2025年1月30日木曜日

仕事、それとも使命

  私は学校の先生を六年間していました。個人の電話番号を一切保護者と学生に教えない、学校にいる間だけ授業を行い、学生に知識を与えれば、それで責務を果たすと思う先生もいます。これはこれで正しい考えです、しかし私にとって、先生とは仕事ではなく、一種の使命です。学問の知識を与えるだけではなく、人格の育成なども、先生として果たさなければなりません。

 私は聖職を目指したのは、そういう考えの延長かもしれません。聖職者は主日で説教や礼拝を司式するのではなく、信徒一人一人が神様との関係を築き、育む助けをしなければなりません。

 先生も聖職も仕事ではなく、使命そのものです。仕事か、使命か、どう分けるのか、あまり良い例えではないのかもしれませんが、一生暮らせるお金を手にしたら、やめるのが仕事で、それでもつづくのが使命です。

2025年1月24日金曜日

律法

 旧約時代の人は律法を守ることによって救われると認識しているようですが、ここで違う見方を示します。イスラエルの民が律法を守ったから、神様が彼らをエジプトから救われるのではなくて、エジプトから救われてから、律法を与えたのです。律法は救いの条件ではなく、神様の民として、聖潔に保つためです。

新約の今を考えてください、私たちは行いによって救われるのではなく、救われて、善い行いが望まれているのです。

旧約の時も新約の時も全く変わらないのです。神様はずっと変わらないからです。

2025年1月23日木曜日

寛容

 新約学者D.A.カーソンの寛容に関する著書の中で、とても惹かれたところです。(グーグル翻訳)


「本当の信仰とは、自分自身を閉ざすことではなく、真理を守りながら心を開いて他者を理解することです。」

 「真実の価値は、大多数の人に受け入れられるかどうかにあるのではなく、人間の魂の呼びかけに長く応え続けることができるかどうかにある。」

 「多文化主義は、すべての信念が真実であるということを意味するのではなく、すべての信念が尊重され、理解されるに値するということを意味します。」

 「多元的な社会では、寛容とは判断を放棄することではなく、お互いのより深い理解を求めることと同一視されるべきです。」

2025年1月22日水曜日

雑談

 マレーシアに帰ってまいりました、荷物の受け取りを待っているところです。

 マレーシアに帰ってゆっくりできると思ったら、先日、以前の教会の信徒から連絡があって、今週の礼拝は、牧師が急遽来られなくなったので、説教をお願いできないかと頼まれました。もちろん快く引き受けました。

 私は以前、説教についてあまり方向性はなかったので、説教文を書くのに非常に時間がかかりました。数ヶ月前のブログを見ていただくとわかると思いますが、今はちゃんと目的、方向があります。

 英語の説教を書くのに日本語ほど得意ではありませんが、方向性がわかったので、すぐまとめることができました。

2025年1月21日火曜日

宣教大使命

マタイ福音書の宣教大使命の中で、四つの動詞があります。行く、弟子にする、洗礼を授ける、守るように教える。もちろん全部大切ですが、どれが目的なのでしょうか?

日本語、英語だとよくわからないのですが、原語のギリシャ語が分かる人は一目で分かります。ギリシャ語では、一つの文章に動詞一つしかないのです。この宣教大使命ですと、一つが動詞、残りの三つは分詞、いわば補助動詞みたいなものです。

答えは、弟子にすることです。行くのも、洗礼を授けるのも、守るように教えるのも、弟子にするためです。

ぜひ私たちもイエスの弟子になりましょう。


マタイによる福音書 28:19-20 新共同訳

[19] だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 [20] あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

2025年1月20日月曜日

使用人?奴隷?

 よく聖職者は自分のことを神の僕だと言います。使徒パウロも各教会への手紙では、自分はキリストの僕だと紹介しています。この”僕”は、聖書の原語であるギリシャ語では、使用人と奴隷の両方の意味があります。パウロは自分がキリストの使用人と言っているのか?それともキリストの奴隷と言っているのか?

 それを分かるために、まず使用人と奴隷の違いを理解する必要があります。使用人と奴隷の一番大きな違いは主権があるかどうかだと思います。例えば、わたしはある人の使用人としましょう、わたしは不満を持ち、いつでもやめて、離れることができます。しかし、奴隷であれば、そうはできません。

 パウロは救世主キリストに従って、キリストの道を歩み、後戻りはできないと覚悟しているはずです。一般ではパウロはキリストの使用人を言っているのだと捉えますが、わたしはパウロは自分がキリストの奴隷だと思います。そういう私もキリストの奴隷です。

2025年1月19日日曜日

葬儀のこと

  人がお亡くなりになった時に、その行く場所、待遇などがすでに決められているのでしょうか?それとも行う葬式によって違うのでしょうか?マレーシアの民間信仰などは、立派な葬式を行うことによって、行った先に良い待遇が受けられると信じています。

 他の宗教はともかく、キリスト者が亡くなったあと、キリスト教の葬式をやるか、やらないかによって、その人の魂の行き先が異なるのでしょうか?私は全く変わらないと思います。

 葬式は、亡くなった人のためではなく、残されたご家族、親戚、友人のためのものだと思います。だからといって、誰もいない、見てない時におろそかにしてはいけません。納棺式、葬送式など、教会の伝統にきちんとやることは聖職者の務めです。


2025年1月18日土曜日

聖職、先生

神父、司祭、牧師など聖職者と言います、わたし自身も聖職者です。この聖職は何か偉そうに聞こえます。まるでこの人たちは神聖で、他の仕事はそうではないように見受けられます。
よく聖書では聖別という言葉を使っていますが、例えば水を聖別する、これは水が神聖になって、病気が治るとかの力を帯びるということではありません。この水を聖別するよは、この水は神様のためだけに用いるということです。
聖職者も同じ意味で、神様のために仕えるので、聖職と呼んで、特別に偉いというわけではありません。
もう一つ、聖職者のことを先生と呼ばれるのですが、私は偉いから先生と呼ばれるのではなくて、信徒さんに教える、仕えるから、先生と呼ばれるのです。もし、教えない、仕えない聖職者がいたら、先生と呼ばなくていいと思います。

2025年1月17日金曜日

役割

 どうして神様は三位一体なのでしょうか?そこは別に理由はなくて、元々三位一体ですから。しかし三位一体の神ゆえに、いいことがいっぱいあります。

この三位一体の神はそれぞれ役割があります。救済について話しましょう。父なる神は計画者です、独り子による人の救済は、あらかじめ計画していたのです。そして子なる神イエスはその実施者で、実際十字架の死をもってすべての人の罪を贖いました。しかしこれだけでは、人の救いはまだ至っていない、主イエスを信じて初めて完結します。人に信じさせるのは聖霊の働きで、聖霊なる神はまさに完結者です。

三位一体の神の連携は本当に素晴らしいものです。

2025年1月16日木曜日

罪の贖い

 主イエスは人の罪を贖い、十字架の死を遂げました。この人とは、すべての人でしょうか?それとも一部の人でしょうか?私はすべての人だと理解しています。そうなると、今信じていない人も罪を贖われ、義(罪のない状態)とされるのでしょうか?
 例をいうとわかりやすいです。ここに酸っぱいジュースがあります、このジュースは本当に酸っぱいで、これが真実です。しかし、それを飲まない人にとって、ジュースがあることは認識できますが、酸っぱいであることは全く関係ありません。
 主イエスはすべての人の罪を贖ったということは真実ですが、主イエスを信じない人には全くの無関係で、罪のままとなっています。
 一人でも罪人を減らすために、私たちは日々主イエスの証しをしなければなります。

2025年1月15日水曜日

善悪の知識

 アダムとエバは神様を背くことは問題ですが、どうした背くのかが肝心です。その理由は実に全ての人に共通します。神様が善悪の知識の木から食べてはいけないと言われたにもかかわらず、彼らは神のように善悪を知るためにそれを食べてしまいました。

本来は、善か悪か、神様が決めることであって、人はそれに従えばよいのです。しかし、アダムとエバは神による判断ではなく、自分たちが善悪を決めたいのです。

私たちの人生も本来は神の御旨に従って生きていくべきです、しかし私たちは自分の意のままに生きたい、自分の運命は自分で決めたいと思って、神を信じよう、従おうとはしません。私たちは、自分の祖先と同じです。

2025年1月14日火曜日

神様は嘘をついたか

 神様はアダムに対し、善悪の知識の木から取って食べてはならない、食べると必ず死ぬと言われました。それに対し、サタンである蛇は決して死ぬことはないとエバに言いました。アダムとエバはそれを食べて、死にませんでした。結局神様は嘘をつき、サタンは正しいことを言ったのでしょうか?

実は、アダムとエバが食べたとき、確かに死にました。私たちはが考える死とは、いわゆる命を絶たれる状態のことですが、聖書では神様との関係を絶たれることが死です。アダムとエバは神様に背いたことで、神様との関係を絶たれ、死にました。

人が一度絶たれた神様との関係を再びつなぎ、関係を築き、育むことが全ての人に課せられた使命です。

2025年1月13日月曜日

手段と目的

 私たちは何をしに教会に行くのでしょうか?おそらくその答えは礼拝しに、神様を賛美しに、陪餐を受けに、み言葉を聞きに、教会の人たちとの交わりに、クリスチャンとしての義務を果たしにとさまざまあります。しかし、あまり深く考えられてないのかもしれませんが、これらは目的ではなく、あくまでその目的に達成するための手段です。

例えば、受験生が神社にお参りに行きます。その目的は受験に受かるためのご利益を求めることで、お参りはそのための手段です。お参りのために神社に行くというより、受験が受かるように神社にお参りに行きますのほうが正しいです。

そうなると、礼拝も実は手段です、その目的は、神様と関係を築き、育むことです。礼拝にしても、神様を賛美するにしても、陪餐を受けるにしても、み言葉を聞くにしても、教会の人たちとの交わりにしても、すべてそれが目的です。

そうとは思いませんか?


2025年1月12日日曜日

イエスの洗礼

 今日はキリスト教の伝統上、イエスの洗礼を記念する日です。私たちの洗礼は、イエスとともに葬り、イエスとともに復活することを表しますが、イエスはどうして洗礼する必要があるのでしょうか。

聖書にはそれについて書かれていないので、私もそんなに興味を持ちません。ただ、イエスが洗礼をしたという事実に関心しました。

一応それでも調べましたが、あまり私の心に触れた解釈はありませんでした。今日このブログを書くにつれ、突然心をひらめいたことがあります。それはイエスが水の洗礼によって、同じく水の洗礼の私たちも、イエスとともに水でいっしょに葬り、いっしょに復活することの表れではないかと思います。

決して神学の根拠はありませんが、、この説明に心酔います。

2025年1月11日土曜日

宗教家

 図書館である学生向けのシリーズの本を目にしました。科学者、運転士などの職業を目指すには、学校で何を勉強すべきかなどをアドバイスし、現役の人の話も載っています。その中に宗教家という本もありました。

あるプロテスタントの牧師の紹介があり、彼女は小さい頃からキリスト教を触れ、それがきっかけで牧師となりました。それまではよかったのですが、しかし彼女の一言は私の開いた口がしばらく塞がリませんでした。彼女いわく、たまたま触れたのがキリスト教であって、別にキリスト教でなくてもよかったそうです。

確かに100%“宗教家”であることは間違いないです。しかしキリスト教の本質は宗教ではなく、信仰、真理で、イエス以外は救いはありません。そして牧師というのは、宗教家、単なる仕事ではなく、使命です。

2025年1月10日金曜日

救いは失われるか

 救済論の勉強をすると、必ず一度救われた人の救いは失われるかの議論が出てきます。違う神学者の見解によって解釈が異なります。

私にはもちろんこれだと思う考えはありますが、ここではあえて述べません。なぜなら、その結果によって、私たちの信仰、生活には何か変わるのでしょうか?仮に、失われないとします、私たちはそれでホッとして、今までの堕落な人生を過ごすのでしょうか?仮に失われる可能性があるとします、それで一生懸命頑張っていいことをするのでしょうか?

救いは失われるか、もちろん真実は一つです。しかし、それに関係なく、私たちは日々神との関係を育み、神の御旨に従って生きていくのがキリスト者としてあるべき姿なのではないかと思います。

2025年1月9日木曜日

宗派

 キリスト教には色々宗派があります、これらはキリスト教の一致を妨げるのではないかと懸念されます。よく誤解されるのは、キリスト教が目指すのは一致であって、統一ではありません。

 私は宗派は音楽のジャンルのようなものだと思います。音楽のジャンルにはクラシック、ジャズ、ロックなどがあり、人によってクラシック音楽を聴くと安らぎが得られ、ロック音楽を聴くと、パワーが得られるなど、好みが違います。宗派も礼拝の形式や、雰囲気などが違うからこそ、いろんな人を迎え入れることができます。

 宗派、教会が大事なのは、いかに信者と神様の関係を築き、育むのを助けることです。

2025年1月8日水曜日

基準

 ある女がイエスに助けを求め、それに対してイエスはこう答えました、“子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない”。この女のことを犬に例え、貶めているのではないかと批判され、それに対して、この小犬は野良犬ではなく可愛いペットのことだから、イエスは決して貶めるつもりはないとか、イエスの言論を正当化しようとしています。私にも以前の説教でそう申し上げました。

しかし、私たちは何を基準にこのイエスの話を論じているのでしょうか?私たち自分の感覚で、イエスの話、イエスのやっていることを良いか、良くないかと判断するのでしょうか?

おそらく大切なことを忘れているのかもしれません。神はご自身をかたどって人を創造されました。その時神が我々をかたどるとおっしゃいました。つまり、三位一体の神をかたどって人を創造されました。ですので、イエスの言論、行動はすべて人間の基準となるのです。

私たちは自分の基準でイエスを見るのではなく、イエスの基準で自分自身を見なければなりませんね。

2025年1月7日火曜日

創造の目的

 神がこの世を創造する目的は何でしょうか?聖書にははっきり書いてないようですが、いくつかの箇所で大体わかることができるのではないかと思います。

よく言われるのは、創世記で「神が人に産めよ、増えよ、。。。生き物をすべて支配せよ」というところで、神がすべての生き物を支配させるため人を造りました。しかし、そうではありません。空、海、太陽、月、動植物はすべて人のために先に創造されて、それが整った後に人間を創造されました。となると、人間を創造されたことが肝心です。一番わかりやすく、その目的を知る聖書箇所はローマの信徒への手紙8:29なのではないかと思います。

  神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたちに似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。

もっと詳しくは12月29日の説教《天におられる父》をぜひご一読ください。

2025年1月6日月曜日

特別啓示

 普遍啓示だけですと、やはり足りないという感覚を否めません。そのため、神は自分の存在だけではなく、自分の属性(どういう神)、意志(創造、救済など)も人間に伝えます。それはいわゆる特別啓示です。

では、どうやって伝えるかというと、みことばである聖書を通し、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わして、私たちに伝えることとなります。

信仰は、いわゆる神の存在を信じ、その啓示したことを真実と信じることです。ですから、信仰を深めるために、神様のみ言葉を理解することがとても大切です。聖書を読むだけではなく、聖書を学ぶことも必要不可欠です。

2025年1月5日日曜日

普遍啓示

 神は自分の存在を創造物(自然、動植物など)を通じて、人間に知らせます。そして、人間はこういった創造物を通じて、神の存在を知ることになります。これが普遍啓示と言います。ですから、昔の人、山奥のいる民族等、教育を受けてないにもかかわらず、自然と太陽や大岩や蛇等を拝みます。

しかし問題はこういった創造物の創造主を拝むべきであるにもかかわらず、創造物自体を神として拝んでしまうことです。

2025年1月4日土曜日

神様を知る

 知るという日本語は少しややこしいと思います。神様を知るとは、どこまで理解していいのでしょうかね?単に神様がいる、神様の存在を知るというのでしょうか?それなら、これは信仰ではありません。

信仰は、神様の存在を認めるだけではなく、神様が啓示したことを真実と信じることです。となると、やはり聖書を読まないと、神様のことを知ることはできません。

2025年1月3日金曜日

祈り

 祈りは難しいでしょうか?

今度、教会に行ったらこう祈ってみてください。

ハロー、わたしは☓☓です。

きっといつか、主からの返事がくるはずです。

2025年1月2日木曜日

イエス・キリスト、キリスト・イエス

 聖書を読むと、イエス・キリストとキリスト・イエス両方の表現があることをお気づきでしょうか?一般にあまり気にしなくても良いと思いますが、厳密に言いますと、人であるイエスのことを強調するときに、イエス・キリストを使い、神であるイエスのことを強調するときに、キリスト・イエスと使い分けるらしいです。

イエスは唯一の神であって人です。失礼かもしれませんが、コーヒー牛乳のように、それらを分けることが不可能です。


2025年1月1日水曜日

イエスという名前

 今日はキリスト教の伝統上、主イエス命名の日とされています。どうしてこの名前、どうして旧約の預言のインマヌエルではないかと疑問に思うかもしれません。

 インマヌエルは、神とともにいるという意味で、人からみると、この子の誕生は神とともにいることです。イエスは、神の救いという意味で、神からみると、その独り子の誕生は、神自ら人を救うことを表します。

神が名付けた名前ですので、イエス(神の救い)で、私たちからみるとインマヌエル(神とともにいる)なのです。