日課:ヨハネよる福音書4:5-42
私たちは、なぜ、今日、ここに集まっているのでしょうか?
考えてみれば、ここは不思議な場所です。体を癒したいなら、病院があります。心の安らぎが欲しいなら、静かなカフェがあります。願いを叶えたいなら、「よく当たる」と評判の場所もあると聞きます。人とのつながりを求めたいなら、地域の集まりという選択肢もあります。そして、正しく生きたいなら、あえてキリストを信じなくても、立派に、誠実に歩んでいる人は大勢います。
それでも——。それでも、私たちは、ここにいます。なぜでしょうか?
今日の福音書は、一人のサマリアの女が井戸に水を汲みに来る場面から始まります。彼女が求めていたのは、ただ生活のための水、のどの渇きを癒す水でした。しかし、その井戸で、彼女が出会ったのは、単なる水ではありませんでした。
私たちもまた、それぞれに何かを求めて、ここに来ているのかもしれません。満たされているはずなのに、どこか渇いている。忙しく生きているのに、心の奥に空白がある。その「名付けられない渇き」に気づいているからこそ、私たちは今日、ここにいるのではないのでしょうか。
時刻は正午ごろ。一日のうちで最も暑い時間です。主イエスは井戸のそばに座っておられました。焼き付くような日差しの中、旅に疲れ、そこに身を置いておられます。そこへ、一人の女がやってきました。サマリアの女でした。
当時、サマリア人とユダヤ人の間には、長い歴史の遺恨がありました。民族としての偏見があり、礼拝の場所をめぐる宗教の対立がありました。互いに距離を保ち、言葉を交わすことさえ避ける関係です。そのユダヤ人の男である主イエスが、サマリア人の女に、自ら声をかけられました。当時の常識を覆す出来事でした。単なる挨拶ではありません。彼女の人生の奥底へ分け入っていく、長く、深い対話の始まりでした。
この女が背負っていたものは、「サマリア人」という立場だけではありません。彼女には五人の夫がいました。そして、今連れ添っている人も夫ではないという複雑な背景がありました。詳しい事情は記されていません。しかし、彼女が周囲の目線を避けながら、生きて来たであろうことは想像できます。だからこそ彼女は、誰も来ない暑い正午を選んだのでしょう。できることなら、誰にも会わず、何も語らず、ただ水を汲んで、静かに帰りたかったはずです。
しかし、その井戸で、彼女は主イエスに出会いました。主イエスは、彼女の過去も、隠しておきたい現在も、すべて知っておられました。それでも決して責め立てることなく、問いを重ね、語り続け、彼女を真実へと導かれました。
主イエスは、歴史の遺恨を越え、民族の偏見を越え、宗教の対立を越えて、一人の人間にまっすぐに向き合われます。主イエスが見ておられたのは、彼女の内にある、満たされることのない渇きでした。そして、その渇きは、今ここにいる私たちの内にもあるのではないでしょうか?
のどの渇きを一時的に癒すだけなら、どんな水でも構いません。ひと口含めば、その瞬間の渇きは収まるでしょう。しかし、しばらくすれば、また渇きます。井戸の水とは、そういうものです。
あのサマリアの女も、水を飲んでまた渇き、そのたびに井戸へ足を運びました。その繰り返しは、彼女の人生そのもののようにも見えます。満たされたはずなのに、なお空しさが押し寄せる。そんな日常の中で、彼女は常に何かを求め続け、歩みを重ねてきたのでしょう。それは、現代を生きる私たちの姿と、どこか重なってはいないでしょうか。
人は、この心の渇きを、さまざまな方法で満たそうとします。宗教はその一つです。世にある様々な宗教には、守るべき教えがあり、生き方を導く知恵があります。しかし、どれほど真面目に教えを守り、熱心に修行を積んだとしても、それは一時しのぎの水。言わば「外から与えられる水」に過ぎません。心の奥にある渇きを、完全に消え去ることはできないのです。
そんな私たちに、主イエスはこう言われました。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。」この水は、私たちが汲みに行く必要はありません。主イエスが与えてくださるのです。この水は、人の内で泉となり、絶えず湧き出る生ける水です。私たちの内で、永遠に生き続ける命の水なのです。
この命の水を与えることができるのは、ただ、主イエスしかおられません。なぜなら、主イエスだけが、私たちの渇きの根源である罪を、背負ってくださったからです。主イエスだけが、私たちの代わりに、あの十字架につけられました。主イエスだけが、罪の結果である死を引き受け、葬られました。そして、主イエスだけが、その死を打ち破り、復活されたのです。その復活の命こそが、今や尽きることのない命の泉となって、私たちの内に湧き出続けているのです。
だからこそ、私たちが信じるものは、単なる「宗教」ではありません。外から人を支えようとするものではありません。内から命が溢れ出す「信仰」なのです。
主イエスこそが、約束の救い主であると確信したとき、あのサマリアの女は、水を汲むために持ってきた水がめを、井戸のそばに置いたまま、町へと駆け出していきました。もはや彼女にとって、何度も渇きを繰り返す井戸の水を、汲み続ける必要はなくなったのです。彼女の内には、すでに、決して渇くことのない生ける水が湧き始めていたからです。
彼女は、その命の水を、自分だけのものにしておくことができませんでした。この水を、他の人たちにも飲んでほしい——その思いが、彼女を町へと向かわせました。かつては、人の目線を恐れ、避けるようにして生きてきた彼女が、今や自ら、人々であふれる町の中へと飛び込んでいきます。変えられたのです。内から、新しくされたのです。永遠の命に至る水が、彼女の内から湧き上がって、彼女を外へと押し出したのです。
やがて、彼女の言葉を聞いた町の人々もまた、主イエスを信じました。彼らが信じたのは、彼女の言葉よりも、生まれ変わった彼女の、その生き生きとした姿を見たからではないかと思います。町の人々は、主イエスを自分たちの町に迎え入れ、そのみ言葉を聞き、さらに多くの人が主イエスを信じました。生ける水は、一人の心にとどまることなく、町全体へと広がっていったのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん。あの井戸の出来事は、決して遠い昔の物語ではありません。主イエスに出会うとき、同じ命の水が、私たちの内にも湧き出始めます。水がめは、もう必要ありません。主イエスの前に、置いて良いのです。その新しくされた命で歩み出すこと——それこそが、主イエスが語られた「霊と真実をもって献げる礼拝」なのです。