日課:マタイによる福音書 9:9-13,18-26
私たちの日常を振り返ると、つい「正しさ」を優先して、目の前にいる人への「優しさ」を忘れてしまうことはないでしょうか。
「決まりだから」と冷たく突き放してしまったり、自分の正しさを振りかざして批判してしまったり。
そうして私たちは、知らず知らずのうちに、人を裁く心を抱いてしまうのです。
主イエスの時代の宗教的な指導者たちも、まさにそうでした。
彼らは、神の律法を厳密に守り、きちんと宗教的な務めを果たすことこそが最も重要だと考えていたのです。
しかし、そんな彼らの思い込みを打ち砕くように、主イエスは今日の福音書でこう言われます。
「『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」
この言葉は、徴税人や罪人たちと共に食事をしておられる主イエスに反発していたファリサイ派の人々に向けて語られました。
しかしこれは、今ここにいる私たちすべての者にとっても大切な問いかけです。
神が、いけにえではなく、慈しみを望まれるとは、私たちにとってどういうことなのでしょうか。
今日は、「行って学びなさい」という主イエスのこの招きに応えて、その意味を共に学んでいきたいと思います。
主イエスのこの言葉は、今日の第一朗読でも耳にした預言者ホセアの言葉です。
ホセア書には、こう記されています。
「私が喜ぶのは慈しみであって、いけにえではない。」
現代を生きる私たちにとって、「いけにえ」とは、家畜や農作物を献げることではありません。
教会に仕え、礼拝を支え、献金をすることなど、自分の時間や才能、金銭を神に献げることです。
それらもまた、神への大切な「いけにえ」と言えるでしょう。
しかし、主イエスは言われます。
神が本当に喜ばれるのは、ただ「いけにえ」を献げることではなく、そこに「慈しみ」があることなのだと。
つまり、宗教的な熱心さだけではなく、そこに慈しみがあるかが問われているのです。
どれほど豊かな知識があっても、そこに慈しみがなければ。
どれほど立派な奉仕をしても、そこに慈しみがなければ。
どれほど多くを献げたとしても、そこに慈しみがなければ。
神が本当に喜ばれるものにはならないのです。
では、その神が求める「慈しみ」とは何でしょうか。
私たちは、その答えを主イエスご自身の中に見ることができます。
今日の福音書で主イエスは、徴税人マタイを招かれました。
また、罪人たちと共に食事をされました。
さらに、長く病に苦しんだ女性を癒やし、ある指導者の娘を生き返らせてくださいました。
主イエスは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。
自分は正しいと思い込んでいる人ではなく、自分の弱さを知り、神の慈しみを必要としている人のもとへ来られたということです。
見捨てられ、苦しみの中にいた人々に近づき、主イエスは深い慈しみを示されたのです。
もしこれが慈しみでなければ、いったい何が慈しみでしょうか。
そして、その慈しみの歩みは、ついに十字架へと向かいます。
主イエスは、私たちの罪をすべて背負い、ご自身を「最高のいけにえ」として十字架の上に献げられました。
それは、ただ神をなだめるための、冷たい宗教的儀式ではありません。
むしろ主イエスの十字架は、神がこの世界を救おうとされた、その限りない慈しみの現われでした。
主イエスは、その生涯と命のすべてを通して、神の慈しみを私たちに示してくださいました。
そしてその慈しみは、今もなお、ここにおられる私たち一人ひとりに向けられているのです。
たとえ、どれほど多くを教会に献げたとしても、困っている人に無関心であるなら。
たとえ、どれほど美しい賛美を歌ったとしても、その口で人を傷つけているなら。
それは、神が本当に喜ばれるものにはならないのです。
私たちが毎週こうして集まるのは、宗教的な義務や務めを果たすためではありません。
ここは、主イエスが私たちの日々の重荷を降ろし、慈しみで満たし、新しく生かしてくださる「命の現場」なのです。
私たちはここでみ言葉に耳を傾け、聖餐にあずかります。
主の慈しみを受け取った私たちは、ここから再び、それぞれの現実へと遣わされていきます。
行事を終えて帰るのではなく、主と共に歩む新しい一週間を、ここから始めるのです。
主イエスは、「行って学びなさい」と言われます。
頭で聖書の知識を詰め込むだけではなく、あなたの生きる現場で学びなさい、ということです。
家庭に帰って、学びなさい。
学校や職場へ行って、学びなさい。
人との関わりの中で、日々の生活のただ中で学ぶのです。
そこで何を学ぶのでしょうか。
主イエスが示してくださった「慈しみ」を学ぶのです。
私たちの教会が、先日祖国マレーシアへ帰られた王さんと共に歩んできた日々も、主が教えてくださった慈しみを学ぶ歩みの一つであったのではないでしょうか。
そして何よりまず、自分自身が主の慈しみによって生かされ、赦されている存在であることを忘れないこと。
その喜びを土台として、弱っている人に目を向けること。
失敗した人を切り捨てないこと。
小さな愛を惜しまないこと。
裁くよりも、寄り添うことを。
傷つけるよりも、慰めることを。
見捨てるよりも、共に歩むことを。
「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない。」
神が喜ばれるのは、形式だけの信仰ではありません。
主の慈しみを受けた私たちが、それぞれの場所で、その慈しみを生きていくこと。
その目立たなくとも真実な歩みこそが、神が最も喜ばれる「生きた礼拝」なのです。
「慈しみ」を学ぶ旅に、終わりはありません。
私たちは明日からもまた、失敗したり、「正しさ」を振りかざして誰かを裁き、傷つけてしまったりすることがあるでしょう。
しかし、そのたびに、主イエスの「行って学びなさい」という招きを思い出してください。
主イエスは、完璧な人を求めておられるのではありません。
不完全なまま主の慈しみにすがろうとする私たちを、喜んで受け入れてくださいます。
この一週間も、主があなたと共に歩んでくださいます。
主から受けたその慈しみを、あなたの隣にいる人へ、ほんの少しでも手渡していくことができますように。
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