2024年12月31日火曜日

想像の神

 神に対する認識の多くは、自分の想像によるものです。神はこうであるべき、憐れみ深い神だから、きっとこうなさるはず、全能の神だから、絶対こうしてくださいます。

 しかし、全能の神なら、どうして自分の独り子を十字架に向かわせるのでしょうか。自分の想像ではなく、真の神のことを理解しましょう。

 新しい一年に向けて、神様を知るべく、まず、創世記1章1節から聖書の通読をしましょう。

2024年12月30日月曜日

愛と畏れ

 神を愛していますが、神を畏れない人はいるのでしょうか?もし、そうであれば、それは私たちが勝手に想像する神であって、本当の神でないのかもしれません。

神を畏れることこそ、神を知る道であり、本当の神を知り、それから愛することができます。


2024年12月29日日曜日

説教《天におられる父》

 聖書日課:ヨハネによる福音書1:1-18

     イザヤ書61:10-62:3

     ガラテヤの信徒への手紙3:23-25, 4:4-7


 今日は今年最後の主日となりました。新しい一年に向けて、皆さんはどう過ごすのでしょうか?12月の降臨節から始まって、先日の降誕日にかけて、主にイエス・キリストの再びこの世界に来られることへの待ち望み、そして、この世界に来られた目的について、いろいろ話をお聞きしたと思います。しかし、そもそもどうして神が人を含むこの世界を創造されたのか、あまり話をお聞きしないのかもしれません。

 皆さん、自分の姿を鏡の前でじっくりご覧になったことがありますか?目、耳、鼻、口が顔となって、頭、手、足、指が体となって、顔といい、体といい、その配置、バランスがいかに美しく、それぞれの役割、機能もとても素晴らしいものです。これは絶対に偶然にできたものではなくて、必ず設計、創造した者があるはずです。聖書には、神がご自分にかたどって人を創造されたと明確に記されていますので、(創1:27)これは紛れもない真実で、キリスト者であれば、そう信じて疑わないでしょう。

 ところが、神が人を創造された目的を考えたことがありますか?これは実にとても大切なことです。この目的を知ることができれば、私たち今後の生き方に大きく影響すると思います。

 今日のヨハネによる福音書の最初に「初めに言があった。」と書いてあります、この言はすなわちイエス・キリストのことです。イエス・キリストは初めに神と共にあって、イエス・キリストは神です。そして、天地を含む万物はこのイエス・キリストによって創造されて、イエス・キリストによらないで創造されたものは一つもありませんでした。

 これから、ご一緒に神がイエス・キリストによって、人を創造された目的について理解していきましょう。

 神は最初の人、アダムとエバを創造されました。しかし、彼らは神に背いてしまった結果、世界に罪をもたらしました。それでも、神のみ恵みで、人を救う約束を結ばれました。それから、モーセという人を通して律法が与えられて、その律法を守ることによって、神との約束を保つことになっています。

 しかし、律法を守ることはなかなか大変なことで、それらを完璧にできる人なんて誰もいなくて、それで罪人となってしまいます。そのため、イスラエルの民は毎年、罪を贖うための献げ物を神にささげて、罪を赦していただかなければなりませんでした。

 今日の使徒書から、人々が律法の下で監視されて、閉じ込められて、いわゆる律法の束縛で生活をしなければならなかったことがよく分かります。しかし、その状況が一変しました、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからです。どういうことかと言いますと、神自ら人となられて、それがイエス・キリストという人で、私たちと共にこの世界に暮らしていました。誰も神を見た者はいなかった、しかし、イエス・キリストが人々に神を示されました。そして、神であるイエス・キリスト自ら十字架の道に歩まれて、罪を贖うための献げ物となられて、神にささげられました。そのため、イエス・キリストを受け入れて、イエス・キリストを信じることによって、罪が赦されて、救われることとなります。

 律法はイエス・キリストに導くためのもので、イエス・キリストが来られたから、律法を守ることによって救われるのではなくて、イエス・キリストを信じるという信仰によって救われることとなりました。人にはとても守り切れない律法を与えられて、あたらめて神に頼らざるを得ないことを認識させられました。

 神は人になられて、その独り子イエス・キリストが十字架につけられました。神はどうしてそこまでしなければならないのでしょうか?ここで、神が人を創造された目的につながると思います。今日の使徒書にこう書かれています「律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」また、今日の福音書にこうも書かれています「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」いずれも神の子供となることについて話されています。

 神は愛です。(Ⅰヨハ4:8,16)しかし、愛には対象が必要で、そのため、私は誰々を愛しているから、私には愛があるとは言えますが、私は愛だとは成り立ちません。では、どうして神は愛だと言えるのか、それは三位一体の神だからです。御父は御子を愛して、御子は御父を愛して、そして聖霊は御父と御子の愛で、これらが愛となります。ですから、ほかの宗教の言っている神々は愛だと言わないし、言えないのです。

 この愛はとても素晴らしいもので、神はもっといっぱい愛して、愛されて、それで、その独り子イエス・キリストが長子となるように、自分の子供が増えるように、人を創造されたと私はそう理解しています。その事実に、御父と御子の愛という聖霊を私たちの心に送ってくださったことから、私たちを愛していることが分かります。神はその独り子イエス・キリストをお与えになったほど、本当に私たちを愛しているのです。

 今年の一月にマレーシアに戻ったとき、ある女性信徒さんは勉強のために別の町から引っ越してきて、私のいた教会の礼拝に出席していました。彼女は信徒でありながら、陪餐を受けないことに気づきました。礼拝後に、少し交わりの時間があったので、その話を尋ねました。彼女は、自分の所属する教会の聖職者に、懺悔をしないと陪餐を受けてはいけないと言われたそうです。でも礼拝中に懺悔の祈りをしましたよと私は説明しましたが、そうではなくて、実際に直接聖職者のところに行って、懺悔をしないといけないということでした。

 陪餐を受けないのは、もちろん個人の自由ですが、それは自分の信念ではなくて、他人に言われたから、それに従って受けないのは、まさに今のキリスト教が直面している問題だと私は危惧しています。すなわち、神との直接の関係が薄くて、神とのつながりは、まるで教会を経由しないとできないと思い込んで、教会の言われたがままに、常に「何々をしてはいけない」、「何々をしないといけない」の中で生きています。そのせいで、だんだんと教会に行くのも嫌になってしまうでしょう。そして、もう一つ対照的なのは、洗礼を済ませて、信仰があれば、それで十分だと、別に教会は必要ないという考えの人もいます。

 私たちは、神の子供です。自分の親と同じように、神ともっと深く、もっと親密な親子関係を築き、育む必要があります。教会に来ることは、まさにそのことのためです。私たちは教会からみ言葉を学び、教会での交わり、奉仕を通じて、神との関係を築き、育み、教会は信徒にとって必要不可欠な存在です。そして、神との深く、親密な関係の下で、何をしてよいのか、何をしてよくないかの判断ができるようになると思います。

 私たちは、神との親子関係だけに満足してはなりません。神を心から愛しているならば、その願いを叶えて差し上げたくなるでしょう。では、神は何を願ってておられるのでしょうか?やっぱり人を創造されたその目的であるすべての人々に、神の子供となる資格を与えて、大きな家族となって、神を拝み、賛美し、そして、お互いに愛し合うことではないかと思います。

 そのため、私たちは洗礼者ヨハネと同じように、光であるイエス・キリストについて、証しをしなければなりません。この光は、まことの光で、暗闇の中で輝いて、すべての人を照らす光です。すべての人々にイエス・キリストを受け入れて、イエス・キリストを信じて、神の子供、私たちの兄弟姉妹が増えるように何とかしたいと思います。

 教会に来るだけではなくて、私たち一人一人が行動を起こして、教会を踏み出して、この世界に福音を宣べ伝えて、イエス・キリストについて証しをする必要があります。

 私たち今後の生き方はどうあるべきでしょうか?それはこの命を与えてくださった神を認めて、神に感謝して、神の子供として、そのみ旨に従って生きていくことです。今日の使徒書にある通り、私たちはもはや律法の奴隷ではなくて、神の子供で、神によって立てられた相続人です。神は遠い存在ではなくて、私たちの天におられるアッパ、父です、主イエス・キリストは私たちの贖い主、友、そして、愛するお兄さんです。

 神は天地を創造されて、それから人を創造されて、自分の子供となる資格を与えられて、そして、わたしたちを愛してくださいました。今日のイザヤ書のみ言葉を用いて、その喜びを表したいと思います。「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍ります。」新しい一年に向けて、皆さん一人一人が神の創造の目的を偲んで、喜びの中で過ごすことができますように、心からお祈り申し上げます。アーメン

2024年12月28日土曜日

悔い改め

 昨日は聖霊によって、人は主であることを信じると話しました。つまり人によって信じるのか信じないのかは、聖霊がその人に働くかどうかの違いです。聖霊が神ですから、どうでもできると言えばそうですが、それを言ったら、神の一言ですべての人が救われるというやり方が手早いでしょう。しかし、それは神のやり方ではありません。

聖霊は誰にでも働きます、しかしその人の心が頑なになったらどうしようもありません。私は福音を述べ伝える前に、もっと重要なのは悔い改めを伝えることです。まさに洗礼者ヨハネのやってたことです。悔い改めることによって、心が開かれ、それによって聖霊が働くことができます。

では、悔い改めとはどういうことか?自分が罪人を認めるとかより、今まで神を知らずに自分のわがままに生きてきたことを認め、これから神の御旨に従って生きていくことです。

ぜひ以下のように祈ってみてください、きっと聖霊が働いてくださると思います。

天におられる神様、私はあなたを知らずにいました。ゆえに、あなたの御旨、御心を背き、自分の意のままに生きていました。どうか私を憐れんでください。私に正しい道に導き、変わらない真理を教え、新しいいのちを与えてください。アーメン

2024年12月27日金曜日

聖霊が宿る

キリスト者と非キリスト者の違いは何でしょうか?救われたかどうかとか、将来天国に行くのか地獄に行くとかではないと思います。私は2つあると思います。

1.神の子になる資格が与えられている

2.聖霊が宿っている

いずれも神に深く関わっています。2番については、洗礼したから、異言が話せるから、聖霊が宿っているとは限りません。ポイントは主イエスに対する信仰です。

ここで聖霊が宿っているかどうか分かる方法があります、以下の質問に答えてください。

1.イエスが主であることを信じますか?(神が人になられたこと)

2.イエスが乙女から生まれたことを信じますか?

3.イエスが死んで3日後に復活したからことを信じますか?

これらすべて信じる人は聖霊が宿っていることが言えます。なぜなら、人は自分の知恵、理性でこれらを信じることはできません、あまりにも非科学的で、非論理的です。でもどうして私も含めて、それを信じることができたかというと、それは聖霊によるからです。聖霊によって私たちは信じて、洗礼によって、聖霊の賜物を受け、確実に私たちの中に聖霊が宿ります。

2024年12月26日木曜日

キリスト者とキリスト教信者

 私の中では、キリスト者とキリスト教信者の意味が違います。洗礼を受けて(宗派によって堅信式も済ませる)、教会に籍を置いた人は、まずキリスト教信者と言えます。いわゆるキリストという宗教の信者です。そういう私もその一人です。

キリスト教信者は神を信じなくても、主イエスが神と信じなくても、洗礼さえ済ませれば、それで一応キリスト教信者です、それはなんかの組織に入会すれば、会員になるのと同じことです。

それに対して、キリスト者は聖霊が宿られ、創造主である神を信じ、主イエスキリストを信じ、その教えに従う人のことです。

クリスチャンという言葉はキリスト者もキリスト教信者もどちらも当てはまるので、本当はあまり使いたくありませんが、一応会話の時に紛らわしく感じさせないときだけ使います。

キリスト教信徒ではなく、キリスト者になりましょう。

2024年12月25日水曜日

クリスマスのポイント

 今日はクリスマスです。イエス・キリストの誕生を祝う日です。クリスチャンの中にも今日は本当のイエスの生まれた日ではない、あるいはこの日の元の由来は異教の太陽を拝む日だから、祝わない人もいます。

しかし、重要なのは何でしょうか?それは神が人としてこの世に来られたときではないでしょうか。よく説教で、イエスが葉桶で生まれ、いかに謙虚であること強調しますが、そこはポイントではないと思います。

神が人間としてこの世に生まれ、私たちとともにこの世界で暮らすことは、すでに十分謙虚です、それ以外のもので飾る必要はありません。神がこの世に来られたことに只々感謝です。

2024年12月24日火曜日

礼拝について⑤

礼拝に対する学者たちの定義を見ますと、当然かもしれませんが、共通点があります、それは応えです。一言を言いますと、礼拝とは、神に対する応えです。人に対する応えは礼拝ではありません。創造主である神、その属性、御言葉、御業を含むすべてに対する応えが礼拝なのです。

聖書にある言葉の意味、学者たちの定義をまとめますと、態度(感情、心)と行動(身体、言葉)で神に応えることが礼拝です。以前言ったように、行動とは、礼拝中に立ったり、座ったりということだけではなく、実際私たちの日々の生活の中での行動が大切です。

主日に教会で行う聖餐式だけが礼拝ではない、毎日礼拝しなければなりません。なのでこのブログのタイトルは絶え間なく礼拝せよとは、こういうことです。

2024年12月23日月曜日

礼拝について④

 今日は一気に何人かの学者、聖職者たちが礼拝に対する定義を宣べます。いずれも私訳です。

礼拝とは、父なる神がキリストにおいて、ご自身とその愛を明らかにし、聖霊を通して恵みを与えてくださるという関係性の表現であり、私たちが信仰、感謝と従順をもってそれに応えること。

礼拝とは、神がどのような存在、その言動と行動に対する信仰者の精神、感情、意志、肉体のすべての応え。

礼拝とは、神ご自身を現された真理に基づき、私たちの態度、行動、考え、言葉を通して、神であるそのすべてに対して、心の奥底で賛美をもって応えること。

礼拝とは、すべての道徳的で知覚のある個体が、神に対する適切な応えであり、まさに創造主である神にふさわしい、喜ばしいことに、すべての名誉と価値に帰するもの。

礼拝とは、私たちがみ言葉に耳を傾け、聖奠を通じて神を体験し、そして祈りと感謝をもって応えること。

2024年12月21日土曜日

礼拝について③

 礼拝について、イングランド国教会カンタベリー大主教のウィリアム・テンプルの定義が一番美しく感じます、ぜひゆっくり吟味してほしいです。今日はこれだけにします。(私訳)


礼拝とは、私たちが神に対する完全な服従である。それはその聖性によって良心を目覚めさせ、その真理によって精神を養い、その美しさによって想像力を清め、その愛によって心を開き、その目的に意志を委ねることである。それらすべてが礼拝に集約され、私たちが自然にできる最も無私の感情である。

2024年12月20日金曜日

礼拝について②

 聖書における礼拝について、だらだらと学術的な話をするつもりはありません。簡単に言いますと、旧約と新約にそれぞれ2つの単語が礼拝に当たります。伏し拝みと仕えるです。

伏し拝みはいわゆる外見的な動作、仕えるは内面的な気持ちです。すなわち、礼拝は心と行動に伴います。後に話しますが、この行動は単なる礼拝中に立ったり、座ったり、跪いったりするだけではありません。次に少し学者が礼拝に対する見解について書きたいと思います。

2024年12月18日水曜日

礼拝について①

 このブログのタイトルは“絶え間なく礼拝せよ”とありますが、礼拝とは何でしょうか?

私の比較的得意な分野は礼拝です、論文も礼拝のことについて書きました。よく主日に礼拝に行くといいますが、確かに教会で行う聖餐式などは礼拝ですが、礼拝はそれだけではないのです。

聖書にははっきり礼拝とは何なのか書いてませんが、私が論文を書くに当たって、旧約、新約聖書にある礼拝の意味、そして学者たちが礼拝に対する見解を調べ、私なりに理解したと思います。これらについてこれから書いていきたいと思います。

2024年12月17日火曜日

説教について⑥

 説教は多くの場合“説教”になってしまいます。聖書を読みなさい、祈りをしなさい、聖書にこう書いてあるから、人を愛しなさいなどです。

しかし、神のみ恵みを理解し、神と深い関係を築けば、もっと聖書を読みたくなるし、祈りたくなるし、人を愛せるようになると思います。神の命令だから、人を愛するのではなく、神も罪深く、憎い人間を愛しているから、私たちも人を愛することができます。

説教について語り尽くせないと思いますので、一点だけ最も重要なことを話して終わりたいと思います。説教者は説教だけで終わるのではなく、行動に伴う必要があります。例えば、説教で祈りが大事だと説き、信徒自ら祈ることを期待してはなりません。そんなに祈りが大事だと訴えるなら、祈りについての勉強、祈祷会を開くなど、聖職者自ら行動に出ることがとても大切です。

2024年12月15日日曜日

説教について⑤

 説教の中心はあくまで神のみ恵みであって、人のみ業ではありません。

有名なダビデが巨人ゴリアテを倒した話を例にします。

1.これはよく耳にする説教です、ダビデが神を信じているから、目の前の敵を倒すことができました。私たちもダビデに倣い、神を信じれば、必ず困難に乗り越えることができます。

2,イスラエルの民は巨大な敵に直面していますが、神はダビデを使い、イスラエルの民を窮地から救いました。

1より2のほうがより神のみ恵みを強調します。私なら1は可で、2は良と付けます。私が優と思う説教は以下です。

3.2千年前にイスラエルの民が敵に直面し、神はダビデという人を使い、彼らを救いました。私たちが今直面している人生の苦難に、神はその独り子イエス・キリストを遣わし、私たちを救ってくださいます。

この説教には福音が述べ伝えられています。これこそ説教ではないかと私は思います。

2024年12月14日土曜日

説教について④

 説教は二千年前の人の窮地と神のみ恵みの話だけではなく、私たちも弟子たちと同じように信仰が弱く、偉くなりたい、また心の暗闇によって見えなくなります。そして変わらず神は二千年前同様、み恵みを与えてくださいました。

説教の中心は神のみ恵みです、そして神のみ恵みのクライマックスは、神の救済、いわゆるキリストの十字架、復活です。その説教はここにつなぐことができれば、それで最高の説教になると私は思います。

聖霊はキリストを証しするため遣わされ、信じている人の内に宿られます。キリストの福音を述べ伝えることによって、私たちの内にいる聖霊を励起させることができると考えています。私は人を感動させ、人の心を動かし、人のやる気を起こすより、神である聖霊の力を頼るべきだと思います。

次回は少しこの両方の説教の例を出します。

2024年12月13日金曜日

説教について③

 私の説教の目的は神を賛美します。神を賛美するとなると、聖書箇所から、神の与えられたみ恵みを述べ伝えなければなりません。しかし、神のみ恵みを述べ伝える前に、人間の窮地を述べ伝える必要があります。なぜなら、窮地がなければ、恵みも恵みではない可能性があるからです。

人間の窮地のことですが、主に人間の罪によって、直面している問題がほとんどですが、そうでないものもあります。最近説教した例でいいますと、弟子たちが海で逆風に遭遇、弟子たちが一番偉くなりたい、バルティマイという人が目に見えないなどです。

人の窮地、神のみ恵み、それらは主な内容ですが、その聖書箇所はあくまで二千年前の物語であって、それだけ言っても、会衆にとって、今の私と何か関係あるの、となってしまいますので、今現在につなぐ必要があります。つづく

2024年12月12日木曜日

説教について②

 説教は独立したものではなく、礼拝の中の一部分です。もちろん、宗派によっては、礼拝=説教、もちろん雰囲気づくりの歌と大事な献金は含まれています。

礼拝について、ここで多く語りませんが、私にとって、主日の礼拝は懺悔、祈り、献金、賛美、み言葉の朗読、信仰の告白、聖餐など多種多様で、説教はあくまでその中の一部分です。説教は礼拝の一部分ということで、私にとって、その目的は神を賛美することです。

神を賛美することを中心として、説教の内容を構成されます。ちなみに、主題説教ではなく、講解説教、いわゆるある箇所の聖書内容を解釈し、説教する形となっています。

次回は、もう少し私の説教の内容を話したいと思います。

2024年12月10日火曜日

説教について①

 主日の礼拝に出席して、説教を聞きますが、私たちは何を期待しているのでしょうか?

説教には2つの極端があります。聖書の解釈を中心とした説教で、神学校で学んだ知識を忠実に説くスタイル、それからまるで激励セミナーにでも参加したかのように、自分の経験や歴史の偉大人物を例にとって説くスタイルです。前者は少しつまらない説教になりがちで、逆に後者はあまりみ言葉に照らし合わしていないのが問題です。

何を説くのかを言う前に、まず説教の目的を定める必要があると思います。その目的によって、上にある2種類の説教となります。では、私の考える説教の目的は何でしょうか?

2024年12月6日金曜日

世を愛する③

 愛について、コリントの信徒への手紙の方が詳しいかもしれませんが、ここでは細かく述べません。私は愛について、三つの側面があると思います。教会では、よくフードバンクなど貧困層にお手助けします、それはそれでとてもよいことです、しかし、それは教会でなくとも、NGOなどでもできます。

愛は人に食べ物、着る物をあげるなど、いわゆる身体的な需要を満たすだけではなく、その人の心の安らぎ、そして魂の救い、それ全部含めて愛と言います。教会はよくある極端なやり方として、いわゆる社会福祉のミニストリーに集中する、あるいは、教会に来させるため、福音中心なミニストリーでしかやりません。その三つのバランス(体、心、魂への愛)がとても重要で、それができて初めて人を愛すると言えるのではないでしょうか。

2024年12月5日木曜日

世を愛する②

世を愛する、その中に含まれる人ですが、いわゆる世の人々のことです。この世の人々、つまり私たちの隣り人、それだけではなく、私たちの敵も含まれるのです。それから、この世の人々、ある意味では、教会の兄弟姉妹が含まれてないです。なぜなら、彼らは”世”に属さないからです。では、兄弟姉妹を愛さなくてよいのか?世を愛することはあくまで使命であって、兄弟姉妹を愛することは、以前話した神との関係を築くためで、共に愛さなければなりませんが、理由が異なります。では、次回この”愛”について深く探りたいと思います。

2024年12月4日水曜日

世を愛する①

 教会の使命は世を愛することです。ここで、二つのキーワードがあります。”世”と”愛”です。

まず、”世”に関して、これはこの世界のことで、人だけではなく、動物、植物、それから山、海、岩などを含むすべての被造物のことを指します。私たちはただ人を愛するだけではなく、動物を虐待しない(だから肉を食べないということではありません)、植物も大事にし、これが愛です。大自然に愛することは、いわゆる環境保護のことです。神が創造したすべてのものを私たちは愛さなければなりません。次回は、まずその”人”について深く探りたいと思います。

2024年12月2日月曜日

教会の使命④

御父が御子及び聖霊を世に遣わす目的、すなわち神の使命の目的を理解するには、ある出来事がとても参考になります。

ある安息日にイエスが会堂で読まれたイザヤ書がこう書いてあります。

主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

主イエスが遣わされた目的は、簡単にまとめると、世を愛することです。これが神の使命です。教会は神の使命に参与するため、私たちも世を愛しなければなりません。

教会の使命について、いったん終わりにしますが、この世を愛することについて、次回お話しできればと思います。

2024年11月30日土曜日

教会の使命③

 教会の使命を理解するのに、まず神の使命を理解することです。神の使命を理解するのに、まず、使命を理解する必要があります。使命は英語でMissionです、これはラテン語のMissioから来ています、本来は派遣という意味です。

神の使命、Missio Dei、つまり神の遣わし、本来は三位一体の神の遣わしを意味します。これは御父が御子と聖霊を遣わすということです。神の使命を理解するのに、御父が御子と聖霊を世に遣わす目的を知ることです。さて、その目的とは?

2024年11月29日金曜日

教会の使命②

 教会の使命は拝礼と神の使命に参与するという話をしました。ここでは主に後者について話します。神の使命というと、おそらく多くの人はマルタによる福音書第28章の大宣教使命を思いつくでしょう。しかし、大宣教使命は神から与えられた使命であって、神自らの使命ではありません。ややこしい話ですが、神の使命を果たすために、神から与えられた使命です。

となると、神自らの使命は何なのかを理解し、教会としてその使命に参与する必要があります。神の使命について、次回話します。

2024年11月26日火曜日

教会の使命①

 教会の使命は神を礼拝することだと思います。しかし、これを言ったら、主日の礼拝を想像するでしょう。確かに、主日の礼拝も重要です、しかしそれだけではありません。礼拝は、実にもっと広く、深い意味はありますが、ここではその話をしません。簡単に言うと以下の通りです。

教会の使命:

①神を礼拝する(いわゆる主日の礼拝)

②神の使命に参与する(これも神を礼拝すること)

2024年11月22日金曜日

教会とは③

 教会は信仰を告白した人の集まりと言いましたが、ヨハネの手紙壱によると”誰でも、イエスを神の子と告白すれば、その人の内に神はとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。”、すなわち聖霊の宮です。私たちはキリストの体であり、聖霊の宮です。なんとも素晴らしいことですね。この身分をもって、神に与えられた使命を果たしましょう。

次回は教会の使命について話したいと思いまう。

2024年11月16日土曜日

教会とは②

 教会はいわば信仰告白した人々の集まりで、この集まりはパウロがキリストの体と表現しています。

キリストは教会の頭であり、教会はキリストの体です。頭と体は切り離せない関係で、教会である私たち一人一人は、一つの体であり、その体の一部分です。

一つの体であるゆえに、これは一体性を現し、私たちに与えられた使命を、一丸となって成し遂げなければなりません。その一方私たちは多くの部分から体になるので、それを多様性を現し、私たちはそれぞれ異なる賜物を持ちます。

2024年11月14日木曜日

教会とは①

使命を知る前に、まず教会を理解する必要があると思います。キリスト信仰が分かっている人にとって、教会は建物ではないことは明白だと思います。

聖書に出てくる教会のギリシャ語はエクレシア、これは定期的に招集される団体、または共通の信仰を持つ会衆、いわば”人”のことです。では、この人はどんな人でしょうか?

イエスは弟子たちに自分はどんな者かと問われた時、ペトロが「あなたがメシア、生ける神の子です。」と答え、イエスは「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と言っておられました。

すなわち、教会は信仰告白した人の基礎の上に建てられることです。

2024年11月13日水曜日

神との関係を築く⑦

 神との関係を築く方法を見てきました、まとめますと:

1.神を知る(聖書を読む、聖書の学び、説教を聞くなど)

2.神と交わる(礼拝、日課、祈り、断食、リトリート)

3.神に仕える(教会の兄弟姉妹に仕える)

私たちは、神と関係を築くうえで、次に、神から与えられた使命を成し遂げるのです。

その使命とは何でしょうか?

2024年11月8日金曜日

神との関係を築く⑥

 天におられる神に仕えるにはどうしたらよいのでしょうか?イエスが世の終わりの日について語られた出来事の中に、その答えがありました。

 王はある人たちにこう言いました「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」しかし、その他と立ちは戸惑って、わたしたちがいつそんなことをしたのかと言いました。そこで、王は答えられた「はっきり言っておく。わたしの兄弟の最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:35-40)

神に仕えるのであれば、教会の兄弟姉妹に仕えなければなりません。

2024年11月4日月曜日

神との関係を築く⑤

ある人のことを良く知って、交わって、ある程度関係を築いたと思います。しかし、これだけで友達の関係に止まるだけです。病気のとき、面倒を見て、お腹がすいたとき、食べさせて、悩むとき、慰めてあげないと、深い関係にはなりません。

神に対しても同じで、もちろん神は病気しないし、お腹すかないし、悩みませんが、いわゆる神に仕えることです。これが第三のステップで、最も神と関係を深く築くことができます。では、どうやって神に仕えるのでしょうか?

2024年11月1日金曜日

神との関係を築く④

 本当のキリスト者とは、聖霊が内に宿られている者です。そうであれば、本来、神の属性(愛など)が現れるはずです。ところが、キリスト者といえども、その言動がとてもキリスト者とは思えない人が結構いますね。それはなぜでしょうか?

結論から言いますと、霊の実がまだ結ばれてないからです。霊の実とは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です、この実を結ぶためには、神との霊的な交わり、すなわち霊的な訓練が必要不可欠です。

神との関係を築くことによって、私たちは完全な人になります。



2024年10月29日火曜日

神との関係を築く③

 神との関係を築くのに、人と関係を築くのと基本的に同じで、交わりが大切です。しかし、神と人との唯一の違いは、神は霊です。人との交わりは、会話でできますが、霊である神とは、どうやって会話するのでしょうか?

神は霊であるから、そのため霊的な交わりが必要になります。礼拝、日課、祈り、断食、リトリートなどがそれにあたります。実は、こういった霊性訓練をすることによって、思わず効果が持たされるのです。ただ、これはあくまでもついてくる効果であり、目的ではありません。目的は、あくまで神との交わりによって、神との関係を築くのです。

2024年10月25日金曜日

神との関係を築く②

 私が考える神との関係を築くのに、三つのステップがあります。ただし、ステップ1が終えないとステップ2に進めないということではないです。しかもステップ2に進めても、ステップ1はずっと続きます。イメージとしては以下の通りです。

1111111111111

   2222222222

      3333333

前回話した神を知ることがステップ1に当たります。ある程度神のことを知ってから、ステップ2に進んだ方がより良い関係を築くことができます。ステップ2は何でしょうか?人と良く関係を築きたい場合、まずその人のことをある程度知り、次に何をするのでしょうか?そう、話しかけるのです。いくらその人のことを熟知しても、交流がなければ全く意味がありません。

神のことを知って、次に神と交わることです。どうやるのでしょうかね?

2024年10月24日木曜日

神との関係を築く①

直接神との関係を築く必要性を訴えてきましたが、では神との関係を築くのにどうすればよいのでしょうか?神はなんかのパワーではなく、ちゃんと位格のある神で、ようするに人格のある人間とそんなに変わりません。

そのため、神との関係を築くことは、人との関係を築くこととは基本的に同じです。もし、あなたはある人と関係を築こうとするならば、どういう行動をするのでしょうか?いきなり話を掛けますか?一番最初は、その人のことについてある程度知ることが必要かと思います。どういう性格、趣味、家族のこと、好きなことなどなど。まず相手を知ることが重要だと思います。

神に対しても全く同じです。まず、神のことを知る必要があります。そうすると、聖書を読み、聖書の学び、礼拝の説教を聞くなどが必要不可欠です。

2024年10月20日日曜日

信仰と宗教⑤

少し前、図書館で宗教2世に関する漫画本を読みました。いろんな宗教の聖職者の子供、あるいは”熱心”な信者の子供が、成長に連れて、結局その信仰を離れることになるケースが多いようです。信仰を離れるというより、そもそも最初からその信仰はなかったのかもしれません。

2世の多くは、親に言われるがまま、神との関係を築くことなく、宗教行為に走ってしまいます。成長に連れて、その宗教行為がばかばかしく思い、結局離れてしまうということです。

子供にいかに勉強を楽しくさせることが一番大切で、勉強が楽しければ、自然的に宿題をやるようになります。それをせずに、一味に宿題をやりなさいと叱ると、勉強もしたくなくなります。

2024年10月19日土曜日

信仰と宗教④

 いろいろ信仰と宗教んの違いを述べてきましたが、別に宗教は必要ないということではありません。宗教はいわば、宗派、教会のことです。。

神は教会をこの地上に設立しました、そして主イエス・キリストは教会の頭です。私たちは教会からキリストの教義を学び、そして兄弟姉妹と交わり、一同神に礼拝し、一緒に神から与えられた使命を果たしに行きます。.

宗教は必ず信仰の基礎の上に立たなければなりません。宗教は信徒さんの信仰をより強くする役割です。

2024年10月18日金曜日

信仰と宗教③

今年マレーシアに二週間弱帰った時の話です。

ある姉妹が勉強のため、私のいる町に引っ越しをして、礼拝に参加しました。ところが洗礼したにもかかわらず、聖餐を受け取りません。礼拝後にその姉妹と話をして、分かった話ですが、その姉妹は違う宗派(カルトではなく、かなり有名なところ)の信徒で、母親にほかの宗派の教会に行かないようにと言われ、彼女自身の教会の牧師にも懺悔の儀式を行わないと、聖餐は受け取れないと言われ、しかもその宗派の使ってる聖書訳しか使えないとまで言われました。

これは宗教の典型的な例ですね、彼女は直接神との関係を築かず、すべて他人(母親、教会)の話を信じ、まるで教会を経由しないと神との関係を持てない、教会を経由しないと救いが得られないような感じです。

実に悲し話です、今後話をしますが、決して教会は必要ないのではありません。まず、個人が直接神との関係を築くことが大切で、不可欠です。

マレーシアだけの話ではない、日本も同じだと思います。それを正して、本当の信仰を持つようにすることは私の使命です。

2024年10月17日木曜日

信仰と宗教②

 クリスチャンだから、たばこを吸っちゃいけない、クリスチャンだから、お酒はだめ、クリスチャンだから、十分の一献金をすべき、クリスチャンだから、。。。

そう言われたことはありませんか?もしそうであれば、これはすべて宗教に伴いことです。クリスチャンは何をするにも、宗教に縛られるのではなく、自ら神と向き合い、それによって良いことか、悪いことがが分かります。

私は信徒さんに対して、もっと献金しなさいとは絶対言わない、言ってもいけないです。聖職者はいかに信徒さんが神との関係を深く築くことを助けることです、それによって、信徒さんは神の使命を成し遂げるために、自ら献金をするようになるのです。

イエスの教えで、一番難しいのは敵を愛することではないでしょうか。しかし信徒さんにイエスがそうおっしゃってるから、クリスチャンとして、あなたも嫌いな人を愛しなさい、そういうのはとても残酷です。人は神の関係が深くなり、神を深く愛すれば、敵も愛することができるようになるのです。

宗教は人に愛しなさいと言いますが、信仰は直接神との関係によって、人を愛せるようになります。

2024年10月16日水曜日

信仰と宗教①

10年ぶりの更新。新たな立場として、ブログのタイトルも変え、ドメイン名も変えました。

今の自分は自称宣教師です。自称というのは、どっかの組織から派遣され、援助を受けているわけではないからです。ただただ、本当の信仰を宣べ、知ってもらいたかったです。

宣教師とは、実に適切ではない、宗教を宣べるのではなく、信仰を宣べるからです。宗教と信仰は全く違うものとは言いませんが、よく混同さら、それによって、心の安らぎが得られないどころか、人生が狂ってしまうことすらあります。

簡単に言いますと、信仰は自ら直接神との関係を持ち、それに対して宗教は人間である組織が介入します。宗教が悪いということではなく、直接神との関係を持たず、一方的に組織の言うことを信じ、組織の言いなりになることが、本来あるべき姿ではありません。これについて、また話していきたいと思います。