日課:ヨハネよる福音書20:19-31
去年の四月、私がこの教会に着任して、初めて皆さんにお分かちした説教が、まさに今日のヨハネによる福音書の箇所でした。あのときの説教を、皆さんは覚えているでしょうか。もし今日、まったく同じ説教をしたなら、「ああ、去年と同じだ」と気づかれるかもしれませんね。
しかし、聖書のみ言葉とは本当に不思議なものです。同じ箇所を読んでいるのに、その時々で、新しく心に響いてきます。私たちの歩みの中で、またこの教会の歩みの中で、聖霊が、同じみ言葉を「今を生きるための言葉」として届けてくださるからです。
この一年を共に歩んできた今、改めてこのみ言葉に向き合うとき、私たちは何を聴くのでしょうか。今日は、この聖書箇所との「二度目の出会い」として、神が今、私たちに語りかけようとしておられることに、共に耳を傾けていきたいと思います。
主イエスが復活されたその日の夕方、弟子たちは深い恐れの中にいました。自分たちの先生であった主イエスが捕らえられ、十字架につけられて殺されたからです。「次は自分たちの番ではないか。」その恐れが、彼らを一つの家の中に閉じ込めていました。
扉には固く鍵がかけられ、外から誰も入って来られないようにしていました。しかし、その恐れに満ちた空間に、復活された主イエスが来られ、弟子たちの真ん中に立たれたのです。そしてこう言われました。「あなたがたに平和があるように。」
主イエスは、十字架で釘に打たれたその手を、また槍で突き刺された脇腹を、弟子たちにお見せになりました。弟子たちは、その傷跡を見て喜びました。目の前におられる方が、確かに自分たちのために、十字架で死なれた、あの主イエスであることが分かったからです。
今の私たちにとっても、その傷跡は喜びのしるしなのです。それは単に主イエスであることを証明するものではありません。私たちの罪と恐れをすべて引き受け、死に打ち勝たれた主の勝利のしるしだからです。
そして主イエスは、もう一度言われました。「あなたがたに平和があるように。」この言葉は、ただの挨拶ではありません。恐れている弟子たちをなだめるための言葉でもありません。
主イエスは、最後の晩餐の席で、すでに弟子たちにこう約束しておられました。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)この平和は、世界が与えることのできる平和ではありません。主イエスご自身が与えてくださる、主イエスの平和なのです。
さらに、主イエスはこう言われました。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(16:33)この平和は、十字架の苦しみを通して、主イエスが世に勝ってくださったことによる平和なのです。
だからこそ、復活された主イエスは、恐れの中にいる弟子たちに言われました。「あなたがたに平和があるように。」そしてこの平和は、今、ここにいる私たちにも語られている言葉なのです。
先ほどまで、弟子たちは恐れの中に閉じこもっていました。外の世界を恐れていたのです。その弟子たちに、主イエスは言われました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
閉じこもっていた者たちが、今度は世界へと遣わされる者となるのです。しかし、それは弟子たちが強くなったから、勇気を持ったからではありません。主イエスが、彼らに平和を与えてくださったからです。主イエスが与えてくださるこの平和は、人を閉じこもらせる平和ではなく、世界へと遣わしていく平和なのです。
復活された主イエスは、今も私たちのただ中に立っておられます。そして同じ言葉を語りかけておられます。「あなたがたに平和があるように。」そして、その平和を与えたうえで、こう言われるのです。「私もあなたがたを遣わす。」
以前、「ミッション探究」をテーマとした信徒懇談会で、皆さんにこのお話をしました。ミッション、すなわち宣教という言葉は、「遣わす」という意味を持っています。父なる神は御子イエスをこの世に遣わし、さらに聖霊をお与えになりました。そして今、私たちは主イエスから宣教という使命を託され、この世界へと遣わされています。つまり教会とは、神によってこの世界へと遣わされた群れなのです。
私たちもまた、この世の中で、様々な不安や恐れを抱えながら生きています。心の扉を閉ざしてしまうこともあります。しかし主イエスは、鍵のかかった家に入るようにして、その閉ざされた場所に来てくださいます。そして私たちに、平和を与えてくださるのです。
その平和によって、私たちは再び歩み出すことができます。いや、むしろ歩み出さずにはいられません。復活された主イエスが与えてくださる平和の中で、私たちはこの世界へと遣わされていくのです。
一年前、この同じ福音書の箇所から、「信仰」をテーマに皆さんと分かち合いました。主イエスが「見ないで信じる人は、幸いである。」と言われた、あの場面です。あれからの一年、皆さんの歩みをそばで見つめてきました。そして今、教会の皆さんの中に、確かで豊かな信仰が育っていることを深く実感しています。
何人かは聖書を読むようになったと聞きます。教会の活動も広がり、信徒同士のつながりも強くなり、教会は以前よりも生き生きとしてきました。信徒の数が急に増えたわけではありません。しかし、主日礼拝に集う人数は、少しずつ増えています。それは小さな数字かもしれません。それでも、その一人ひとりが、神に招かれてここに集められているのです。
それは、神がこの教会の中で、静かに、しかし確かに、働いておられるしるしではないでしょうか。聖書のみ言葉が読むたびに新しく私たちに語りかけるように、神はこの教会の中でも、日々新しい働きを続けておられるのです。
信仰は、教会の中で育てられるものです。しかし信仰は、教会の中だけにとどまるものではありません。信仰を与えられた私たちは、今度はこの世界へと遣わされる者となるのです。
一年前、私たちは「信仰」を共に見つめました。そして今、主イエスは私たちをこの世界へ遣わしておられます。ですから、私たちは今日、ただ礼拝を終えて帰るのではありません。それぞれの家庭へ、学校へ、職場へ、そして、この社会の中へと遣わされていくのです。
この一年の実りを胸に、宣教という使命を担い、主イエスの平和を携えて、それぞれの場へと歩み出していきましょう。
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