私たちは物事を個人的な視点や数字で見ることが多いです。確かに世の中ではそれが一般的です。しかし、キリスト者、特に聖職者の場合は、それだけではなく、神様の視点はどうであれ、神様のみ心どうなのかと常に考えなければならないと思います。ですから、ときに変人だと思われ、変な目で見られることもあります。それで委縮して、結局世界一般の人の歩調に合わせてしまいます。今日も勇気と知恵を求めて神様に祈ります。
2025年4月30日水曜日
2025年4月28日月曜日
真の教会
昨日の説教で、聖書朗読は神聖な奉仕であることを話したら、さっそく来主日聖書朗読者が決まりました。私は単にお願いだからやってくださいとかではなくて、その意味を教えることによって、信徒さんが心からやりたいと思えるように望んでいます。聖書の朗読だけではなく、教会はそのすべての奉仕、献金などにおいてそうであるべきだと思います。それは宗教施設、クラブではなく、真の教会だからです。
2025年4月27日日曜日
説教《人を信じさせるみ言葉》
日課:ヨハネによる福音書20:19-31/使徒言行録5:12a,17-22,25-29/ヨハネの黙示録1:9-19
人は自分の目で見るまではなかなか信じないものです、頑張って信じるようになるものでもありません。ですから、人は目に見える偶像を崇拝する傾向に陥りやすいのです。実際、イスラエルの歴史の中では、子牛の鋳像を造って、神として拝んでいたことが何回かありました。では、どうしたら、人は目で見ていなくても、神を信じることができるのでしょうか?どうしたら、人に主イエスの復活を信じてもらえるのでしょうか?
主イエスの復活を信じないのは、何も世間一般の人だけではありません。今日のヨハネによる福音書では、3年ぐらいも主イエスに従って、主イエスの教えを聞いて、多くの奇跡を見てきた弟子が、それでも主イエスの復活を信じていなかったことが分かります。それでは、詳しく見て行きましょう。
二千年前に、主イエス・キリストが本当に復活をなさいました。その日の夕方に、さっそく弟子たちの前に現れて、二回も「あなたがたに平和があるように」とあいさつをされました。その場にいなかった弟子の一人のトマスに、ほかの弟子たちは主を見たと告げると、トマスは、実際イエスの手の釘の跡を見て、指をその釘跡に入れて、手を脇腹に入れてみなければ、決してイエスの復活を信じないと言い出しました。それで、今でも「疑惑のトマス」というレッテルを貼られてしまいます。
しかし、私はこれが単にトマスだけの信仰のなさの問題ではなくて、他の弟子たちは、ドアに鍵をかけてあった家の中にイエスが現れて、手と脇腹とをお見せになったから、信じただけの話です。そうでなければ、おそらくトマスと同じように信じていなかったと思います。実際、ルカによる福音書では、イエスの復活を目の当たりにした女たちは、弟子たちにそのことを知らせたのに、弟子たちはその話がまるで馬鹿げたことだと書いてあります。(ルカ24:10-11)
それもそのはず、十字架につけられて死んだ人が復活するなんて、にわかに信じがたい、あり得ない話です。ですから、世間一般の人にとって、イエスの復活は事実ではなくて、単なる伝説、一種の神話にすぎません。
この信じられないことが、イエスの出現によって現実のものとなりました。トマスを含む弟子たちはイエスのみ姿を見て、イエスの復活を信じました。そして、イエスが主であって、神であることを確信しました。
やはり人は見ることによって信じるのです。もし今主イエスがこの世界に現れたなら、もっと多くの人が主イエスを信じるでしょう。しかし、主イエスはすでに天に昇られて、少しの間はこの世界には降りてきません。イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。私を見ないで信じる人は、幸いである。」と言われました。どうしたら、見ないで信じることができましょうか、どうしたら、その幸いな者になれましょうか?
今日の福音書の著者である使徒ヨハネは、イエスが神の子メシアであることを人々に信じさせるために、この福音書を書いたと語ってくれました。そして、今日のヨハネの黙示録では、この使徒ヨハネに対して、見たこと、今あること、また後に起こることを巻物に書き記せと命じられました。主イエスは、人が見ないで自分が神の子メシアであると信じることができるように、ご自身の教え、行いを弟子たちに書き記させられたのです。
主イエスが神の子メシアであることを信じるとは、すなわち、神が人間となられて、乙女によってこの世界に生まれて、十字架の上に死なれることによって、すべての人の罪を贖って、三日目に復活したことを信じることです。しかし、これらのことをとても人間の知恵、理性だけでは、信じることはできません。むしろ、信じない方が普通なのです。それは、あまりにも非常識、非科学的だからです。
どうして私たちはこんな馬鹿げたことを信じてやまないのでしょう?使徒パウロはコリントの信徒への手紙では、こう教えてくれました。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。」(Ⅰコリ12:3)私たちが信じるのは、心を改めて、み言葉を心に留めて、それから、聖霊が働いてくださるからです。人間の力で信じるのではなくて、神が人間を信じさせるのです。皆さんは主イエスが神の子メシアであることを、心から信じるならば、聖霊を受けたことで、皆さんの中には聖霊が宿っていると確信を持って言えます。
聖霊が働くには、神のみ言葉が必要不可欠です。まず、そのみ言葉に耳を傾ける必要があります。これは、神がご自身のことを書き記させられたゆえです。それは旧約聖書においても、新約聖書においても全く同じです。
私はキリスト者である妹の影響で、キリスト者になりました。しかし最初は、特に神の創造などを信じていなくて、とりあえず、あまり深く考えないという態度を取っていました。当時は聖書に興味があって、創世記からほぼ毎日読んでいました。そのあと、教会に通って、日曜学校の手伝いもさせてもらいました。ある時、日曜学校の子どもたちに、人間は神によって創造されたのよと話しました。これを口にしたことに、自分でも驚いていました。というのは、私は単に聖書の物語を教えようとしていたのではなくて、心から信じたことを自然に出たからです。あっ、いつの間にか、私は本当に創造主である神を信じたのだと初めて気づきました。
この変化の理由として、私が思いつくのは、聖書を読んでいたことに他ありません。聖書は単なる小説ではなくて、神のみ言葉です、そのみ言葉には力が満ちています。私は主イエスを信じるのは、主イエスを見たからではなくて、もちろん主イエスを見たことはありませんでした、み言葉にある主イエスの教え、主イエスの行いが私を信じさせるのです。私自身のこの経験から、皆さんにもぜひ聖書を読んでいただきたいと願っています。
私が週報を作っているとき、奉仕表に埋まらないのは、たいてい聖書朗読の奉仕です。私はこれ、非常にもったいないなと思いました。もちろん奉仕には区別がなくて、これが重要な奉仕とか、重要でない奉仕とかはないはずです。しかし、私の神学校で礼拝学を教えていたある先生が、聖書の朗読は説教よりも神聖であると教えていました。というのは、説教者は多かれ少なかれ、個人的な意思が混じってしまいます。しかし、聖書の朗読者は、神のみ言葉をそのまま会衆に届けるからです。ぜひ、皆さん一人一人が神のみ言葉を愛して、それを声に出して朗読するこの神聖な奉仕に、大いに携わることを祈ります。
今日の使徒言行録では、主の天使が使徒たちを牢屋から救い出して、命の言葉を残らず民衆に告げるように命じました。これはまさに主イエスが弟子たちに、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」と言われたことです。私たちもまた、主イエスによって遣わされているのです。主イエスのみ名によって人々に命を得るように遣わされているのです。より多くの人にイエスが神の子メシアであると信じるように、私たち一人一人が神の命の言葉を伝えなければなりません。必ず聖霊が働いて、日々救われる人々を私たちの仲間に加えてくださると信じています。
今から二千年前、主イエス・キリストが復活をなさいました。しかし、あれから二千年経ったのに、いまだにそれを信じない人が大勢います。目で見えない神の子メシアである主イエスを信じるのに、神のみ言葉をよく読んで、よく聞いて、そして心に留める必要があります。信じない者のままではなくて、信じる者になりましょう、幸せな者になりましょう。そして、信じている私たち、幸せな者である私たちも、神のみ言葉をよく読んで、よく聞いて、そして心に留めることによって、ますます神との関係が深まって、信仰も強くなるでしょう。
この一週間、皆さん一人一人が主の平和の中で時を過ごして、神のみ言葉に傾けて、心に留めて、そして、神とのより深い関係を育んでいくことを、心からお祈り申し上げます。
2025年4月26日土曜日
説教と勧話
明日は日本での初めての説教です。実はこのブログも何回か説教を載せましたが、厳密にいうとそれは説教ではなく、勧話です。今までは一信徒の立場で壇上で話をさせてもらいましたが、今回は聖職者としての立場です。名称だけが違うのかというと、それも厳密では違います。基本的な内容は変わりませんが、勧話の場合、基本的に”わたしたち”が基本ですが、説教となると、”皆さん”が多くなります。それは聖職者は神様を代表して話すので、私たちではなく、皆さんとなります。
今の教会で初の説教となりますので、私の言葉を思いが神さまのみ心にかないますように。
2025年4月24日木曜日
万人受けの説教
私は今神学院で説教学の聴講をしています。その説教学を教えている先生はとても説教が有名な先生で、説教塾の主催なども行っています。しかし、その先生が牧師として勤めている教会のある信徒さんはほぼ毎主日に私のいる教会に来ています。話を伺ったら、その説教があまり気に入らないとのことです。
私自身は学校で数学の先生をしていましたので、クラス全員が私の教えを理解するわけではありませんでした、分かりやすいという人もいれば、逆に全然わからないという人もいます。説教も同じで、万人受けの説教はあり得ません。説教で養ってもらうことはもちろん大事ですが、礼拝において、神様との交わりをもっと重点を置くべきだと思います。
2025年4月23日水曜日
神さまに近づく
キリスト教は神様に近づくという考えですが、日本人はいかに神様に関わらない方が無難であるようです。それは、神様のことがはっきりわからないからだと思います。創造主である神様は、信じようが信じまいが、私たちの人生に関わるのです。なので、神様から遠ざけるのではなく、いかに近づき、関係を築くことが大事です。
2025年4月21日月曜日
信徒のための教会
今日は復活後の月曜日、一応教会暦では祝日扱いで、私のいる教会では、こういった祝日は普段九時に行う朝の礼拝の代わりに、朝の七時半に聖餐式を行います。聖餐式が終わり、八時半ぐらいにいつも九時の朝の礼拝に参加する信徒さんが現れて、私は今日の七時半に聖餐式があったことを告げ、その信徒さんは少し落ち込んで、九時の礼拝はないよねと尋ねてきました。
しかし、私は九時に朝の礼拝をその信徒さんと二人で行いました。教会はルールを死守するのではなく、神様と信徒をつなぐためにあるものです。信徒の心を満たすために、必要なことをしてあげることが聖職者たるものの務めです。
2025年4月20日日曜日
縛られない奉仕
奉仕についての相談があり、私はその都度、頑張らないで、気楽で楽しくやってくださいとアドバイスします。私から基本的に何かの要求はしません。教会は宗教ではないから、何かに縛られてはなりません。縛られると、ストレスになりますし、良い信仰生活はできません。
2025年4月18日金曜日
うれしいこと
先日の旧約聖書の勉強会で、聖書が好きになる、聖書を読むことを好きになってもらうこと、これらに向けて考えたものでした。早速信徒さんから、聖書を読み始めるという話をいただきました。これ以上うれしいことはありません。本当に心から神様を愛し、もっと神様のことが知りたいから、聖書を読むのです。
2025年4月17日木曜日
キリスト者の義務?
2025年4月16日水曜日
2025年4月13日日曜日
旧約聖書に学ぶ会
旧約聖書の学び会を担当することになりました。今までのやり方は、聖書の輪読でしたが、やり方をかえって、とりあえずまず旧約の概要を教えることにしました。第一回は旧約全体の概要、その後、旧約内容のテーマ(神の創造、人の罪、・・・)を沿って勉強していこうと思っています。こっちの方が資料の準備は大変ですが、輪読より役に立つと思っています。毎月第3水曜日の夜7時(5月のみ第1水曜日)Zoomでやりますので、興味のある方、お知らせください。
2025年4月11日金曜日
安息日
教会の休館日が火曜日で、自然的にその日が自分の休日となります。しかし、その火曜日に、神学校で一科目を聴講しに行かなければなりません。
となると、自分には安息日がないということになるようです。しかし、そもそも安息日は、一切の仕事を止めて、神様を礼拝することが目的です。神学校での聴講は、私には自分の霊的成長につながって、それは神様への礼拝ですので、安息日であることには変わらないと思います。
2025年4月9日水曜日
健康維持
神学院に通ってた時に、朝の礼拝を終え、ほぼ毎日三十分のジョギングをしていました。しかし卒業したら、運動がピッタと止まりました。昨日約2年半ぶりにジョギングを再開し、毎日しないつもりですが、健康維持に努めたいと思います。
神から与えられたこの体の健康維持もまた、神を礼拝するのです。
2025年4月8日火曜日
2025年4月6日日曜日
2025年4月5日土曜日
2025年4月4日金曜日
忙しくない聖職者
教会では事務作業が多く、聖職者は忙しいように見られます。ここに着任する前の教会の牧師に言われたのが、聖職者は忙しいように見られてはならない、それだと信徒さんは誰も話がしに来ないというアドバイスでした。なるほど、確かに本来の仕事は、信徒さんの霊的成長です、信徒さんと話をしないと成り立ちません。
今日あたりから、やっと仕事にも慣れ、心の余裕が出ました。これから信徒さんのために努めます。
2025年4月3日木曜日
小さな幸せ
2025年4月1日火曜日
お知らせ
今日はエイプリルフールですが、冗談ではありません。
今まであまり自分の宗派とか、教会の話をしませんでした。それほど重要ではないと思ったから、もちろん今もそう思っています。重要なことは、神の僕、主イエスの弟子として、その使命を果たすことだと思っています。
本日から日本聖公会東京教区への転籍に認められ、祐天寺にある聖パウロ教会の牧師補として、務めさせていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。
https://www.nskk.org/tokyo/church/paul/