日課:ルカによる福音書14:1,7-14
シラ書10:12-18
私は日本で結婚式と披露宴を挙げました。結婚準備で、私が特に戸惑ったのは「席次」のことでした。日本では、家族や親戚は新郎新婦から一番遠い下座に座るのが礼儀です。ところが、マレーシアでは逆に、親と兄弟姉妹の家族は新郎新婦と一緒に座るのです。国や文化が違えば、席次を含む礼儀作法も大きく違うのだと、改めて実感しました。
二千年前においても、宴会での席次は人々にとって大きな意味を持っていました。今日の福音書では、一見すると、主イエスは席次をはじめ、宴会での主人と客のことを教えておられるように見えるかもしれません。しかし、それはあくまで表面的な理解にすぎません。その言葉の背後には、もっと深い真理が隠されているのです。その真理とは何なのか、これからご一緒に聖書を通して探っていきたいと思います。
主イエスは、ファリサイ派のある議員の家に招かれて、食事の席に着かれました。そこで招かれた他の客たちがやたらと上座を選んでいるのをご覧になって、次のようなたとえ話を語られました。「結婚披露宴に招かれたとき、いきなり上座に座ってはならない。もし自分よりも地位の高い人が来て、主人から席を譲るように言われたら、恥をかくことになるから。むしろ最初は下座に座って、主人から上座へ勧められたら、かえって面目を得ることになるだろう。」
主イエスの時代においても、また現代においても、席次は人の地位を象徴しています。案会で上座を選んだあの客たちは、自分は高い地位にあって、他人より優れていると考えていたのです。現代を生きる私たちはどうでしょうか。肩書き、経歴、成果などといったものにとらわれて、知らず知らずのうちに、「自分こそ上座にふさわしい」と思い込んでしまうことはないでしょうか。
それから、主イエスは食事会に招かれた主人に向かって「食事会を開くときは、自分にお返しができそうな人たちではなくて、むしろお返しのできない人たちを招きなさい。」と語られました。
当時の社会では、食事会は単なるもてなしの場ではなくて、人脈を築き、影響力を強めるための手段でした。そのため、主催者は自然に見返りを期待したのです。この構図は現代の社会も同じです。何事をするにしても、見返りを求め合って、利益を最優先にしてしまうのです。
実は、主イエスが語られたこれらのことは、単なる宴会での礼儀作法のことではありません。新しい道徳倫理を教えたのでもありません。神の国の到来によってもたらされた福音です。
ファリサイ派は、自分たちがアブラハムの子孫、神に選ばれた民であることを自負していました。そのため、誰もが上座に座るのは、当たり前だと考えていたのです。そして、自分たちこそが救われる共同体と信じていました。だから、あまり他の人たちとは付き合いませんでした。
主イエスはファリサイ派の客と主人にそれぞれ語られた言葉の締めくくりにおいて、極めて重要なことを示されました。客に対しては「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と、そして、主人に対しては「お返しを求めなければ、正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」と告げられました。
主イエスは、ファリサイ派の人たちに対して、このまま高ぶるなら、神の国において、低くされてしまうと警告されました。一方で、ユダヤ人でなくても、へりくだって、主イエスを受け入れるなら、その人は高められ、神の民として迎え入れられるのです。今日の第2の朗読であるシラ書でも、「主は、支配者たちの玉座を打ち壊し、代わりに、謙遜な人々をその座に着けられた。」と同じことが書いてあります。そして、お返しのできない貧しい人や体の不自由な人を迎え入れる者は幸いな者で、そのような見返りを求めない行為は、今の世では報われないかもしれません。しかし、正しい人たちが復活するとき、すなわち世界の終わりの日に、必ず報いを受けることでしょう。
神の国において、へりくだる心こそが尊ばれます。下座に座ることは、単なる礼儀作法ではなくて、他人を自分より優先しようとする心の表れで、神ご自身の祝福が伴うと約束されています。そして、利益を超えて、見返りを求めない愛こそが、神の報いへとつながっていきます。
主イエスは、栄光の御子でありながら、人となられて、貧しい人や罪人の友だちとなってくださいました。そして、十字架において、へりくだって私たちに命を与えてくださいました。本来、私たちは神の恵みに値しない者であるにもかかわらず、主イエスは何の見返りも求めず、私たちを神の国へと招いてくださったのです。そして、まさに主イエスご自身の言葉通り、「へりくだる者は高められる」ことが実現されました。神は主イエスを高く上げ、最高の尊厳と権威をお与えになったのです。(フィリ2:6-9)
兄弟姉妹の皆さん、キリスト者として私たちは、世の常識や価値観に流されるのではなくて、神の視点に立って生きることが求められているのです。その生き方とは、へりくだる心と、見返りを求めない愛に根ざしたものです。主イエスはご自身の生涯を通して、その愛を具体的に示してくださいました。だからこそ、この愛に触れた私たちも、日々の生活の中でへりくだる心を大切にして、見返りを求めない愛を実践していくことができるのではないでしょうか。
私はここに来ていきなり皆さんに「先生」と呼ばれていますが、違和感は全くありませんね。なぜなら、以前学校の先生をしていたから、「先生」と呼ばれることに慣れています。しかし、皆さんが私を「先生」と呼んだのは、私が学校の先生だと知っているからではなくて、聖職であるという立場だからでしょう。一般的にそう受け取られるかもしれませんが、私は違う見解を持っています。聖職者が「先生」と呼ばれるのは、信徒を教えるから、信徒に仕えるからです。へりくだるからこそ、「先生」と呼ばれるのです。「先生」と呼ばれるにふさわしい者となるために、どうか皆さんに教える、仕えるチャンスをいっぱい与えていただけるように願っています。
信徒と神職が教会における“自身の席”、すなわち立ち位置をどのように理解しているかは、教会の成長を大きく左右する要因だと考えています。もし、教会は単なる宗教施設、主日礼拝を行う場所だけだと捉えるなら、どうしても聖職が教会の中心になりがちです。しかし、それは本来の教会の姿ではありません。教会が教会であるためには、信徒一人ひとりは決して受け身であってはなりません。むしろ、自らの賜物と使命を自覚して、教会という共同体を豊かにする責任があるのです。
いつも下座に座っている兄弟姉妹の皆さん、教会の主人である主イエスは、皆さんを「もっと上座にお進みください。」と招いておられます。
今日の福音書では、宴会の出来事を通して、私たちにとても大切な真理を示してくれました。それは、キリスト者としての生き方を問い直して、この世の常識や価値観にとらわれず、へりくだる心と、見返りを求めない愛を実践するよう招かれているのです。
私たちはこの招きに応え、日々の生活の中で、一歩を踏み出して、少しずつ形にしていくとき、教会は真にキリストの体として成長して、福音の光を世界に証しする共同体となっていきます。
兄弟姉妹の皆さん、どうか私たち一人ひとりが、へりくだる心と見返りを求めない愛をもって、人に仕える者となりましょう。その先には、神ご自身が備えてくださった御国の祝宴が待っておられます。私たちはそこで招かれて、永遠の喜びにあずかるのです。