教会は家族みたいなものです。よく聞かれる話ですが、私は同意しかねます。
最近、よく話をしていた信徒さんが亡くなりました。
あたらめてそう思います。
教会は家族みたいなものではなく、家族そのものです。
日課:マタイによる福音書1:18-25
イザヤ書7:10-17
ローマの信徒への手紙1:1-7
今日は、降臨節の最後の主日を迎えました。毎週一本ずつ灯してきたアドベントクランツのろうそく、今日ついに、四本すべての光を放っています。その光に導かれるように、私たちの心も、主イエス・キリストのご誕生を記念する時へと向けられていきます。いよいよ、その恵みを迎える準備が整いました。
今から二千年以上前、一人の男の子が、おとめから生まれました。医学も科学も今ほど発達していなかった当時、おとめが身ごもり、子どもを産むなんて、とても常識では考えれらないことです。だから、これはただの物語だと受け取る人が、決して少なくありません。
しかし、物語のように思われるこの出来事は、実はその誕生からおよそ七百年も前に、神が預言者イザヤを通して、あらかじめ告げておられた約束だったのです。聖書はこう語っています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
そして、時が満ち、その約束はおとめマリアを通して現実となりました。イエスの誕生によって、七百年もの時を隔てて語られた神の言葉が、ついに歴史の中で確かな事実として実現したのです。
今日の礼拝を通して、「インマヌエル」と呼ばれるこの御子の誕生が、この聖堂に集まる私たち一人ひとりの心に、どれほど大きな恵みをもたらしているかを、ぜひ深く感じていただきたいと思います。
まず、旧約の時代に目を向けてみましょう。イスラエルの民がエジプトを出て、約束の地カナンへと向かう旅路の中で、神は、昼は雲の柱となって進むべき道を示し、夜は火の柱となって足元を照らし、民を守り、導かれました。そこには、民と共におられる神のみ姿がありました。
やがて神は、イスラエルの民に幕屋を造るように命じられました。神はその幕屋に宿り、再び民と共におられました。さらに時が進み、ダビデとソロモンの時代になると、一時的な幕屋に代わり、より堅固で、永続的な神殿が建てられました。神はその神殿に宿り、民と共におられ続けたのです。
しかし、神の「共におられる」という思いは、建物の中にとどまりませんでした。新約の時代に至り、神はこれまでにない、さらに完全な形で、民と共におられることを示されました。それが、一人の男の子——イエス・キリストの誕生です。主イエスこそ、預言者イザヤを通して約束されていた「インマヌエル」でした。「インマヌエル」とは、「神は私たちと共におられる」という意味です。神は、人となられて、私たちと共におられるのです。
そして、主イエスが天に昇られた今も、「インマヌエル」という約束は、続いています。神は今も、教会のただ中におられるからです。ここでいう「教会」は、建物のことではありません。主イエスを信じる一人ひとりが招き集められ、神の民として形づくられた共同体のことです。そして、その教会の内に、神ご自身である聖霊が宿っておられるのです。
かつてもインマヌエル、今もインマヌエル、これからも、そして永遠にインマヌエル。神は、変わることなく、いつも、どんなときも、私たちと共におられるのです。
しかし、「インマヌエル」とは、単に神がそばにいるとか、心の中にいるという表面的な意味ではありません。そこには、私たちの想像を超える、神の恵みが込められているのです。
私たちは皆、生きるために生まれてきます。しかし、「イエス」と名付けられたあの男の子だけは、違いました。主イエスは、すべての人の罪を負い、十字架の上でいのちを献げるために、この世に生まれてきたのです。その十字架と復活こそが、「神は私たちと共におられる」という真実を示しています。
主イエスは、十字架によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちを神の前に正しい者として、立たせてくださいました。この救いの出来事によって、神は遠く離れた天の彼方におられる存在ではなく、私たちの人生そのものに入り込み、私たちを守り、導き、共に歩んでくださったのです。
ヨセフがマリアの妊娠に戸惑い、悩んでいたときも、神はヨセフと共におられました。恐れることなく、マリアを妻に迎えるように、歩むべき道を示されたのです。
あなたも今、大切な決断に迷い、先の見えない不安に押しつぶされそうになっていないでしょうか?夜眠れないほどの重荷、誰にも打ち明けられない悩み、家族や仕事での葛藤、そんなときにも、神は決してあなたを見捨てることなく、励まし、恐れずに一歩を踏み出す勇気と力を与えてくださいます。神は、今この時も、あなたと共におられるのです。
神は、私たちの弱さを担い、痛みを知り、喜びや悲しみを共に分かち合い、孤独や苦しみの中にも寄り添い、慰めと心の平安をもたらしてくださいます。これこそが、「神は私たちと共におられる」という言葉の本当の意味です。これこそが「インマヌエル」なのです。
今日、私たちは「インマヌエル」、つまり「神は私たちと共におられる」という真理を学びました。そして、その現実を確信することができました。しかし、この恵みを日々の生活の中で、豊かに受け取るには、私たち自身が互いに「共にいる」ことを、何よりも大切にしなければなりません。
共に礼拝を献げ、共に聖書を学び、共に喜びや悲しみを分かち合い、共に孤独や苦しみに寄り添う——そのような交わりの中でこそ、インマヌエルの恵みは、目に見える形で現れるのです。
兄弟姉妹の皆さん、どうか忘れないでください。ここには、あなたのために祈る人がいます。あなたの声に耳を傾け、あなたを心に留め、あなたの痛みを共に担おうとする人がいます。
ここは、あなたが一人ではないと気づかされる場所です。ここは、あなたの存在が受け入れられ、あなたのいのちが喜ばれ、あなたがいつでも帰ってきてよい居場所です。だからこそ、今日だけではなく、これからも共に集い、共に祈り、共に歩んでいきましょう。
最後に、今日の第二の朗読の終わりのことばをお借りして祈ります。
神に愛され、聖なる者として召されたすべての人たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。
この聖句を黙想しているとき、「命」
今、自分に与えられているこの命、この豊かさは、
静かに流れる泉の音に包まれながら、主イエス・
ほとんどの教会は、昔では壮年会、青年会、婦人会など、盛んに活動していました。今でもその活動を一部では行っていますが、メンバーが帰る人、年を取る人で、段々と寂しくなっているのが現状です。
あの頃、皆さんはあんなに熱心だったのに、どうして人は増えないのかと疑問にも思います。答えではありませんが、その活動の中に、神さまはおられましたか?神さまを一番にしましたか?こう問わざるを得ません。
どんな活動も、どんな交わりも、神さまがおられなければ、祝福されないと思います。
常に神様のみ言葉、祈りなどを大切にしないといけないと思います。
一年の終わりが近づき、夕暮れが早く訪れるようになると、私たちはいつのまにか、心を温め、希望を灯してくれる光を探し求めるようになります。そんな私たちの心に、静かに語りかける出来事——それが、クリスマスです。
二千年前、神の御子イエス・キリストは、ベツレヘムの小さな家畜小屋でお生まれになりました。人々から見過ごされるようなその場所に、世界を照らす「いのちの光」が宿ったのです。神はその独り子を通して、弱さのただ中に身を置き、貧しさの中に愛を示されました。この出来事は、決して遠い昔の物語ではありません。今もなお、キリストは私たち一人ひとりの「心の小さな場所」に、生まれようとしておられます。
クリスマスの喜びとは、単に救い主の誕生を記念することではなく、今日という日に、その救い主を自分の心にお迎えすることです。たとえ孤独を感じていても、心が疲れていても、キリストはそこに来てくださいます。静かに、私たちの心に光を灯し、闇を照らし、希望を回復させてくださるのです。
最近ニュースになっている土葬の話ですが、キリスト教はどうなんでしょうか?土葬でも、火葬でも、葬式をやらなくても、まったく関係ありません、その行き場はすでに決まってますから。キリスト教は宗教ではないですから、土葬でなければならないとか、火葬でなければならないとか、そういう決まり、ルールはありません。
葬式、埋葬は逝去した人のためではなく、残された家族のためです。