小さなことに忠実であれば、大きな試練に直面した時、神はあなたに恵みを与えてくださいます。
2026年1月22日木曜日
2026年1月18日日曜日
説教《主のもとに泊まる》
日課:ヨハネによる福音書1:28-42
皆さんは今日、どのような思いを胸に、この教会に来られたでしょうか?私たちは日々の生活の中で、意識しているかどうかに関わらず、何らかの「目的」を抱いて行動しています。学校で学ぶのは、知識を身につけるためです。働くのは、生活を支えるためです。
では、私たちは何を求めて、主イエスに従っているのでしょうか?主イエスに従うことで、私たちは何を期待し、何を願っているのでしょうか?安心でしょうか?癒しでしょうか?それとも、今の抱えている苦しみからの解放でしょうか?
しかし、もし私たちが、主イエスを「自分の願いをかなえてくださる方」としてのみ求めているとしたら、その願いが思い通りにならないとき、私たちはたやすく失望してしまうかもしれません。
今ここで、少し立ち止まって、自分自身に問いかけてみてください。あなたは、主イエスに何を求めて、この教会に来ているのでしょうか?
ヨハネによる福音書で、主イエスが最初に語られた言葉は、「何を求めているのか」でした。洗礼者ヨハネは、自ら洗礼を授けた主イエスを見かけ、そばにいた二人の弟子にこう告げます。「見よ、神の子羊だ。」その言葉を聞いた二人は、主イエスの後について行きました。すると、主イエスは振り返り、彼らを見つめて、こう問いかけられました。「何を求めているのか」。
考えてみてください。このとき、主イエスには、ほかにいくらでもかける言葉があったはずです。「こんにちは」と挨拶することもできたでしょうし、「なぜ、ついて来るのか?」「何か困っているのか?」と尋ねることもできたでしょう。
それでも主イエスは、この問いを選ばれました。それは、信仰の強さを測るための問いではありません。立派な答えを引き出すための問いでもありません。むしろ、自分でも気づいていない、心の奥の願いに目を向けさせる問いです。
この問いは、決して二千年前、その場にいた二人だけに向けられたものではありません。主イエスの後を歩もうとするすべての人、一人ひとりに投げかけられている問いです。
私たちもまた、それぞれの思いを胸に、主イエスの後を歩もうとしています。信仰に確信をもって歩んでいると感じるときもあれば、迷いや不安の中で、ただ後ろについて行っているだけのように思えるときもあるでしょう。
しかし主イエスは、そんな私たちの歩みをも振り返り、一人ひとりを見つめ、今日も同じ問いを投げかけておられるのです。「何を求めているのか」。
この問いに向き合うために、あらためて、洗礼者ヨハネの言葉に導かれて、主イエスの後について行った二人のことを、もう一度思い起こしてみましょう。彼らが主イエスに従ったのは、洗礼者ヨハネが、主イエスを指してこう告げたからです。「見よ、神の子羊だ。」では、「神の子羊」とは、いったい何を意味するのでしょうか?
当時、人々は罪の赦しを願い、子羊をいけにえとして神に献げていました。その小羊は、自分自身の罪を贖うために、一人ひとりが備えるものでした。しかし、洗礼者ヨハネが指し示した主イエスは、人が備えた小羊ではなく、神ご自身が備えられた小羊そのものです。だからこそ、主イエスは「神の子羊」と呼ばれるのです。
人が備える小羊が贖えるのは、限られた一人ひとりの罪に過ぎません。しかし、神が備えられたこの小羊は違います。主イエスは、ただ一人のためではなく、世の罪を除くために来られた、まことの神の子羊なのです。
「何を求めているのか」。この問いの前で、私たちはやがて、気づかされます。世の罪を除く神の子羊である主イエスご自身が、すでに私たちに与えられていることを。そして、この方のほかに、真に求めるものは何もないということを。
私たちが主イエスに従うのは、何かを得るためではありません。私たちが主イエスに従うのは、主イエスが、私たちの罪を背負い、私たちの罪を取り除く、神の子羊だからです。
少し前に、主教宛に行われた個別アンケートの中に、「教会に何を求めているのか?」という問いがありました。そこには、神に近づきたいという願い、信徒同士の交わりを大切にしたいという思い、心の安らぎを求める声、そして、誰にとっても安心していられる場であってほしいという、多くの切実な声が寄せられていました。
では、これらの願いは、どのようにして実現されるのでしょうか?そのカギとなるのは、主イエスのもとに「泊まる」ことです。今日の福音書で、二人の弟子は主イエスのもとに泊まりました。ここで言われている「泊まる」とは、ただ一時的に立ち寄ることではありません。そこにとどまり、主イエスとの関係の中に生きることを意味しています。
昨年から、手芸の会やお花クラブの活動の中に、聖書の朗読や祈りを取り入れてきました。そして今年は、聖書の学びの機会をさらに充実させていきます。こうした取り組みを行うのは、私たち一人ひとりが、神の子羊である主イエスのもとに泊まるためです。教会の中心に、いつも主イエスがおられること——それこそが、何よりも大切なのです。
今日の福音書で、迷いながら歩む二人に、主イエスはこう言われました「来なさい。そうすれば分かる」。この言葉は、今も私たち一人ひとりへの招きです。その招きに応え、主イエスのもとに泊まるとき、私たちは、神の子羊である主イエスを、知識としてではなく、いのちとして本当に知るようになるのです。
主イエスのもとに泊まるとき、私たちは変えられていきます。シモンが主イエスによって、「岩」と名付けられ、後に使徒ペトロとされたように、私たちもまた、主イエスとの交わりの中で、少しずつ、しかし確かに変えられていくのです。そして、私たち一人ひとりが変えられていくとき、教会もまた、変えられます。
教会は、神に近づく場となり、信徒同士が心を通わせる場となり、真の安らぎを見い出す場となり、そして、誰もが安心して、身を置くことのできる場となっていくのです。
今日も主イエスは、私たち一人ひとりを招いておられます。「来なさい。そうすれば分かる。」その招きに応え、行きましょう。主イエスのもとに泊まりつつ、神の子羊である主イエスと共に、今週の歩みへと遣わされていきましょう。
2026年1月14日水曜日
黙想会での諭し
黙想会で、今後信徒さんをどう導いていくのかを神さまに問いました。低木の樹のところに導かれ、その樹の枝に、ところどころに葉っぱが残っています。信徒さんがまさにこの樹のようだと嘆きます。葉っぱが残っている人もいれば、葉っぱが落ちてしまう人もいます。
しかし、ふと下を見て、すべてが一つの根っこにつながっています。私に何を教えたいのだろうかとさらに黙想しました。ある一つのことが分かりました。
春になれば、葉っぱが出てきます。でなくても、その樹につながっている限り、必ずいつかは出てくるでしょう。葉っぱを出させるのは、私の役目ではありません。私は枝をその樹から断ち切らないようにすることだけに集中すればいいのです。
2026年1月10日土曜日
2026年1月1日木曜日
説教《神は救い》
あけましておめでとうございます。新しい年の初めに、私たちは主イエスの“割礼”と“命名”という、二つの大切な出来事を覚えます。ユダヤの習慣では、生まれて八日目に男の子に割礼が施されます。主イエスもまた、人としてこの世に生まれ、律法に従って、割礼を受けられました。
元旦は、ちょうど主イエスの降誕から八日目にあたります。この日、救い主に「イエス」という名前が正式に与えられました。
私たち一人ひとりもまた、生まれたときに名前を与えられてきました。その名前には、きっと家族の思いや願いが込められているでしょう。「健やかに育ってほしい」「人を思いやる人になってほしい」、親は子どもに名前を付けるとき、その子のこれからの人生に希望を託すのです。
では、「イエス」と名付けられたこの幼子には、どのような使命が託されていたのでしょうか?新しい年の始まりにあたり、この御名に込められた神のみ心を、私たちもしっかりと受け止めていきたいと思います。
聖書によれば、「イエス」という名前をお与えになったのは、母マリアでも、父ヨセフでもありません。父なる神ご自身です。マリアが身ごもったその時すでに、その子を「イエス」と名付けるように告げておられました。では、なぜその名前は「インマヌエル」ではなかったのでしょうか?というのも、神はすでに預言者イザヤを通して、「おとめが身ごもって男を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタ1:23)と約束しておられたからです。
ここで注目すべき大切な点があります。「インマヌエル」は、“付けられる名前”というより、“呼ばれる名前”だということです。インマヌエルとは、「神は私たちと共におられる」という意味で、これは、人間の側から見た救い主の姿を表しています。つまり、人々は、この方の存在そのものを通して、確かに「神は私たちと共におられる」という現実を見い出すのです。
一方、「イエス」という名前は、ヘブライ語で「神は救い」の意味を持ちます。この名前は、神の側から示された救い主の本質と使命を表しています。つまり、独り子が地上に遣わされた目的は、人を罪と死から救い出すという、神の確かなみ心にありました。その神の救いのご計画が、「イエス」という名前に込められているのです。
多くの人は、全能の神であれば、「光あれ」と言われたときに光があったように。救いもまた一瞬で実現できるのではないかと考えます。そのため、人は、自ら救いを得ようとして、さまざまな手段を試み、善い行いに励み、努力を重ね、「神に喜ばれる者にならなければ」と思い込んでしまいます。
しかし、神の救いの道は、人間の想像をはるかに超えるものでした。「イエス」と名付けられた神の子は、まことの神でありながら、あえて人となられ、人間の姿で現れ、私たちと同じ世界のただ中に来られました。病気の人を癒し、失われた者を捜し、罪人に手を差し伸べ、ついに、すべての人の罪を負って、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活されました。
その全生涯こそが、「イエス」、すなわち「神は救い」という御名の意味を、余すところなく示しているのです。
主イエスが弟子たちに祈りを教えておられたとき、最初に口にされた言葉は、「み名が聖とされますように」でした。祈りの冒頭にこの願いが置かれていることは、神の御名がいかに尊く、中心的なものであるかを示しています。
今日の旧約聖書、民数記においても、神の御名こそが祝福の源であることが語られています。神は「私の名をイスラエルの人々の上に置くとき、私は彼らを祝福するであろう。」と約束されました。神の御名には、人を守り、照らし、恵みを注ぎ、そして、平和を与える力があるのです。
そして、今日の使徒書、フィリピの信徒への手紙は、神が主イエスを高く上げ、「イエス」という名前を、いかなる名前にもまさる名前としてお与えになったと告げています。それは、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、この御名の前にひれ伏し、イエス・キリストを主と告白するためでした。
このように、「イエス」という名前は、決して単なる呼び名ではありません。その御名には、天地創造の初めから決して変わることのない神のみ心と、人間への計り知れない愛が深く込められています。だからこそ私たちは祈るとき、「イエスの御名によって」祈るのです。この尊い御名は、確かに私たちを父なる神ご自身へと結び付けてくれるのです。
兄弟姉妹の皆さん、新しい年の初めにあたる今日、私たちはもう一度、「イエス」と名付けられた救い主を、心に迎えたいと思います。
自分の力では救うことのできない私たちのために、神はその独り子を世に遣わし、「イエス」という御名を与えて、そのみ心を明らかにされました。この御名を呼ぶとき、闇の中に光が灯され、私たちの内に新しい希望が芽生えます。
だからこそ、この一年も、私たちはこの「イエス」という御名を繰り返し呼びながら歩んでいきましょう。この御名と共に始まり
、この御名に支えられ、この御名に導かれて歩む一年としましょう。