみ旨に従うのではなくて、自分の好き勝手に生きてきました、それはまるで世界の中で放蕩していたようなものでした。しかし、今日のコリントの信徒への手紙は、神がわたしたちの過去の行いに責任を問うことなく、和解してくださると教えてくれました。ここで皆さんに注意していただきたいのは、わたしたちが神との和解を求めるのではなくて、神が自らわたしたちと和解してくださるのです。それは主イエスがわたしたちに代わって、すべての過ちを背負って、十字架の上で死んでくださったからです。


わたしたちは神の和解を受け入れて、その独り子主イエスを信じて、天におられる父の元に戻ったあの日、あのとき、神は大喜んで、祝宴を開いたに違いありません。パウロは手紙の中で、キリスト者はまさに生まれ変わった者だと述べています。そのため、わたしたちは、一般の人たちの見方、考え方と違ってしかるべきです。一般の人たちは、同情に値しない、受け入れるべきではない、そういった人たちに対しても、わたしたちキリスト者として、神のように憐れみを示して、受け入れるべきです。


去年の11月に、わたしと同じ信仰と生活委員会の下にある共育プロジェクトのメンバーに招かれて、彼の所属している聖オルバン教会の難民支援の活動について知る機会がありました。それがきっかけで、日本にいる難民のことについて、少し理解が深まりました。


彼らは戦争や、政治などの事情で、自分の国から逃れて、日本に来ました。しかし、そのまま不法滞在となって、収容所に入れられて、今仮放免をされています。その多くは難民申請をして、審査の結果を待っているのが現状です。しかしその間、働くことが禁じられて、それで、住む場所も食べる物もかなり難しい状況に陥ています。


一部の人から見ると、彼らはそもそも日本の法律において不法滞在者で、同情に値しない、支援すべきではないと思われています。しかし、こういった人たちに対して、聖オルバン教会は、服、食べ物、日常生活用品などの支援物質を配って、礼拝に参加できるように、交通費を支給して、普段困っていることにも相談に乗ります。これこそまさに、キリスト者があるべき憐れみの表れなのではないかと思います。


世の中には、難民支援を含む社会奉仕活動を行っている非政府組織、いわゆるNGOはたくさんあります。しかし、教会がこれらの活動に携わることには、大きな意義があるのです。他のところと違って、教会だけがなすことのできる唯一の働きは、人々が救われるように助けることです。そのため、伝道活動と社会奉仕活動のこの両者のバランスが非常に大切で、もっと言いますと、教会はこれら二つの活動を一つとして捉える必要があるとわたしは思います。


人が生活していく上で、欠かせないものを満たしてあげるだけではなくて、その魂の救い、すなわち、神の和解を受け入れさせるようにすることを含めると、教会にしか成し得ないことなのです。


わたしたちは、聖オルバン教会のようにはできないのかもしれません。しかし、その活動に協力することもまた、神から与えられた使命を果たすための努力ではないのでしょうか。


今日のみ言葉を通して、神がどれほど憐れみ深い方であることをあたらめて思い知らされました。マリアン主教が憐れみを求めたのは、アメリカ合衆国の大統領というよりかは、キリスト者であるドナルド・トランプに対してのメッセージだとわたしはそう思います。神が憐れみ深いように、キリスト者も憐れみ深い者にならなければなりません。不法移民であろうが、不法滞在者であろうが、難民であろうが、他の宗教の信者であろうが、神から見れば、すべて自分にかたどって創造されたかわいい子どもです。その人たちに憐れみを示して、受け入れて、また、神が喜ばれるように、その元に返して差し上げることがわたしたちの務めです。


この大斎節の間、ぜひ皆さんがよく黙想して、神の愛、神の憐れみについて、もっと深く知ることができますように、また、皆さん一人ひとりが憐れみ深い者になりますように、心からお祈り申し上げます。アーメン

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