2026年6月21日日曜日

説教《神のまなざしの中を生きよう》

 日課:マタイによる福音書 10:24-39

   エレミヤ書20:7-13


私たちが生きているこの日本では、キリスト者はほんの数パーセントです。

明らかな少数派です。

私の故郷のマレーシアでも、日本より割合は多いとはいえ、やはり少数派であることに変わりはありません。


だからでしょうか。

周りのほとんどがキリスト者ではない環境の中にいると、私たちはどうしても人の目を気にしてしまいます。

「自分がキリスト者です」と打ち明けるのをためらったり、信仰を持っていることを、どこか隠してしまったりすることがあります。


信仰を持っていること自体を、どこか恥ずかしいことのように感じてしまう。

それは、現代を生きる私たちにとって、とてもリアルな弱さではないでしょうか。


でも、今日読まれた福音書を聞くと、そこに大きな慰めがあります。

なぜなら、そのような弱さは、決して今の私たちだけのものではないからです。

主イエスの弟子たちもまた、人の目を恐れ、心を揺らしながら歩んでいました。


主イエスは、まさにそのように恐れの中にある者たちに向かって、み言葉を語っておられるのです。


先週に引き続き、主イエスが十二人の弟子たちを宣教に遣わされる前に語られた言葉に、共に耳を傾けてまいりましょう。


主イエスは、「人々は私を悪霊の頭と呼んだのだから、あなたがたも同じように悪く言われるだろう」と、これから向かう道の厳しさを率直に告げられます。

人々から悪く言われれば傷つきます。

人の目を恐れて、自分の信仰を隠したくなってしまうこともあります。

主イエスは、弟子たちのその弱さをよくご存じでした。


だからこそ、彼らを支えるために、「恐れるな」と語られたのです。

その言葉の根拠は、ただ一つです。

私たちが父なる神に深く愛され、その御手に守られている子どもだという事実です。

この世で深く傷つくことがあっても、私たちの命は天の父の御手の中にあります。


主イエスは、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われました。

それは、神が私たちを遠くから眺めておられるのではありません。

私たち一人ひとりを深く知り、私たちのすべてを受けとめておられるということです。


さらに、雀のたとえを通して語られます。

小さな存在でさえ神のまなざしの中にあるのなら、まして私たちは、はるかに尊い存在とされているのです。


この神のまなざしの中に生かされた者として歩んだ一人が、今日の第一朗読に出てくる預言者エレミヤでした。

神のみ言葉を語ったために、人々からそしられ、嘲られ、深い孤独の中に置かれました。

あまりの苦しさに、「もう語るのをやめよう」と思うほどでした。


しかし彼は、そのただ中で、主が共におられることを知っていました。

だからエレミヤは、人の評価ではなく、主のまなざしに支えられて歩み続けたのです。

そのエレミヤと同じように、私たちもまた弱さの中を生きています。


主イエスは、今日も私たち一人ひとりに語りかけられます。

「恐れるな。

あなたは、父なる神に深く知られている。

髪の毛まで数えられているほどに、大切にされている。

雀よりも、はるかに尊い存在なのだ」と。


だから私たちは、その言葉に信頼を置き、神の子どもとして、明日もまた一歩を踏み出していくのです。


主イエスは、この「神の子どもとしての安心」を語ったうえで、さらにこう言われます。

「誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。」


このみ言葉は、私たちに問いを投げかけています。

それは、「信仰をうまく語れるかどうか」という話ではありません。

問われているのは、「あなたはどこに立って生きているのか」ということです。

人の評価の前か。

それとも、神のまなざしの前か。


人々の前で主を認めるとは、義務としての信仰告白ではありません。

大好きな親を、周りの人に紹介するような、子どもとしての自然な姿です。


私たちは、家庭にいるとき、仕事をするとき、誰かと話すとき、「私は神の子どもなのだ」という事実に立って生きています。

そのとき、私たちの生き方そのものが、主を認める歩みとなっていくのです。


だからもう、人の目に自分を合わせて縮こまる必要はありません。

神に知られ、愛されている者として、恐れの中にあっても、一歩ずつ歩んでいけばよいのです。


私は、聖パウロ教会の牧師補であり、日本聖公会の執事でもあります。

しかし、それらの前に、私は神の子どもであり、主イエスの弟子です。


そしてそれは、私だけのことではありません。

ここにおられる皆さんもまた、同じです。


親である前に。

夫である前に、妻である前に。

学生である前に。

働く者である前に。

私たちは皆、すでに神の子どもとして名を呼ばれている存在なのです。


だから私たちは、自分の価値を肩書きや役割の中に探す必要はありません。

それらは大切な働きですが、私たちの本質を決めるものではありません。


状況が変わっても、立場が変わっても、評価が揺れ動いても、私たちは神の子どもです。

その事実は決して変わりません。

私たちはすでに、天の父の前で主イエスに認められ、受け入れられている者だからです。


だからこそ、私たちは恐れの中でも歩むことができます。

失敗しても立ち直ることができます。

人の評価に押しつぶされずに、もう一度立ち上がることができます。

なぜなら、私たちは神の子どもだからです。


多くの人の中で生きていると、自分がとても小さな存在のように思えてしまうことがあります。

でも私たちは、自分を大きく見せる必要も、人に認めてもらうために背伸びをする必要もありません。

たとえ目立たない、ありのままの姿であったとしても、私たちは神の前でかけがえのない存在だからです。


私は、自分がキリスト者であることを誇りに思っています。

主イエスご自身が、天の父の前で私を認めてくださっているからです。


そして、その恵みは私だけのものではありません。

私たちには皆、神の子どもとして生きる誇りが与えられているのです。


「恐れるな。」

今日も主イエスは、私たち一人ひとりにそう語りかけてくださいます。

その主の声を胸に抱き、人の評価ではなく、神のまなざしの中を、神の子どもとして歩んでまいりましょう。

2026年6月14日日曜日

イエスさまはせっかちではない

私はせっかちです。なんでもすぐやってしまい、終わらせたい性格です。

人から何かを頼まれたら、できるだけすぐにやります。

すぐに応えてあげたい気持ちと、やることリストを減らし、少しでも楽になりたい気持ちがあります。


イエスさまは安息日に、手の萎えた人を癒されました。

安息日に行われたことで、ものすごく批判されました。

その手の萎えた人は、昨日今日そうなったわけではなく、長い間その状態だったはずです。

ですから、「わざわざその日ではなく、次の日に癒してあげればよかったのに」と思う人もいたかもしれません。


しかしイエスさまは言われました。

「あなたがたのうち、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちたら、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」

イエスさまの目から見ると、手の萎えたその人は、まさに穴に落ちた羊でした。

だからイエスさまは、安息日であっても助けることをためらわれませんでした。


もちろん、イエスさまが安息日に癒された理由は、私のせっかちさとは違います。

イエスさまは、安息日にも善を行うことが神さまの御心であることを示されたのです。

それでも、苦しむ人を見たらすぐに助けたいというイエスさまの心に触れると、せっかちな自分も少し慰められる気がしました。

2026年6月7日日曜日

説教《行って学ぼう》

 日課:マタイによる福音書 9:9-13,18-26


私たちの日常を振り返ると、つい「正しさ」を優先して、目の前にいる人への「優しさ」を忘れてしまうことはないでしょうか。

「決まりだから」と冷たく突き放してしまったり、自分の正しさを振りかざして批判してしまったり。

そうして私たちは、知らず知らずのうちに、人を裁く心を抱いてしまうのです。


主イエスの時代の宗教的な指導者たちも、まさにそうでした。

彼らは、神の律法を厳密に守り、きちんと宗教的な務めを果たすことこそが最も重要だと考えていたのです。

しかし、そんな彼らの思い込みを打ち砕くように、主イエスは今日の福音書でこう言われます。

「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」


この言葉は、徴税人や罪人たちと共に食事をしておられる主イエスに反発していたファリサイ派の人々に向けて語られました。

しかしこれは、今ここにいる私たちすべての者にとっても大切な問いかけです。

神が、いけにえではなく、慈しみを望まれるとは、私たちにとってどういうことなのでしょうか。


今日は、「行って学びなさい」という主イエスのこの招きに応えて、その意味を共に学んでいきたいと思います。


主イエスのこの言葉は、今日の第一朗読でも耳にした預言者ホセアの言葉です。

ホセア書には、こう記されています。

「私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。」


現代を生きる私たちにとって、「いけにえ」とは、家畜や農作物を献げることではありません。

教会に仕え、礼拝を支え、献金をすることなど、自分の時間や才能、金銭を神に献げることです。

それらもまた、神への大切な「いけにえ」と言えるでしょう。


しかし、主イエスは言われます。

神が本当に喜ばれるのは、ただ「いけにえ」を献げることではなく、そこに「慈しみ」があることなのだと。

つまり、宗教的な熱心さだけではなく、そこに慈しみがあるかが問われているのです。

どれほど豊かな知識があっても、そこに慈しみがなければ。

どれほど立派な奉仕をしても、そこに慈しみがなければ。

どれほど多くを献げたとしても、そこに慈しみがなければ。

神が本当に喜ばれるものにはならないのです。


では、その神が求める「慈しみ」とは何でしょうか。

私たちは、その答えを主イエスご自身の中に見ることができます。


今日の福音書で主イエスは、徴税人マタイを招かれました。

また、罪人たちと共に食事をされました。

さらに、長く病に苦しんだ女性を癒やし、ある指導者の娘を生き返らせてくださいました。

主イエスは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。

自分は正しいと思い込んでいる人ではなく、自分の弱さを知り、神の慈しみを必要としている人のもとへ来られたということです。

見捨てられ、苦しみの中にいた人々に近づき、主イエスは深い慈しみを示されたのです。

もしこれが慈しみでなければ、いったい何が慈しみでしょうか。


そして、その慈しみの歩みは、ついに十字架へと向かいます。

主イエスは、私たちの罪をすべて背負い、ご自身を「最高のいけにえ」として十字架の上に献げられました。

それは、ただ神をなだめるための、冷たい宗教的儀式ではありません。

むしろ主イエスの十字架は、神がこの世界を救おうとされた、その限りない慈しみの現われでした。


主イエスは、その生涯と命のすべてを通して、神の慈しみを私たちに示してくださいました。

そしてその慈しみは、今もなお、ここにおられる私たち一人ひとりに向けられているのです。


たとえ、どれほど多くを教会に献げたとしても、困っている人に無関心であるなら。

たとえ、どれほど美しい賛美を歌ったとしても、その口で人を傷つけているなら。

それは、神が本当に喜ばれるものにはならないのです。


私たちが毎週こうして集まるのは、宗教的な義務や務めを果たすためではありません。

ここは、主イエスが私たちの日々の重荷を降ろし、慈しみで満たし、新しく生かしてくださる「命の現場」なのです。


私たちはここでみ言葉に耳を傾け、聖餐にあずかります。

主の慈しみを受け取った私たちは、ここから再び、それぞれの現実へと遣わされていきます。

行事を終えて帰るのではなく、主と共に歩む新しい一週間を、ここから始めるのです。


主イエスは、「行って学びなさい」と言われます。

頭で聖書の知識を詰め込むだけではなく、あなたの生きる現場で学びなさい、ということです。


家庭に帰って、学びなさい。

学校や職場へ行って、学びなさい。

人との関わりの中で、日々の生活のただ中で学ぶのです。


そこで何を学ぶのでしょうか。

主イエスが示してくださった「慈しみ」を学ぶのです。

私たちの教会が、先日祖国マレーシアへ帰られた王さんと共に歩んできた日々も、主が教えてくださった慈しみを学ぶ歩みの一つであったのではないでしょうか。

そして何よりまず、自分自身が主の慈しみによって生かされ、赦されている存在であることを忘れないこと。


その喜びを土台として、弱っている人に目を向けること。

失敗した人を切り捨てないこと。

小さな愛を惜しまないこと。

裁くよりも、寄り添うことを。

傷つけるよりも、慰めることを。

見捨てるよりも、共に歩むことを。


「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない。」

神が喜ばれるのは、形式だけの信仰ではありません。


主の慈しみを受けた私たちが、それぞれの場所で、その慈しみを生きていくこと。

その目立たなくとも真実な歩みこそが、神が最も喜ばれる「生きた礼拝」なのです。


「慈しみ」を学ぶ旅に、終わりはありません。

私たちは明日からもまた、失敗したり、「正しさ」を振りかざして誰かを裁き、傷つけてしまったりすることがあるでしょう。

しかし、そのたびに、主イエスの「行って学びなさい」という招きを思い出してください。


主イエスは、完璧な人を求めておられるのではありません。

不完全なまま主の慈しみにすがろうとする私たちを、喜んで受け入れてくださいます。


この一週間も、主があなたと共に歩んでくださいます。

主から受けたその慈しみを、あなたの隣にいる人へ、ほんの少しでも手渡していくことができますように。

2026年5月31日日曜日

説教《共に生きる弟子》

 日課:マタイによる福音書28:16-20



日本には、長い年月をかけて受け継がれてきた伝統技術があります。

和紙の製法、陶芸の技法、刀鍛冶の技術——世界中から賞賛されるものばかりです。

それらは、一人の職人が長い年月をかけて身につけてきた技であり、言葉だけで簡単に伝えられるものではありません。

だからこそ、職人は弟子を取り、その技を伝えていきます。


しかし今、その多くが消滅の危機に瀕しています。

なぜでしょうか。

製品を買ってくれる人がいないからではありません。

むしろ問題は、後継者がいないこと。

つまり、次の弟子が育っていないのです。


どれほど優れた技であっても、受け継ぐ者がいなければ、やがて消えてしまうのです。


では、信仰はどうでしょうか。

私たちが受け継いできた福音も、これと同じではないでしょうか?

主イエスが示してくださった神の愛と救いは、単なる知識ではなく、人生をかけて生きる命そのものです。


もし私たちが、この恵みを受け取るだけで終わるなら、福音は私たちのところで止まってしまいます。

だからこそ、主イエスは地上を去る最後のときに、弟子たちに、そして今の私たちに、大切な使命を託されました。


今日はこの主イエスの言葉を、私たちがどのように次の世代へとつないでいくのか、共に受け止めていきたいと思います。


今日読まれたマタイによる福音書で、復活された主イエスは、まず弟子たちにこう告げられました。

「私は天と地の一切の権能を授かっている」と。


主イエスが、ご自身の働きを始められる前、悪魔から、「この世のすべての国々とその栄華を与えよう」という誘惑を受けられました。

しかし主イエスは、その誘惑を退けられました(4:8-10)。

十字架という苦難を避け、安易にこの世の栄華を求めるのではなく、どこまでも父なる神に従う道を歩まれたのです。


そして今、十字架と復活を経て、主イエスは天と地の一切の権能を授かっておられます。

その絶対的な権威のもとで、主イエスは弟子たちにこう命じられたのです。

「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と。


ここで主イエスは、「ただ人を集めなさい」とは言われませんでした。

与えられたのは、「弟子にしなさい」という使命です。


弟子とは、主と共に歩み、その生き方にあずかる者です。

そして重要なのは、この使命が「一度限りで終わるものではない」ということです。

弟子は、さらに新しい弟子を育てていきます。


主から受けた恵みを、自分のところで止めるのではなく、次の人へと手渡していくのです。

そのようにして、主イエスの福音は、時代を越え、場所を越え、今ここにいる私たちにまで届けられてきました。


もし最初の弟子たちが、「自分たちは信じればそれでよい」と考えていたとしたら、この福音は、私たちにまで伝わることはなかったでしょう。


では、どのようにして弟子が生まれるのでしょうか。

主イエスは、こう語られました。

「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」と。


守るとは、ただ規則に正しく従うことではありません。

主のみ言葉が、私たちの生活そのものになっていくことです。

だからこそ、ここで言われている「教える」とは、単に言葉で説明することではありません。


職人の世界では、技術は教科書を読んだだけでは身に付きません。

親方と共に生活し、その背中を見ながら、時には失敗しつつ身に付けていきます。


信仰もまた、同じです。

共にみ言葉に耳を傾け、共に祈り、生活の中でキリストの愛をどう生きるのかを、時間をかけて学んでいくのです。


しかし、ここに決定的な違いがあります。

信仰は、単なる技の継承ではありません。


主イエスは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命じられました。

洗礼とは、人が神のものとして新しく生かされることです。


主イエスが望まれるのは、人が神を知り、神と共に生きるようになることです。

その歩みは、決して簡単なものではありません。

時にはうまくいかず、迷い、つまずくこともあるでしょう。

それでもなお、共に歩み続ける中で、少しずつキリストの姿に近づいていくのです。


そのような歩みを通して、人は弟子へと導かれていきます。

それが、主イエスが私たちに託しておられる弟子の歩みなのです。


そして実際に、私たちはそのような歩みを、この教会の中でも経験しました。


昨年の10月、私たちの教会は、一人の外国人の方を受け入れました。

当時、住む場所もなく困難な状況の中にあった彼のために、居場所を整え、他の教会とも協力しながら生活を支え、共に祈りつつ歩む日々が与えられました。

それはまさに「寝食を共にし、キリストの愛を生きる」実践でした。


その中で、彼は主イエスの福音に触れ、ついに洗礼へと導かれました。

そして今日、彼は36年ぶりに祖国へ帰って行かれます。


これは、決して私たちの力だけで成し遂げたことではありません。

主ご自身が彼を招き、私たちの手を用いて、彼を導いておられたのです。


私たちは、その出来事を通して改めて教えられました。

「弟子とする」とは、ただ教えを語ることではなく、痛みを分かち合い、共に生きることなのだということです。


主イエスは、「行って、すべての民を弟子にしなさい」と言われました。

それは、遠い場所へ行くことだけではありません。

今、目の前にいる一人と共に歩み、その人が神と共に生きるようになることを願いながら歩むことです。


そのような私たちの日常の歩みの中で、主は今も、人を招き、洗礼へ導き、そしてそれぞれの場所へ遣わしておられるのです。


今日、36年ぶりに祖国へと帰って行かれるワンさん。

そして明日からまた、それぞれの日常へと遣わされていく私たち。


これから歩む道には、新たな困難や、孤独を感じる日があるかもしれません。

しかし、恐れることはありません。

主イエスは、この使命を与えられた最後に、私たちに確かな約束を与えてくださいました。

「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


私たちがどこへ遣わされようとも、天と地の一切の権能を授かっておられる主ご自身が、いつも共にいてくださいます。


この力強い約束に支えられながら、私たちもまた、キリストの愛を生きる弟子として、それぞれ遣わされた場所で歩んでいきましょう。


主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。


2026年5月24日日曜日

教会

教会は場所ではなく、人なのです。

 私たちは教会に行くのではありません。

そこで、私たち自身が教会になるのです。

2026年5月18日月曜日

私は思う

 "何々と私は思う"って言ったとき、自分の考えのことを示すことになります。しかし、キリスト者としてこう話すとき、別の意味を持ってほしいと私は思います。

それは、"私は神さまがそう思われるのを思う"。

つまり、自分の考えではなく、神さまの考えに基づくのです。

その神さまの考えを知るため、私たちは聖書を読み、勉強するのです。

2026年5月17日日曜日

説教《今も続く、主の祈り》

 日課:ヨハネによる福音書 17:1-11


私たちは皆、いつか必ず、死と向き合う時を迎えます。

その「いつか」が、もし今日、あるいは明日だったとしたら。


人生の終わりに近づき、残された時間がわずかになったとき。

私たちは、何を思い、誰のことを心に留めるでしょうか。

おそらく、自分のことよりも、残していく家族や、大切な人たちのことではないでしょうか。

その人たちのこれからの歩みを思い、神に託すように祈る。

そのような祈りをささげるのではないでしょうか。


主イエスが、まさに十字架というご自身の死を目前にしたその最後の夜、誰のために、何を祈っておられたか。

聖書は、その祈りの言葉を私たちに伝えています。

その祈りは、静かでありながら、私たちへの熱い思いと深い愛に満ちた祈りでした。


今日は、この主の祈りに耳を傾け、そこに込められた神の愛を、共に受け取っていきましょう。


今日の福音箇所は、主イエスが弟子たちと共に最後の晩餐を終えられた後の場面です。

主イエスは天を見上げて、祈りをささげられました。

この祈りの中で、私たちは驚くべきことに気づかされます。

全人類を救うために世に来られた主イエスが、ご自身の苦しみが迫るこの時に、「世のためではなく」、ご自分に与えられた人々のために祈っておられるのです。


その「与えられた人々」とは誰のことでしょうか。

それは、父なる神から与えられた言葉を受け入れ、主イエスが神のもとから来られた救い主であることを知り、神から遣わされた神の子であると信じた人々です。

あの夜、不安に揺れていた十一人の弟子たち。

そして、今ここに集められている私たちのために、主は祈っておられるのです。


地上で過ごす最後の夜に、主イエスは、他でもない私たちのために祈られました。

そして、こう祈られたのてす。

「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と。


主イエスはこれから、父の御もとに帰るために、十字架へと向かわれます。

ご自身の苦しみが迫る中にあっても、心に留めておられたのは、世に残される私たちのことでした。

私たちの歩みが、決して容易ではないことを、主はよくご存じだったのです。


何より主イエスは、今目の前にいる弟子たちが、数時間後には恐れのあまり、自分を見捨てて逃げ出してしまうことも知っておられました。

弟子たちの弱さ、脆さ、裏切りさえも、主イエスはすべて見通したうえで、それでもなお、深い愛を持って私たちのために祈り、とりなしてくださったのです。


この祈りの中の「守り」とは、単に危険や苦しみから守られるということではありません。

どれほど深い苦しみの中にあっても、どれほど自分の弱さに打ちのめされても、決して信仰が失われることなく、神のみ手からこぼれ落ちることがないように、という祈りなのです。


そして主イエスは、その守りが何のためであるのかを語られます。

「私たちのように、彼らも一つとなるためです」と。

「一つとなる」。

しかしそれは、私たちの弱さを思うとき、決して簡単なことではありません。


教会の中であっても、違いや行き違いはあります。

良かれと思って語った言葉が、思うように届かなかったり、自分の思いが理解されずに悲しい思いをしたりすることもあるでしょう。

同じ主を信じているはずなのに、どうして分かり合えないのかと、心が痛み、孤独を覚えることさえあるのです。


それでもなお、私たちは主にあって一つとされています。

それは、決して私たちの努力によるのではありません。

あの夜、主イエスが私たちのために祈ってくださったからこそ、私たちは今も、一つとされ続けているのです。


主イエスはなぜ、私たちが守られ、一つとされることを、これほど切に祈られたのでしょうか。


私たちが生きる社会には、分断や争いがあふれています。

違いを恐れ、誰かを排除し、孤独の中で傷ついている人がたくさんいます。

そのただ中で、不完全な私たちが、時に傷つき合いながら、それでもなお、ゆるし合い、共に礼拝をささげ続ける教会の姿そのものが、この世における主イエスの愛の証しとなるのです。

そして人々は、その一つとされる教会の姿を通して、主イエスの愛に触れていくのです。


主イエスは、十字架を目前にした祈りの中で、「ご自身に栄光を現してください」と父なる神に願われました。

それは、ご自身を通して、神の愛がこの世に、誰の目にも見える形で現されるためでした。

そして主イエスは、その愛を持って、今ここにいる「私たち」のためにも祈ってくださいました。

主イエスが願われたのは、私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知り、その愛の中で生きるという「永遠の命」を受け取ることです。

そして、十字架の業を成し遂げられた主の祈りは、今もなお、私たちのただ中に生き続けています。

主に守られ、一つとされた私たちを通して、神の愛はこの世に現されていきます。

私たちの何気ない、時に不器用な日常の歩みを通して、主の命が世へと届けられていくのです。


明日からまた、私たちはそれぞれの日常へと遣わされていきます。

家庭、学校、職場、そして地域社会。

そこには、思い通りにならない現実や、心をすり減らすような出来事、答えの出ない問いが待っているかもしれません。

時に疲れ果てて、「もう祈る言葉もありません」と、一人うずくまってしまう夜もあるかもしれません。


しかし、どうか思い出してください。

あなたは決して、一人で祈っているのではありません。

あなたが祈れない時も、主イエスご自身が、あなたのすぐ傍らで、あなたの代わりに祈ってくださっています。

「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」と、今も天において、あなたのためにとりなしてくださっているのです。


私たちは決して一人ではありません。

目には見えなくても、主の祈りと愛によって、私たちはすでに結ばれています。


どうかこの一週間も、主の御名によって守られ、主にあって一つとされた者として、主の平安のうちにそれぞれの場所へと歩み出していくことができますように。

説教《神のまなざしの中を生きよう》

 日課:マタイによる福音書 10:24-39    エレミヤ書20:7-13 私たちが生きているこの日本では、キリスト者はほんの数パーセントです。 明らかな少数派です。 私の故郷のマレーシアでも、日本より割合は多いとはいえ、やはり少数派であることに変わりはありません。 だからでし...