2026年4月19日日曜日

説教《エマオの道に示された礼拝》

 日課:ルカによる福音書24:13-35


私たちは毎週日曜日、こうして主日の礼拝に集まっています。

長く教会に通っていると、礼拝がいつしか習慣となり、その意味をあまり意識しなくなることがあるかもしれません。


そこで、あらためて問いたいのです。

私たちがささげているこの礼拝は、一体何を意味しているのでしょうか?


今日の福音書に記されているのは、エマオへ向かう二人の弟子の物語です。

それは、主イエスが復活されたその日、日曜日に起こった出来事でした。

実は、この出来事の中に、私たちが毎週ささげている礼拝の姿が、すでに示されているのです。

そしてその姿を通して、礼拝の意味が、そこに明らかにされているのです。


今日は、このエマオへの道を、弟子たちと共に歩むようにして、私たちの礼拝が本当は何を意味しているのかを、聖書から共に聞き取っていきたいと思います。


エルサレムからエマオへ向かう道を、二人の弟子が重い足取りで歩いていました。

深い失望と疑問の中で、彼らは主イエスのことを語り合っていました。

自分たちの救い主として期待していたイエスが、十字架につけられて死なれたからです。


この二人をエマオへの道に結びつけていたのは、主イエスにほかなりませんでした。

そのときです。復活された主が彼らに近づき、共に歩み始められました。


私たちがこうして主日の礼拝に集うのは、まさにこれと同じなのです。

実に、私たちをここへと結びつけているのも、主イエスにほかなりません。

ここに来るのは、「たまたま時間が空いたから」とか、「来ないと落ち着かないから」といった理由だけではありません。

むしろ、私たちの思いを超えて、父なる神が、主イエス・キリストを通して、今、私たちをここに招き、集めてくださっているのです。


主のみ名のもとに集められるとき、復活の主が、目には見えなくても、確かに私たちのただ中に来てくださるのです。


しかし、私たちはそのことに、いつも気づいているわけではありません。


エマオへの道を歩いていた二人の弟子も、目は遮られていて、主イエスが目の前におられても、それが主であると気づくことができませんでした。

また、救い主は苦しみを受け、その後に栄光に入らなければならないという、神の御心を理解することもできませんでした。

人間の知恵や力だけでは、神の御心を知ることはできないのです。

だからこそ、主イエスご自身が語ってくださるのです。


そこで主イエスは、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを解き明かされました。

彼らがそのみ言葉に耳を傾けているうちに、閉ざされていた心は次第に開かれていきました。

後になって二人は、こう語り合いました。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。


私たちもまた、今、礼拝において、聖書朗読と説教を通して、神のみ言葉に耳を傾けています。

それは単なる知識ではなく、今を生きる私たちに、主イエスが語りかけてくださる「生きた言葉」です。


そのみ言葉が語られるとき、閉ざされていた心は開かれ、冷えていた心に、聖霊が再び火を灯してくださいます。

消えかけていた信仰の火が、み言葉によって再び燃え上がるのです。


主の言葉によって、弟子たちの心は燃えていきました。

やがて日も暮れ、夜が更けかけるころ、その燃える心に導かれるようにして、二人は主イエスを引き止め、「一緒にお泊まりください」と強く願いました。


そして共に食卓に着かれると、主イエスはパンを取り、祝福して裂き、それを彼らにお渡しになりました。

すると、彼らの目が開かれ、目の前におられる方が主イエスであると分かったのです。

しかしその瞬間、主イエスの姿は彼らの目には見えなくなりました。


私たちもまた、礼拝においてみ言葉に耳を傾け、心を燃やされるとき、主イエスを人生にお迎えし、共に歩み、共にとどまっていただきたいと願うようになります。

主は、その願いに確かに応えてくださいます。

それが、私たちに与えられている聖餐です。


この聖餐において、私たちは復活された主イエスご自身との交わりにあずかります。

十字架で裂かれた主の体と流された血によって、私たちは今、主の命にあずかり、生かされているのです。

目に見える姿ではなくとも、主イエスご自身は今、私たちの内に、また私たちのただ中に共におられます。

この聖なる食事を通して、私たちは復活の主イエスと結ばれ、その命に生かされる者とされているのです。


主イエスだと分かった二人の弟子は、暗闇が深まる中にもかかわらず、すぐにエルサレムへと引き返しました。

出発の地であったエルサレムが、再び向かうべき場所となったのです。


かつてエルサレムを離れるとき、弟子たちの心は失望と疑問に満ちていました。

しかし今や、その心は希望と確信へと変えられていました。

彼らは、一つの使命に燃えていました。

それは、復活された主イエスに出会ったこの出来事を、他の人々に証しするという、主から託された使命でした。

その喜びはあまりにも大きく、彼らはそれを伝えずにはいられなかったのです。


私たちもまた、この礼拝に集められ、み言葉と聖餐によって養われ、そして、それぞれの歩みの場へと遣わされていくのです。

それは、主から託された使命を担って、この世へと送り出されるということです。


「主と共に行きましょう」「主の御名によって」との呼びかけの通り、復活の主イエスご自身が、今も、そしてこれからも、私たちと共に歩み、この使命を共に担い、私たちを導いてくださるのです。


私たちは、この世のただ中から教会へと招かれ、集められます。

そして、み言葉によって心を燃やされ、聖餐によって霊の目を開かれます。

こうして私たちは、復活の主イエスの良き知らせを携え、それぞれの生活へと遣わされていくのです。

それは、エルサレムからエマオへ向かい、そして再びエルサレムへ戻った弟子たちの旅のようなものです。

これこそが、私たちがささげている礼拝の意味なのです。


礼拝は、ここで終わるのではありません。

教会を出た後も、私たちの日々の歩みの中で続いていくのです。

私たちの一週間の生活そのものが、神にささげられる礼拝となり、御心に応える歩みとなるのです。

その歩みの中で、私たちは再び主のもとへと集められます。


ですから、私たちは日曜の朝、教会に「来る」のではなく、一週間の旅を終えて神の家へ「帰ってくる」のです。

ここへ来たら、互いに「ただいま」と言いましょう。

そして、「おかえりなさい」と迎え合いましょう。


今日の礼拝で受けたみ言葉と、これからあずかる聖餐の恵みを携え、主と共に歩むその日々こそが、私たちの真の礼拝なのです。


復活の主は、今日も私たち一人ひとりの歩みの中に、確かな命として共におられます。

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