日課:ヨハネによる福音書1:28-42
皆さんは今日、どのような思いを胸に、この教会に来られたでしょうか?私たちは日々の生活の中で、意識しているかどうかに関わらず、何らかの「目的」を抱いて行動しています。学校で学ぶのは、知識を身につけるためです。働くのは、生活を支えるためです。
では、私たちは何を求めて、主イエスに従っているのでしょうか?主イエスに従うことで、私たちは何を期待し、何を願っているのでしょうか?安心でしょうか?癒しでしょうか?それとも、今の抱えている苦しみからの解放でしょうか?
しかし、もし私たちが、主イエスを「自分の願いをかなえてくださる方」としてのみ求めているとしたら、その願いが思い通りにならないとき、私たちはたやすく失望してしまうかもしれません。
今ここで、少し立ち止まって、自分自身に問いかけてみてください。あなたは、主イエスに何を求めて、この教会に来ているのでしょうか?
ヨハネによる福音書で、主イエスが最初に語られた言葉は、「何を求めているのか」でした。洗礼者ヨハネは、自ら洗礼を授けた主イエスを見かけ、そばにいた二人の弟子にこう告げます。「見よ、神の子羊だ。」その言葉を聞いた二人は、主イエスの後について行きました。すると、主イエスは振り返り、彼らを見つめて、こう問いかけられました。「何を求めているのか」。
考えてみてください。このとき、主イエスには、ほかにいくらでもかける言葉があったはずです。「こんにちは」と挨拶することもできたでしょうし、「なぜ、ついて来るのか?」「何か困っているのか?」と尋ねることもできたでしょう。
それでも主イエスは、この問いを選ばれました。それは、信仰の強さを測るための問いではありません。立派な答えを引き出すための問いでもありません。むしろ、自分でも気づいていない、心の奥の願いに目を向けさせる問いです。
この問いは、決して二千年前、その場にいた二人だけに向けられたものではありません。主イエスの後を歩もうとするすべての人、一人ひとりに投げかけられている問いです。
私たちもまた、それぞれの思いを胸に、主イエスの後を歩もうとしています。信仰に確信をもって歩んでいると感じるときもあれば、迷いや不安の中で、ただ後ろについて行っているだけのように思えるときもあるでしょう。
しかし主イエスは、そんな私たちの歩みをも振り返り、一人ひとりを見つめ、今日も同じ問いを投げかけておられるのです。「何を求めているのか」。
この問いに向き合うために、あらためて、洗礼者ヨハネの言葉に導かれて、主イエスの後について行った二人のことを、もう一度思い起こしてみましょう。彼らが主イエスに従ったのは、洗礼者ヨハネが、主イエスを指してこう告げたからです。「見よ、神の子羊だ。」では、「神の子羊」とは、いったい何を意味するのでしょうか?
当時、人々は罪の赦しを願い、子羊をいけにえとして神に献げていました。その小羊は、自分自身の罪を贖うために、一人ひとりが備えるものでした。しかし、洗礼者ヨハネが指し示した主イエスは、人が備えた小羊ではなく、神ご自身が備えられた小羊そのものです。だからこそ、主イエスは「神の子羊」と呼ばれるのです。
人が備える小羊が贖えるのは、限られた一人ひとりの罪に過ぎません。しかし、神が備えられたこの小羊は違います。主イエスは、ただ一人のためではなく、世の罪を除くために来られた、まことの神の子羊なのです。
「何を求めているのか」。この問いの前で、私たちはやがて、気づかされます。世の罪を除く神の子羊である主イエスご自身が、すでに私たちに与えられていることを。そして、この方のほかに、真に求めるものは何もないということを。
私たちが主イエスに従うのは、何かを得るためではありません。私たちが主イエスに従うのは、主イエスが、私たちの罪を背負い、私たちの罪を取り除く、神の子羊だからです。
少し前に、主教宛に行われた個別アンケートの中に、「教会に何を求めているのか?」という問いがありました。そこには、神に近づきたいという願い、信徒同士の交わりを大切にしたいという思い、心の安らぎを求める声、そして、誰にとっても安心していられる場であってほしいという、多くの切実な声が寄せられていました。
では、これらの願いは、どのようにして実現されるのでしょうか?そのカギとなるのは、主イエスのもとに「泊まる」ことです。今日の福音書で、二人の弟子は主イエスのもとに泊まりました。ここで言われている「泊まる」とは、ただ一時的に立ち寄ることではありません。そこにとどまり、主イエスとの関係の中に生きることを意味しています。
昨年から、手芸の会やお花クラブの活動の中に、聖書の朗読や祈りを取り入れてきました。そして今年は、聖書の学びの機会をさらに充実させていきます。こうした取り組みを行うのは、私たち一人ひとりが、神の子羊である主イエスのもとに泊まるためです。教会の中心に、いつも主イエスがおられること——それこそが、何よりも大切なのです。
今日の福音書で、迷いながら歩む二人に、主イエスはこう言われました「来なさい。そうすれば分かる」。この言葉は、今も私たち一人ひとりへの招きです。その招きに応え、主イエスのもとに泊まるとき、私たちは、神の子羊である主イエスを、知識としてではなく、いのちとして本当に知るようになるのです。
主イエスのもとに泊まるとき、私たちは変えられていきます。シモンが主イエスによって、「岩」と名付けられ、後に使徒ペトロとされたように、私たちもまた、主イエスとの交わりの中で、少しずつ、しかし確かに変えられていくのです。そして、私たち一人ひとりが変えられていくとき、教会もまた、変えられます。
教会は、神に近づく場となり、信徒同士が心を通わせる場となり、真の安らぎを見い出す場となり、そして、誰もが安心して、身を置くことのできる場となっていくのです。
今日も主イエスは、私たち一人ひとりを招いておられます。「来なさい。そうすれば分かる。」その招きに応え、行きましょう。主イエスのもとに泊まりつつ、神の子羊である主イエスと共に、今週の歩みへと遣わされていきましょう。
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