神に対する認識の多くは、自分の想像によるものです。神はこうであるべき、憐れみ深い神だから、きっとこうなさるはず、全能の神だから、絶対こうしてくださいます。
しかし、全能の神なら、どうして自分の独り子を十字架に向かわせるのでしょうか。自分の想像ではなく、真の神のことを理解しましょう。
新しい一年に向けて、神様を知るべく、まず、創世記1章1節から聖書の通読をしましょう。
神に対する認識の多くは、自分の想像によるものです。神はこうであるべき、憐れみ深い神だから、きっとこうなさるはず、全能の神だから、絶対こうしてくださいます。
しかし、全能の神なら、どうして自分の独り子を十字架に向かわせるのでしょうか。自分の想像ではなく、真の神のことを理解しましょう。
新しい一年に向けて、神様を知るべく、まず、創世記1章1節から聖書の通読をしましょう。
神を愛していますが、神を畏れない人はいるのでしょうか?もし、そうであれば、それは私たちが勝手に想像する神であって、本当の神でないのかもしれません。
神を畏れることこそ、神を知る道であり、本当の神を知り、それから愛することができます。
聖書日課:ヨハネによる福音書1:1-18
イザヤ書61:10-62:3
ガラテヤの信徒への手紙3:23-25, 4:4-7
今日は今年最後の主日となりました。新しい一年に向けて、皆さんはどう過ごすのでしょうか?12月の降臨節から始まって、先日の降誕日にかけて、主にイエス・キリストの再びこの世界に来られることへの待ち望み、そして、この世界に来られた目的について、いろいろ話をお聞きしたと思います。しかし、そもそもどうして神が人を含むこの世界を創造されたのか、あまり話をお聞きしないのかもしれません。
皆さん、自分の姿を鏡の前でじっくりご覧になったことがありますか?目、耳、鼻、口が顔となって、頭、手、足、指が体となって、顔といい、体といい、その配置、バランスがいかに美しく、それぞれの役割、機能もとても素晴らしいものです。これは絶対に偶然にできたものではなくて、必ず設計、創造した者があるはずです。聖書には、神がご自分にかたどって人を創造されたと明確に記されていますので、(創1:27)これは紛れもない真実で、キリスト者であれば、そう信じて疑わないでしょう。
ところが、神が人を創造された目的を考えたことがありますか?これは実にとても大切なことです。この目的を知ることができれば、私たち今後の生き方に大きく影響すると思います。
今日のヨハネによる福音書の最初に「初めに言があった。」と書いてあります、この言はすなわちイエス・キリストのことです。イエス・キリストは初めに神と共にあって、イエス・キリストは神です。そして、天地を含む万物はこのイエス・キリストによって創造されて、イエス・キリストによらないで創造されたものは一つもありませんでした。
これから、ご一緒に神がイエス・キリストによって、人を創造された目的について理解していきましょう。
神は最初の人、アダムとエバを創造されました。しかし、彼らは神に背いてしまった結果、世界に罪をもたらしました。それでも、神のみ恵みで、人を救う約束を結ばれました。それから、モーセという人を通して律法が与えられて、その律法を守ることによって、神との約束を保つことになっています。
しかし、律法を守ることはなかなか大変なことで、それらを完璧にできる人なんて誰もいなくて、それで罪人となってしまいます。そのため、イスラエルの民は毎年、罪を贖うための献げ物を神にささげて、罪を赦していただかなければなりませんでした。
今日の使徒書から、人々が律法の下で監視されて、閉じ込められて、いわゆる律法の束縛で生活をしなければならなかったことがよく分かります。しかし、その状況が一変しました、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからです。どういうことかと言いますと、神自ら人となられて、それがイエス・キリストという人で、私たちと共にこの世界に暮らしていました。誰も神を見た者はいなかった、しかし、イエス・キリストが人々に神を示されました。そして、神であるイエス・キリスト自ら十字架の道に歩まれて、罪を贖うための献げ物となられて、神にささげられました。そのため、イエス・キリストを受け入れて、イエス・キリストを信じることによって、罪が赦されて、救われることとなります。
律法はイエス・キリストに導くためのもので、イエス・キリストが来られたから、律法を守ることによって救われるのではなくて、イエス・キリストを信じるという信仰によって救われることとなりました。人にはとても守り切れない律法を与えられて、あたらめて神に頼らざるを得ないことを認識させられました。
神は人になられて、その独り子イエス・キリストが十字架につけられました。神はどうしてそこまでしなければならないのでしょうか?ここで、神が人を創造された目的につながると思います。今日の使徒書にこう書かれています「律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」また、今日の福音書にこうも書かれています「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」いずれも神の子供となることについて話されています。
神は愛です。(Ⅰヨハ4:8,16)しかし、愛には対象が必要で、そのため、私は誰々を愛しているから、私には愛があるとは言えますが、私は愛だとは成り立ちません。では、どうして神は愛だと言えるのか、それは三位一体の神だからです。御父は御子を愛して、御子は御父を愛して、そして聖霊は御父と御子の愛で、これらが愛となります。ですから、ほかの宗教の言っている神々は愛だと言わないし、言えないのです。
この愛はとても素晴らしいもので、神はもっといっぱい愛して、愛されて、それで、その独り子イエス・キリストが長子となるように、自分の子供が増えるように、人を創造されたと私はそう理解しています。その事実に、御父と御子の愛という聖霊を私たちの心に送ってくださったことから、私たちを愛していることが分かります。神はその独り子イエス・キリストをお与えになったほど、本当に私たちを愛しているのです。
今年の一月にマレーシアに戻ったとき、ある女性信徒さんは勉強のために別の町から引っ越してきて、私のいた教会の礼拝に出席していました。彼女は信徒でありながら、陪餐を受けないことに気づきました。礼拝後に、少し交わりの時間があったので、その話を尋ねました。彼女は、自分の所属する教会の聖職者に、懺悔をしないと陪餐を受けてはいけないと言われたそうです。でも礼拝中に懺悔の祈りをしましたよと私は説明しましたが、そうではなくて、実際に直接聖職者のところに行って、懺悔をしないといけないということでした。
陪餐を受けないのは、もちろん個人の自由ですが、それは自分の信念ではなくて、他人に言われたから、それに従って受けないのは、まさに今のキリスト教が直面している問題だと私は危惧しています。すなわち、神との直接の関係が薄くて、神とのつながりは、まるで教会を経由しないとできないと思い込んで、教会の言われたがままに、常に「何々をしてはいけない」、「何々をしないといけない」の中で生きています。そのせいで、だんだんと教会に行くのも嫌になってしまうでしょう。そして、もう一つ対照的なのは、洗礼を済ませて、信仰があれば、それで十分だと、別に教会は必要ないという考えの人もいます。
私たちは、神の子供です。自分の親と同じように、神ともっと深く、もっと親密な親子関係を築き、育む必要があります。教会に来ることは、まさにそのことのためです。私たちは教会からみ言葉を学び、教会での交わり、奉仕を通じて、神との関係を築き、育み、教会は信徒にとって必要不可欠な存在です。そして、神との深く、親密な関係の下で、何をしてよいのか、何をしてよくないかの判断ができるようになると思います。
私たちは、神との親子関係だけに満足してはなりません。神を心から愛しているならば、その願いを叶えて差し上げたくなるでしょう。では、神は何を願ってておられるのでしょうか?やっぱり人を創造されたその目的であるすべての人々に、神の子供となる資格を与えて、大きな家族となって、神を拝み、賛美し、そして、お互いに愛し合うことではないかと思います。
そのため、私たちは洗礼者ヨハネと同じように、光であるイエス・キリストについて、証しをしなければなりません。この光は、まことの光で、暗闇の中で輝いて、すべての人を照らす光です。すべての人々にイエス・キリストを受け入れて、イエス・キリストを信じて、神の子供、私たちの兄弟姉妹が増えるように何とかしたいと思います。
教会に来るだけではなくて、私たち一人一人が行動を起こして、教会を踏み出して、この世界に福音を宣べ伝えて、イエス・キリストについて証しをする必要があります。
私たち今後の生き方はどうあるべきでしょうか?それはこの命を与えてくださった神を認めて、神に感謝して、神の子供として、そのみ旨に従って生きていくことです。今日の使徒書にある通り、私たちはもはや律法の奴隷ではなくて、神の子供で、神によって立てられた相続人です。神は遠い存在ではなくて、私たちの天におられるアッパ、父です、主イエス・キリストは私たちの贖い主、友、そして、愛するお兄さんです。
神は天地を創造されて、それから人を創造されて、自分の子供となる資格を与えられて、そして、わたしたちを愛してくださいました。今日のイザヤ書のみ言葉を用いて、その喜びを表したいと思います。「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍ります。」新しい一年に向けて、皆さん一人一人が神の創造の目的を偲んで、喜びの中で過ごすことができますように、心からお祈り申し上げます。アーメン
昨日は聖霊によって、人は主であることを信じると話しました。つまり人によって信じるのか信じないのかは、聖霊がその人に働くかどうかの違いです。聖霊が神ですから、どうでもできると言えばそうですが、それを言ったら、神の一言ですべての人が救われるというやり方が手早いでしょう。しかし、それは神のやり方ではありません。
聖霊は誰にでも働きます、しかしその人の心が頑なになったらどうしようもありません。私は福音を述べ伝える前に、もっと重要なのは悔い改めを伝えることです。まさに洗礼者ヨハネのやってたことです。悔い改めることによって、心が開かれ、それによって聖霊が働くことができます。
では、悔い改めとはどういうことか?自分が罪人を認めるとかより、今まで神を知らずに自分のわがままに生きてきたことを認め、これから神の御旨に従って生きていくことです。
ぜひ以下のように祈ってみてください、きっと聖霊が働いてくださると思います。
天におられる神様、私はあなたを知らずにいました。ゆえに、あなたの御旨、御心を背き、自分の意のままに生きていました。どうか私を憐れんでください。私に正しい道に導き、変わらない真理を教え、新しいいのちを与えてください。アーメン
キリスト者と非キリスト者の違いは何でしょうか?救われたかどうかとか、将来天国に行くのか地獄に行くとかではないと思います。私は2つあると思います。
1.神の子になる資格が与えられている
2.聖霊が宿っている
いずれも神に深く関わっています。2番については、洗礼したから、異言が話せるから、聖霊が宿っているとは限りません。ポイントは主イエスに対する信仰です。
ここで聖霊が宿っているかどうか分かる方法があります、以下の質問に答えてください。
1.イエスが主であることを信じますか?(神が人になられたこと)
2.イエスが乙女から生まれたことを信じますか?
3.イエスが死んで3日後に復活したからことを信じますか?
これらすべて信じる人は聖霊が宿っていることが言えます。なぜなら、人は自分の知恵、理性でこれらを信じることはできません、あまりにも非科学的で、非論理的です。でもどうして私も含めて、それを信じることができたかというと、それは聖霊によるからです。聖霊によって私たちは信じて、洗礼によって、聖霊の賜物を受け、確実に私たちの中に聖霊が宿ります。
私の中では、キリスト者とキリスト教信者の意味が違います。洗礼を受けて(宗派によって堅信式も済ませる)、教会に籍を置いた人は、まずキリスト教信者と言えます。いわゆるキリストという宗教の信者です。そういう私もその一人です。
キリスト教信者は神を信じなくても、主イエスが神と信じなくても、洗礼さえ済ませれば、それで一応キリスト教信者です、それはなんかの組織に入会すれば、会員になるのと同じことです。
それに対して、キリスト者は聖霊が宿られ、創造主である神を信じ、主イエスキリストを信じ、その教えに従う人のことです。
クリスチャンという言葉はキリスト者もキリスト教信者もどちらも当てはまるので、本当はあまり使いたくありませんが、一応会話の時に紛らわしく感じさせないときだけ使います。
キリスト教信徒ではなく、キリスト者になりましょう。
今日はクリスマスです。イエス・キリストの誕生を祝う日です。クリスチャンの中にも今日は本当のイエスの生まれた日ではない、あるいはこの日の元の由来は異教の太陽を拝む日だから、祝わない人もいます。
しかし、重要なのは何でしょうか?それは神が人としてこの世に来られたときではないでしょうか。よく説教で、イエスが葉桶で生まれ、いかに謙虚であること強調しますが、そこはポイントではないと思います。
神が人間としてこの世に生まれ、私たちとともにこの世界で暮らすことは、すでに十分謙虚です、それ以外のもので飾る必要はありません。神がこの世に来られたことに只々感謝です。
礼拝に対する学者たちの定義を見ますと、当然かもしれませんが、共通点があります、それは応えです。一言を言いますと、礼拝とは、神に対する応えです。人に対する応えは礼拝ではありません。創造主である神、その属性、御言葉、御業を含むすべてに対する応えが礼拝なのです。
聖書にある言葉の意味、学者たちの定義をまとめますと、態度(感情、心)と行動(身体、言葉)で神に応えることが礼拝です。以前言ったように、行動とは、礼拝中に立ったり、座ったりということだけではなく、実際私たちの日々の生活の中での行動が大切です。
主日に教会で行う聖餐式だけが礼拝ではない、毎日礼拝しなければなりません。なのでこのブログのタイトルは絶え間なく礼拝せよとは、こういうことです。
今日は一気に何人かの学者、聖職者たちが礼拝に対する定義を宣べます。いずれも私訳です。
礼拝とは、父なる神がキリストにおいて、ご自身とその愛を明らかにし、聖霊を通して恵みを与えてくださるという関係性の表現であり、私たちが信仰、感謝と従順をもってそれに応えること。
礼拝とは、神がどのような存在、その言動と行動に対する信仰者の精神、感情、意志、肉体のすべての応え。
礼拝とは、神ご自身を現された真理に基づき、私たちの態度、行動、考え、言葉を通して、神であるそのすべてに対して、心の奥底で賛美をもって応えること。
礼拝とは、すべての道徳的で知覚のある個体が、神に対する適切な応えであり、まさに創造主である神にふさわしい、喜ばしいことに、すべての名誉と価値に帰するもの。
礼拝とは、私たちがみ言葉に耳を傾け、聖奠を通じて神を体験し、そして祈りと感謝をもって応えること。
礼拝について、イングランド国教会カンタベリー大主教のウィリアム・テンプルの定義が一番美しく感じます、ぜひゆっくり吟味してほしいです。今日はこれだけにします。(私訳)
礼拝とは、私たちが神に対する完全な服従である。それはその聖性によって良心を目覚めさせ、その真理によって精神を養い、その美しさによって想像力を清め、その愛によって心を開き、その目的に意志を委ねることである。それらすべてが礼拝に集約され、私たちが自然にできる最も無私の感情である。
聖書における礼拝について、だらだらと学術的な話をするつもりはありません。簡単に言いますと、旧約と新約にそれぞれ2つの単語が礼拝に当たります。伏し拝みと仕えるです。
伏し拝みはいわゆる外見的な動作、仕えるは内面的な気持ちです。すなわち、礼拝は心と行動に伴います。後に話しますが、この行動は単なる礼拝中に立ったり、座ったり、跪いったりするだけではありません。次に少し学者が礼拝に対する見解について書きたいと思います。
このブログのタイトルは“絶え間なく礼拝せよ”とありますが、礼拝とは何でしょうか?
私の比較的得意な分野は礼拝です、論文も礼拝のことについて書きました。よく主日に礼拝に行くといいますが、確かに教会で行う聖餐式などは礼拝ですが、礼拝はそれだけではないのです。
聖書にははっきり礼拝とは何なのか書いてませんが、私が論文を書くに当たって、旧約、新約聖書にある礼拝の意味、そして学者たちが礼拝に対する見解を調べ、私なりに理解したと思います。これらについてこれから書いていきたいと思います。
説教は多くの場合“説教”になってしまいます。聖書を読みなさい、祈りをしなさい、聖書にこう書いてあるから、人を愛しなさいなどです。
しかし、神のみ恵みを理解し、神と深い関係を築けば、もっと聖書を読みたくなるし、祈りたくなるし、人を愛せるようになると思います。神の命令だから、人を愛するのではなく、神も罪深く、憎い人間を愛しているから、私たちも人を愛することができます。
説教について語り尽くせないと思いますので、一点だけ最も重要なことを話して終わりたいと思います。説教者は説教だけで終わるのではなく、行動に伴う必要があります。例えば、説教で祈りが大事だと説き、信徒自ら祈ることを期待してはなりません。そんなに祈りが大事だと訴えるなら、祈りについての勉強、祈祷会を開くなど、聖職者自ら行動に出ることがとても大切です。
説教の中心はあくまで神のみ恵みであって、人のみ業ではありません。
有名なダビデが巨人ゴリアテを倒した話を例にします。
1.これはよく耳にする説教です、ダビデが神を信じているから、目の前の敵を倒すことができました。私たちもダビデに倣い、神を信じれば、必ず困難に乗り越えることができます。
2,イスラエルの民は巨大な敵に直面していますが、神はダビデを使い、イスラエルの民を窮地から救いました。
1より2のほうがより神のみ恵みを強調します。私なら1は可で、2は良と付けます。私が優と思う説教は以下です。
3.2千年前にイスラエルの民が敵に直面し、神はダビデという人を使い、彼らを救いました。私たちが今直面している人生の苦難に、神はその独り子イエス・キリストを遣わし、私たちを救ってくださいます。
この説教には福音が述べ伝えられています。これこそ説教ではないかと私は思います。
説教は二千年前の人の窮地と神のみ恵みの話だけではなく、私たちも弟子たちと同じように信仰が弱く、偉くなりたい、また心の暗闇によって見えなくなります。そして変わらず神は二千年前同様、み恵みを与えてくださいました。
説教の中心は神のみ恵みです、そして神のみ恵みのクライマックスは、神の救済、いわゆるキリストの十字架、復活です。その説教はここにつなぐことができれば、それで最高の説教になると私は思います。
聖霊はキリストを証しするため遣わされ、信じている人の内に宿られます。キリストの福音を述べ伝えることによって、私たちの内にいる聖霊を励起させることができると考えています。私は人を感動させ、人の心を動かし、人のやる気を起こすより、神である聖霊の力を頼るべきだと思います。
次回は少しこの両方の説教の例を出します。
私の説教の目的は神を賛美します。神を賛美するとなると、聖書箇所から、神の与えられたみ恵みを述べ伝えなければなりません。しかし、神のみ恵みを述べ伝える前に、人間の窮地を述べ伝える必要があります。なぜなら、窮地がなければ、恵みも恵みではない可能性があるからです。
人間の窮地のことですが、主に人間の罪によって、直面している問題がほとんどですが、そうでないものもあります。最近説教した例でいいますと、弟子たちが海で逆風に遭遇、弟子たちが一番偉くなりたい、バルティマイという人が目に見えないなどです。
人の窮地、神のみ恵み、それらは主な内容ですが、その聖書箇所はあくまで二千年前の物語であって、それだけ言っても、会衆にとって、今の私と何か関係あるの、となってしまいますので、今現在につなぐ必要があります。つづく
説教は独立したものではなく、礼拝の中の一部分です。もちろん、宗派によっては、礼拝=説教、もちろん雰囲気づくりの歌と大事な献金は含まれています。
礼拝について、ここで多く語りませんが、私にとって、主日の礼拝は懺悔、祈り、献金、賛美、み言葉の朗読、信仰の告白、聖餐など多種多様で、説教はあくまでその中の一部分です。説教は礼拝の一部分ということで、私にとって、その目的は神を賛美することです。
神を賛美することを中心として、説教の内容を構成されます。ちなみに、主題説教ではなく、講解説教、いわゆるある箇所の聖書内容を解釈し、説教する形となっています。
次回は、もう少し私の説教の内容を話したいと思います。
主日の礼拝に出席して、説教を聞きますが、私たちは何を期待しているのでしょうか?
説教には2つの極端があります。聖書の解釈を中心とした説教で、神学校で学んだ知識を忠実に説くスタイル、それからまるで激励セミナーにでも参加したかのように、自分の経験や歴史の偉大人物を例にとって説くスタイルです。前者は少しつまらない説教になりがちで、逆に後者はあまりみ言葉に照らし合わしていないのが問題です。
何を説くのかを言う前に、まず説教の目的を定める必要があると思います。その目的によって、上にある2種類の説教となります。では、私の考える説教の目的は何でしょうか?
愛について、コリントの信徒への手紙の方が詳しいかもしれませんが、ここでは細かく述べません。私は愛について、三つの側面があると思います。教会では、よくフードバンクなど貧困層にお手助けします、それはそれでとてもよいことです、しかし、それは教会でなくとも、NGOなどでもできます。
愛は人に食べ物、着る物をあげるなど、いわゆる身体的な需要を満たすだけではなく、その人の心の安らぎ、そして魂の救い、それ全部含めて愛と言います。教会はよくある極端なやり方として、いわゆる社会福祉のミニストリーに集中する、あるいは、教会に来させるため、福音中心なミニストリーでしかやりません。その三つのバランス(体、心、魂への愛)がとても重要で、それができて初めて人を愛すると言えるのではないでしょうか。
世を愛する、その中に含まれる人ですが、いわゆる世の人々のことです。この世の人々、つまり私たちの隣り人、それだけではなく、私たちの敵も含まれるのです。それから、この世の人々、ある意味では、教会の兄弟姉妹が含まれてないです。なぜなら、彼らは”世”に属さないからです。では、兄弟姉妹を愛さなくてよいのか?世を愛することはあくまで使命であって、兄弟姉妹を愛することは、以前話した神との関係を築くためで、共に愛さなければなりませんが、理由が異なります。では、次回この”愛”について深く探りたいと思います。
教会の使命は世を愛することです。ここで、二つのキーワードがあります。”世”と”愛”です。
まず、”世”に関して、これはこの世界のことで、人だけではなく、動物、植物、それから山、海、岩などを含むすべての被造物のことを指します。私たちはただ人を愛するだけではなく、動物を虐待しない(だから肉を食べないということではありません)、植物も大事にし、これが愛です。大自然に愛することは、いわゆる環境保護のことです。神が創造したすべてのものを私たちは愛さなければなりません。次回は、まずその”人”について深く探りたいと思います。
御父が御子及び聖霊を世に遣わす目的、すなわち神の使命の目的を理解するには、ある出来事がとても参考になります。
ある安息日にイエスが会堂で読まれたイザヤ書がこう書いてあります。
主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
主イエスが遣わされた目的は、簡単にまとめると、世を愛することです。これが神の使命です。教会は神の使命に参与するため、私たちも世を愛しなければなりません。
教会の使命について、いったん終わりにしますが、この世を愛することについて、次回お話しできればと思います。