2025年11月30日日曜日

説教《茹でガエルにならない準備》

 日課:マタイによる福音書24:37-44

   ローマの信徒への手紙13:8-14


皆さんは、「茹でガエル」という話を聞いたことはありますか?生きたカエルをいきなり熱湯に放り込まれれば、カエルは熱さに驚いて、すぐに飛び出して逃げます。しかし、常温の水に入れたまま、ゆっくり温度を上げていくと、カエルはその変化に気づかず、そのまま茹でられてしまうそうです。


この話は、私たち人間の姿をよく映し出しているのではないかと思います。私たちは日々、この世の中に身を置き、生活を楽しみながら生きています。それはまるで、少しずつ温度が上がっていく水の中にいるようなものです。もし、そのままにいれば、やがて茹でガエルになってしまうでしょう。


今日は降臨節第一主日で、教会暦の新しい一年が始まる日です。私たちは、この一年の最初の礼拝を、共に迎えています。降臨節とは、二千年前に主イエスがこの世に来られた出来事を、心に刻みつつ、約束された再びの来臨を思い起こし、その日を待ち望む準備をする期間でもあります。


しかし、なぜ準備をする必要があるのでしょうか?それは、“茹でガエル”にならないためです。私たちは何を、どのように準備すべきなのでしょうか?その答えを、今日の福音書のみ言葉から、共に受け取り、心に留めていきたいと思います。


主イエスは、ご自身の再臨について語られるとき、ノアの時代の洪水の出来事を引き合いに出されました。あの時、人々は日々の生活を楽しみ、全く危機感を持っていませんでした。しかしある日、突然雨が降り始め、みるみるうちに水かさが増して大洪水となりました。箱舟に入った者以外は、誰ひとりとして逃れることができませんでした。気づいたときには、すでに手遅れだったのです。


主イエスは、その再臨の日が、特別な前触れのある日ではないことだと教えられました。男は畑で働き、女は臼を挽く、それは主イエスの時代にありふれた、何の変哲もない日常の光景です。このごく平凡な一日の中に、思いがけず主イエスが来られるのです。


では、主イエスが来られるとき、何が起こるのでしょうか?聖書はこう語っています。まず、すでに亡くなったキリスト者たちが復活し、続いて、地上に生きているキリスト者たちと共に、雲に包まれて引き上げられ、空中で主イエスと出会うのです。(テサⅠ4:16-17)


しかし主イエスは、もう一つの厳粛な事実も示されました。畑に二人がいれば、一人は主のもとに引き上げられ、もう一人は残されます。臼を挽く二人の女のうち、一人は主のもとに引き上げられ、もう一人はその場に留まります。それはまるで、箱舟に入った者と、洪水に直面した者との違いを思い起こさせる光景でもあります。


なぜ、このような違いが生じるのでしょうか?聖書の解釈には二つの見方があります。一つは、二人のうち片方がキリスト者で、もう一人は主を信じていない者であるという理解です。もう一つは、二人ともキリスト者でありますが、そのうち一人は目を覚ましたキリスト者で、もう一人は名前だけの自称“キリスト者”であるという理解です。


私たちは前者であってほしいと願うかもしれません。しかし、どちらの解釈が正しいかを考えるより、それ以上に大切なのは、私たち自身が「目を覚まして主を待ち望む者」として、日々を生きることです。そのように生きるなら、私たちは確かに主のもとに迎え入れられるのです。


ノアは、百年近くという長い年月をかけて、箱舟を造り続けました。人々が食べたり飲んだりしている間も、ノアは箱舟を造っていました。人々がめとったり嫁いだりしている間も、ノアは箱舟をを造っていました。ノアはなぜそこまでして、箱舟を造ったのでしょうか?それは、神が洪水の到来を告げ、その準備として箱舟を造るよう命じられたからです。


もしノアが、神を信じず、神の言葉を真剣に受け止めていなかったなら、箱舟を造ろうとはしなかったでしょう。ノアは、洪水が必ず来ると確信し、与えられた使命に従い続けました。まさに信仰のゆえに、ノア自身と家族だけでなく、人類が生き延びることができたのです。


「夜のうちに泥棒が入ると分かっていたら、目を覚ましているだろう」——主イエスのこのたとえは、まさに的を射ています。私たちも、主イエスの再臨を確かに信じているなら、必ず目を覚まし、主イエスを迎える準備をするはずです。


しかし、目を覚まし続けることは、本当に簡単なことでしょうか?あれほど多くのことを直接受け取った弟子たちは、果たして目を覚ましていたのでしょうか?私たちは、思わずこう問わざるを得ません。


ゲツセマネで、主イエスは十字架を目前にし、弟子たちに言われました。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」しかし、祈りから戻ってこられた主イエスが目にしたのは、眠り込んでいる弟子たちの姿でした。主イエスは言われます。「このように、一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。」主イエスが再び祈りに戻られた時も、弟子たちはまた眠っていました。そして、三度目も同じ光景が繰り返されました。(26:36-46)


つまり、現実として、弟子たちは目を覚まし続けることができませんでした。およそ三年間、主イエスに従い、み言葉を聞き、数々の奇跡を目にしながら、それでもなお完全には目を覚ましていられなかったのです。ペトロでさえ、三度も「主イエスを知らない」と言ってしまいました。


ところが、使徒言行録を開くと、そこにはまるで別人のように変わった弟子たちの姿があります。大胆に主イエスを証しし、迫害を恐れず、命をかけて福音を語り続けています。何が彼らを、これほどまでに強く、揺るがない者へと変えたのでしょうか?


それは、主イエスの十字架と流された血、復活、そしてペンテコステの日に、天から降られ、弟子たち一人ひとりに満たされた聖霊の力です。弟子たちを変えたのは、自分たちの努力でも意志でもありませんでした。キリストの救いと聖霊の働きこそが、彼らを目覚めた者へと変えたのです。私たちもまったく同じです。だからこそ大切なのは、主イエスを信じ、聖霊の助けを求めることです。


今日の第二の朗読は、私たちにこう呼びかけています。「眠りから覚める時がすでに来ていています。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう。」使徒パウロが勧めるこの「光の武具を身に着ける」とは、すなわち、その後に続く言葉が示すように、「主イエス・キリストを着る」ということです。


しかし、私たちはどのようにして、主イエスを着るのでしょうか?それは、聖書を通して主イエスを知り、礼拝や祈りの中で主イエスと交わり、奉仕をもって主イエスに仕えるという、信仰の歩みを日々重ねていくことにほかなりません。その歩みを続ける中で、主イエスは私たちを包み、守り、導き、やがて、私たちは主イエスと「切っても切れない深い関係」を築き上げていくのです。こうして、私たちはまさに「主イエスを着る者」として歩むことができるようになります。この関係こそが、私たちが眠りから、目を覚め続けるための力の源であり、日々の信仰生活を支える揺るぎない力となるのです。


兄弟姉妹の皆さん、私たちは今、この世という水の中に身を置いて生きています。どれほど努力を重ねても、自分の力だけで、そこから抜け出すことはできません。私たちを救い出すことができるのは、ただイエス・キリストお一人です。主イエスは、約束された通り、必ず再び来られます。その時、私たちをこの水の中から、確かに救いへと引き上げてくださいます。


教会暦の新しい一年の始まりであるこの日、私たちは心を新たにしたいのです。茹でガエルにならないように、主イエスを着る者として、共に目を覚まし、信仰の歩みを進めていきましょう。

2025年11月25日火曜日

寛容

クリスマスが近づいてきました。一部の国では、他宗教を配慮し、メリークリスマスの代わりに、ハッピーホリデーと言うそうです。これは一見配寛容のあるやり方に思われますが、違うと思います。

各宗教が平等に、自分の主張が言えることの方が大切で、お互いに祝い合うことこそが寛容ではないかと思います。

2025年11月16日日曜日

説教《見えない神殿への信仰》

 日課:ルカによる福音書21:5-19

   マラキ書3:13-20b,23-24


年を重ねると、少しずつ体が思うように動かなくなっていくものです。あんなに軽かった足取りが重くなり、目も耳も昔ほど利かなくなります。風邪を引けば治りが遅くなり、体のあちこちに痛みを覚えるようになります。

また、年齢に関わらず、病気やけがを通して、かつては元気で丈夫だった自分の体が、少しずつ弱っていく現実を突きつけられることがあります。

さらに、長く連れ添った家族の病や、親しい友人の死に向き合うときにも、私たちは人生のはかなさや、頼りにしていたものの脆さをを思い知らされます


目に見える強さも、健康も、財産も、人間関係も、どれほど大切であっても、いつかは変わりゆくものです。その事実を前にするとき、私たちは「自分の拠り所は一体どこにあるのか」と改めて問われます。


今日の福音書に登場する人々も、まさに同じ問いの前に立たされていました。彼らは壮大な神殿を見上げ、その美しさと力強さに心を奪われ、「これこそ永遠に残るものだ‘」と信じていました。しかし、主イエスは言われました。「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る。」この言葉は、彼らの心の土台を大きく揺さぶりました。目に見える神殿が崩れる——それは、信仰の拠り所そのものが問われる瞬間でもあったのです。


今日、私たちは、この主イエスの言葉を通して、私たちの「信仰の拠り所」はどこにあるのかを、ご一緒に心に留めていきましょう。


ある人々が、神殿の壮大さや華やかさについて語っていました。見事に積み上げれらた石と、奉納物で飾られたその姿に、人々は息をのんで見とれていたのです。しかし、主イエスは言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる日が来る。」信仰の中心であり、民族の誇りでもあった神殿が、完全に崩れ落ちる——そんなことを誰が想像できたでしょうか?


しかし、主イエスの預言は、歴史の中で現実のものとなりました。その40年後、ローマ軍によって神殿は跡形もなく破壊され、まさに「積み上がった石が一つ残らず崩れ落ちる」日が来たのです。今エルサレムに残る“嘆きの壁”は、神殿そのものではなく、神殿を囲んでいた外壁の一部にすぎません。ユダヤの人々は、今もそこに立って、失われた神殿を思いながら、祈り続けています。


私たちは今、「さすがは神の子の言葉だ」と素直に受け止められます。しかし、当時その場で聞いた人々にとって、それはあまりにも衝撃的でした。「そんなはずがない!」「何を言っているのか!」そう叫んでもおかしくはありません。ところが、彼らは反論するどころか、主イエスに問いかけました。「そのことはいつ起こるのか?また、それが起こるときには、どんな徴があるのか?」


私たちのまわりにも、心を不安にさせる出来事が後を絶ちません。自分の衰えや病気だけではなく、自然災害、疫病、戦争、暴力、そして詐欺など、まるで心の土台を揺さぶるようなことが次々と起こります。しかし、そのような不安のただ中で、主イエスは今も語られます。「惑わされないように気をつけなさい。」「付いて行ってはならない。」「おびえてはならない。」。


恐れや不安に押し流されるのではなく、神を信頼して立ち続けるようにと、主イエスは呼びかけておられます。「私の名のために、すべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。」この言葉には、深い慰めと確かな約束が込められています。信仰のゆえに苦しむことがあっても、神の守りは決して途切れることはありません。どんな状況に置かれても、神はそのみ手を離されることはないのです。


そして、主イエスは最後にこう締めくくられました。「忍耐によって、命を得なさい。」実際、使徒ヨハネを除くほとんどの弟子たちは殉教の死を遂げました。しかし、彼らは忍耐できなかったのではありません。主イエスが語られた「命」とは、肉体の命のことではなく、苦難や試練のただ中で、なお生き続ける信仰の命、永遠の命のことです。


どんなに立派で、輝かしい建物も、いつかは崩れ落ち時が訪れます。建物だけではありません、教役者もまた、時とともに代わり、やがてその務めを終える日が来ます。目に見えるものに頼る信仰は、一見確かに見えても、実はとても脆く、危ういものです。私たちの信仰の拠り所は、石でできた建物ではなく、移り変わる教役者でもなく、永遠に崩れることのない真の神殿、代わることのない大牧者——主イエス・キリストです。


ルカは詳しく触れていませんが、マタイとマルコによる福音書から分かるように、主イエスが神殿の崩壊について語られた時、その言葉に問いかけたのは、他ならぬ弟子たちでした。弟子たちは主イエスに従い、その教えを聞き、その行いを見つめながら、3年間を共に行動し、強い絆を築き上げました。弟子たちは、何よりもまず、主イエスご自身を信頼していたのです。


では、皆さんはどうでしょうか?皆さんも主イエスを信じ、主イエスが語られたことについて、心から信じているでしょうか?もし、「世界の終わりが近い」と聞かされたら、どうすれば惑わされないでいられるでしょうか?もし誰かが、「これこそ本当のキリストだ」と言って誘って来たら、どうすれば真実を見極め、付いて行かずにいられるでしょうか?また、この不安や混乱に満ちた時代の中で、どうすれば、おびえずに、平安を保つことができるでしょうか?


惑わされないためには、しっかり聖書を読み、聖書を学び、神のみ言葉を心に刻むことが大切です。聖書の中で、神の真理を知るとき、私たちは世のざわめきに左右されにくくなります。また、付いて行かないためには、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、礼拝や祈りを通して、神の声に耳を傾け、神ご自身と直接心を通わせることです。さらに、奉仕をもって神に仕えるとき、私たちは“知識としての信仰”から、“生きた信仰”へと導かれます。このようにして、神との関係を育み、信仰を深めていくとき、どんな危機や試練に直面しても、私たちはおびえることなく、主のみ手の中にある確かな平安を感じることができるのです。


今日の第一の朗読、マラキ書には、こう記されています。「かまどのように燃える日が来る。傲慢な者、悪を行う者はすべてわらになる。その日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。しかし、私の名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。その翼には癒しがある。」


このみ言葉は、神の厳しい裁きを語ると同時に、神の救いの癒しを告げておられます。確かに、私たちの生きるこの時代は、不安や混乱に包まれ、闇のただ中にいます。しかし、神を畏れ、神を信じる者には、“義の太陽”が必ず昇り、希望の光が闇を破るのです。


主イエスは言われました。「あなたがたの髪の毛一本も失われることはない。」この約束こそ、変わりゆく時代の中にあっても決して揺らくことのない、神の確かな保証です。だからこそ、惑わされず、おびえず、忍耐をもって、主イエスにより頼み続けましょう。その先には、神ご自身が備えてくださった永遠の命が待っておられます。

2025年11月8日土曜日

初穂

 

皆さんの中で、果樹を育てたことがある方はいらっしゃいますか?小さな苗木を土に植えて、水をやって、肥料を施し、しかし、どれだけ手間ひまをかけて大事に育てても、すぐには実を結ばないこともあるのです。次の年、その次の年、その次の次の年、枝は伸びて、葉は茂るものの、実の気配がまったく見えないとしたら、「この木は、本当に実を結ぶのだろうか」と、疑問や不安が押し寄せてくるでしょう。

 

しかし、ある年、ふと枝先に小さな蕾が見えて、やがてそれが花となって、そしてついに、小さな実が結ばれました。その瞬間、「この木は、実を結ぶ木だったのだ」と大きな喜びと確信へと変わるでしょう。この最初に実った実、それがいわゆる初穂なのです。そして、初穂が実ったということは、やがて続く豊かな実りが必ずやって来るというしるしでもあります。

 

キリストは「眠っている者の初穂」と呼ばれていました。私たちすべての人は、人生の終わりに「死」という現実に向き合わなければなりません、これは誰にも避けて通れない道です。しかし、その道の先に終わりではなく、始まりがあります。キリストは死を打ち破って、その初穂として、死人の中からよみがえられました。キリストの復活は、そのことを力強く証しています。

2025年11月6日木曜日

信じる

 人間の力で、神を信じることはできません。

しかし、信じようとする決心ができます。

2025年11月4日火曜日

 天の神様につながる道は主イエス一本のみ、しかし、主イエスはあらゆる道に行かれ、人びとを天の神様に導かれます。

2025年11月2日日曜日

説教《今日、救いが訪れる》

 日課:ルカによる福音書19:1-10


人生の中で、どうしても変えられない自分の弱さや過ちに悩んで、救いを求めたことはありませんか?教会では、「救い」という言葉をよく耳にします。しかし、この「救い」とは、一体何でしょうか?単に「罪が赦されること」でしょうか?それとも「将来、天国に行けること」でしょうか?私たちは「救われたい」と願いながらも、その「救い」が自分の人生に、どう関わっているのか、はっきり理解できていないのかもしれません。皆さんは、救いをどのように受け止めていますか?


二千年前、ザアカイという一人の男に、思いがけない形で、救いが訪れました。富にしがみつき、人々から嫌われて生きていた男です。しかし、主イエスとの出会いが、彼の人生を根底から変えてしまったのです。


今日の福音書のこのザアカイの物語を通して、救いとは何か、そして、ザアカイはどのように救われたのか、その答えを、一緒探していきましょう。


エリコの町に住むザアカイは、徴税人の頭でした。当時の徴税人は、単に税金を取り立てるだけではなく、自分たちの取り分も上乗せして徴収していました。その徴税人たちを取りまとめていたザアカイは、さらに部下からも手数料を取って、莫大な富を築いていたのです。徴税人は外国の支配者であったローマ帝国に協力して、自国民から金を巻き上げる裏切り者で、罪人だと見なされていました。その中でも、頭であるザアカイは、まさに罪深い人でした。


そんなザアカイは、どこかで主イエスの噂を耳にしていたでしょう。自分と同じ徴税人を弟子に迎えられたイエス、罪人と呼ばれた人々と共に食事をされたイエス、病人や貧しい人々を癒されたイエス、そのようなイエスとは、一体どんな人なのか、ザアカイには、強い関心が芽生えたのです。


そのイエスが今まさに、エリコに入られて、町を通っておられます。ザアカイは、主イエスを一目見ようとしました。しかし、彼は背が低くて、群衆に遮られて見ることができませんでした。それでもザアカイはあきらめることなく、走って、主イエスが通られるであろう道を先回りして、いちじく桑の木に登りました。主イエスの姿が見られることに、望みをかけたのです。


主イエスが、ザアカイのいる木の下にさしかかられると、立ち止まって、上を見上げてこう言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」それは、ザアカイにとって、まったく思いもよらない呼びかけでした。人に嫌われ、避けられ、生きてきた自分の名前を、主イエスが呼んでくださいました。その瞬間、ザアカイの心の中で、何かが動かされたようです。


主イエスがどのようにして、ザアカイのことを知っておられたのか、それは分かりません。しかし、確かなのは、主イエスのほうがザアカイを捜しに来られたということです。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」主イエスははっきりとこう語られたのです。この「失われたもの」とは、神から離れて、神との関係を見失ってしまった人のことです。ザアカイは、まさに富によって、失われたものとなったのです。ザアカイがイエスを捜したのではありません。主イエスがザアカイを捜されたのです。そして、私たち一人ひとりもまた、主イエスによって、見出されたものなのです。


本来、天の高きところにおられ、世の人々を見下ろすキリストでした。しかし、へりくだって、この世に来られ、失われたものを捜してくださいました。今度は、世の人々を見上げるものとなられたのです。その主イエスが上を見上げて、ザアカイに言われたのは、「今日は、あなたの家に泊まることにしている」という明確な意思表示です。それはいつかではなく、“今日”という日です。“今日”でなければならないのです。なぜなら、主イエスは翌日、エルサレムへ向けて、人生最後の一週間となる十字架の道を歩んでしまうからです。


その一方、木の上にいるザアカイは、まさに富によって、他の人より“高い”立場に置かれている彼の姿を表しているのかもしれません。ちなみに、パレスチナのエリコ市内に、今も「ザアカイの木」と呼ばれるいちじく桑の木があります。背の低いザアカイにとって、この居場所は心地よい場所たったはずです。しかし彼は、主イエスの呼びかけに応えて、その高いところから、“降りる”決断をしました。それは、彼が“過去の自分”から降りた瞬間でもあったのです。


ザアカイは急いで木から降りて、喜びに満ちて、主イエスを自分の家に迎え入れました。すると、ザアカイの口から誰もが耳を疑うような言葉が飛び出しました。「財産の半分を貧しい人々に施し、誰からでもだまし取った物は、四倍にして返します。」と言い出したのです。主イエスに出会い、主イエスに受け入れられたザアカイの心に真の悔い改めといのちの変化が生じたのです。

「今日、救いがこの家に訪れた。」主イエスははっきりとザアカイの救いを告げられました。主イエスはかつてこうも語られました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」それを聞いた人々は「それでは、誰が救われることができるのか。」と戸惑って、主イエスは答えられました「人にはできないことも、神にはできる。」(18:25-27)ザアカイの救いは、まさにこの言葉の生きた証です。


かつて、富にしがみついて、罪深い生き方をしていたザアカイが、神の恵みによって、金銭の支配から解放され、愛と正義を実践する者へと変えられたのです。ザアカイは過去の自分ではなく、新しく生まれ変わった者として、そして、救いにあずかった者として、一歩を踏み出したのです。ザアカイを救ったのは、彼自身の努力ではなく、ただ神の恵みによるものでした。


ザアカイはもはや失われたものではなく、いのちを得たものとなりました。そして、「救いがこの家に訪れた」と言われたのは、ザアカイ自身にとどまらず、やがて、その家族にも、神の救いが及ぶことを示されています。神の恵みは一人を通して、その周りに広がっていくのです。


主イエスがザアカイに告げられた「あなたの家に泊まることにしている。」という言葉は、私たち一人ひとりにも向けられています。主イエスは私たちの「心の家」に入ろうとしておられます。主イエスが私たちの家に泊まられることは、主イエスが私たちのいのちの中に住まわれるということです。


ザアカイが木から降りたように、私たちも自分の欲望や執着という「高い木」から、勇気をもって降りてください。そして、主イエスを心の家に迎え入れましょう。主イエスをお迎えするとき、私たちは少しずつ解放され、ザアカイのように、新しいいのちへと変えられていきます。それは、神に対しても、人に対しても、より深く、より豊かに愛するようになっていくのです。


このいのちの変化は、一瞬で起こるものではありません。日々の生活の中で、聖書のみ言葉を通して神を知り、礼拝と祈りを通して神と交わり、そして、奉仕を通して神に仕えるうちに、少しずつ神との関係が深まっていきます。その深まりの中で、私たち自身が変えられていきます。その変化はやがて、周りの人々にも及び、そこに新たな救いの恵みが広がっていくのです。


救いとは、単に「罪の赦し」や「天国への約束」ではありません。主イエスとの出会いを通して、今この世で新しくされ、神を愛し、人を愛する心が育まれていくことです。そこにこそ、真の救いがあります。


主イエスは、今日も失われた者を捜して、救いへと導いておられます。ザアカイに起こった出来事は、決して遠い過去の物語ではありません。今も、ここで、あなたの心のうちに起こり続けています。主イエスは語っておられます、私の口を通して語っておられます。「今日、あなたの家に泊まることにしている。」


兄弟姉妹の皆さん、どうか、この“今日”という恵みの時に、主イエスをあなたの心の家に迎え入れて、新しい人生の始まりの日にしませんか?