日課:ルカによる福音書12:49-56
エレミヤ書23:23-29
広島と長崎への原爆投下、そして敗戦記念を覚えて、教会ではそれぞれ6日、9日、そして15日の三日間に、平和への願いを込めて、鐘を鳴らしました。8月は特に平和のために祈る期間として、教区事務所からも「平和の祈り」の冊子を作成されました。8月に限らず、私たちは世界の平和のために毎週の主日に祈っています。しかし、今もなおロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナをはじめ、いくつかの地域は戦争状態にあります。国連は今年で創設80周年を迎えました、にもかかわらず、一向に世界の平和は訪れていません。
キリスト者として、私たちは世界の平和を主イエスに委ねて、絶えず祈り続けています。ところが、今日の福音書には、思わず戸惑いを覚えます。なんと主イエスは地上に平和のためではなくて、むしろ分裂のために来たとまで言われました。これは非常に衝撃的な言葉です。キリスト者なら誰もが主イエスは平和のために、この世界に来られたとずっと信じてきたからです。このことの真意は一体何なのか、一緒に探っていきたいと思います。
主イエスは、平和をもたらすためではなく、むしろ分裂のために来たと言われました。主イエスが来られたことで、家族は対立して分かれることになってしまうということです。
主イエスが人々に選択を求められます。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。」(マタ10:37)主イエスを選ぶ人とそうでない人の間に、時に深刻な対立が生まれて、家族の分裂につながります。実はこのような状況について、旧約聖書のミカ書にはすでに預言されていました。「息子は父を侮り、娘は母と、嫁はしゅうとめと対立する。人の敵は家の中の者である。」(ミカ7:6)これは世界の終わりに起こる混乱の様子を描いたものです。
誰も家族の分裂なんか望んでいないでしょう、主イエスご自身も決して分裂を望まれたのではなくて、分裂が避けられないことが分かって、ご自身を受け入れる人に覚悟をするように告げられたのです。
しかし、現代に生きる多くの人々は、分裂への恐れから、主イエスを信じて従う決断がなかなかできないでいます。また、家族との関係が変わってしまうのではないかという不安から、洗礼を受けることに踏み出せない人もいるかもしれません。確かに、平和をもたらすことができないのなら、どうして主イエスを信じる必要があるのでしょうか?
主イエスがお生まれになった夜、天使は神を賛美して、大栄光の歌を歌いました「いと高きところには神に栄光、地には御心にかなう人びとに平和がありますように」(2:14)これは間違いなく、主イエスが平和のために来られたことを高らかに告げるものでした。しかし、その平和とは、私たちが思い描く平和とは違うものです。
一般的に、単に戦争や暴力のない状態のことを平和だと言われています。家族の中に争いがなければ、それは平和と言えます。さらに言うと、貧困、差別、抑圧のない社会構造、文化、価値観のことも平和のうちに含まれます。主イエスは弟子たちにこう語られました「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハ14:27)主イエスの平和は、このいわゆる世界の平和とは違って、それらすべてを越えて、もっと深く、もっと本質的なものです。主イエスの平和は、神との和解で得られる平和のことです。真の平和は、地上だけにとどまるものではありません。天におられる神との和解なくして、この地上に平和はありえません。
今日の福音書の冒頭では、主イエスは地上に火を投じるために来たと言われました。この火について、よく「審きの火」だと言われていますが、私はどっちかというと「福音の火」だと受け止めたいと思います。今日の旧約聖書のエレミヤ書では、主なる神はご自身の言葉を火のようだと言っておられました。これはまさに福音の火です。主イエスは、この福音の火がすでにこの地上で燃えていることを切に願っておられたのです。
しかしあのとき、まだ燃えていませんでした。主イエスは受けならればならない洗礼があるからです。その洗礼とは、十字架を背負うことです。それが成し遂げられるまで、主イエスは苦しんでいました。そして、ついに十字架の上で命を失いました。もし、主イエスの使命が分裂のない、単なる地上の平和であったなら、主イエスは決して十字架につけられることはなかったでしょう。
私たちもまた、時に家族の分裂といった苦しみを経験することがあるでしょう。そのような困難が伴うことを、あらかじめ覚悟しておく必要があります。しかし、恐れることはない、主イエスはこう言われたからです「私によって平和を得る、あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハ16:33)どんな試練の中にあっても、主イエスが共におられ、すでに勝利を得ておられるという確かなみ言葉が、私たちの支えであって、平安と希望を与えてくださいます。
今からおよそ五百年前、いわゆる宗教改革と呼ばれる出来事が起こりました。マルティン・ルターという教会の司祭が立ち上がって、当時の教会の腐敗や誤った教えを批判して、聖書中心の信仰を求める改革運動が広がりました。その結果、教会は改革をもたらしました、しかし同時に、分裂も招きました。それが現在のカトリック、プロテスタント、そして聖公会です。
当時、多くの人たちはルターが教会、さらにいえば世界を分裂させたと激しく非難していました。しかし今日、歴史はその評価を大きく変えています。今では多くの人々が知るように、ルターのしたことは実に正しかったということです。もし、教会の使命が分裂のない、単なる地上の平和であったなら、ルターは腐敗した教会に立ち向かって、福音の真理を宣べ伝える勇気を決して持たなかったでしょう。
分裂のない、単なる地上の平和を追い求めるならば、福音の火が燃え上がることはなかなか難しいでしょう。実際、福音がもたらす真理が対立を引き起こし、分裂につながることから、キリスト教は時に「非寛容な宗教」と批判されることもあります。もちろん、寛容は平和をもたらし、平和への道であると信じています。しかし、「寛容」という言葉の理解に違いがあるのではないかと思います。
寛容な人間になるために、他人の意見に同調して、異なる立場を受け入れざるをえないと思うのかもしれません。しかし、それは言い換えれば、その意見と立場が正しいと認めていることを意味します。その結果、寛容の名のために、私たちはしばしば自分の信仰まで曲げてしまうこともあります。これは決して「寛容」ではなくて、「迎合」だと呼ぶべきだと思います。
寛容とは、他人の意見が自分と異なる場合、意見の違いがあることを認めて、その違いを尊重し、相手が自由に発言する権利を保障することです。つまり、異なる立場の存在を受け入れるのであって、その立場まで受け入れるのではありません。どうか皆さんがご自身の信仰を正しく理解して、歪めることなく、寛容のあるキリスト者となられることを祈っています。
主イエスは気象の変化を見分けることができる群衆に対して、「今」という時の重要性を見失っていることを厳しく指摘されました。私たちもまた、ただ表面的な平和にとどまるのではなくて、神との和解によってもたらされる真の平和を求めるべきです。そして何より、「今」というこの時が、いかに大切な恵みの時であるかを見極めなければなりません。あなた自身の平和のために、今、勇気を出しましょう。
主イエスは地上に火を投じるために来られました。神との和解へ導くために、私たち一人ひとりの心に聖なる火をつけに来られたのです。この火が燃え広がっていきたいのです。制御できないほど大きく、力強く燃え広がることを望んでいます。主イエスがもたらす火が、私たちの心の中で常に燃え続けますように。
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