日課:ルカによる福音書19:1-10
人生の中で、どうしても変えられない自分の弱さや過ちに悩んで、救いを求めたことはありませんか?教会では、「救い」という言葉をよく耳にします。しかし、この「救い」とは、一体何でしょうか?単に「罪が赦されること」でしょうか?それとも「将来、天国に行けること」でしょうか?私たちは「救われたい」と願いながらも、その「救い」が自分の人生に、どう関わっているのか、はっきり理解できていないのかもしれません。皆さんは、救いをどのように受け止めていますか?
二千年前、ザアカイという一人の男に、思いがけない形で、救いが訪れました。富にしがみつき、人々から嫌われて生きていた男です。しかし、主イエスとの出会いが、彼の人生を根底から変えてしまったのです。
今日の福音書のこのザアカイの物語を通して、救いとは何か、そして、ザアカイはどのように救われたのか、その答えを、一緒探していきましょう。
エリコの町に住むザアカイは、徴税人の頭でした。当時の徴税人は、単に税金を取り立てるだけではなく、自分たちの取り分も上乗せして徴収していました。その徴税人たちを取りまとめていたザアカイは、さらに部下からも手数料を取って、莫大な富を築いていたのです。徴税人は外国の支配者であったローマ帝国に協力して、自国民から金を巻き上げる裏切り者で、罪人だと見なされていました。その中でも、頭であるザアカイは、まさに罪深い人でした。
そんなザアカイは、どこかで主イエスの噂を耳にしていたでしょう。自分と同じ徴税人を弟子に迎えられたイエス、罪人と呼ばれた人々と共に食事をされたイエス、病人や貧しい人々を癒されたイエス、そのようなイエスとは、一体どんな人なのか、ザアカイには、強い関心が芽生えたのです。
そのイエスが今まさに、エリコに入られて、町を通っておられます。ザアカイは、主イエスを一目見ようとしました。しかし、彼は背が低くて、群衆に遮られて見ることができませんでした。それでもザアカイはあきらめることなく、走って、主イエスが通られるであろう道を先回りして、いちじく桑の木に登りました。主イエスの姿が見られることに、望みをかけたのです。
主イエスが、ザアカイのいる木の下にさしかかられると、立ち止まって、上を見上げてこう言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」それは、ザアカイにとって、まったく思いもよらない呼びかけでした。人に嫌われ、避けられ、生きてきた自分の名前を、主イエスが呼んでくださいました。その瞬間、ザアカイの心の中で、何かが動かされたようです。
主イエスがどのようにして、ザアカイのことを知っておられたのか、それは分かりません。しかし、確かなのは、主イエスのほうがザアカイを捜しに来られたということです。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」主イエスははっきりとこう語られたのです。この「失われたもの」とは、神から離れて、神との関係を見失ってしまった人のことです。ザアカイは、まさに富によって、失われたものとなったのです。ザアカイがイエスを捜したのではありません。主イエスがザアカイを捜されたのです。そして、私たち一人ひとりもまた、主イエスによって、見出されたものなのです。
本来、天の高きところにおられ、世の人々を見下ろすキリストでした。しかし、へりくだって、この世に来られ、失われたものを捜してくださいました。今度は、世の人々を見上げるものとなられたのです。その主イエスが上を見上げて、ザアカイに言われたのは、「今日は、あなたの家に泊まることにしている」という明確な意思表示です。それはいつかではなく、“今日”という日です。“今日”でなければならないのです。なぜなら、主イエスは翌日、エルサレムへ向けて、人生最後の一週間となる十字架の道を歩んでしまうからです。
その一方、木の上にいるザアカイは、まさに富によって、他の人より“高い”立場に置かれている彼の姿を表しているのかもしれません。ちなみに、パレスチナのエリコ市内に、今も「ザアカイの木」と呼ばれるいちじく桑の木があります。背の低いザアカイにとって、この居場所は心地よい場所たったはずです。しかし彼は、主イエスの呼びかけに応えて、その高いところから、“降りる”決断をしました。それは、彼が“過去の自分”から降りた瞬間でもあったのです。
ザアカイは急いで木から降りて、喜びに満ちて、主イエスを自分の家に迎え入れました。すると、ザアカイの口から誰もが耳を疑うような言葉が飛び出しました。「財産の半分を貧しい人々に施し、誰からでもだまし取った物は、四倍にして返します。」と言い出したのです。主イエスに出会い、主イエスに受け入れられたザアカイの心に真の悔い改めといのちの変化が生じたのです。
「今日、救いがこの家に訪れた。」主イエスははっきりとザアカイの救いを告げられました。主イエスはかつてこうも語られました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」それを聞いた人々は「それでは、誰が救われることができるのか。」と戸惑って、主イエスは答えられました「人にはできないことも、神にはできる。」(18:25-27)ザアカイの救いは、まさにこの言葉の生きた証です。
かつて、富にしがみついて、罪深い生き方をしていたザアカイが、神の恵みによって、金銭の支配から解放され、愛と正義を実践する者へと変えられたのです。ザアカイは過去の自分ではなく、新しく生まれ変わった者として、そして、救いにあずかった者として、一歩を踏み出したのです。ザアカイを救ったのは、彼自身の努力ではなく、ただ神の恵みによるものでした。
ザアカイはもはや失われたものではなく、いのちを得たものとなりました。そして、「救いがこの家に訪れた」と言われたのは、ザアカイ自身にとどまらず、やがて、その家族にも、神の救いが及ぶことを示されています。神の恵みは一人を通して、その周りに広がっていくのです。
主イエスがザアカイに告げられた「あなたの家に泊まることにしている。」という言葉は、私たち一人ひとりにも向けられています。主イエスは私たちの「心の家」に入ろうとしておられます。主イエスが私たちの家に泊まられることは、主イエスが私たちのいのちの中に住まわれるということです。
ザアカイが木から降りたように、私たちも自分の欲望や執着という「高い木」から、勇気をもって降りてください。そして、主イエスを心の家に迎え入れましょう。主イエスをお迎えするとき、私たちは少しずつ解放され、ザアカイのように、新しいいのちへと変えられていきます。それは、神に対しても、人に対しても、より深く、より豊かに愛するようになっていくのです。
このいのちの変化は、一瞬で起こるものではありません。日々の生活の中で、聖書のみ言葉を通して神を知り、礼拝と祈りを通して神と交わり、そして、奉仕を通して神に仕えるうちに、少しずつ神との関係が深まっていきます。その深まりの中で、私たち自身が変えられていきます。その変化はやがて、周りの人々にも及び、そこに新たな救いの恵みが広がっていくのです。
救いとは、単に「罪の赦し」や「天国への約束」ではありません。主イエスとの出会いを通して、今この世で新しくされ、神を愛し、人を愛する心が育まれていくことです。そこにこそ、真の救いがあります。
主イエスは、今日も失われた者を捜して、救いへと導いておられます。ザアカイに起こった出来事は、決して遠い過去の物語ではありません。今も、ここで、あなたの心のうちに起こり続けています。主イエスは語っておられます、私の口を通して語っておられます。「今日、あなたの家に泊まることにしている。」
兄弟姉妹の皆さん、どうか、この“今日”という恵みの時に、主イエスをあなたの心の家に迎え入れて、新しい人生の始まりの日にしませんか?
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