2026年5月3日日曜日

説教《本当の家へ帰る、唯一の道》

 日課:ヨハネによる福音書 14:1-14




私たちはみんな、人生という長い旅を続ける旅人です。


一日の歩みを終えて、家に帰って休息をとる——それは本当に大きな恵みです。


どんなに疲れていても、帰れる場所があるからこそ、私たちはまた新しい一日へと踏み出していくことができます。


しかし、私たちの歩みも、やがてこの地上の旅を終える時を迎えます。


そのとき、私たちは一体どこへ帰るのでしょうか。


道に迷うことは不安です。


しかし本当に恐ろしいのは、道が分からないこと以上に、帰るべき場所そのものを見失ってしまうことではないでしょうか。


私たちには、最後に帰るべき「本当の家」があるのでしょうか。


そこへ至る道は、どこにあるのでしょうか。


今日は、この問いに対して、主イエスご自身が語られたみ言葉に、共に耳を傾けたいと思います。


私たちは、この地上での歩みがすべてであり、ここが最終的な居場所であるかのように思い込んでしまいがちです。


しかし主イエスは、はっきりとこう語られました。


「父なる神の家には住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」


私たちが最後に帰るべき場所——それはこの地上ではなく、父なる神のもとにあります。


そこは、主イエスが私たちのために備えてくださる住まいです。


主イエスの弟子パウロもまた、コリントの信徒にこう証ししています。


「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物がある。それは人の手で造られたものではない、天にある永遠の住まいです。」(Ⅱコリ5:1)


パウロはここで、私たちの人生を、いつかは畳まなければならない「幕屋」にたとえました。


しかし神は、その先に、決して揺らぐことのない「建物」としての永遠の住まいを備えてくださっています。


ですから、この地上は終着点ではありません。


私たちは今、真の故郷を目指して歩む旅の途上にあるのです。


それでも、私たちは不安になります。


「どうやってそこへ行くのか。自分は本当に、そこにたどり着けるのだろうか」と。


この戸惑いは、私たちだけのものではありません。


主イエスのすぐそばにいた弟子のトマスも、全く同じ問いを抱いていました。


トマスはたまらず、こう訴えました。


「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょうか。」


これは、今を生きる私たち自身の問いでもあります。


この問いに対して、主イエスは「その道を教えよう」とは言われませんでした。


戸惑うトマスに、そして今、不安の中にいる私たち一人ひとりに向かって、こう言われたのです。


「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」


主イエスご自身が、父なる神のもとへ導く「道」そのものなのです。


この方のほかに、道はありません。


もし、主イエスを通らなくても、そこへ至る道があるとするならば、「私は真理である」と言われたその言葉は、成り立たなくなってしまいます。


主イエスが真理であるからこそ、この道は決して揺らぐことがありません。


私たちはもう、他の道を探して迷う必要はないのです。


主イエスご自身が、私たちの道となってくださっているからです。


主イエスは、世の罪をその身に背負って、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に復活されました。


この復活によって、死に打ち勝たれたのです。


「私は命である」という主イエスの言葉が、ここに確かな現実となりました。


主イエスが命であるからこそ、私たちが歩むこの道は、永遠の命へと続く道なのです。


私たちは、死を恐れて立ち止まる必要はないのです。


主イエスご自身が、私たちの命となってくださっているからです。


だからこそ、主イエスという道は、私たちにとって最も確かな道なのです。


この道がある限り、私たちの歩みは、行き止まりで終わりません。


この確かな道が示された今、私たちは、復活の主イエスに導かれる者として、それぞれの生活の場へと歩み出していくのです。


明日、あなたが家族のために食卓を整えるとき。


あるいは、職場へと向かうとき。


その何気ない日常の足元に、主イエスという道は確かに続いています。


この道を歩むとき、喜びの日もあれば、涙の日もあるでしょう。


時には、足が止まりそうになることもあるかもしれません。


それでも、私たちは一人で歩むのではありません。


道である主イエスが、私たちを導き、共に歩んでくださるからです。


主イエスは約束されました。


「私の名によって願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」と。


道に迷いそうなとき、私たちは主の御名によって祈ることができます。


そして私たちには、旅の仲間が与えられています。


互いに祈り合い、道を見失いそうなときに支え合う、教会という名の旅の家族です。


だからこそ私たちは、再び立ち上がり、歩み続けることができます。


主イエスという一つの道の上を、共に祈り、支え合いながら、明日への一歩を踏み出していきましょう。


天の父なる神様。


私たちは、あなたのもとへ至る道が、主イエスご自身であることを知りました。


私たちは、いつか天に帰る者であるだけではありません。


すでに今、この時から、主イエスによってあなたのもとへと導かれている者です。


私たちはもう、自分自身で道を探し回る者ではありません。


主イエスという道に導かれている者です。


どうか、私たちの毎日の歩みが、孤独なものではなく、主と共に、そして与えられた仲間と共に歩む、希望の旅路となりますように。


道が見えない夜も、立ち止まりそうになる朝も、


私たちの足元を照らす主イエスという道を見失うことなく、共に歩み続けることができますように。


最後の一歩を終えるその日まで、この確かな希望のうちに、私たちを歩ませてください。


道であり、真理であり、命である、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。


アーメン


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