2026年6月21日日曜日

説教《神のまなざしの中を生きよう》

 日課:マタイによる福音書 10:24-39

   エレミヤ書20:7-13


私たちが生きているこの日本では、キリスト者はほんの数パーセントです。

明らかな少数派です。

私の故郷のマレーシアでも、日本より割合は多いとはいえ、やはり少数派であることに変わりはありません。


だからでしょうか。

周りのほとんどがキリスト者ではない環境の中にいると、私たちはどうしても人の目を気にしてしまいます。

「自分がキリスト者です」と打ち明けるのをためらったり、信仰を持っていることを、どこか隠してしまったりすることがあります。


信仰を持っていること自体を、どこか恥ずかしいことのように感じてしまう。

それは、現代を生きる私たちにとって、とてもリアルな弱さではないでしょうか。


でも、今日読まれた福音書を聞くと、そこに大きな慰めがあります。

なぜなら、そのような弱さは、決して今の私たちだけのものではないからです。

主イエスの弟子たちもまた、人の目を恐れ、心を揺らしながら歩んでいました。


主イエスは、まさにそのように恐れの中にある者たちに向かって、み言葉を語っておられるのです。


先週に引き続き、主イエスが十二人の弟子たちを宣教に遣わされる前に語られた言葉に、共に耳を傾けてまいりましょう。


主イエスは、「人々は私を悪霊の頭と呼んだのだから、あなたがたも同じように悪く言われるだろう」と、これから向かう道の厳しさを率直に告げられます。

人々から悪く言われれば傷つきます。

人の目を恐れて、自分の信仰を隠したくなってしまうこともあります。

主イエスは、弟子たちのその弱さをよくご存じでした。


だからこそ、彼らを支えるために、「恐れるな」と語られたのです。

その言葉の根拠は、ただ一つです。

私たちが父なる神に深く愛され、その御手に守られている子どもだという事実です。

この世で深く傷つくことがあっても、私たちの命は天の父の御手の中にあります。


主イエスは、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と言われました。

それは、神が私たちを遠くから眺めておられるのではありません。

私たち一人ひとりを深く知り、私たちのすべてを受けとめておられるということです。


さらに、雀のたとえを通して語られます。

小さな存在でさえ神のまなざしの中にあるのなら、まして私たちは、はるかに尊い存在とされているのです。


この神のまなざしの中に生かされた者として歩んだ一人が、今日の第一朗読に出てくる預言者エレミヤでした。

神のみ言葉を語ったために、人々からそしられ、嘲られ、深い孤独の中に置かれました。

あまりの苦しさに、「もう語るのをやめよう」と思うほどでした。


しかし彼は、そのただ中で、主が共におられることを知っていました。

だからエレミヤは、人の評価ではなく、主のまなざしに支えられて歩み続けたのです。

そのエレミヤと同じように、私たちもまた弱さの中を生きています。


主イエスは、今日も私たち一人ひとりに語りかけられます。

「恐れるな。

あなたは、父なる神に深く知られている。

髪の毛まで数えられているほどに、大切にされている。

雀よりも、はるかに尊い存在なのだ」と。


だから私たちは、その言葉に信頼を置き、神の子どもとして、明日もまた一歩を踏み出していくのです。


主イエスは、この「神の子どもとしての安心」を語ったうえで、さらにこう言われます。

「誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。」


このみ言葉は、私たちに問いを投げかけています。

それは、「信仰をうまく語れるかどうか」という話ではありません。

問われているのは、「あなたはどこに立って生きているのか」ということです。

人の評価の前か。

それとも、神のまなざしの前か。


人々の前で主を認めるとは、義務としての信仰告白ではありません。

大好きな親を、周りの人に紹介するような、子どもとしての自然な姿です。


私たちは、家庭にいるとき、仕事をするとき、誰かと話すとき、「私は神の子どもなのだ」という事実に立って生きています。

そのとき、私たちの生き方そのものが、主を認める歩みとなっていくのです。


だからもう、人の目に自分を合わせて縮こまる必要はありません。

神に知られ、愛されている者として、恐れの中にあっても、一歩ずつ歩んでいけばよいのです。


私は、聖パウロ教会の牧師補であり、日本聖公会の執事でもあります。

しかし、それらの前に、私は神の子どもであり、主イエスの弟子です。


そしてそれは、私だけのことではありません。

ここにおられる皆さんもまた、同じです。


親である前に。

夫である前に、妻である前に。

学生である前に。

働く者である前に。

私たちは皆、すでに神の子どもとして名を呼ばれている存在なのです。


だから私たちは、自分の価値を肩書きや役割の中に探す必要はありません。

それらは大切な働きですが、私たちの本質を決めるものではありません。


状況が変わっても、立場が変わっても、評価が揺れ動いても、私たちは神の子どもです。

その事実は決して変わりません。

私たちはすでに、天の父の前で主イエスに認められ、受け入れられている者だからです。


だからこそ、私たちは恐れの中でも歩むことができます。

失敗しても立ち直ることができます。

人の評価に押しつぶされずに、もう一度立ち上がることができます。

なぜなら、私たちは神の子どもだからです。


多くの人の中で生きていると、自分がとても小さな存在のように思えてしまうことがあります。

でも私たちは、自分を大きく見せる必要も、人に認めてもらうために背伸びをする必要もありません。

たとえ目立たない、ありのままの姿であったとしても、私たちは神の前でかけがえのない存在だからです。


私は、自分がキリスト者であることを誇りに思っています。

主イエスご自身が、天の父の前で私を認めてくださっているからです。


そして、その恵みは私だけのものではありません。

私たちには皆、神の子どもとして生きる誇りが与えられているのです。


「恐れるな。」

今日も主イエスは、私たち一人ひとりにそう語りかけてくださいます。

その主の声を胸に抱き、人の評価ではなく、神のまなざしの中を、神の子どもとして歩んでまいりましょう。

2026年6月14日日曜日

イエスさまはせっかちではない

私はせっかちです。なんでもすぐやってしまい、終わらせたい性格です。

人から何かを頼まれたら、できるだけすぐにやります。

すぐに応えてあげたい気持ちと、やることリストを減らし、少しでも楽になりたい気持ちがあります。


イエスさまは安息日に、手の萎えた人を癒されました。

安息日に行われたことで、ものすごく批判されました。

その手の萎えた人は、昨日今日そうなったわけではなく、長い間その状態だったはずです。

ですから、「わざわざその日ではなく、次の日に癒してあげればよかったのに」と思う人もいたかもしれません。


しかしイエスさまは言われました。

「あなたがたのうち、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちたら、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」

イエスさまの目から見ると、手の萎えたその人は、まさに穴に落ちた羊でした。

だからイエスさまは、安息日であっても助けることをためらわれませんでした。


もちろん、イエスさまが安息日に癒された理由は、私のせっかちさとは違います。

イエスさまは、安息日にも善を行うことが神さまの御心であることを示されたのです。

それでも、苦しむ人を見たらすぐに助けたいというイエスさまの心に触れると、せっかちな自分も少し慰められる気がしました。

2026年6月7日日曜日

説教《行って学ぼう》

 日課:マタイによる福音書 9:9-13,18-26


私たちの日常を振り返ると、つい「正しさ」を優先して、目の前にいる人への「優しさ」を忘れてしまうことはないでしょうか。

「決まりだから」と冷たく突き放してしまったり、自分の正しさを振りかざして批判してしまったり。

そうして私たちは、知らず知らずのうちに、人を裁く心を抱いてしまうのです。


主イエスの時代の宗教的な指導者たちも、まさにそうでした。

彼らは、神の律法を厳密に守り、きちんと宗教的な務めを果たすことこそが最も重要だと考えていたのです。

しかし、そんな彼らの思い込みを打ち砕くように、主イエスは今日の福音書でこう言われます。

「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」


この言葉は、徴税人や罪人たちと共に食事をしておられる主イエスに反発していたファリサイ派の人々に向けて語られました。

しかしこれは、今ここにいる私たちすべての者にとっても大切な問いかけです。

神が、いけにえではなく、慈しみを望まれるとは、私たちにとってどういうことなのでしょうか。


今日は、「行って学びなさい」という主イエスのこの招きに応えて、その意味を共に学んでいきたいと思います。


主イエスのこの言葉は、今日の第一朗読でも耳にした預言者ホセアの言葉です。

ホセア書には、こう記されています。

「私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。」


現代を生きる私たちにとって、「いけにえ」とは、家畜や農作物を献げることではありません。

教会に仕え、礼拝を支え、献金をすることなど、自分の時間や才能、金銭を神に献げることです。

それらもまた、神への大切な「いけにえ」と言えるでしょう。


しかし、主イエスは言われます。

神が本当に喜ばれるのは、ただ「いけにえ」を献げることではなく、そこに「慈しみ」があることなのだと。

つまり、宗教的な熱心さだけではなく、そこに慈しみがあるかが問われているのです。

どれほど豊かな知識があっても、そこに慈しみがなければ。

どれほど立派な奉仕をしても、そこに慈しみがなければ。

どれほど多くを献げたとしても、そこに慈しみがなければ。

神が本当に喜ばれるものにはならないのです。


では、その神が求める「慈しみ」とは何でしょうか。

私たちは、その答えを主イエスご自身の中に見ることができます。


今日の福音書で主イエスは、徴税人マタイを招かれました。

また、罪人たちと共に食事をされました。

さらに、長く病に苦しんだ女性を癒やし、ある指導者の娘を生き返らせてくださいました。

主イエスは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。

自分は正しいと思い込んでいる人ではなく、自分の弱さを知り、神の慈しみを必要としている人のもとへ来られたということです。

見捨てられ、苦しみの中にいた人々に近づき、主イエスは深い慈しみを示されたのです。

もしこれが慈しみでなければ、いったい何が慈しみでしょうか。


そして、その慈しみの歩みは、ついに十字架へと向かいます。

主イエスは、私たちの罪をすべて背負い、ご自身を「最高のいけにえ」として十字架の上に献げられました。

それは、ただ神をなだめるための、冷たい宗教的儀式ではありません。

むしろ主イエスの十字架は、神がこの世界を救おうとされた、その限りない慈しみの現われでした。


主イエスは、その生涯と命のすべてを通して、神の慈しみを私たちに示してくださいました。

そしてその慈しみは、今もなお、ここにおられる私たち一人ひとりに向けられているのです。


たとえ、どれほど多くを教会に献げたとしても、困っている人に無関心であるなら。

たとえ、どれほど美しい賛美を歌ったとしても、その口で人を傷つけているなら。

それは、神が本当に喜ばれるものにはならないのです。


私たちが毎週こうして集まるのは、宗教的な義務や務めを果たすためではありません。

ここは、主イエスが私たちの日々の重荷を降ろし、慈しみで満たし、新しく生かしてくださる「命の現場」なのです。


私たちはここでみ言葉に耳を傾け、聖餐にあずかります。

主の慈しみを受け取った私たちは、ここから再び、それぞれの現実へと遣わされていきます。

行事を終えて帰るのではなく、主と共に歩む新しい一週間を、ここから始めるのです。


主イエスは、「行って学びなさい」と言われます。

頭で聖書の知識を詰め込むだけではなく、あなたの生きる現場で学びなさい、ということです。


家庭に帰って、学びなさい。

学校や職場へ行って、学びなさい。

人との関わりの中で、日々の生活のただ中で学ぶのです。


そこで何を学ぶのでしょうか。

主イエスが示してくださった「慈しみ」を学ぶのです。

私たちの教会が、先日祖国マレーシアへ帰られた王さんと共に歩んできた日々も、主が教えてくださった慈しみを学ぶ歩みの一つであったのではないでしょうか。

そして何よりまず、自分自身が主の慈しみによって生かされ、赦されている存在であることを忘れないこと。


その喜びを土台として、弱っている人に目を向けること。

失敗した人を切り捨てないこと。

小さな愛を惜しまないこと。

裁くよりも、寄り添うことを。

傷つけるよりも、慰めることを。

見捨てるよりも、共に歩むことを。


「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない。」

神が喜ばれるのは、形式だけの信仰ではありません。


主の慈しみを受けた私たちが、それぞれの場所で、その慈しみを生きていくこと。

その目立たなくとも真実な歩みこそが、神が最も喜ばれる「生きた礼拝」なのです。


「慈しみ」を学ぶ旅に、終わりはありません。

私たちは明日からもまた、失敗したり、「正しさ」を振りかざして誰かを裁き、傷つけてしまったりすることがあるでしょう。

しかし、そのたびに、主イエスの「行って学びなさい」という招きを思い出してください。


主イエスは、完璧な人を求めておられるのではありません。

不完全なまま主の慈しみにすがろうとする私たちを、喜んで受け入れてくださいます。


この一週間も、主があなたと共に歩んでくださいます。

主から受けたその慈しみを、あなたの隣にいる人へ、ほんの少しでも手渡していくことができますように。

説教《神のまなざしの中を生きよう》

 日課:マタイによる福音書 10:24-39    エレミヤ書20:7-13 私たちが生きているこの日本では、キリスト者はほんの数パーセントです。 明らかな少数派です。 私の故郷のマレーシアでも、日本より割合は多いとはいえ、やはり少数派であることに変わりはありません。 だからでし...