日課:マタイによる福音書 13:24-30,36-43
今日私たちに与えられたみ言葉は、マタイによる福音書13章の「麦と毒麦のたとえ」です。
このたとえ話を深く味わうために、まず先週のみ言葉とのつながりに目を向けてみたいと思います。
先週の福音書では、主イエスが種まきのたとえを語られました。
そこでは、「人はみ言葉をどのように受け止めるのか」、「み言葉を受ける人の心」が焦点となっていました。
しかし今週の福音書では、その視点が少し広がります。
先週が「み言葉を受ける私たち」に目を向けていたとすれば、今週は「私たちが生きるこの世」に目を向けています。
私たちは毎日の生活の中で、さまざまな矛盾や不条理に出会います。
「どうしてこんなことが起こるのだろう」
「なぜ悪いことをする人が栄えているように見えるのだろう」
「なぜ神はすぐに正してくださらないのだろう」
そのような問いは、信仰を持つ私たちの心にも、繰り返し湧き上がってきます。
主イエスは、この問いに答えるために、「麦と毒麦のたとえ」を語られました。
神がお造りになったこの世界に、なぜ悪が入り込んでいるのでしょうか。
そして、なぜ神はそれをすぐに取り除かれないのでしょうか。
主イエスは、このたとえを通して、その問いに光を当ててくださるのです。
私たちが生きるこの世には、神の御心に反するものが数多くあります。
それらは私たちの周りにあるだけではありません。
気づかないうちに、私たちの心にも入り込んでくるのです。
たとえば、誰かを「もう関わりたくない」と排除しようとする思い、「あの人が悪い」と決めつけてしまう心です。
しかし私たちは、それを悪だとは気づかないことがあります。
むしろ「正しいこと」と当たり前のように受け止めてしまうことがあります。
知らず知らずのうちに、私たちは神の御心に反するものに囲まれ、その影響を受けながら生きているのです。
主イエスは今日のたとえ話で、「人々が眠っている間に、敵が麦の中に毒麦を蒔き、やがて毒麦も現れた」と、この現実を語られました。
毒麦は麦の中にそっと紛れ込み、気づかないうちに広がっていきます。
そのような現実の中で、麦でありたいと願う私たちもまた、その影響を受けてしまいます。
だからこそ私たちは、「今すぐ毒麦を取り除くべきではないか」と考えるのです。
しかし主イエスは、その単純な思いをそのままにはされませんでした。
麦と毒麦が同じ畑に生えているように、この世には善と悪が入り混じっています。
そして、そのようなこの世に生きる私たちもまた、心の中で善と悪との葛藤を抱えているのです。
神に従いたいと願いながら、同時に自分の正しさを守りたくなります。
人を愛したいと思いながら、気づけば人を裁いてしまうのです。
実際に、教会の長い歴史を振り返っても、「正しさ」を守ろうとするあまり、かえって人を傷つけ、居場所を奪ってしまった痛ましい出来事がありました。
私たちもまた、自分では良かれと思いながら、「あの人が悪い」「あの考えは間違っている」と決めつけてしまいます。
そうして気づかないうちに、人との間に線を引いてしまうのです。
しかし、そのような人間の裁きは、本当に守るべき人まで傷つけてしまうことがあります。
それはまさに、毒麦を抜こうとして、大切な麦まで一緒に抜いてしまうことなのです。
だからこそ、主イエスは、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われたのです。
一見すると、これは消極的な対応に思えるかもしれません。
しかし主イエスは、悪を見過ごしているわけではありません。
そうではなく、悪をただ正そうとすることよりも、主に従って生きようとする人を、一人も失わないことを選ばれたのです。
そこには、神の深い忍耐があります。
神は、畑を放置しておられるのではありません。
「刈り入れまで」の期間、麦が豊かに育つことを願いながら、忍耐をもって見守っておられるのです。
私たちもまた、その忍耐によって今日まで生かされてきました。
その「刈り入れまで」という神の長い忍耐の時間によって、私たちは生かされ、守られているのです。
しかし主イエスの「刈り入れまで」という言葉は、もう一つの大切な真理を示しています。
私たちは、人の心の奥まで知ることはできません。
だからこそ、私たちは裁き主となることはできないのです。
常に正しさを決めつけようとする生き方は、気づかないうちに私たちの心を疲れさせていきます。
人を見るたびに良し悪しを決め、心の中で線を引く生き方は、やがて私たちから人を愛する自由を奪ってしまいます。
その結果、人を見るとき、愛よりも判断が先に立つようになってしまいます。
人の心を完全に知り、最終的に正しく裁くことがおできになるのは、神ご自身だけなのです。
刈り入れの時、すなわち世の終わりの時には、全能なる神が、善と悪のすべてを明らかにされます。
だからこそ私たちは、握りしめていた“自分の正義”や裁きの思いを、静かに手放していくことができるのです。
人を裁くことではなく、神に育てられる一人の麦として生きることこそ、私たちに与えられた歩みなのです。
私たちは、この世界という畑の主人ではありません。
この大きな神の畑で、主に育てられている麦なのです。
だから、毒麦を取り除こうと躍起になる必要もありません。
誰かを裁くことで、自分の正しさを証明しようとする必要もありません。
神は今も、そのような私たちを見捨てることなく、太陽の光を注ぎ、豊かな雨を降らせてくださいます。
そして、私たちが悔い改め、立ち帰り、実を結ぶことができるよう、忍耐をもって待っていてくださるのです。
どうか、これからの日々の中で、自分の正しさにこだわりそうになるとき、誰かを裁きたくなるとき、主イエスのこの言葉を思い出してください。
「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」
人を裁くのではなく、人を愛する者として歩めるよう、裁きを神にゆだねましょう。
やがて来る刈り入れの日に希望を置きながら、今日与えられたその場所で、神に育てられる麦として、主に従って歩んでまいりましょう。
そのように歩もうとする私たちを、主は今日も恵みによって育て続け、やがてご自身の畑に豊かな実を結ぶ麦としてくださるのです。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン