聖書日課:ヨハネによる福音書1:1-18
イザヤ書61:10-62:3
ガラテヤの信徒への手紙3:23-25, 4:4-7
今日は今年最後の主日となりました。新しい一年に向けて、皆さんはどう過ごすのでしょうか?12月の降臨節から始まって、先日の降誕日にかけて、主にイエス・キリストの再びこの世界に来られることへの待ち望み、そして、この世界に来られた目的について、いろいろ話をお聞きしたと思います。しかし、そもそもどうして神が人を含むこの世界を創造されたのか、あまり話をお聞きしないのかもしれません。
皆さん、自分の姿を鏡の前でじっくりご覧になったことがありますか?目、耳、鼻、口が顔となって、頭、手、足、指が体となって、顔といい、体といい、その配置、バランスがいかに美しく、それぞれの役割、機能もとても素晴らしいものです。これは絶対に偶然にできたものではなくて、必ず設計、創造した者があるはずです。聖書には、神がご自分にかたどって人を創造されたと明確に記されていますので、(創1:27)これは紛れもない真実で、キリスト者であれば、そう信じて疑わないでしょう。
ところが、神が人を創造された目的を考えたことがありますか?これは実にとても大切なことです。この目的を知ることができれば、私たち今後の生き方に大きく影響すると思います。
今日のヨハネによる福音書の最初に「初めに言があった。」と書いてあります、この言はすなわちイエス・キリストのことです。イエス・キリストは初めに神と共にあって、イエス・キリストは神です。そして、天地を含む万物はこのイエス・キリストによって創造されて、イエス・キリストによらないで創造されたものは一つもありませんでした。
これから、ご一緒に神がイエス・キリストによって、人を創造された目的について理解していきましょう。
神は最初の人、アダムとエバを創造されました。しかし、彼らは神に背いてしまった結果、世界に罪をもたらしました。それでも、神のみ恵みで、人を救う約束を結ばれました。それから、モーセという人を通して律法が与えられて、その律法を守ることによって、神との約束を保つことになっています。
しかし、律法を守ることはなかなか大変なことで、それらを完璧にできる人なんて誰もいなくて、それで罪人となってしまいます。そのため、イスラエルの民は毎年、罪を贖うための献げ物を神にささげて、罪を赦していただかなければなりませんでした。
今日の使徒書から、人々が律法の下で監視されて、閉じ込められて、いわゆる律法の束縛で生活をしなければならなかったことがよく分かります。しかし、その状況が一変しました、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからです。どういうことかと言いますと、神自ら人となられて、それがイエス・キリストという人で、私たちと共にこの世界に暮らしていました。誰も神を見た者はいなかった、しかし、イエス・キリストが人々に神を示されました。そして、神であるイエス・キリスト自ら十字架の道に歩まれて、罪を贖うための献げ物となられて、神にささげられました。そのため、イエス・キリストを受け入れて、イエス・キリストを信じることによって、罪が赦されて、救われることとなります。
律法はイエス・キリストに導くためのもので、イエス・キリストが来られたから、律法を守ることによって救われるのではなくて、イエス・キリストを信じるという信仰によって救われることとなりました。人にはとても守り切れない律法を与えられて、あたらめて神に頼らざるを得ないことを認識させられました。
神は人になられて、その独り子イエス・キリストが十字架につけられました。神はどうしてそこまでしなければならないのでしょうか?ここで、神が人を創造された目的につながると思います。今日の使徒書にこう書かれています「律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」また、今日の福音書にこうも書かれています「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」いずれも神の子供となることについて話されています。
神は愛です。(Ⅰヨハ4:8,16)しかし、愛には対象が必要で、そのため、私は誰々を愛しているから、私には愛があるとは言えますが、私は愛だとは成り立ちません。では、どうして神は愛だと言えるのか、それは三位一体の神だからです。御父は御子を愛して、御子は御父を愛して、そして聖霊は御父と御子の愛で、これらが愛となります。ですから、ほかの宗教の言っている神々は愛だと言わないし、言えないのです。
この愛はとても素晴らしいもので、神はもっといっぱい愛して、愛されて、それで、その独り子イエス・キリストが長子となるように、自分の子供が増えるように、人を創造されたと私はそう理解しています。その事実に、御父と御子の愛という聖霊を私たちの心に送ってくださったことから、私たちを愛していることが分かります。神はその独り子イエス・キリストをお与えになったほど、本当に私たちを愛しているのです。
今年の一月にマレーシアに戻ったとき、ある女性信徒さんは勉強のために別の町から引っ越してきて、私のいた教会の礼拝に出席していました。彼女は信徒でありながら、陪餐を受けないことに気づきました。礼拝後に、少し交わりの時間があったので、その話を尋ねました。彼女は、自分の所属する教会の聖職者に、懺悔をしないと陪餐を受けてはいけないと言われたそうです。でも礼拝中に懺悔の祈りをしましたよと私は説明しましたが、そうではなくて、実際に直接聖職者のところに行って、懺悔をしないといけないということでした。
陪餐を受けないのは、もちろん個人の自由ですが、それは自分の信念ではなくて、他人に言われたから、それに従って受けないのは、まさに今のキリスト教が直面している問題だと私は危惧しています。すなわち、神との直接の関係が薄くて、神とのつながりは、まるで教会を経由しないとできないと思い込んで、教会の言われたがままに、常に「何々をしてはいけない」、「何々をしないといけない」の中で生きています。そのせいで、だんだんと教会に行くのも嫌になってしまうでしょう。そして、もう一つ対照的なのは、洗礼を済ませて、信仰があれば、それで十分だと、別に教会は必要ないという考えの人もいます。
私たちは、神の子供です。自分の親と同じように、神ともっと深く、もっと親密な親子関係を築き、育む必要があります。教会に来ることは、まさにそのことのためです。私たちは教会からみ言葉を学び、教会での交わり、奉仕を通じて、神との関係を築き、育み、教会は信徒にとって必要不可欠な存在です。そして、神との深く、親密な関係の下で、何をしてよいのか、何をしてよくないかの判断ができるようになると思います。
私たちは、神との親子関係だけに満足してはなりません。神を心から愛しているならば、その願いを叶えて差し上げたくなるでしょう。では、神は何を願ってておられるのでしょうか?やっぱり人を創造されたその目的であるすべての人々に、神の子供となる資格を与えて、大きな家族となって、神を拝み、賛美し、そして、お互いに愛し合うことではないかと思います。
そのため、私たちは洗礼者ヨハネと同じように、光であるイエス・キリストについて、証しをしなければなりません。この光は、まことの光で、暗闇の中で輝いて、すべての人を照らす光です。すべての人々にイエス・キリストを受け入れて、イエス・キリストを信じて、神の子供、私たちの兄弟姉妹が増えるように何とかしたいと思います。
教会に来るだけではなくて、私たち一人一人が行動を起こして、教会を踏み出して、この世界に福音を宣べ伝えて、イエス・キリストについて証しをする必要があります。
私たち今後の生き方はどうあるべきでしょうか?それはこの命を与えてくださった神を認めて、神に感謝して、神の子供として、そのみ旨に従って生きていくことです。今日の使徒書にある通り、私たちはもはや律法の奴隷ではなくて、神の子供で、神によって立てられた相続人です。神は遠い存在ではなくて、私たちの天におられるアッパ、父です、主イエス・キリストは私たちの贖い主、友、そして、愛するお兄さんです。
神は天地を創造されて、それから人を創造されて、自分の子供となる資格を与えられて、そして、わたしたちを愛してくださいました。今日のイザヤ書のみ言葉を用いて、その喜びを表したいと思います。「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍ります。」新しい一年に向けて、皆さん一人一人が神の創造の目的を偲んで、喜びの中で過ごすことができますように、心からお祈り申し上げます。アーメン
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