2026年5月17日日曜日

説教《今も続く、主の祈り》

 日課:ヨハネによる福音書 17:1-11


私たちは皆、いつか必ず、死と向き合う時を迎えます。

その「いつか」が、もし今日、あるいは明日だったとしたら。


人生の終わりに近づき、残された時間がわずかになったとき。

私たちは、何を思い、誰のことを心に留めるでしょうか。

おそらく、自分のことよりも、残していく家族や、大切な人たちのことではないでしょうか。

その人たちのこれからの歩みを思い、神に託すように祈る。

そのような祈りをささげるのではないでしょうか。


主イエスが、まさに十字架というご自身の死を目前にしたその最後の夜、誰のために、何を祈っておられたか。

聖書は、その祈りの言葉を私たちに伝えています。

その祈りは、静かでありながら、私たちへの熱い思いと深い愛に満ちた祈りでした。


今日は、この主の祈りに耳を傾け、そこに込められた神の愛を、共に受け取っていきましょう。


今日の福音箇所は、主イエスが弟子たちと共に最後の晩餐を終えられた後の場面です。

主イエスは天を見上げて、祈りをささげられました。

この祈りの中で、私たちは驚くべきことに気づかされます。

全人類を救うために世に来られた主イエスが、ご自身の苦しみが迫るこの時に、「世のためではなく」、ご自分に与えられた人々のために祈っておられるのです。


その「与えられた人々」とは誰のことでしょうか。

それは、父なる神から与えられた言葉を受け入れ、主イエスが神のもとから来られた救い主であることを知り、神から遣わされた神の子であると信じた人々です。

あの夜、不安に揺れていた十一人の弟子たち。

そして、今ここに集められている私たちのために、主は祈っておられるのです。


地上で過ごす最後の夜に、主イエスは、他でもない私たちのために祈られました。

そして、こう祈られたのてす。

「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と。


主イエスはこれから、父の御もとに帰るために、十字架へと向かわれます。

ご自身の苦しみが迫る中にあっても、心に留めておられたのは、世に残される私たちのことでした。

私たちの歩みが、決して容易ではないことを、主はよくご存じだったのです。


何より主イエスは、今目の前にいる弟子たちが、数時間後には恐れのあまり、自分を見捨てて逃げ出してしまうことも知っておられました。

弟子たちの弱さ、脆さ、裏切りさえも、主イエスはすべて見通したうえで、それでもなお、深い愛を持って私たちのために祈り、とりなしてくださったのです。


この祈りの中の「守り」とは、単に危険や苦しみから守られるということではありません。

どれほど深い苦しみの中にあっても、どれほど自分の弱さに打ちのめされても、決して信仰が失われることなく、神のみ手からこぼれ落ちることがないように、という祈りなのです。


そして主イエスは、その守りが何のためであるのかを語られます。

「私たちのように、彼らも一つとなるためです」と。

「一つとなる」。

しかしそれは、私たちの弱さを思うとき、決して簡単なことではありません。


教会の中であっても、違いや行き違いはあります。

良かれと思って語った言葉が、思うように届かなかったり、自分の思いが理解されずに悲しい思いをしたりすることもあるでしょう。

同じ主を信じているはずなのに、どうして分かり合えないのかと、心が痛み、孤独を覚えることさえあるのです。


それでもなお、私たちは主にあって一つとされています。

それは、決して私たちの努力によるのではありません。

あの夜、主イエスが私たちのために祈ってくださったからこそ、私たちは今も、一つとされ続けているのです。


主イエスはなぜ、私たちが守られ、一つとされることを、これほど切に祈られたのでしょうか。


私たちが生きる社会には、分断や争いがあふれています。

違いを恐れ、誰かを排除し、孤独の中で傷ついている人がたくさんいます。

そのただ中で、不完全な私たちが、時に傷つき合いながら、それでもなお、ゆるし合い、共に礼拝をささげ続ける教会の姿そのものが、この世における主イエスの愛の証しとなるのです。

そして人々は、その一つとされる教会の姿を通して、主イエスの愛に触れていくのです。


主イエスは、十字架を目前にした祈りの中で、「ご自身に栄光を現してください」と父なる神に願われました。

それは、ご自身を通して、神の愛がこの世に、誰の目にも見える形で現されるためでした。

そして主イエスは、その愛を持って、今ここにいる「私たち」のためにも祈ってくださいました。

主イエスが願われたのは、私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知り、その愛の中で生きるという「永遠の命」を受け取ることです。

そして、十字架の業を成し遂げられた主の祈りは、今もなお、私たちのただ中に生き続けています。

主に守られ、一つとされた私たちを通して、神の愛はこの世に現されていきます。

私たちの何気ない、時に不器用な日常の歩みを通して、主の命が世へと届けられていくのです。


明日からまた、私たちはそれぞれの日常へと遣わされていきます。

家庭、学校、職場、そして地域社会。

そこには、思い通りにならない現実や、心をすり減らすような出来事、答えの出ない問いが待っているかもしれません。

時に疲れ果てて、「もう祈る言葉もありません」と、一人うずくまってしまう夜もあるかもしれません。


しかし、どうか思い出してください。

あなたは決して、一人で祈っているのではありません。

あなたが祈れない時も、主イエスご自身が、あなたのすぐ傍らで、あなたの代わりに祈ってくださっています。

「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」と、今も天において、あなたのためにとりなしてくださっているのです。


私たちは決して一人ではありません。

目には見えなくても、主の祈りと愛によって、私たちはすでに結ばれています。


どうかこの一週間も、主の御名によって守られ、主にあって一つとされた者として、主の平安のうちにそれぞれの場所へと歩み出していくことができますように。

2026年5月12日火曜日

葬送式

 とある信徒さんからの話です。

彼女が同僚のご主人の葬式に参加しましたが、最後の献花のときに、その信徒でない人は外に出され、献花に参加させてもらえませんでした。

非常に悲しかったと言っていました。

葬式は、一つの宗教儀式であれば、信徒でない人に参加させないことは理解できます。

だから、結局そこにとって葬式は宗教儀式ですのようですね。

私にとって、葬式は遺族、友人を慰める場であって、決して宗教行為ではありません。

いつも言ってますが、キリスト教は宗教なんかではありません。

2026年5月10日日曜日

母の日の祈り②

 天の父なる神さま。


今日、私たちは母の日を迎え、世界中のお母さんたちを覚えて、心から感謝をささげます。


あなたは、お母さんを通して、私たちに命を与え、この世界へと送り出してくださいました。

そして、日々の優しさや祈り、励ましや支えを通して、あなたの愛を私たちに示してくださいました。


どうか、世界中のお母さんたちを祝福してください。

喜びの中にいるお母さんも、疲れの中にいるお母さんも、子育てに悩んでいるお母さんも、離れて暮らす子どもを思っているお母さんも、みなあなたが守り、支えてください。


若いお母さんにも、年を重ねたお母さんにも、豊かな慰めと平安、健康と希望をお与えください。

そして、お母さんたちが、自分の歩みが決して無駄ではなく、深く愛され、大切にされていることを知ることができますように。


また私たちも、お母さんへの感謝を忘れず、その愛に応えて生きることができますように。


天の父なる神さま。

あなたの大きな愛の中で、すべての家庭を守り導いてください。


主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン。

2026年5月3日日曜日

説教《本当の家へ帰る、唯一の道》

 日課:ヨハネによる福音書 14:1-14


私たちはみんな、人生という長い旅を続ける旅人です。

一日の歩みを終えて、家に帰って休息をとる——それは本当に大きな恵みです。

どんなに疲れていても、帰れる場所があるからこそ、私たちはまた新しい一日へと踏み出していくことができます。

しかし、私たちの歩みも、やがてこの地上の旅を終える時を迎えます。

そのとき、私たちは一体どこへ帰るのでしょうか。

道に迷うことは不安です。

しかし本当に恐ろしいのは、道が分からないこと以上に、帰るべき場所そのものを見失ってしまうことではないでしょうか。

私たちには、最後に帰るべき「本当の家」があるのでしょうか。

そこへ至る道は、どこにあるのでしょうか。

今日は、この問いに対して、主イエスご自身が語られたみ言葉に、共に耳を傾けたいと思います。

私たちは、この地上での歩みがすべてであり、ここが最終的な居場所であるかのように思い込んでしまいがちです。

しかし主イエスは、はっきりとこう語られました。

「父なる神の家には住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」

私たちが最後に帰るべき場所——それはこの地上ではなく、父なる神のもとにあります。

そこは、主イエスが私たちのために備えてくださる住まいです。

主イエスの弟子パウロもまた、コリントの信徒にこう証ししています。

「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物がある。それは人の手で造られたものではない、天にある永遠の住まいです。」(Ⅱコリ5:1)

パウロはここで、私たちの人生を、いつかは畳まなければならない「幕屋」にたとえました。

しかし神は、その先に、決して揺らぐことのない「建物」としての永遠の住まいを備えてくださっています。

ですから、この地上は終着点ではありません。

私たちは今、真の故郷を目指して歩む旅の途上にあるのです。

それでも、私たちは不安になります。

「どうやってそこへ行くのか。自分は本当に、そこにたどり着けるのだろうか」と。

この戸惑いは、私たちだけのものではありません。

主イエスのすぐそばにいた弟子のトマスも、全く同じ問いを抱いていました。

トマスはたまらず、こう訴えました。

「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょうか。」

これは、今を生きる私たち自身の問いでもあります。

この問いに対して、主イエスは「その道を教えよう」とは言われませんでした。

戸惑うトマスに、そして今、不安の中にいる私たち一人ひとりに向かって、こう言われたのです。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」

主イエスご自身が、父なる神のもとへ導く「道」そのものなのです。

この方のほかに、道はありません。

もし、主イエスを通らなくても、そこへ至る道があるとするならば、「私は真理である」と言われたその言葉は、成り立たなくなってしまいます。

主イエスが真理であるからこそ、この道は決して揺らぐことがありません。

私たちはもう、他の道を探して迷う必要はないのです。

主イエスご自身が、私たちの道となってくださっているからです。

主イエスは、世の罪をその身に背負って、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活されました。

この復活によって、死に打ち勝たれたのです。

「私は命である」という主イエスの言葉が、ここに確かな現実となりました。

主イエスが命であるからこそ、私たちが歩むこの道は、永遠の命へと続く道なのです。

私たちは、死を恐れて立ち止まる必要はないのです。

主イエスご自身が、私たちの命となってくださっているからです。

だからこそ、主イエスという道は、私たちにとって最も確かな道なのです。

この道がある限り、私たちの歩みは、行き止まりで終わりません。

この確かな道が示された今、私たちは、復活の主イエスに導かれる者として、それぞれの生活の場へと歩み出していくのです。

明日、あなたが家族のために食卓を整えるとき。

あるいは、職場へと向かうとき。

その何気ない日常の足元に、主イエスという道は確かに続いています。

この道を歩むとき、喜びの日もあれば、涙の日もあるでしょう。

時には、足が止まりそうになることもあるかもしれません。

それでも、私たちは一人で歩むのではありません。

道である主イエスが、私たちを導き、共に歩んでくださるからです。

主イエスは約束されました。

「私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」と。

道に迷いそうなとき、私たちは主の御名によって祈ることができます。

そして私たちには、旅の仲間が与えられています。

互いに祈り合い、道を見失いそうなときに支え合う、教会という名の旅の家族です。

だからこそ私たちは、再び立ち上がり、歩み続けることができます。

主イエスという一つの道の上を、共に祈り、支え合いながら、明日への一歩を踏み出していきましょう。

天の父なる神様。

私たちは、あなたのもとへ至る道が、主イエスご自身であることを知りました。

私たちは、いつか天に帰る者であるだけではありません。

すでに今、この時から、主イエスによってあなたのもとへと導かれている者です。

私たちはもう、自分自身で道を探し回る者ではありません。

主イエスという道に導かれている者です。

どうか、私たちの毎日の歩みが、孤独なものではなく、主と共に、そして与えられた仲間と共に歩む、希望の旅路となりますように。

道が見えない夜も、立ち止まりそうになる朝も、

私たちの足元を照らす主イエスという道を見失うことなく、共に歩み続けることができますように。

最後の一歩を終えるその日まで、この確かな希望のうちに、私たちを歩ませてください。

道であり、真理であり、命である、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。

アーメン


2026年4月22日水曜日

神さまに目を向けよう

 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしたいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。(ルカ7:36-38)


この短い聖書箇所を読んで、あなたは印象に残ったことは何でしょうか?

おそらくある女がイエスに香油を塗ったことではないでしょうか?

合ってますか?

私たちはどうしても”人”の方に目が行ってしまうのです。

正解不正解はありませんが、もっと”神”に目を向けませんか?

イエスさまがファリサイ派の人の家に入られたのです。

どんな恵みでしょうか!

神さまが今も私のうちに入っておられるのです。

2026年4月19日日曜日

説教《エマオの道に示された礼拝》

 日課:ルカによる福音書24:13-35


私たちは毎週日曜日、こうして主日の礼拝に集まっています。

長く教会に通っていると、礼拝がいつしか習慣となり、その意味をあまり意識しなくなることがあるかもしれません。


そこで、あらためて問いたいのです。

私たちがささげているこの礼拝は、一体何を意味しているのでしょうか?


今日の福音書に記されているのは、エマオへ向かう二人の弟子の物語です。

それは、主イエスが復活されたその日、日曜日に起こった出来事でした。

実は、この出来事の中に、私たちが毎週ささげている礼拝の姿が、すでに示されているのです。

そしてその姿を通して、礼拝の意味が、そこに明らかにされているのです。


今日は、このエマオへの道を、弟子たちと共に歩むようにして、私たちの礼拝が本当は何を意味しているのかを、聖書から共に聞き取っていきたいと思います。


エルサレムからエマオへ向かう道を、二人の弟子が重い足取りで歩いていました。

深い失望と疑問の中で、彼らは主イエスのことを語り合っていました。

自分たちの救い主として期待していたイエスが、十字架につけられて死なれたからです。


この二人をエマオへの道に結びつけていたのは、主イエスにほかなりませんでした。

そのときです。復活された主が彼らに近づき、共に歩み始められました。


私たちがこうして主日の礼拝に集うのは、まさにこれと同じなのです。

実に、私たちをここへと結びつけているのも、主イエスにほかなりません。

ここに来るのは、「たまたま時間が空いたから」とか、「来ないと落ち着かないから」といった理由だけではありません。

むしろ、私たちの思いを超えて、父なる神が、主イエス・キリストを通して、今、私たちをここに招き、集めてくださっているのです。


主のみ名のもとに集められるとき、復活の主が、目には見えなくても、確かに私たちのただ中に来てくださるのです。


しかし、私たちはそのことに、いつも気づいているわけではありません。


エマオへの道を歩いていた二人の弟子も、目は遮られていて、主イエスが目の前におられても、それが主であると気づくことができませんでした。

また、救い主は苦しみを受け、その後に栄光に入らなければならないという、神の御心を理解することもできませんでした。

人間の知恵や力だけでは、神の御心を知ることはできないのです。

だからこそ、主イエスご自身が語ってくださるのです。


そこで主イエスは、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを解き明かされました。

彼らがそのみ言葉に耳を傾けているうちに、閉ざされていた心は次第に開かれていきました。

後になって二人は、こう語り合いました。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。


私たちもまた、今、礼拝において、聖書朗読と説教を通して、神のみ言葉に耳を傾けています。

それは単なる知識ではなく、今を生きる私たちに、主イエスが語りかけてくださる「生きた言葉」です。


そのみ言葉が語られるとき、閉ざされていた心は開かれ、冷えていた心に、聖霊が再び火を灯してくださいます。

消えかけていた信仰の火が、み言葉によって再び燃え上がるのです。


主の言葉によって、弟子たちの心は燃えていきました。

やがて日も暮れ、夜が更けかけるころ、その燃える心に導かれるようにして、二人は主イエスを引き止め、「一緒にお泊まりください」と強く願いました。


そして共に食卓に着かれると、主イエスはパンを取り、祝福して裂き、それを彼らにお渡しになりました。

すると、彼らの目が開かれ、目の前におられる方が主イエスであると分かったのです。

しかしその瞬間、主イエスの姿は彼らの目には見えなくなりました。


私たちもまた、礼拝においてみ言葉に耳を傾け、心を燃やされるとき、主イエスを人生にお迎えし、共に歩み、共にとどまっていただきたいと願うようになります。

主は、その願いに確かに応えてくださいます。

それが、私たちに与えられている聖餐です。


この聖餐において、私たちは復活された主イエスご自身との交わりにあずかります。

十字架で裂かれた主の体と流された血によって、私たちは今、主の命にあずかり、生かされているのです。

目に見える姿ではなくとも、主イエスご自身は今、私たちの内に、また私たちのただ中に共におられます。

この聖なる食事を通して、私たちは復活の主イエスと結ばれ、その命に生かされる者とされているのです。


主イエスだと分かった二人の弟子は、暗闇が深まる中にもかかわらず、すぐにエルサレムへと引き返しました。

出発の地であったエルサレムが、再び向かうべき場所となったのです。


かつてエルサレムを離れるとき、弟子たちの心は失望と疑問に満ちていました。

しかし今や、その心は希望と確信へと変えられていました。

彼らは、一つの使命に燃えていました。

それは、復活された主イエスに出会ったこの出来事を、他の人々に証しするという、主から託された使命でした。

その喜びはあまりにも大きく、彼らはそれを伝えずにはいられなかったのです。


私たちもまた、この礼拝に集められ、み言葉と聖餐によって養われ、そして、それぞれの歩みの場へと遣わされていくのです。

それは、主から託された使命を担って、この世へと送り出されるということです。


「主と共に行きましょう」「主の御名によって」との呼びかけの通り、復活の主イエスご自身が、今も、そしてこれからも、私たちと共に歩み、この使命を共に担い、私たちを導いてくださるのです。


私たちは、この世のただ中から教会へと招かれ、集められます。

そして、み言葉によって心を燃やされ、聖餐によって霊の目を開かれます。

こうして私たちは、復活の主イエスの良き知らせを携え、それぞれの生活へと遣わされていくのです。

それは、エルサレムからエマオへ向かい、そして再びエルサレムへ戻った弟子たちの旅のようなものです。

これこそが、私たちがささげている礼拝の意味なのです。


礼拝は、ここで終わるのではありません。

教会を出た後も、私たちの日々の歩みの中で続いていくのです。

私たちの一週間の生活そのものが、神にささげられる礼拝となり、御心に応える歩みとなるのです。

その歩みの中で、私たちは再び主のもとへと集められます。


ですから、私たちは日曜の朝、教会に「来る」のではなく、一週間の旅を終えて神の家へ「帰ってくる」のです。

ここへ来たら、互いに「ただいま」と言いましょう。

そして、「おかえりなさい」と迎え合いましょう。


今日の礼拝で受けたみ言葉と、これからあずかる聖餐の恵みを携え、主と共に歩むその日々こそが、私たちの真の礼拝なのです。


復活の主は、今日も私たち一人ひとりの歩みの中に、確かな命として共におられます。

2026年4月12日日曜日

説教《信仰から遣わされる者へ》

 日課:ヨハネよる福音書20:19-31


去年の四月、私がこの教会に着任して、初めて皆さんにお分かちした説教が、まさに今日のヨハネによる福音書の箇所でした。あのときの説教を、皆さんは覚えているでしょうか。もし今日、まったく同じ説教をしたなら、「ああ、去年と同じだ」と気づかれるかもしれませんね。


しかし、聖書のみ言葉とは本当に不思議なものです。同じ箇所を読んでいるのに、その時々で、新しく心に響いてきます。私たちの歩みの中で、またこの教会の歩みの中で、聖霊が、同じみ言葉を「今を生きるための言葉」として届けてくださるからです。


この一年を共に歩んできた今、改めてこのみ言葉に向き合うとき、私たちは何を聴くのでしょうか。今日は、この聖書箇所との「二度目の出会い」として、神が今、私たちに語りかけようとしておられることに、共に耳を傾けていきたいと思います。


主イエスが復活されたその日の夕方、弟子たちは深い恐れの中にいました。自分たちの先生であった主イエスが捕らえられ、十字架につけられて殺されたからです。「次は自分たちの番ではないか。」その恐れが、彼らを一つの家の中に閉じ込めていました。


扉には固く鍵がかけられ、外から誰も入って来られないようにしていました。しかし、その恐れに満ちた空間に、復活された主イエスが来られ、弟子たちの真ん中に立たれたのです。そしてこう言われました。「あなたがたに平和があるように。」


主イエスは、十字架で釘に打たれたその手を、また槍で突き刺された脇腹を、弟子たちにお見せになりました。弟子たちは、その傷跡を見て喜びました。目の前におられる方が、確かに自分たちのために、十字架で死なれた、あの主イエスであることが分かったからです。


今の私たちにとっても、その傷跡は喜びのしるしなのです。それは単に主イエスであることを証明するものではありません。私たちの罪と恐れをすべて引き受け、死に打ち勝たれた主の勝利のしるしだからです。


そして主イエスは、もう一度言われました。「あなたがたに平和があるように。」この言葉は、ただの挨拶ではありません。恐れている弟子たちをなだめるための言葉でもありません。


主イエスは、最後の晩餐の席で、すでに弟子たちにこう約束しておられました。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)この平和は、世界が与えることのできる平和ではありません。主イエスご自身が与えてくださる、主イエスの平和なのです。


さらに、主イエスはこう言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(16:33)この平和は、十字架の苦しみを通して、主イエスが世に勝ってくださったことによる平和なのです。


だからこそ、復活された主イエスは、恐れの中にいる弟子たちに言われました。「あなたがたに平和があるように。」そしてこの平和は、今、ここにいる私たちにも語られている言葉なのです。


先ほどまで、弟子たちは恐れの中に閉じこもっていました。外の世界を恐れていたのです。その弟子たちに、主イエスは言われました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」


閉じこもっていた者たちが、今度は世界へと遣わされる者となるのです。しかし、それは弟子たちが強くなったから、勇気を持ったからではありません。主イエスが、彼らに平和を与えてくださったからです。主イエスが与えてくださるこの平和は、人を閉じこもらせる平和ではなく、世界へと遣わしていく平和なのです。


復活された主イエスは、今も私たちのただ中に立っておられます。そして同じ言葉を語りかけておられます。「あなたがたに平和があるように。」そして、その平和を与えたうえで、こう言われるのです。「私もあなたがたを遣わす。」


以前、「ミッション探究」をテーマとした信徒懇談会で、皆さんにこのお話をしました。ミッション、すなわち宣教という言葉は、「遣わす」という意味を持っています。父なる神は御子イエスをこの世に遣わし、さらに聖霊をお与えになりました。そして今、私たちは主イエスから宣教という使命を託され、この世界へと遣わされています。つまり教会とは、神によってこの世界へと遣わされた群れなのです。


私たちもまた、この世の中で、様々な不安や恐れを抱えながら生きています。心の扉を閉ざしてしまうこともあります。しかし主イエスは、鍵のかかった家に入るようにして、その閉ざされた場所に来てくださいます。そして私たちに、平和を与えてくださるのです。


その平和によって、私たちは再び歩み出すことができます。いや、むしろ歩み出さずにはいられません。復活された主イエスが与えてくださる平和の中で、私たちはこの世界へと遣わされていくのです。


一年前、この同じ福音書の箇所から、「信仰」をテーマに皆さんと分かち合いました。主イエスが「見ないで信じる人は、幸いである。」と言われた、あの場面です。あれからの一年、皆さんの歩みをそばで見つめてきました。そして今、教会の皆さんの中に、確かで豊かな信仰が育っていることを深く実感しています。


何人かは聖書を読むようになったと聞きます。教会の活動も広がり、信徒同士のつながりも強くなり、教会は以前よりも生き生きとしてきました。信徒の数が急に増えたわけではありません。しかし、主日礼拝に集う人数は、少しずつ増えています。それは小さな数字かもしれません。それでも、その一人ひとりが、神に招かれてここに集められているのです。


それは、神がこの教会の中で、静かに、しかし確かに、働いておられるしるしではないでしょうか。聖書のみ言葉が読むたびに新しく私たちに語りかけるように、神はこの教会の中でも、日々新しい働きを続けておられるのです。


信仰は、教会の中で育てられるものです。しかし信仰は、教会の中だけにとどまるものではありません。信仰を与えられた私たちは、今度はこの世界へと遣わされる者となるのです。


一年前、私たちは「信仰」を共に見つめました。そして今、主イエスは私たちをこの世界へ遣わしておられます。ですから、私たちは今日、ただ礼拝を終えて帰るのではありません。それぞれの家庭へ、学校へ、職場へ、そして、この社会の中へと遣わされていくのです。


この一年の実りを胸に、宣教という使命を担い、主イエスの平和を携えて、それぞれの場へと歩み出していきましょう。