2025年8月31日日曜日

説教《どの席に座りますか?》

 日課:ルカによる福音書14:1,7-14

   シラ書10:12-18


私は日本で結婚式と披露宴を挙げました。結婚準備で、私が特に戸惑ったのは「席次」のことでした。日本では、家族や親戚は新郎新婦から一番遠い下座に座るのが礼儀です。ところが、マレーシアでは逆に、親と兄弟姉妹の家族は新郎新婦と一緒に座るのです。国や文化が違えば、席次を含む礼儀作法も大きく違うのだと、改めて実感しました。


二千年前においても、宴会での席次は人々にとって大きな意味を持っていました。今日の福音書では、一見すると、主イエスは席次をはじめ、宴会での主人と客のことを教えておられるように見えるかもしれません。しかし、それはあくまで表面的な理解にすぎません。その言葉の背後には、もっと深い真理が隠されているのです。その真理とは何なのか、これからご一緒に聖書を通して探っていきたいと思います。


主イエスは、ファリサイ派のある議員の家に招かれて、食事の席に着かれました。そこで招かれた他の客たちがやたらと上座を選んでいるのをご覧になって、次のようなたとえ話を語られました。「結婚披露宴に招かれたとき、いきなり上座に座ってはならない。もし自分よりも地位の高い人が来て、主人から席を譲るように言われたら、恥をかくことになるから。むしろ最初は下座に座って、主人から上座へ勧められたら、かえって面目を得ることになるだろう。」


主イエスの時代においても、また現代においても、席次は人の地位を象徴しています。案会で上座を選んだあの客たちは、自分は高い地位にあって、他人より優れていると考えていたのです。現代を生きる私たちはどうでしょうか。肩書き、経歴、成果などといったものにとらわれて、知らず知らずのうちに、「自分こそ上座にふさわしい」と思い込んでしまうことはないでしょうか。


それから、主イエスは食事会に招かれた主人に向かって「食事会を開くときは、自分にお返しができそうな人たちではなくて、むしろお返しのできない人たちを招きなさい。」と語られました。


当時の社会では、食事会は単なるもてなしの場ではなくて、人脈を築き、影響力を強めるための手段でした。そのため、主催者は自然に見返りを期待したのです。この構図は現代の社会も同じです。何事をするにしても、見返りを求め合って、利益を最優先にしてしまうのです。


実は、主イエスが語られたこれらのことは、単なる宴会での礼儀作法のことではありません。新しい道徳倫理を教えたのでもありません。神の国の到来によってもたらされた福音です。


ファリサイ派は、自分たちがアブラハムの子孫、神に選ばれた民であることを自負していました。そのため、誰もが上座に座るのは、当たり前だと考えていたのです。そして、自分たちこそが救われる共同体と信じていました。だから、あまり他の人たちとは付き合いませんでした。


主イエスはファリサイ派の客と主人にそれぞれ語られた言葉の締めくくりにおいて、極めて重要なことを示されました。客に対しては「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と、そして、主人に対しては「お返しを求めなければ、正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」と告げられました。


主イエスは、ファリサイ派の人たちに対して、このまま高ぶるなら、神の国において、低くされてしまうと警告されました。一方で、ユダヤ人でなくても、へりくだって、主イエスを受け入れるなら、その人は高められ、神の民として迎え入れられるのです。今日の第2の朗読であるシラ書でも、「主は、支配者たちの玉座を打ち壊し、代わりに、謙遜な人々をその座に着けられた。」と同じことが書いてあります。そして、お返しのできない貧しい人や体の不自由な人を迎え入れる者は幸いな者で、そのような見返りを求めない行為は、今の世では報われないかもしれません。しかし、正しい人たちが復活するとき、すなわち世界の終わりの日に、必ず報いを受けることでしょう。


神の国において、へりくだる心こそが尊ばれます。下座に座ることは、単なる礼儀作法ではなくて、他人を自分より優先しようとする心の表れで、神ご自身の祝福が伴うと約束されています。そして、利益を超えて、見返りを求めない愛こそが、神の報いへとつながっていきます。


主イエスは、栄光の御子でありながら、人となられて、貧しい人や罪人の友だちとなってくださいました。そして、十字架において、へりくだって私たちに命を与えてくださいました。本来、私たちは神の恵みに値しない者であるにもかかわらず、主イエスは何の見返りも求めず、私たちを神の国へと招いてくださったのです。そして、まさに主イエスご自身の言葉通り、「へりくだる者は高められる」ことが実現されました。神は主イエスを高く上げ、最高の尊厳と権威をお与えになったのです。(フィリ2:6-9)


兄弟姉妹の皆さん、キリスト者として私たちは、世の常識や価値観に流されるのではなくて、神の視点に立って生きることが求められているのです。その生き方とは、へりくだる心と、見返りを求めない愛に根ざしたものです。主イエスはご自身の生涯を通して、その愛を具体的に示してくださいました。だからこそ、この愛に触れた私たちも、日々の生活の中でへりくだる心を大切にして、見返りを求めない愛を実践していくことができるのではないでしょうか。


私はここに来ていきなり皆さんに「先生」と呼ばれていますが、違和感は全くありませんね。なぜなら、以前学校の先生をしていたから、「先生」と呼ばれることに慣れています。しかし、皆さんが私を「先生」と呼んだのは、私が学校の先生だと知っているからではなくて、聖職であるという立場だからでしょう。一般的にそう受け取られるかもしれませんが、私は違う見解を持っています。聖職者が「先生」と呼ばれるのは、信徒を教えるから、信徒に仕えるからです。へりくだるからこそ、「先生」と呼ばれるのです。「先生」と呼ばれるにふさわしい者となるために、どうか皆さんに教える、仕えるチャンスをいっぱい与えていただけるように願っています。


信徒と神職が教会における“自身の席”、すなわち立ち位置をどのように理解しているかは、教会の成長を大きく左右する要因だと考えています。もし、教会は単なる宗教施設、主日礼拝を行う場所だけだと捉えるなら、どうしても聖職が教会の中心になりがちです。しかし、それは本来の教会の姿ではありません。教会が教会であるためには、信徒一人ひとりは決して受け身であってはなりません。むしろ、自らの賜物と使命を自覚して、教会という共同体を豊かにする責任があるのです。


いつも下座に座っている兄弟姉妹の皆さん、教会の主人である主イエスは、皆さんを「もっと上座にお進みください。」と招いておられます。


今日の福音書では、宴会の出来事を通して、私たちにとても大切な真理を示してくれました。それは、キリスト者としての生き方を問い直して、この世の常識や価値観にとらわれず、へりくだる心と、見返りを求めない愛を実践するよう招かれているのです。


私たちはこの招きに応え、日々の生活の中で、一歩を踏み出して、少しずつ形にしていくとき、教会は真にキリストの体として成長して、福音の光を世界に証しする共同体となっていきます。


兄弟姉妹の皆さん、どうか私たち一人ひとりが、へりくだる心と見返りを求めない愛をもって、人に仕える者となりましょう。その先には、神ご自身が備えてくださった御国の祝宴が待っておられます。私たちはそこで招かれて、永遠の喜びにあずかるのです。


2025年8月28日木曜日

信徒の責任

  信徒と神職が教会における“自身の席”、すなわち立ち位置をどのように理解しているかは、教会の成長を大きく左右する要因だと考えています。もし、教会は単なる宗教施設、主日礼拝を行う場所だけだと捉えるなら、どうしても聖職が教会の中心になりがちです。しかし、それは本来の教会の姿ではありません。教会が教会であるためには、信徒一人ひとりは決して受け身であってはなりません。むしろ、自らの賜物と使命を自覚して、教会という共同体を豊かにする責任があるのです。

2025年8月25日月曜日

洗礼について

先日、あることを聞かれました。” 主イエスを信じるが、洗礼しないとどうなるのか?”

私は疑問に思いました。主イエスを信じるのに、洗礼しない人はどういう人でしょう?

私にとって、信じて、洗礼することはごく自然なことです、洗礼はその一連の過程の一部に過ぎません。ですので、洗礼しない理由は思い浮かびません。

しかし、突然、その理由は分かったような気がしました。一般の人にとって、洗礼はいわゆるキリスト教の入信に当たる儀式で、洗礼することによって、キリスト教の信徒になるということです。だからなんとなく躊躇することが理解できます。すなわち、キリスト教を宗教として捉えているので、自分がこれから宗教の一員になることの不安など、どっかにあるのではないかと思います。

これは全くの違いで、創造主である神、その独り子主イエスを信じて、主イエスと共に死に、復活する決心が洗礼の表れです。洗礼は、決して入信の儀式ではありません。

ですから、主イエスを信じるが、洗礼しない人は、本当に主イエスが唯一の神である創造主であることを信じるのか?

2025年8月20日水曜日

神さまに目を向ける

 ヤコブには十二人の息子がいて、そのうちのユダがイエスの先祖となりました。どうしてこの4男のユダが祝福されたのでしょうか?一般的に長男のルベンが父の側女と寝て、次男シメオンと三男レビが人を殺したから、それに次ぐ四男のユダが祝福されたと理解されています。

しかし裏に深い理由がありました。ヤコブはレイチェルを愛し、レアには目も留めませんでした。彼女は一、二、三人目の子どもを産むときに、それによって、夫のヤコブが自分に目を向けることを期待していました。しかし、ユダを産んだ時、彼女はヤコブではなく、”今度は、私は主をほめたたえます”と神に目を向けました。

これはユダが祝福された本当の理由だと思います。神さまに目を向けると、必ず祝福されます。

2025年8月17日日曜日

説教《平和をもたらす火よ燃えろ》

日課:ルカによる福音書12:49-56

   エレミヤ書23:23-29


広島と長崎への原爆投下、そして敗戦記念を覚えて、教会ではそれぞれ6日、9日、そして15日の三日間に、平和への願いを込めて、鐘を鳴らしました。8月は特に平和のために祈る期間として、教区事務所からも「平和の祈り」の冊子を作成されました。8月に限らず、私たちは世界の平和のために毎週の主日に祈っています。しかし、今もなおロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナをはじめ、いくつかの地域は戦争状態にあります。国連は今年で創設80周年を迎えました、にもかかわらず、一向に世界の平和は訪れていません。


キリスト者として、私たちは世界の平和を主イエスに委ねて、絶えず祈り続けています。ところが、今日の福音書には、思わず戸惑いを覚えます。なんと主イエスは地上に平和のためではなくて、むしろ分裂のために来たとまで言われました。これは非常に衝撃的な言葉です。キリスト者なら誰もが主イエスは平和のために、この世界に来られたとずっと信じてきたからです。このことの真意は一体何なのか、一緒に探っていきたいと思います。


主イエスは、平和をもたらすためではなく、むしろ分裂のために来たと言われました。主イエスが来られたことで、家族は対立して分かれることになってしまうということです。


主イエスが人々に選択を求められます。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。」(マタ10:37)主イエスを選ぶ人とそうでない人の間に、時に深刻な対立が生まれて、家族の分裂につながります。実はこのような状況について、旧約聖書のミカ書にはすでに預言されていました。「息子は父を侮り、娘は母と、嫁はしゅうとめと対立する。人の敵は家の中の者である。」(ミカ7:6)これは世界の終わりに起こる混乱の様子を描いたものです。


誰も家族の分裂なんか望んでいないでしょう、主イエスご自身も決して分裂を望まれたのではなくて、分裂が避けられないことが分かって、ご自身を受け入れる人に覚悟をするように告げられたのです。


しかし、現代に生きる多くの人々は、分裂への恐れから、主イエスを信じて従う決断がなかなかできないでいます。また、家族との関係が変わってしまうのではないかという不安から、洗礼を受けることに踏み出せない人もいるかもしれません。確かに、平和をもたらすことができないのなら、どうして主イエスを信じる必要があるのでしょうか?


主イエスがお生まれになった夜、天使は神を賛美して、大栄光の歌を歌いました「いと高きところには神に栄光、地には御心にかなう人びとに平和がありますように」(2:14)これは間違いなく、主イエスが平和のために来られたことを高らかに告げるものでした。しかし、その平和とは、私たちが思い描く平和とは違うものです。


一般的に、単に戦争や暴力のない状態のことを平和だと言われています。家族の中に争いがなければ、それは平和と言えます。さらに言うと、貧困、差別、抑圧のない社会構造、文化、価値観のことも平和のうちに含まれます。主イエスは弟子たちにこう語られました「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハ14:27)主イエスの平和は、このいわゆる世界の平和とは違って、それらすべてを越えて、もっと深く、もっと本質的なものです。主イエスの平和は、神との和解で得られる平和のことです。真の平和は、地上だけにとどまるものではありません。天におられる神との和解なくして、この地上に平和はありえません。


今日の福音書の冒頭では、主イエスは地上に火を投じるために来たと言われました。この火について、よく「審きの火」だと言われていますが、私はどっちかというと「福音の火」だと受け止めたいと思います。今日の旧約聖書のエレミヤ書では、主なる神はご自身の言葉を火のようだと言っておられました。これはまさに福音の火です。主イエスは、この福音の火がすでにこの地上で燃えていることを切に願っておられたのです。


しかしあのとき、まだ燃えていませんでした。主イエスは受けならればならない洗礼があるからです。その洗礼とは、十字架を背負うことです。それが成し遂げられるまで、主イエスは苦しんでいました。そして、ついに十字架の上で命を失いました。もし、主イエスの使命が分裂のない、単なる地上の平和であったなら、主イエスは決して十字架につけられることはなかったでしょう。


私たちもまた、時に家族の分裂といった苦しみを経験することがあるでしょう。そのような困難が伴うことを、あらかじめ覚悟しておく必要があります。しかし、恐れることはない、主イエスはこう言われたからです「私によって平和を得る、あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハ16:33)どんな試練の中にあっても、主イエスが共におられ、すでに勝利を得ておられるという確かなみ言葉が、私たちの支えであって、平安と希望を与えてくださいます。


今からおよそ五百年前、いわゆる宗教改革と呼ばれる出来事が起こりました。マルティン・ルターという教会の司祭が立ち上がって、当時の教会の腐敗や誤った教えを批判して、聖書中心の信仰を求める改革運動が広がりました。その結果、教会は改革をもたらしました、しかし同時に、分裂も招きました。それが現在のカトリック、プロテスタント、そして聖公会です。


当時、多くの人たちはルターが教会、さらにいえば世界を分裂させたと激しく非難していました。しかし今日、歴史はその評価を大きく変えています。今では多くの人々が知るように、ルターのしたことは実に正しかったということです。もし、教会の使命が分裂のない、単なる地上の平和であったなら、ルターは腐敗した教会に立ち向かって、福音の真理を宣べ伝える勇気を決して持たなかったでしょう。


分裂のない、単なる地上の平和を追い求めるならば、福音の火が燃え上がることはなかなか難しいでしょう。実際、福音がもたらす真理が対立を引き起こし、分裂につながることから、キリスト教は時に「非寛容な宗教」と批判されることもあります。もちろん、寛容は平和をもたらし、平和への道であると信じています。しかし、「寛容」という言葉の理解に違いがあるのではないかと思います。


寛容な人間になるために、他人の意見に同調して、異なる立場を受け入れざるをえないと思うのかもしれません。しかし、それは言い換えれば、その意見と立場が正しいと認めていることを意味します。その結果、寛容の名のために、私たちはしばしば自分の信仰まで曲げてしまうこともあります。これは決して「寛容」ではなくて、「迎合」だと呼ぶべきだと思います。


寛容とは、他人の意見が自分と異なる場合、意見の違いがあることを認めて、その違いを尊重し、相手が自由に発言する権利を保障することです。つまり、異なる立場の存在を受け入れるのであって、その立場まで受け入れるのではありません。どうか皆さんがご自身の信仰を正しく理解して、歪めることなく、寛容のあるキリスト者となられることを祈っています。


主イエスは気象の変化を見分けることができる群衆に対して、「今」という時の重要性を見失っていることを厳しく指摘されました。私たちもまた、ただ表面的な平和にとどまるのではなくて、神との和解によってもたらされる真の平和を求めるべきです。そして何より、「今」というこの時が、いかに大切な恵みの時であるかを見極めなければなりません。あなた自身の平和のために、今、勇気を出しましょう。


主イエスは地上に火を投じるために来られました。神との和解へ導くために、私たち一人ひとりの心に聖なる火をつけに来られたのです。この火が燃え広がっていきたいのです。制御できないほど大きく、力強く燃え広がることを望んでいます。主イエスがもたらす火が、私たちの心の中で常に燃え続けますように。


2025年8月11日月曜日

神さまを愛するには

イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」

人を愛するにはなんとなく分かりますが、神さまを愛するにはどうしたらよいのでしょうか?私は人を愛することも神さまを愛することもそんなに違いはないと思います。そのキーワードはこの三つだと思います。知る、交わる、仕える。

2025年8月2日土曜日

神様目線

 この信徒はあまり教会に来ないから、この人の意見はあまり聞かないほうが良い、この信徒は熱心だから、話に耳を傾けよう、ついついこういうことになりがちです。しかし、このあまり教会に来ない信徒も、熱心な信徒も、神様は全く平等に愛されています。ですから、あまり教会に来ない信徒であっても、その意見を耳を傾け、その考えを真剣に取り組みます。