2025年4月27日日曜日

説教《人を信じさせるみ言葉》

日課:ヨハネによる福音書20:19-31/使徒言行録5:12a,17-22,25-29/ヨハネの黙示録1:9-19


 今から二千年前、主イエス・キリストが復活をなさいました。先の主日、その復活を喜び祝う日を皆さんと一緒に過ごせたことをうれしく思います。私たちにとって、復活日は非常に大きな意義を持つ日ですが、世間一般の人にとって、その日は特別な日ではありません。イエスという人物の存在はともかく、そもそも人間の復活なんて、本当にあり得るのかと大いに疑問を持つでしょう。

人は自分の目で見るまではなかなか信じないものです、頑張って信じるようになるものでもありません。ですから、人は目に見える偶像を崇拝する傾向に陥りやすいのです。実際、イスラエルの歴史の中では、子牛の鋳像を造って、神として拝んでいたことが何回かありました。では、どうしたら、人は目で見ていなくても、神を信じることができるのでしょうか?どうしたら、人に主イエスの復活を信じてもらえるのでしょうか?

主イエスの復活を信じないのは、何も世間一般の人だけではありません。今日のヨハネによる福音書では、3年ぐらいも主イエスに従って、主イエスの教えを聞いて、多くの奇跡を見てきた弟子が、それでも主イエスの復活を信じていなかったことが分かります。それでは、詳しく見て行きましょう。

二千年前に、主イエス・キリストが本当に復活をなさいました。その日の夕方に、さっそく弟子たちの前に現れて、二回も「あなたがたに平和があるように」とあいさつをされました。その場にいなかった弟子の一人のトマスに、ほかの弟子たちは主を見たと告げると、トマスは、実際イエスの手の釘の跡を見て、指をその釘跡に入れて、手を脇腹に入れてみなければ、決してイエスの復活を信じないと言い出しました。それで、今でも「疑惑のトマス」というレッテルを貼られてしまいます。

しかし、私はこれが単にトマスだけの信仰のなさの問題ではなくて、他の弟子たちは、ドアに鍵をかけてあった家の中にイエスが現れて、手と脇腹とをお見せになったから、信じただけの話です。そうでなければ、おそらくトマスと同じように信じていなかったと思います。実際、ルカによる福音書では、イエスの復活を目の当たりにした女たちは、弟子たちにそのことを知らせたのに、弟子たちはその話がまるで馬鹿げたことだと書いてあります。(ルカ24:10-11)

それもそのはず、十字架につけられて死んだ人が復活するなんて、にわかに信じがたい、あり得ない話です。ですから、世間一般の人にとって、イエスの復活は事実ではなくて、単なる伝説、一種の神話にすぎません。

この信じられないことが、イエスの出現によって現実のものとなりました。トマスを含む弟子たちはイエスのみ姿を見て、イエスの復活を信じました。そして、イエスが主であって、神であることを確信しました。

やはり人は見ることによって信じるのです。もし今主イエスがこの世界に現れたなら、もっと多くの人が主イエスを信じるでしょう。しかし、主イエスはすでに天に昇られて、少しの間はこの世界には降りてきません。イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。私を見ないで信じる人は、幸いである。」と言われました。どうしたら、見ないで信じることができましょうか、どうしたら、その幸いな者になれましょうか?

今日の福音書の著者である使徒ヨハネは、イエスが神の子メシアであることを人々に信じさせるために、この福音書を書いたと語ってくれました。そして、今日のヨハネの黙示録では、この使徒ヨハネに対して、見たこと、今あること、また後に起こることを巻物に書き記せと命じられました。主イエスは、人が見ないで自分が神の子メシアであると信じることができるように、ご自身の教え、行いを弟子たちに書き記させられたのです。

主イエスが神の子メシアであることを信じるとは、すなわち、神が人間となられて、乙女によってこの世界に生まれて、十字架の上に死なれることによって、すべての人の罪を贖って、三日目に復活したことを信じることです。しかし、これらのことをとても人間の知恵、理性だけでは、信じることはできません。むしろ、信じない方が普通なのです。それは、あまりにも非常識、非科学的だからです。

どうして私たちはこんな馬鹿げたことを信じてやまないのでしょう?使徒パウロはコリントの信徒への手紙では、こう教えてくれました。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。」(Ⅰコリ12:3)私たちが信じるのは、心を改めて、み言葉を心に留めて、それから、聖霊が働いてくださるからです。人間の力で信じるのではなくて、神が人間を信じさせるのです。皆さんは主イエスが神の子メシアであることを、心から信じるならば、聖霊を受けたことで、皆さんの中には聖霊が宿っていると確信を持って言えます。

聖霊が働くには、神のみ言葉が必要不可欠です。まず、そのみ言葉に耳を傾ける必要があります。これは、神がご自身のことを書き記させられたゆえです。それは旧約聖書においても、新約聖書においても全く同じです。

私はキリスト者である妹の影響で、キリスト者になりました。しかし最初は、特に神の創造などを信じていなくて、とりあえず、あまり深く考えないという態度を取っていました。当時は聖書に興味があって、創世記からほぼ毎日読んでいました。そのあと、教会に通って、日曜学校の手伝いもさせてもらいました。ある時、日曜学校の子どもたちに、人間は神によって創造されたのよと話しました。これを口にしたことに、自分でも驚いていました。というのは、私は単に聖書の物語を教えようとしていたのではなくて、心から信じたことを自然に出たからです。あっ、いつの間にか、私は本当に創造主である神を信じたのだと初めて気づきました。

この変化の理由として、私が思いつくのは、聖書を読んでいたことに他ありません。聖書は単なる小説ではなくて、神のみ言葉です、そのみ言葉には力が満ちています。私は主イエスを信じるのは、主イエスを見たからではなくて、もちろん主イエスを見たことはありませんでした、み言葉にある主イエスの教え、主イエスの行いが私を信じさせるのです。私自身のこの経験から、皆さんにもぜひ聖書を読んでいただきたいと願っています。

私が週報を作っているとき、奉仕表に埋まらないのは、たいてい聖書朗読の奉仕です。私はこれ、非常にもったいないなと思いました。もちろん奉仕には区別がなくて、これが重要な奉仕とか、重要でない奉仕とかはないはずです。しかし、私の神学校で礼拝学を教えていたある先生が、聖書の朗読は説教よりも神聖であると教えていました。というのは、説教者は多かれ少なかれ、個人的な意思が混じってしまいます。しかし、聖書の朗読者は、神のみ言葉をそのまま会衆に届けるからです。ぜひ、皆さん一人一人が神のみ言葉を愛して、それを声に出して朗読するこの神聖な奉仕に、大いに携わることを祈ります。

今日の使徒言行録では、主の天使が使徒たちを牢屋から救い出して、命の言葉を残らず民衆に告げるように命じました。これはまさに主イエスが弟子たちに、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と言われたことです。私たちもまた、主イエスによって遣わされているのです。主イエスのみ名によって人々に命を得るように遣わされているのです。より多くの人にイエスが神の子メシアであると信じるように、私たち一人一人が神の命の言葉を伝えなければなりません。必ず聖霊が働いて、日々救われる人々を私たちの仲間に加えてくださると信じています。

今から二千年前、主イエス・キリストが復活をなさいました。しかし、あれから二千年経ったのに、いまだにそれを信じない人が大勢います。目で見えない神の子メシアである主イエスを信じるのに、神のみ言葉をよく読んで、よく聞いて、そして心に留める必要があります。信じない者のままではなくて、信じる者になりましょう、幸せな者になりましょう。そして、信じている私たち、幸せな者である私たちも、神のみ言葉をよく読んで、よく聞いて、そして心に留めることによって、ますます神との関係が深まって、信仰も強くなるでしょう。

この一週間、皆さん一人一人が主の平和の中で時を過ごして、神のみ言葉に傾けて、心に留めて、そして、神とのより深い関係を育んでいくことを、心からお祈り申し上げます。

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