2026年7月5日日曜日

説教《一人で背負わなくてよい》

 日課:マタイによる福音書 11:16-19,25-30


こんな寓話があります。


ある親子が、一頭のロバを引いて市場へ向かっていました。

すると、それを見た人が言いました。

「ロバがいるのに、どうして乗らないのか。なんて愚かな親子だ。」


そこで今度は、親がロバに乗ることにしました。

ところが、それを見た人は言います。

「子どもを歩かせて、自分だけ楽をするなんて、ひどい親だ。」


そこで親は降りて、今度は子どもが乗ることにしました。

すると今度は、「親を歩かせるなんて、親不孝な子どもだ。」と言われます。


そこで二人ともロバに乗ることにしました。

するとまた、「二人も乗ったらロバがかわいそうだ。」と言われてしまいました。


何をしても、人々は納得しませんでした。

そこには、人の評価に縛られて生きる人間の姿があります。


まさに同じような息苦しさの中で、私たちもまた、人の評価や期待の中に生きています。


「人からどう見られているだろうか。」

「期待に応えられているだろうか。」

「誰かを失望させていないだろうか。」

その思いに追われながら、知らず知らずのうちに心が疲れ、重荷を負って生きているのではないでしょうか。

今日の福音書で主イエスは言われます。

「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」


主イエスは、この重荷の中にいる私たちを、どのように休ませてくださるのでしょうか。


ご一緒にみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。


主イエスは、当時の人々の姿の中に、いつの時代にも変わらない人間の現実を見ておられました。


洗礼者ヨハネは、厳しい生活を送り、断食しながら神の言葉を語りました。

ところが人々は、「あれは悪霊に取りつかれている」と言いました。


一方、主イエスは人々の中に入り、食卓を共にし、罪人と呼ばれる人々とも交わりました。

すると今度は、「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と非難されました。


主イエスはこの姿を、こうたとえられました。

「広場に座って、他の子どもたちに呼びかけている子どもたちのようだ」と。


結婚式ごっこをして、笛を吹いても踊らない。

葬式ごっこをして、弔(とむら)いの歌を歌っても悲しまない。


つまり、自分の思い通りでなければ、何も受け取ろうとしないのです。


しかし聖書は、この姿をただの批判として終わらせません。

そこには、神が何をなさっているのかを見分けることのできない人間の現実が示されています。


神の知恵は、人の評価によって左右されるものではありません。

人々がどう評価しようとも、その実りによって神の知恵は明らかになるのです。


実は、この人々の姿は、私たち自身の姿でもあります。

私たちもまた気づかないうちに、「こうあるべき」という物差しを握りしめています。

「あの人はこうあるべきだ。」

「子どもはこうあるべきだ。」

「教会はこうあるべきだ。」

「人生はこうあるべきだ。」


その物差しが現実とずれると、不満や失望が生まれ、ときには人を責めてしまいます。

そしてその同じ物差しは、私たちにも向けられます。


家庭で、職場で、地域で、教会で。

「期待にこたえなければならない」

「失敗してはいけない」

「認められなければならない」


その結果、心は休むことができません。

認められてもまだ足りない。

努力しても十分ではない。

期待は終わりなく続いていきます。


そのような重荷を負って生きる私たちの姿を、主は見ておられます。

だからこそ、神の知恵として、この世界に来てくださったのです。


「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」


主イエスは、こう招いてくださいます。

「もう、重荷を隠さなくてよい。

強がらなくてもよい。

人の期待に応え続けようとしなくてもよい。」


主は、「もっと頑張れるようになってから来なさい」とは言われません。

疲れきって、一歩も進めないような私たちを、そのまま招いてくださるのです。


その重荷を下してから来るのではありません。

そのままのあなたで、私のもとへ来なさい、と言われるのです。

そして主のもとに来た者は、主と共に歩むように招かれます。


主イエスは「私の軛を負いなさい」と言われます。

軛とは、本来、二頭の牛が共に荷を引くために用いられる道具です。


ここで、軛につながれた二頭の牛を思い浮かべてみてください。

経験ある強い牛が、まだ力の弱い牛を導きながら歩んでいく姿です。

主イエスは、そのように私たちを導いてくださる方なのです。


だからこそ、ただ「軛を負いなさい」ではなく、「私の軛を負いなさい」と言われたのです。

その軛を共に負ってくださるのは、主ご自身です。


私たちは、一人で軛を背負うのではありません。

主が私たちの隣に立ち、その軛を共に負ってくださるのです。


そこに、私たちの真の安らぎがあります。

もう、私たちは一人ではありません。

主と共に歩む者として、生かされているのです。

だから、安心して歩んでいくことができるのです。


これまで私たちは、人の評価という軛、「こうあるべき」という重い軛を、一人で背負ってきました。

しかし主イエスは、私たちを裁くためではなく、共に担うために来られた方です。

できないから突き放すのではなく、弱さのただ中へ降りて来てくださる方です。


主イエスは柔和で、心のへりくだった方です。

私たちを見下ろすことなく、私たちと同じ低さに立ってくださいます。


主イエスご自身も、人の非難や拒絶の中を歩まれました。

それでも父なる神を信頼し、最後まで十字架への道を歩まれました。


父の愛に支えられて十字架への道を歩まれたその主が、復活の主として今も私たちと共にいてくださいます。

だから私たちも、人の評価ではなく、父なる神の愛に信頼して歩むことができるのです。


今日、私たちは主の御前で、疲れたままの自分を受け止めていただきました。

主は、そのような私たちを安らぎの中へと迎え入れてくださいました。

明日から、私たちはまた、人の評価や「こうあるべき」という期待の中へと戻っていきます。


しかし主イエスは言われます。

「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い。」


私たちの人生から重荷がなくなるわけではありません。

課題も、不安も、今もなお私たちの中にあります。


それでも、主は共にいてくださいます。

そして、共に担ってくださいます。


人の評価に振り回される生き方ではなく、神に愛されている者として生きる歩みへ。

一人で背負う軛ではなく、主と共に負う軛へ。


その歩みへと、主は今日も私たちを招いておられます。

その招きを受けて、私たちは今週も、それぞれの重荷を抱えて歩んでいきます。


しかし、私たちは決して一人ではありません。

柔和でへりくだった主イエスが、共に歩んでくださいます。


人の評価ではなく、父なる神の愛に信頼して、この一週間も主と共にその軛を負い、歩んでまいりましょう。


父と子と聖霊のみ名によって アーメン

説教《一人で背負わなくてよい》

 日課:マタイによる福音書 11:16-19,25-30 こんな寓話があります。 ある親子が、一頭のロバを引いて市場へ向かっていました。 すると、それを見た人が言いました。 「ロバがいるのに、どうして乗らないのか。なんて愚かな親子だ。」 そこで今度は、親がロバに乗ることにしました...