2026年8月16日日曜日

説教《立派な信仰》

 日課:マタイによる福音書 15:21-28


この一週間、私たちは終戦の日を迎えました。

平和週間の中で、戦争が残した傷跡と、その深い苦しみを覚えています。

とりわけ沖縄には、今もなお消えることのない記憶と、理不尽な痛みがあります。


私たちは、その苦しみを前にして、軽々しく答えを与えることはできません。

なぜ、このようなことが起こったのか。

なぜ、人はこれほどの苦しみを経験しなければならなかったのか。

私たちは、ただ戸惑いながら問い続けます。


今日の福音書もまた、私たちを戸惑わせます。


そこには、助けを求める一人の母親がいます。

しかし、彼女に対する主イエスの応答は、私たちが思い描く愛と憐れみに満ちた主イエスの姿とは、大きく異なっていました。


なぜ、苦しんで助けを求める人に対して、そのような言葉を語られたのでしょうか。


今日の福音書は、その理由を説明しません。

むしろ私たちを、この戸惑いのただ中に招き入れます。


そして私たち自身に問いかけるのです。

「あなたは、この主イエスをどのように受け止めるのだろうか」と。


今日の福音書に登場するのは、カナンの女です。


彼女は異邦人であり、当時のイスラエル社会では、神の救いの外側にいる者とみなされていました。

その彼女が、悪霊にひどく苦しめられている娘のために、必死の思いで主イエスのもとへやって来ました。


ところが主イエスは、何もお答えになりません。

重い沈黙です。

さらに、ご自分はまずイスラエルの民のために遣わされていることを示されます。


しかし彼女はそこで引き下がらず、ひれ伏して助けを求め続けます。


すると主イエスは、こう言われました。

「子どもたちのパンを取って、子犬たちに投げてやるのはよくない。」

この言葉は、まるでこの女性を「子犬」とさげすむようにも聞こえます。


それを聞いたとき、私たちの戸惑いは、やがて反発へと変わっていかないでしょうか。

助けを求める母親に対して、なぜすぐに助けてくださらないのだろうか。

なぜ、これほど厳しい言葉を語られるのだろうか。

そう考え始めるのです。


そして気がつくと、私たちは主イエスを、自分自身の基準で量り始めています。

「この言葉は正しいのか。」

「この対応は適切なのか。」

私たちは、主の御心の深さを尋ねるよりも先に、主イエスを評価し、裁く側に立ってしまうのです。

しかし、そのときカナンの女はどうだったのでしょうか。

彼女もまた、深く傷つき、言葉を失うほど戸惑ったはずです。


それでも、彼女はこう応えたのです。

「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

彼女は、イスラエルの民が先であることを否定しませんでした。

それでも、主の食卓からこぼれるものを求めたのです。


彼女は立ち去りませんでした。

主を裁く者にはなりませんでした。

突き放すような言葉を受けても、なお、この主に望みを置き続けたのです。


主イエスは最後に、こう言われました。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」


主が「立派だ」と言われた信仰とは、いったい何だったのでしょうか。


カナンの女は、主イエスの言葉の真意を、すべて理解していたわけではないはずです。

なぜ沈黙されたのか。

なぜあのような厳しい言葉を語られたのか。

彼女には分からなかったでしょう。


それでも彼女は、「主よ、ごもっともです」と答えました。

主を裁くのではなく、自分の理解を越えておられる主に、なお望みを置いたのです。


だからこそ主は言われたのです。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」

そして、その時、娘は癒されました。


私たちもまた、日々の歩みの中で、カナンの女と同じような時を経験します。


祈っているのに、答えが見えないことがあります。

なぜこんな苦しみが起こるのか分からず、神が遠く感じられることもあります。


そのような理解できない現実の中で、私たちは主を自分の基準で量り、裁く者となるのでしょうか。

それともカナンの女のように、なお主にすがり続ける者となるのでしょうか。


信仰とは、すべてを理解することではありません。

自分の問いにすべての答えが与えられることでもありません。


理解できなくても、なお主に信頼することです。

自分の理解を越えておられる主に、それでもなお望みを置くことです。

自分の正しさではなく、主の憐れみと恵みに、ただ寄り頼むことです。


主イエスは、そのような信仰を「立派だ」と言われるのです。


主の食卓から落ちるパン屑。カナンの女は、そのわずかなパン屑の中にも、主の確かな憐れみがあることを信じました。

そして、その憐れみは娘を癒しました。

その小さなパン屑にさえ、人を生かす主の憐れみがあったのです。

だからこそ私たちも、その憐れみに信頼して歩みたいと願います。


私たちは今、その主の食卓に招かれています。

聖餐式において「神の子羊」と唱える前に、私たちがささげる祈りの中にも、あのカナンの女の言葉が重なります。

祈祷書には、このようにあります。

「わたしたちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐れみを信じてみ机のもとに参りました。わたしたちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りないものです。」

それでも主は私たちを招き、ご自身の体であるパンを与えてくださいます。


主の憐れみは、イスラエルの人々だけにとどまるものではありませんでした。

カナンの女にも及び、今では私たち異邦人にも及んでいます。

神の憐れみは、私たちが引いてしまう境界線さえも越えて、広がっていくのです。

だから私たちもまた、争いと分断の残る世界の中で、主の平和を求めてまいりましょう。


このあと私たちは、沖縄の話に耳を傾けます。

そこにもまた、今なお続く苦しみと、私たちには簡単に答えを出すことのできない現実があります。

私たちもまた、カナンの女のように、すべてを理解できない中にあっても、主に望みを置きながら、主の平和を祈り求め、新しい一週間を歩んでまいりましょう。


父と子と聖霊のみ名によって アーメン

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