2026年5月31日日曜日

説教《共に生きる弟子》

 日課:マタイによる福音書28:16-20



日本には、長い年月をかけて受け継がれてきた伝統技術があります。

和紙の製法、陶芸の技法、刀鍛冶の技術——世界中から賞賛されるものばかりです。

それらは、一人の職人が長い年月をかけて身につけてきた技であり、言葉だけで簡単に伝えられるものではありません。

だからこそ、職人は弟子を取り、その技を伝えていきます。


しかし今、その多くが消滅の危機に瀕しています。

なぜでしょうか。

製品を買ってくれる人がいないからではありません。

むしろ問題は、後継者がいないこと。

つまり、次の弟子が育っていないのです。


どれほど優れた技であっても、受け継ぐ者がいなければ、やがて消えてしまうのです。


では、信仰はどうでしょうか。

私たちが受け継いできた福音も、これと同じではないでしょうか?

主イエスが示してくださった神の愛と救いは、単なる知識ではなく、人生をかけて生きる命そのものです。


もし私たちが、この恵みを受け取るだけで終わるなら、福音は私たちのところで止まってしまいます。

だからこそ、主イエスは地上を去る最後のときに、弟子たちに、そして今の私たちに、大切な使命を託されました。


今日はこの主イエスの言葉を、私たちがどのように次の世代へとつないでいくのか、共に受け止めていきたいと思います。


今日読まれたマタイによる福音書で、復活された主イエスは、まず弟子たちにこう告げられました。

「私は天と地の一切の権能を授かっている」と。


主イエスが、ご自身の働きを始められる前、悪魔から、「この世のすべての国々とその栄華を与えよう」という誘惑を受けられました。

しかし主イエスは、その誘惑を退けられました(4:8-10)。

十字架という苦難を避け、安易にこの世の栄華を求めるのではなく、どこまでも父なる神に従う道を歩まれたのです。


そして今、十字架と復活を経て、主イエスは天と地の一切の権能を授かっておられます。

その絶対的な権威のもとで、主イエスは弟子たちにこう命じられたのです。

「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と。


ここで主イエスは、「ただ人を集めなさい」とは言われませんでした。

与えられたのは、「弟子にしなさい」という使命です。


弟子とは、主と共に歩み、その生き方にあずかる者です。

そして重要なのは、この使命が「一度限りで終わるものではない」ということです。

弟子は、さらに新しい弟子を育てていきます。


主から受けた恵みを、自分のところで止めるのではなく、次の人へと手渡していくのです。

そのようにして、主イエスの福音は、時代を越え、場所を越え、今ここにいる私たちにまで届けられてきました。


もし最初の弟子たちが、「自分たちは信じればそれでよい」と考えていたとしたら、この福音は、私たちにまで伝わることはなかったでしょう。


では、どのようにして弟子が生まれるのでしょうか。

主イエスは、こう語られました。

「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」と。


守るとは、ただ規則に正しく従うことではありません。

主のみ言葉が、私たちの生活そのものになっていくことです。

だからこそ、ここで言われている「教える」とは、単に言葉で説明することではありません。


職人の世界では、技術は教科書を読んだだけでは身に付きません。

親方と共に生活し、その背中を見ながら、時には失敗しつつ身に付けていきます。


信仰もまた、同じです。

共にみ言葉に耳を傾け、共に祈り、生活の中でキリストの愛をどう生きるのかを、時間をかけて学んでいくのです。


しかし、ここに決定的な違いがあります。

信仰は、単なる技の継承ではありません。


主イエスは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命じられました。

洗礼とは、人が神のものとして新しく生かされることです。


主イエスが望まれるのは、人が神を知り、神と共に生きるようになることです。

その歩みは、決して簡単なものではありません。

時にはうまくいかず、迷い、つまずくこともあるでしょう。

それでもなお、共に歩み続ける中で、少しずつキリストの姿に近づいていくのです。


そのような歩みを通して、人は弟子へと導かれていきます。

それが、主イエスが私たちに託しておられる弟子の歩みなのです。


そして実際に、私たちはそのような歩みを、この教会の中でも経験しました。


昨年の10月、私たちの教会は、一人の外国人の方を受け入れました。

当時、住む場所もなく困難な状況の中にあった彼のために、居場所を整え、他の教会とも協力しながら生活を支え、共に祈りつつ歩む日々が与えられました。

それはまさに「寝食を共にし、キリストの愛を生きる」実践でした。


その中で、彼は主イエスの福音に触れ、ついに洗礼へと導かれました。

そして今日、彼は36年ぶりに祖国へ帰って行かれます。


これは、決して私たちの力だけで成し遂げたことではありません。

主ご自身が彼を招き、私たちの手を用いて、彼を導いておられたのです。


私たちは、その出来事を通して改めて教えられました。

「弟子とする」とは、ただ教えを語ることではなく、痛みを分かち合い、共に生きることなのだということです。


主イエスは、「行って、すべての民を弟子にしなさい」と言われました。

それは、遠い場所へ行くことだけではありません。

今、目の前にいる一人と共に歩み、その人が神と共に生きるようになることを願いながら歩むことです。


そのような私たちの日常の歩みの中で、主は今も、人を招き、洗礼へ導き、そしてそれぞれの場所へ遣わしておられるのです。


今日、36年ぶりに祖国へと帰って行かれるワンさん。

そして明日からまた、それぞれの日常へと遣わされていく私たち。


これから歩む道には、新たな困難や、孤独を感じる日があるかもしれません。

しかし、恐れることはありません。

主イエスは、この使命を与えられた最後に、私たちに確かな約束を与えてくださいました。

「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


私たちがどこへ遣わされようとも、天と地の一切の権能を授かっておられる主ご自身が、いつも共にいてくださいます。


この力強い約束に支えられながら、私たちもまた、キリストの愛を生きる弟子として、それぞれ遣わされた場所で歩んでいきましょう。


主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。


2026年5月24日日曜日

教会

教会は場所ではなく、人なのです。

 私たちは教会に行くのではありません。

そこで、私たち自身が教会になるのです。

2026年5月18日月曜日

私は思う

 "何々と私は思う"って言ったとき、自分の考えのことを示すことになります。しかし、キリスト者としてこう話すとき、別の意味を持ってほしいと私は思います。

それは、"私は神さまがそう思われるのを思う"。

つまり、自分の考えではなく、神さまの考えに基づくのです。

その神さまの考えを知るため、私たちは聖書を読み、勉強するのです。

2026年5月17日日曜日

説教《今も続く、主の祈り》

 日課:ヨハネによる福音書 17:1-11


私たちは皆、いつか必ず、死と向き合う時を迎えます。

その「いつか」が、もし今日、あるいは明日だったとしたら。


人生の終わりに近づき、残された時間がわずかになったとき。

私たちは、何を思い、誰のことを心に留めるでしょうか。

おそらく、自分のことよりも、残していく家族や、大切な人たちのことではないでしょうか。

その人たちのこれからの歩みを思い、神に託すように祈る。

そのような祈りをささげるのではないでしょうか。


主イエスが、まさに十字架というご自身の死を目前にしたその最後の夜、誰のために、何を祈っておられたか。

聖書は、その祈りの言葉を私たちに伝えています。

その祈りは、静かでありながら、私たちへの熱い思いと深い愛に満ちた祈りでした。


今日は、この主の祈りに耳を傾け、そこに込められた神の愛を、共に受け取っていきましょう。


今日の福音箇所は、主イエスが弟子たちと共に最後の晩餐を終えられた後の場面です。

主イエスは天を見上げて、祈りをささげられました。

この祈りの中で、私たちは驚くべきことに気づかされます。

全人類を救うために世に来られた主イエスが、ご自身の苦しみが迫るこの時に、「世のためではなく」、ご自分に与えられた人々のために祈っておられるのです。


その「与えられた人々」とは誰のことでしょうか。

それは、父なる神から与えられた言葉を受け入れ、主イエスが神のもとから来られた救い主であることを知り、神から遣わされた神の子であると信じた人々です。

あの夜、不安に揺れていた十一人の弟子たち。

そして、今ここに集められている私たちのために、主は祈っておられるのです。


地上で過ごす最後の夜に、主イエスは、他でもない私たちのために祈られました。

そして、こう祈られたのてす。

「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と。


主イエスはこれから、父の御もとに帰るために、十字架へと向かわれます。

ご自身の苦しみが迫る中にあっても、心に留めておられたのは、世に残される私たちのことでした。

私たちの歩みが、決して容易ではないことを、主はよくご存じだったのです。


何より主イエスは、今目の前にいる弟子たちが、数時間後には恐れのあまり、自分を見捨てて逃げ出してしまうことも知っておられました。

弟子たちの弱さ、脆さ、裏切りさえも、主イエスはすべて見通したうえで、それでもなお、深い愛を持って私たちのために祈り、とりなしてくださったのです。


この祈りの中の「守り」とは、単に危険や苦しみから守られるということではありません。

どれほど深い苦しみの中にあっても、どれほど自分の弱さに打ちのめされても、決して信仰が失われることなく、神のみ手からこぼれ落ちることがないように、という祈りなのです。


そして主イエスは、その守りが何のためであるのかを語られます。

「私たちのように、彼らも一つとなるためです」と。

「一つとなる」。

しかしそれは、私たちの弱さを思うとき、決して簡単なことではありません。


教会の中であっても、違いや行き違いはあります。

良かれと思って語った言葉が、思うように届かなかったり、自分の思いが理解されずに悲しい思いをしたりすることもあるでしょう。

同じ主を信じているはずなのに、どうして分かり合えないのかと、心が痛み、孤独を覚えることさえあるのです。


それでもなお、私たちは主にあって一つとされています。

それは、決して私たちの努力によるのではありません。

あの夜、主イエスが私たちのために祈ってくださったからこそ、私たちは今も、一つとされ続けているのです。


主イエスはなぜ、私たちが守られ、一つとされることを、これほど切に祈られたのでしょうか。


私たちが生きる社会には、分断や争いがあふれています。

違いを恐れ、誰かを排除し、孤独の中で傷ついている人がたくさんいます。

そのただ中で、不完全な私たちが、時に傷つき合いながら、それでもなお、ゆるし合い、共に礼拝をささげ続ける教会の姿そのものが、この世における主イエスの愛の証しとなるのです。

そして人々は、その一つとされる教会の姿を通して、主イエスの愛に触れていくのです。


主イエスは、十字架を目前にした祈りの中で、「ご自身に栄光を現してください」と父なる神に願われました。

それは、ご自身を通して、神の愛がこの世に、誰の目にも見える形で現されるためでした。

そして主イエスは、その愛を持って、今ここにいる「私たち」のためにも祈ってくださいました。

主イエスが願われたのは、私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知り、その愛の中で生きるという「永遠の命」を受け取ることです。

そして、十字架の業を成し遂げられた主の祈りは、今もなお、私たちのただ中に生き続けています。

主に守られ、一つとされた私たちを通して、神の愛はこの世に現されていきます。

私たちの何気ない、時に不器用な日常の歩みを通して、主の命が世へと届けられていくのです。


明日からまた、私たちはそれぞれの日常へと遣わされていきます。

家庭、学校、職場、そして地域社会。

そこには、思い通りにならない現実や、心をすり減らすような出来事、答えの出ない問いが待っているかもしれません。

時に疲れ果てて、「もう祈る言葉もありません」と、一人うずくまってしまう夜もあるかもしれません。


しかし、どうか思い出してください。

あなたは決して、一人で祈っているのではありません。

あなたが祈れない時も、主イエスご自身が、あなたのすぐ傍らで、あなたの代わりに祈ってくださっています。

「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」と、今も天において、あなたのためにとりなしてくださっているのです。


私たちは決して一人ではありません。

目には見えなくても、主の祈りと愛によって、私たちはすでに結ばれています。


どうかこの一週間も、主の御名によって守られ、主にあって一つとされた者として、主の平安のうちにそれぞれの場所へと歩み出していくことができますように。

2026年5月12日火曜日

葬送式

 とある信徒さんからの話です。

彼女が同僚のご主人の葬式に参加しましたが、最後の献花のときに、その信徒でない人は外に出され、献花に参加させてもらえませんでした。

非常に悲しかったと言っていました。

葬式は、一つの宗教儀式であれば、信徒でない人に参加させないことは理解できます。

だから、結局そこにとって葬式は宗教儀式ですのようですね。

私にとって、葬式は遺族、友人を慰める場であって、決して宗教行為ではありません。

いつも言ってますが、キリスト教は宗教なんかではありません。

2026年5月10日日曜日

母の日の祈り②

 天の父なる神さま。


今日、私たちは母の日を迎え、世界中のお母さんたちを覚えて、心から感謝をささげます。


あなたは、お母さんを通して、私たちに命を与え、この世界へと送り出してくださいました。

そして、日々の優しさや祈り、励ましや支えを通して、あなたの愛を私たちに示してくださいました。


どうか、世界中のお母さんたちを祝福してください。

喜びの中にいるお母さんも、疲れの中にいるお母さんも、子育てに悩んでいるお母さんも、離れて暮らす子どもを思っているお母さんも、みなあなたが守り、支えてください。


若いお母さんにも、年を重ねたお母さんにも、豊かな慰めと平安、健康と希望をお与えください。

そして、お母さんたちが、自分の歩みが決して無駄ではなく、深く愛され、大切にされていることを知ることができますように。


また私たちも、お母さんへの感謝を忘れず、その愛に応えて生きることができますように。


天の父なる神さま。

あなたの大きな愛の中で、すべての家庭を守り導いてください。


主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。

アーメン。

2026年5月3日日曜日

説教《本当の家へ帰る、唯一の道》

 日課:ヨハネによる福音書 14:1-14




私たちはみんな、人生という長い旅を続ける旅人です。


一日の歩みを終えて、家に帰って休息をとる——それは本当に大きな恵みです。


どんなに疲れていても、帰れる場所があるからこそ、私たちはまた新しい一日へと踏み出していくことができます。


しかし、私たちの歩みも、やがてこの地上の旅を終える時を迎えます。


そのとき、私たちは一体どこへ帰るのでしょうか。


道に迷うことは不安です。


しかし本当に恐ろしいのは、道が分からないこと以上に、帰るべき場所そのものを見失ってしまうことではないでしょうか。


私たちには、最後に帰るべき「本当の家」があるのでしょうか。


そこへ至る道は、どこにあるのでしょうか。


今日は、この問いに対して、主イエスご自身が語られたみ言葉に、共に耳を傾けたいと思います。


私たちは、この地上での歩みがすべてであり、ここが最終的な居場所であるかのように思い込んでしまいがちです。


しかし主イエスは、はっきりとこう語られました。


「父なる神の家には住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」


私たちが最後に帰るべき場所——それはこの地上ではなく、父なる神のもとにあります。


そこは、主イエスが私たちのために備えてくださる住まいです。


主イエスの弟子パウロもまた、コリントの信徒にこう証ししています。


「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物がある。それは人の手で造られたものではない、天にある永遠の住まいです。」(Ⅱコリ5:1)


パウロはここで、私たちの人生を、いつかは畳まなければならない「幕屋」にたとえました。


しかし神は、その先に、決して揺らぐことのない「建物」としての永遠の住まいを備えてくださっています。


ですから、この地上は終着点ではありません。


私たちは今、真の故郷を目指して歩む旅の途上にあるのです。


それでも、私たちは不安になります。


「どうやってそこへ行くのか。自分は本当に、そこにたどり着けるのだろうか」と。


この戸惑いは、私たちだけのものではありません。


主イエスのすぐそばにいた弟子のトマスも、全く同じ問いを抱いていました。


トマスはたまらず、こう訴えました。


「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょうか。」


これは、今を生きる私たち自身の問いでもあります。


この問いに対して、主イエスは「その道を教えよう」とは言われませんでした。


戸惑うトマスに、そして今、不安の中にいる私たち一人ひとりに向かって、こう言われたのです。


「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」


主イエスご自身が、父なる神のもとへ導く「道」そのものなのです。


この方のほかに、道はありません。


もし、主イエスを通らなくても、そこへ至る道があるとするならば、「私は真理である」と言われたその言葉は、成り立たなくなってしまいます。


主イエスが真理であるからこそ、この道は決して揺らぐことがありません。


私たちはもう、他の道を探して迷う必要はないのです。


主イエスご自身が、私たちの道となってくださっているからです。


主イエスは、世の罪をその身に背負って、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活されました。


この復活によって、死に打ち勝たれたのです。


「私は命である」という主イエスの言葉が、ここに確かな現実となりました。


主イエスが命であるからこそ、私たちが歩むこの道は、永遠の命へと続く道なのです。


私たちは、死を恐れて立ち止まる必要はないのです。


主イエスご自身が、私たちの命となってくださっているからです。


だからこそ、主イエスという道は、私たちにとって最も確かな道なのです。


この道がある限り、私たちの歩みは、行き止まりで終わりません。


この確かな道が示された今、私たちは、復活の主イエスに導かれる者として、それぞれの生活の場へと歩み出していくのです。


明日、あなたが家族のために食卓を整えるとき。


あるいは、職場へと向かうとき。


その何気ない日常の足元に、主イエスという道は確かに続いています。


この道を歩むとき、喜びの日もあれば、涙の日もあるでしょう。


時には、足が止まりそうになることもあるかもしれません。


それでも、私たちは一人で歩むのではありません。


道である主イエスが、私たちを導き、共に歩んでくださるからです。


主イエスは約束されました。


「私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」と。


道に迷いそうなとき、私たちは主の御名によって祈ることができます。


そして私たちには、旅の仲間が与えられています。


互いに祈り合い、道を見失いそうなときに支え合う、教会という名の旅の家族です。


だからこそ私たちは、再び立ち上がり、歩み続けることができます。


主イエスという一つの道の上を、共に祈り、支え合いながら、明日への一歩を踏み出していきましょう。


天の父なる神様。


私たちは、あなたのもとへ至る道が、主イエスご自身であることを知りました。


私たちは、いつか天に帰る者であるだけではありません。


すでに今、この時から、主イエスによってあなたのもとへと導かれている者です。


私たちはもう、自分自身で道を探し回る者ではありません。


主イエスという道に導かれている者です。


どうか、私たちの毎日の歩みが、孤独なものではなく、主と共に、そして与えられた仲間と共に歩む、希望の旅路となりますように。


道が見えない夜も、立ち止まりそうになる朝も、


私たちの足元を照らす主イエスという道を見失うことなく、共に歩み続けることができますように。


最後の一歩を終えるその日まで、この確かな希望のうちに、私たちを歩ませてください。


道であり、真理であり、命である、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。


アーメン


説教《神のまなざしの中を生きよう》

 日課:マタイによる福音書 10:24-39    エレミヤ書20:7-13 私たちが生きているこの日本では、キリスト者はほんの数パーセントです。 明らかな少数派です。 私の故郷のマレーシアでも、日本より割合は多いとはいえ、やはり少数派であることに変わりはありません。 だからでし...