2025年11月16日日曜日

説教《見えない神殿への信仰》

 日課:ルカによる福音書21:5-19

   マラキ書3:13-20b,23-24


年を重ねると、少しずつ体が思うように動かなくなっていくものです。あんなに軽かった足取りが重くなり、目も耳も昔ほど利かなくなります。風邪を引けば治りが遅くなり、体のあちこちに痛みを覚えるようになります。

また、年齢に関わらず、病気やけがを通して、かつては元気で丈夫だった自分の体が、少しずつ弱っていく現実を突きつけられることがあります。

さらに、長く連れ添った家族の病や、親しい友人の死に向き合うときにも、私たちは人生のはかなさや、頼りにしていたものの脆さをを思い知らされます


目に見える強さも、健康も、財産も、人間関係も、どれほど大切であっても、いつかは変わりゆくものです。その事実を前にするとき、私たちは「自分の拠り所は一体どこにあるのか」と改めて問われます。


今日の福音書に登場する人々も、まさに同じ問いの前に立たされていました。彼らは壮大な神殿を見上げ、その美しさと力強さに心を奪われ、「これこそ永遠に残るものだ‘」と信じていました。しかし、主イエスは言われました。「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る。」この言葉は、彼らの心の土台を大きく揺さぶりました。目に見える神殿が崩れる——それは、信仰の拠り所そのものが問われる瞬間でもあったのです。


今日、私たちは、この主イエスの言葉を通して、私たちの「信仰の拠り所」はどこにあるのかを、ご一緒に心に留めていきましょう。


ある人々が、神殿の壮大さや華やかさについて語っていました。見事に積み上げれらた石と、奉納物で飾られたその姿に、人々は息をのんで見とれていたのです。しかし、主イエスは言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る。」信仰の中心であり、民族の誇りでもあった神殿が、完全に崩れ落ちる——そんなことを誰が想像できたでしょうか?


しかし、主イエスの預言は、歴史の中で現実のものとなりました。その40年後、ローマ軍によって神殿は跡形もなく破壊され、まさに「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる」日が来たのです。今エルサレムに残る“嘆きの壁”は、神殿そのものではなく、神殿を囲んでいた外壁の一部にすぎません。ユダヤの人々は、今もそこに立って、失われた神殿を思いながら、祈り続けています。


私たちは今、「さすがは神の子の言葉だ」と素直に受け止められます。しかし、当時その場で聞いた人々にとって、それはあまりにも衝撃的でした。「そんなはずがない!」「何を言っているのか!」そう叫んでもおかしくはありません。ところが、彼らは反論するどころか、主イエスに問いかけました。「そのことはいつ起こるのか?また、それが起こるときには、どんな徴があるのか?」


私たちのまわりにも、心を不安にさせる出来事が後を絶ちません。自分の衰えや病気だけではなく、自然災害、疫病、戦争、暴力、そして詐欺など、まるで心の土台を揺さぶるようなことが次々と起こります。しかし、そのような不安のただ中で、主イエスは今も語られます。「惑わされないように気をつけなさい。」「付いて行ってはならない。」「おびえてはならない。」。


恐れや不安に押し流されるのではなく、神を信頼して立ち続けるようにと、主イエスは呼びかけておられます。「私の名のために、すべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。」この言葉には、深い慰めと確かな約束が込められています。信仰のゆえに苦しむことがあっても、神の守りは決して途切れることはありません。どんな状況に置かれても、神はそのみ手を離されることはないのです。


そして、主イエスは最後にこう締めくくられました。「忍耐によって、命を得なさい。」実際、使徒ヨハネを除くほとんどの弟子たちは殉教の死を遂げました。しかし、彼らは忍耐できなかったのではありません。主イエスが語られた「命」とは、肉体の命のことではなく、苦難や試練のただ中で、なお生き続ける信仰の命、永遠の命のことです。


どんなに立派で、輝かしい建物も、いつかは崩れ落ち時が訪れます。建物だけではありません、教役者もまた、時とともに代わり、やがてその務めを終える日が来ます。目に見えるものに頼る信仰は、一見確かに見えても、実はとても脆く、危ういものです。私たちの信仰の拠り所は、石でできた建物ではなく、移り変わる教役者でもなく、永遠に崩れることのない真の神殿、代わることのない大牧者——主イエス・キリストです。


ルカは詳しく触れていませんが、マタイとマルコによる福音書から分かるように、主イエスが神殿の崩壊について語られた時、その言葉に問いかけたのは、他ならぬ弟子たちでした。弟子たちは主イエスに従い、その教えを聞き、その行いを見つめながら、3年間を共に行動し、強い絆を築き上げました。弟子たちは、何よりもまず、主イエスご自身を信頼していたのです。


では、皆さんはどうでしょうか?皆さんも主イエスを信じ、主イエスが語られたことについて、心から信じているでしょうか?もし、「世界の終わりが近い」と聞かされたら、どうすれば惑わされないでいられるでしょうか?もし誰かが、「これこそ本当のキリストだ」と言って誘って来たら、どうすれば真実を見極め、付いて行かずにいられるでしょうか?また、この不安や混乱に満ちた時代の中で、どうすれば、おびえずに、平安を保つことができるでしょうか?


惑わされないためには、しっかり聖書を読み、聖書を学び、神のみ言葉を心に刻むことが大切です。聖書の中で、神の真理を知るとき、私たちは世のざわめきに左右されにくくなります。また、付いて行かないためには、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、礼拝や祈りを通して、神の声に耳を傾け、神ご自身と直接心を通わせることです。さらに、奉仕をもって神に仕えるとき、私たちは“知識としての信仰”から、“生きた信仰”へと導かれます。このようにして、神との関係を育み、信仰を深めていくとき、どんな危機や試練に直面しても、私たちはおびえることなく、主のみ手の中にある確かな平安を感じることができるのです。


今日の第一の朗読、マラキ書には、こう記されています。「かまどのように燃える日が来る。傲慢な者、悪を行う者はすべてわらになる。その日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。しかし、私の名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。その翼には癒しがある。」


このみ言葉は、神の厳しい裁きを語ると同時に、神の救いの癒しを告げておられます。確かに、私たちの生きるこの時代は、不安や混乱に包まれ、闇のただ中にいます。しかし、神を畏れ、神を信じる者には、“義の太陽”が必ず昇り、希望の光が闇を破るのです。


主イエスは言われました。「あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。」この約束こそ、変わりゆく時代の中にあっても決して揺らくことのない、神の確かな保証です。だからこそ、惑わされず、おびえず、忍耐をもって、主イエスにより頼み続けましょう。その先には、神ご自身が備えてくださった永遠の命が待っておられます。

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