日課:ヨハネによる福音書 17:1-11
私たちは皆、いつか必ず、死と向き合う時を迎えます。
その「いつか」が、もし今日、あるいは明日だったとしたら。
人生の終わりに近づき、残された時間がわずかになったとき。
私たちは、何を思い、誰のことを心に留めるでしょうか。
おそらく、自分のことよりも、残していく家族や、大切な人たちのことではないでしょうか。
その人たちのこれからの歩みを思い、神に託すように祈る。
そのような祈りをささげるのではないでしょうか。
主イエスが、まさに十字架というご自身の死を目前にしたその最後の夜、誰のために、何を祈っておられたか。
聖書は、その祈りの言葉を私たちに伝えています。
その祈りは、静かでありながら、私たちへの熱い思いと深い愛に満ちた祈りでした。
今日は、この主の祈りに耳を傾け、そこに込められた神の愛を、共に受け取っていきましょう。
今日の福音箇所は、主イエスが弟子たちと共に最後の晩餐を終えられた後の場面です。
主イエスは天を見上げて、祈りをささげられました。
この祈りの中で、私たちは驚くべきことに気づかされます。
全人類を救うために世に来られた主イエスが、ご自身の苦しみが迫るこの時に、「世のためではなく」、ご自分に与えられた人々のために祈っておられるのです。
その「与えられた人々」とは誰のことでしょうか。
それは、父なる神から与えられた言葉を受け入れ、主イエスが神のもとから来られた救い主であることを知り、神から遣わされた神の子であると信じた人々です。
あの夜、不安に揺れていた十一人の弟子たち。
そして、今ここに集められている私たちのために、主は祈っておられるのです。
地上で過ごす最後の夜に、主イエスは、他でもない私たちのために祈られました。
そして、こう祈られたのてす。
「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と。
主イエスはこれから、父の御もとに帰るために、十字架へと向かわれます。
ご自身の苦しみが迫る中にあっても、心に留めておられたのは、世に残される私たちのことでした。
私たちの歩みが、決して容易ではないことを、主はよくご存じだったのです。
何より主イエスは、今目の前にいる弟子たちが、数時間後には恐れのあまり、自分を見捨てて逃げ出してしまうことも知っておられました。
弟子たちの弱さ、脆さ、裏切りさえも、主イエスはすべて見通したうえで、それでもなお、深い愛を持って私たちのために祈り、とりなしてくださったのです。
この祈りの中の「守り」とは、単に危険や苦しみから守られるということではありません。
どれほど深い苦しみの中にあっても、どれほど自分の弱さに打ちのめされても、決して信仰が失われることなく、神のみ手からこぼれ落ちることがないように、という祈りなのです。
そして主イエスは、その守りが何のためであるのかを語られます。
「私たちのように、彼らも一つとなるためです」と。
「一つとなる」。
しかしそれは、私たちの弱さを思うとき、決して簡単なことではありません。
教会の中であっても、違いや行き違いはあります。
良かれと思って語った言葉が、思うように届かなかったり、自分の思いが理解されずに悲しい思いをしたりすることもあるでしょう。
同じ主を信じているはずなのに、どうして分かり合えないのかと、心が痛み、孤独を覚えることさえあるのです。
それでもなお、私たちは主にあって一つとされています。
それは、決して私たちの努力によるのではありません。
あの夜、主イエスが私たちのために祈ってくださったからこそ、私たちは今も、一つとされ続けているのです。
主イエスはなぜ、私たちが守られ、一つとされることを、これほど切に祈られたのでしょうか。
私たちが生きる社会には、分断や争いがあふれています。
違いを恐れ、誰かを排除し、孤独の中で傷ついている人がたくさんいます。
そのただ中で、不完全な私たちが、時に傷つき合いながら、それでもなお、ゆるし合い、共に礼拝をささげ続ける教会の姿そのものが、この世における主イエスの愛の証しとなるのです。
そして人々は、その一つとされる教会の姿を通して、主イエスの愛に触れていくのです。
主イエスは、十字架を目前にした祈りの中で、「ご自身に栄光を現してください」と父なる神に願われました。
それは、ご自身を通して、神の愛がこの世に、誰の目にも見える形で現されるためでした。
そして主イエスは、その愛を持って、今ここにいる「私たち」のためにも祈ってくださいました。
主イエスが願われたのは、私たちが唯一のまことの神とイエス・キリストを知り、その愛の中で生きるという「永遠の命」を受け取ることです。
そして、十字架の業を成し遂げられた主の祈りは、今もなお、私たちのただ中に生き続けています。
主に守られ、一つとされた私たちを通して、神の愛はこの世に現されていきます。
私たちの何気ない、時に不器用な日常の歩みを通して、主の命が世へと届けられていくのです。
明日からまた、私たちはそれぞれの日常へと遣わされていきます。
家庭、学校、職場、そして地域社会。
そこには、思い通りにならない現実や、心をすり減らすような出来事、答えの出ない問いが待っているかもしれません。
時に疲れ果てて、「もう祈る言葉もありません」と、一人うずくまってしまう夜もあるかもしれません。
しかし、どうか思い出してください。
あなたは決して、一人で祈っているのではありません。
あなたが祈れない時も、主イエスご自身が、あなたのすぐ傍らで、あなたの代わりに祈ってくださっています。
「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」と、今も天において、あなたのためにとりなしてくださっているのです。
私たちは決して一人ではありません。
目には見えなくても、主の祈りと愛によって、私たちはすでに結ばれています。
どうかこの一週間も、主の御名によって守られ、主にあって一つとされた者として、主の平安のうちにそれぞれの場所へと歩み出していくことができますように。
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