2025年2月28日金曜日

三位一体

 神は三位一体であることは、なかなか理解しづらいです。完璧に説明し尽くせるわけではありませんが、私はよくこれを太陽に例えします。太陽は一つで、光は地上に照らし、これはまたも同じ太陽からで、そして太陽の熱量も同じ太陽からです。太陽、光、熱量、これはまさに父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様に近いです。

2025年2月27日木曜日

祈り

 よく祈りとは、神様に何かを求める、お願いするとの認識はほとんどです。しかし、求めるだけではなく、神様への賛美、懺悔、感謝も祈りなのです。何もかも神様に求めるだけではなく、神様への賛美、懺悔、感謝もしましょう。

2025年2月25日火曜日

リトリート②

 休息と沈黙のリトリートにスタッフとして参加し、主に厨房での仕事でしたので、あまり休息できなくて、沈黙もできませんでした。

しかし、そんな中で、参加者を仕える喜びを味わいました。おいしい料理を提供し、参加者一人一人が神様に近づけるようになることも、また私たちの役割です。

2025年2月24日月曜日

リトリート

 昨日から二泊三日のリトリートに参加しています。休息と沈黙のリトリートといって、スタッフとしての参加です。料理の支度の手伝いいや皿洗いなど、自分はあまり休息になってないし、沈黙もあまりできませんが、参加者たちへのもてなしそのものが、神様への奉仕です。

休息と沈黙なら、別に家でもできますが、ここは元修道院で、かつてシスターたちが毎日祈りを献げてた場所でしたので、霊的な力が満ちていると思います。

リトリートは先生曰く、エデンの園に戻るというイメージで、リトリートを通じて、神様と2人きりであることを彷彿させます。

神様にもっと近づけるように祈ります。

2025年2月23日日曜日

説教《神の助けによって努めます》

 聖書日課:創世記45:3-11,21-28

     コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:35-38,42-50

     ルカによる福音書6:27-38


 主イエスの教えの中で、わたしは一番難しいと感じたのは、敵を愛することです。敵とは、いわゆる傷つけられて、苦しめられて、それによって恨みのある相手のことです。幸いなことに、わたしには敵と言えるほどの人は特に頭に浮かべません。しかし、もし自分にそういう人が現れたら、その人を愛することができるのかと言われると、おそらく無理だと思います。


 わたしがこう言いますと、皆さんは少しほっとするでしょう。確かに、わたしたちはキリスト者として、常に神のみ旨、主イエスの教えに従って生きて行こうと志しています。しかし、自分の敵を愛することは、決して簡単なことではありません。とはいえ、これは確かに主イエスの教えです、教えというより、しなさいという命令なのです。キリスト者として、わたしたちはどうしたら、自分の敵を愛することができるのでしょうか?


 今日のルカによる福音書は、有名なイエスの説教の一部分に当たります。この説教の中で、イエスは敵を愛しなさいと言われました。あの当時、大勢の弟子とおびただしい民衆は集まっていましたが、イエスは弟子たちを見て言われたと書いてありますので、この説教の内容はどっちかというと、一般の人ではなくて、キリスト者、つまりわたしたちに向けた話です。


 では、このイエスの説教について詳しく見ていきましょう。


 人は生まれながらに善良なものでしょうか、邪悪なものでしょうか?このいわゆる性善、性悪説に対して、いったい聖書は何と言っているのでしょうか?神はお造りになったすべてのものをご覧になって、極めて良かったと言われました。(創1:31)そのため、人は本来善良のはずなのです。しかし、人の祖先であるアダムの不従順によって、人は生まれながらに罪人になりました。罪人であるがゆえに、わたしたちの中に、怒り、妬み、恨みなどといったネガティブな感情が自然に表れてきます。


 そのため、わたしたちを傷つけた人、苦しめた人、すなわちわたしたちの敵に対して、呪い、仕返し、復讐といった行動に出るのが容易に理解できます。それに対して、イエスは敵を愛し、わたしたちを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、わたしたちを侮辱する者のために祈りなさい。わたしたちの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならないと命じられました。


 人を愛することは、そんなに難しいことではないはずです。わたしたちは自分の夫または妻を愛して、子どもを愛して、親、兄弟、友達を愛します、つまり、人を愛することはできるのです。しかし、そういう人たちもわたしたちを愛してくれるので、イエスが言われたように、自分を愛してくれる人を愛するなら、何の誇りもなく、誰だってできます。敵を愛するとなると、話は別です。わたしたちが愛している人と同じように、愛することはとてもできません。


 このイエスの命じられたことに対して、わたしたちが一番よく使う手口は、神が憐れみ深いことをいいことに、きっと許してくださるはずだと勝手に思い込んでしまうことではないかと思います。しかし、本当にそうでしょうか?


 イエスは神は恩を知らない者に対しても、悪人に対しても、実に情け深いいと高き方であると言われました、イエスご自身もまた同じです。イエスが十字架につけられたときに、「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか知らないのです。」と話されました。(23:34)イエスを憎む者、悪口を言う者、侮辱する者、イエスの頬を打った者、鞭した者、服を奪った者、そんな敵である者たちを含めて、イエスは赦すように父なる神に願っておられました。


 わたしたちキリスト者は、いと高き方、神の子どもです。そのため、わたしたちの父が憐れみ深いように、神の独り子主イエスが憐れみ深いように、神の子どもであるわたしたちも憐れみ深い者になるはずです。敵を愛し、自分によくしてくれない人に善いことをし、返してもらうことを当てにしないで人に貸すことは、決して神の子どもとなるための条件ではなくて、神の子どもであることの自然な現れのはずです。


 神の子どもであれば、人にしてもらいたいと思うことを、人にもして、そして、人を裁かない、罪人だと決めつけない、人を赦し、人に与えます。そうすれば、神から裁かれることなく、罪人だと決められることなく、赦され、与えられます。


 主イエスの十字架の死によって、すべての人々の罪を贖い、イエスを信じた、受け入れたわたしたちはもう罪人ではありません。その上、聖霊がわたしたちの内に宿られたことによって、本来であれば、わたしたちには神の性質、いわゆる愛や、憐れみなどといったポジティブな感情が、もともとあったネガティブな感情を覆いかぶさるはずです。しかし現実では、多くの人はそうなっていないようです。


 それは、わたしたちの信仰はまだ成長していないことの表れだと思います。今日の使徒書からも、コリント教会の信徒たちの信仰が成長していないことがよく分かります。彼らは信仰の核心である将来の復活に疑問を抱き、パウロから非難をされました。信仰が成長すれば、復活を信じるだけではなくて、まさに使徒パウロが言っている「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる。」(ガラ2:20)そういう状態になります。主イエスご自身が敵を愛しておられることから、主イエスがわたしたちの内に生きておられるのであれば、わたしたちも敵を愛することができるのです。


 今日の旧約聖書に書かれたヨセフの出来事ですが、ヨセフは兄たちのせいでエジプトに売られました、しかし、そんな兄たちに対して、ヨセフは悔やんだり、責め合ったりする必要はないと話し、兄たちを許しました。かつて、ヨセフは父ヤコブから晴れ着をもらいました、しかし、それが災いに転じて、兄たちに妬(ねた)まれて、迫害に遭いました。今度は、ヨセフが兄たち全員に晴れ着を与えました。ヨセフが兄たちを仕返すことなく、復讐することなく、彼らを受け入れて、愛しました。


 そのヨセフの一連の出来事について、聖書では何度も神がヨセフと共におられたと書かれています。それはどういうことでしょうか?神が常にわたしたちと共におられるはずです。ヨセフは自分がエジプトに売られたのは、実に飢饉から多くの民の命を救うために、神が彼をお遣わしになったのだと悟ったのです、それはまさに神が自分と共におられることの自覚です。そう自覚したからこそ、自分を傷づけた兄たちを愛することができたのです。


 わたしたちは洗礼、また堅信の時に、何と誓ったのかを皆さんは覚えていますか?主教あるいは司祭が「あなたは生涯キリストの模範にならい、神を愛しまた隣り人を愛しますか?」に対して、わたしたちは何と答えたのでしょうか?「できます」でもなくて、「できません」でもなくて、「神の助けによって努めます」と答えたはずです。神の助けをなくして、わたしたち人ができることは何一つありません。


 その神の助けとは、神がわたしたちの中に生きておられることの自覚であり、神がわたしたちと共におられることの自覚です、それによって信仰が成長します。では、どうしたらそう自覚できますか?わたしは神との交わりは不可欠だと考えています。そして、主日の礼拝はまさに神との交わりの最も効果ある方法だと思います。


 わたしたちは神を賛美します。神は聖書朗読、説教を通じてそのみ言葉を届けられて、それに対してわたしたちは信仰告白をします。そして、わたしたちは神に懺悔します。神はわたしたちを赦し、平和を賜ります。わたしたちは信施を献げます。神はその独り子の体と血をわたしたちに与えられ、そして祝福してくださいます。この行ったり来たりの交わりは何とも素晴らしい交わりでしょう。しかし、週一回の交わりだけでは不十分です、日課、祈りなどを日々神との交わりが欠かせません。


 主イエスのこの説教は、弟子たちだけに向けられたもので、それは、キリスト者だからこそ神の助けによって努めることができるからです。敵を愛しなさいという主イエスのこの命令に対して、わたしにはできません。しかし、神の助けによって努めれば、わたしは絶対にできる自信があります。


 パウロはフィリピ―の信徒への手紙にこう書きました。“わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。”(フィリ4:13)わたしたちキリスト者は、神の助けによって努めれば、必ず神を愛して、兄弟姉妹を愛して、隣り人を愛して、そして、敵を愛することができます。


 今現在も続く礼拝を通じて、神との大切なこの交わりの時間をぜひとも楽しんで、それから神と共におられることを自覚できるように、心からお祈り申し上げます。アーメン

2025年2月22日土曜日

聖書の勉強

 教会でよく行う聖書の勉強会は、旧約あるいは新約聖書のある一巻を用いることです。このやり方ですと、まだ教会生活になじめない、初信の人には遠慮しがちです。私はいわゆる森を見ずして木を見るというこのやり方には、あまり賛成しかねます。

まず聖書とは何か、聖書の分類、大枠の物語を理解したうえで、一巻一巻の本の勉強に入った方が、初信の人にも参加しやすいのではないかと思います。

神学校の勉強もまず旧約、新約概論、それから各分類の書の勉強に入りますので、やはりこのやり方の方が理に適っていると思います。

2025年2月20日木曜日

聖書朗読

 礼拝の時に聖書を朗読するのですが、教会によっては、聖書を朗読していただける人を確保するのが一苦労です。

ある礼拝学者によると、聖書朗読は、説教よりも大事で、素晴らしい奉仕だそうです。どういう意味かと言いますと、説教は説教者の意志が少なからず入っている、それに対して、聖書朗読はそのままの神のみ言葉を届けるのです。

これによって、少しでも見方が変わり、礼拝中に積極的に聖書の朗読をするようになることを祈ります。

2025年2月18日火曜日

回復

主イエスがこの世に来られた目的は世の人々の罪を取り除くのではなく、人本来の神の形を回復し、命を賜るためです。

2025年2月17日月曜日

神様のように

 マレーシア人にとって、クリスチャンは一般に比べますと、より行儀が良い人たちだと認識しているようです。日本のクリスチャンの人口は少ないので、日本人がクリスチャンをどう思うのか分かりません。

クリスチャンがより行儀が良いのは、神様がそういう性質の方で、決して私たち人間側に何か特別ではありません。すなわち、行儀が良いのは、神様の方であって、私たちではありません。クリスチャンが行儀よく見えたのは、私たちが神様のように生きているだけです。日本でも多くの人が神様に会えることを願っています。そのため、もっと多くの人が神様のように生きていくように導きたいと思います。

2025年2月16日日曜日

神の恵み

 神様からいただいた恵み:

1.イエスが私の罪を贖いました。

2.聖霊が私の内に宿りました。

3.神が私を子供にしました。

三位一体の神こそ成し遂げられることです。

2025年2月14日金曜日

何が原因か

 神様はアダムに善悪の木から食べてはいけないと命じたのに、そもそもどうして善悪の木をそこに置いたのでしょうか?

アダムが神様の意を背いたのは、神様が善悪の木をエデンの園に置いたせいだとよく言われます。

私の神学校の先生はそれにていてなかなか面白い例えをするので、紹介します。ある人が留年し、浪人になりました、それで浪人になったのは、留年の制度があるから、そのせいだと言いはりました。

浪人になったのは、留年の制度があるせいか、自分の不勉強か、それをよく考えれば、創世記のこの出来事がわかってくると思います。

2025年2月13日木曜日

平静の祈り

神よ、

変えられないことを平静に受け入れる恵みを、

変えるべきことを変える勇気を、

そして、それらを見分ける知恵をお与えください。

2025年2月12日水曜日

目的が大切

 ふるさとの教会の礼拝に出ると、礼拝の形式がまるっきり変わっていました。そのせいで、一部の人が礼拝に来なくなりました。もし礼拝が音楽コンサートであれば、今までジャズの音楽がいきなりロックの音楽となって、ジャズ音楽が好きな人はこの音楽コンサートに行かなくなる心情もわかります。

礼拝の目的は、礼拝そのもの、つまり礼拝の形式を楽しむのであれば、礼拝の形式によって、礼拝に行くかどうかを左右してしまいます。しかし礼拝は音楽コンサートではありません、礼拝を楽しむのではなく、本来の目的は神様との関係を築き、育むことです。礼拝の形式はどうであれ、この目的に達成することが大切です。

2025年2月9日日曜日

主役

 教会での礼拝の時の主役はどなたでしょうか?もちろん神様ですが、神様以外は?礼拝の時に牧師は壇上で説教したり、聖餐式を行ったり、それはまるでコンサートか何かのショーのようで、自分は観客のつもりで見ているのでしょうか?そうであれば、主役は牧師になります。

しかし、牧師は神様と信徒さんを仕える役割で、説教や聖餐式は神様と信徒の関係を育むための助けであって、礼拝の主役は神様と信徒の皆さんだと思います。

ぜひ自分は主役の一人だと意識して、礼拝に臨んでください。

2025年2月8日土曜日

記念

 聖餐の意味の一つに、イエス・キリストが私たちのために死なれることを記念します。この記念は単に私たちがイエスのことを記念するのではありません。

旧約では、大洪水のあと、神様は虹が現れると、二度と洪水によって地を滅ぼすことはないという人との契約に心を留めるとおっしゃっていました。実に今現在も同じで、神様は聖餐である自分の独り子の体と血を見ると、人の罪を赦すという人との契約に心を留めるのです。

つまり、聖餐は私たちがイエスを記念するのみならず、父なる神様が私たちのことを記念するのです。これが分かれば、陪餐の時に、より心が深まることをお祈りします。

2025年2月6日木曜日

イエスは涙を流された

 聖書の中で、最も短い1節は、ヨハネによる福音書11章35節です。一番短いですが、私にとって意味深いです。

 イエスはどうして涙を流されたかというと、友人のラザロが亡くなったからです。しかし、その亡くなったラザロを蘇らせました。

 この亡くなった人を蘇らせることがわかっていて、あなたは泣きますか?普通泣かないでしょう、泣くことがあまりにも不合理です。小説なら、こういう設定はしないと思います。しかし実際、イエスは涙を流されました。

 私たちも愛するキリストの内にいる兄弟姉妹が亡くなったとき、将来また会えると確信しても、やはり悲しみます、それは自然な感情の表れです。

2025年2月4日火曜日

蝋燭

 私が行っている教会は礼拝の前に、ろうそくをつけます。どうしてろうそくをつけるのかと言いますと、イエスは光ですから、ろうそくの灯がイエスの光を表し、礼拝中にイエスが私たちとともにいるのです。

それ、実は後付けの解釈で、本来はそうではありません。キリスト教が中世期の時に迫害され、教会も壊され、キリスト者は余儀なく地下に潜って、礼拝をせざるを得ません。地下は暗くて、それでろうそくつけて礼拝をしていました。これは何十年、何百年も続いて、ようやく迫害が止まって、彼らが地上に上がっても、ろうそくをつけることは一種の伝統、習慣となってしまいました。そのため、礼拝のたびに、ろうそくをつけることにしました。

後世の人はその歴史が知らず、おそらく誰かがどうしてろうそくをつけるのかと質問し、それで考え出したのは最初に書いた通りのことです。ろうそくをつけなくても、イエスは私たちと共います。ろうそくをつけるのはこの宗派、この教会の伝統で、この伝統をちゃんと守ることも私は大切(必須ではないが)だと思います。ろうそくをつけて、イエスがわたしたちとともにいることを”感じる”ことで、神様との交わりが深まると思います。

2025年2月3日月曜日

 よく自殺は罪なのか、同性愛は罪なのかを問われます。ここでは私の答えを言いませんが、しかし、どうして罪かどうかを気にするのでしょうか?やはり罪だから地獄に落ちる?罪でなけれ天国に行くと思うから、それを気にしているのでしょうかね?

イエス・キリストは世の人々の罪を償ったから、イエス・キリストを主と心から信じる人は救われる、これだけはっきり言えることです。自殺は罪なのか、同性愛は罪なのか、人の意見を聞かないで、ぜひ直接神さまに聞いてほしいと思います。ただ、神様に聞く前に、まず神様と関係を築きましょう。

2025年2月2日日曜日

永遠に生きる

 アダムとエバが神を背き、エデンの園から追い出されました。神が彼らをエデンの園を追い出した理由は、彼らが命の木を食べ、永遠に生きる者となるおそれがあるからです。

これは一見罰のように見えますが、実は神の恵みです。なぜなら、もしアダムとエバがエデンの園を居続け、命の木を食べ、永遠に生きたら、一生罪の中で、一生罪人として生き続けることになってしまいます。

私たちは死ぬことによって、永遠に生きるのです。

2025年2月1日土曜日

献げ物

カインとアベルは献げもの神に献げ、しかし神はアベルの献げ物に目を留め、カインのの献げ物に目を留めませんでした。一般的に、それぞれの献げ物に焦点を当てていますが、私は献げ物に問題があるわけではないと思います。詩編50では、「献げ物についてお前を責めはしない」と書いてあります。

聖書を詳しく見ますと、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」と書いてあります。献げ物というより、先にその人に目を留められるか留められないかです。

カインはアベルを殺した後、神様との会話、その態度をみれば、カインがどういう人間なのかはっきりわかります。神は献げ物を見るのではなく、人の心を見ます。