2025年9月25日木曜日
唯一の神
2025年9月21日日曜日
説教《弟子になろう》
日課:ルカによる福音書16:1-13
聖パウロ教会に着任して、まもなく半年を迎えようとしています。この半年間、皆さんと共に礼拝を献げ、祈りを分かち合い、日々の交わりの中で、皆さんが私に向けてくださる温かい愛を、日に日に深く感じています。しかし、皆さんの愛を受ければ受けるほど、私はこの教会の将来を心配するようになりました。このままでは、やがて高齢化が進み、信徒の数も減っていくという現実が、私たちの前に立ちはだかるでしょう。これは、聖パウロ教会に限ったことではありません、現在の多くの教会が抱える危機でもあるのです。このような危機に、私たちはどう向き合っていけばよいのでしょうか?
今からおよそ二千年前、主イエスもまた、ご自身の死を間近に控えて、弟子たちの将来を心配しておられました。ここしばらくの福音書では、主イエスが群衆、あるいはファリサイ派の人々に向けて語られる場面が続いていました。しかし今回は、久しぶりに、弟子たちに語りかけられました。弟子たちに語りかけられたということは、私たちにも大いに関わっているのです。
主イエスは弟子たちの何を心配して、彼らに何を語りかけられたのか、私たちも、今日のみ言葉に耳を傾けましょう。
ある管理人が主人の財産を無駄遣いしたとして告発され、解雇されることになりました。追い詰められた彼は、主人に借金をしている人々を呼び出して、その借金を減らしてやりました。これは、自分の将来を考えてのことで、この行動によって、主人に借金のある人たちの誰かが、自分を雇ってくれることを期待していたのです。驚くべきことに、彼のこの行動を主人はなんと「賢い」と褒めました。この管理人はなぜ褒められたのでしょうか?彼のどこが賢いというのでしょうか?要するに、主人が褒めたのは、そのやり方というより、危機の中でも自分の将来を見据えて、行動したその賢さでした。
主イエスが弟子たちに教えようとされたのは、まさにこの点です。このたとえのように、世の人々でさえ危機に直面すると、将来に備えて、何らかの行動を起こします。神の国を待ち望む弟子たちは、なおさら積極的に備えて、行動を起こすべきではないでしょうか。主イエスが求められたのは、「不正の富で友達を作りなさい」ということです。この「不正の富」という表現は少しややこしいですが、不正な手段で得たお金ではなくて、この世のはかないお金を指しているのです。つまり、お金をお返しのできない人々を助け、神を喜ばせることを行うように求めておられたのです。
先月の信徒懇談会で伝えたように、教会の目的は主日礼拝と宣教で、そして宣教を一言で言うと、世を愛することです。お金を用いて人を助けることは、まさに愛の実践であって、宣教そのものです。しかし、お金で人を助けることであって、決してお金に仕えてはなりません。主イエスは、「神とお金の両方に仕えることはできない」とはっきり述べられました。一方を憎んでもう一方を愛するか、一方に献身的でもう一方を軽蔑するかのどちらかになります。私たちは二人の主人に仕えることはできません、神に仕えるのか、お金に仕えるのか、どちらかを選ばなければならないのです。
モーセの十戒の第一条にはこう記されています。「私は主、あなたの神、あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」(出20:2-3;申5:6-7)創造主が私たちの神となって、私たちと関係を持ちたいと願っておられます。しかし、この関係がうまくいくためには、私たちはほかの神々に仕えてはなりません。ここで言っている「神々」は、必ずしも宗教の神々とは限りません。人は幸せを見つけるため、あるいは危険から安心、安全を求めるため、あるいは苦難から逃れるため、信頼を置くもの——それが現代の「神々」です。そして、その最たるものがお金です。主イエスの時代も今の時代も、お金は人々を支配し、信頼を奪う大きな力を持っています、まさに「神々」です。
主イエスはお金のような神々ではなく、主なる神だけに仕えることを求められました。神を愛し、神を一番にすることは、弟子として備えるべき条件です。そして、この世を愛するという宣教を成し遂げるために、主イエスは私たちに弟子になることを命じられました。(マタ28:19)これはまさに私が信徒懇談会で強調したことです。
弟子として歩み、神を愛し、この世を愛することによって、世の終わりの時に、私たちは永遠の住まいへと迎え入れられます。この永遠の住まいは、この世のお金では決して買うことはできません。どんなに大金を持っていてもそこに住むことはできません。ただ、主イエスご自身が迎え入れてくださるときのみ、そこに住むことができるのです。
十字架へと向かうとき、主イエスは弟子たちにこう約束されました、「私の父の家には住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハ14:2-3)これは単なる慰めの言葉ではありません。主イエスは、ご自身の命と引き換えて、この約束を確かなものにしてくださいました。主イエスは、ご自身の血で世の人たちの罪の贖いを成し遂げ、私たちが安心して帰ることのできる「天の家」を用意してくださったのです。そこは、私たちの本当の帰るべき場所、永遠の住処なのです。
この希望があるからこそ、私たちは日々の労苦を担いながらも、弟子としての歩みができるでしょう。この世の旅路は限られています、しかし、その先には、すでに備えられた主と共に住む家が待っているのです。
信徒の高齢化、減少という差し迫った危機に直面して、私たちは今すぐにでも行動を起こす必要があります。今日の福音書はまさにそのことを私たちに呼びかけているのです。
私たちは洗礼を受けて、神の民としての歩みを始めます。しかし、それは決してゴールではなく、スタートに過ぎません。信徒としてとどまることに満足するのではなく、主イエスが命じられたように、弟子として日々成長していくことが、私たちに求められているのです。そのために、私たちにできることはたくさんあります。日々の祈りを大切にすること、聖書に親しむこと、教会の交わりの中で互いに支え合い、励まし合うこと、そして、自分に与えられた賜物を喜んで用いて仕えることなどです。
聖パウロ教会は、皆さん一人ひとりが弟子として歩むことができるように、さまざまな学びの場、交わりの場、そして奉仕の場をこれからも広げていきたいと願っています。それを通して、もっと神を知り、神と交わり、神に仕えることを共に実践していきましょう。その一歩一歩の積み重ねによって、教会全体が主イエスの弟子として成長し、人々にしっかりと福音を受け継がれていく共同体となっていくのです。
主イエスは私たち一人ひとりに忠実であることを求めておられます。大きなことに限らず、日々の生活の中のごく小さなことにおいても、また、この世のお金や、他人のものにおいても、忠実であることを求めておられます。忠実こそが弟子としての証しです。私たちは弟子としての人生を歩み、主イエスに忠実に従わなければなりません。これはまさに信徒の高齢化、減少に直面した危機を乗り越えるために、教会に必要なことなのです。そうする限り、神の祝福は必ず教会に注がれます。
兄弟姉妹の皆さん、この世の富ではなく、永遠の価値を求めて、共に弟子となって、神に仕え、主に従う人生を歩んでいきましょう。
2025年9月17日水曜日
生き続けるために死ぬ
死は、残された人々に深い悲しみをもたらします。涙を流し、胸を痛め、言葉にできないほどの寂しさを覚えることもあるでしょう。しかし同時に、悲しみに暮れる人々に、命の尊さに気づかされる力強いものでもあるのです。死は決して怖いものではありません、本当に怖いのは、死の意味を理解せずに、人生を終えるのではないかと思います。
もし、死をただ終わりとしてしか捉えないのなら、日々の努力や喜びも、やがては消え去るはかないものに過ぎません。しかし、死を避けられない現実として真剣に受け止めるとき、私たちは「どう生きるか」という問いに真正面から向き合うことになるでしょう。
主イエスは言われました——「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハ11:25)。この約束を信じるキリスト者にとって、死は決して終わりではなく、神のもとに帰るための通過点です。絶望ではなく、希望へと変わるのです。それは、死なないという無限の延長ではありません。むしろ、死を超えて、復活という根本的な変化に希望を抱きながら、日々を意味あるものとして、永遠の命に備える生き方をするということです。そのため、キリスト者は復活、そして、永遠に生き続けるために死ぬのです。
2025年9月11日木曜日
死ぬために生きる
日本は経済的に恵まれた国です。私の母国マレーシアも経済成長によって、人々の暮らしが豊かになりました。こうした豊かな国々に暮らす今の私たちは、戦争、飢饉、深刻な貧困に直面することもなく、死ははるか遠い未来の出来事であって、今の自分には関係ない、そう思い込んでいるのかもしれません。
しかし、平穏な日常が当たり前のように続くからこそ、忘れてはならないことがあります。それは、死は必ずいつか、時には突然、何の前触れもなく訪れるという現実を深く受け止めなければなりません。ですから、私たちは実はただ「生きるために生きる」より、むしろ「死ぬために生きる」のです。
2025年9月9日火曜日
生きるために生まれた
「人は何のために生まれ、何のために生きるのか?」これは、誰もが一度は心に抱く問いです。しかしもしかすると、これまで、この問いにじっくり向き合うことなく、日々を過ごしてきたのかもしれません。
私たちがこの世に生まれたのは、決して偶然ではありません。天地万物の創造主である神が、私たち一人ひとりを愛をもって造り、命を授けてくださったのです。まだ母親の胎内で小さな心臓がそっと鼓動を打ち始めたその瞬間から、神はすでに愛の計画の中に私たちを置かれていたのです。
私たちはこのかけがえのない命の意味を見極め、それを豊かに生かし、そして、この世に生まれてきた使命を果たすように召されているのです。そこには、神との関係を深めながら、人との関係の中で、互いに愛し合い、助け合い、分かち合い、そして共に成長していくという使命が込められています。私たちはこの使命を果たすために生きるのです。それはまさに、生きるために生まれたのです。
2025年9月2日火曜日
教会の目的
教会の使命は神を礼拝することだと思います。しかし、この礼拝は単に教会での主日礼拝だと思われがちです。神を礼拝することは、主に主日礼拝と宣教です。
主日礼拝の主な目的は、神を愛すること、そして、宣教の主な目的は人を愛することです。これはまさに主イエスが言われた第一と第二の戒めである神を愛し、隣人を愛することで、教会はそのために存在するのです。