弟子訓練によって、信徒さんは教会で奉仕するように期待するのではなく、信徒さんが良い親、良い社会人などになることが目的です。
弟子訓練の目的は、教会の成長ではなく、信徒さんの成長なのです。
弟子訓練によって、信徒さんは教会で奉仕するように期待するのではなく、信徒さんが良い親、良い社会人などになることが目的です。
弟子訓練の目的は、教会の成長ではなく、信徒さんの成長なのです。
今日は信徒さんから奉仕とボランティアの違いと聞かれました。私が考えるには、ボランティアは人のためにやるもので、それに対し、奉仕は神様のためにやるもので、それだけでなく、神さまを仕えることを含めて、奉仕なのです。
寛容とは、他人の意見が自分と異なる場合、意見の違いがあることを認めて、その違いを尊重し、発言の権利を与えることです。そして、異なる立場の存在を受け入れるのであって、その立場まで受け入れるのではありません。
日課:ルカによる福音書10:38-42
創世記18:1-10b
私たちは、尽きることのない心配事や、気を散らすものの時代に生きています。毎日流れるニュース、物のあふれる生活、それによって、いろいろなことに気を取られて、ついつい疲れたり、思い悩んだりしてしまいます。
今の時代では、これは避けられないだろうと思います。しかし、どうやら今の時代に限ったことでもないようです。
二千年前、テレビも、携帯電話も、ソーシャルメディアも、現代の私たちの気を散らすあらゆるものが登場する以前から、マルタという女性はいろいろなことに気を遣って、思い煩っていました。マルタが今に生きていたら、どうなっているのでしょうか?
どうすればいろいろなことに気を遣わないで、それらから解放されることができるのか?今日のルカによる福音書の中で、その答えが見つかるのではないかと思います。
主イエスは弟子たちを携えて、エルサレムへ向かって、一行は旅を続けているうちに、ある村に入られました。その村にマルタという女性が住んでいて、主イエスを家に迎え入れました。主イエスは行く先々で、神の国について話されて、このマルタの家に入るなり、さっそくいろいろ話し始められました。
このマルタにはマリアという妹がいて、マリアは主イエスの足元に座って、主イエスの話をじっと聞いていました。一方のマルタは、主イエスをいろいろともてなしのため、それどころではありませんでした。なんで妹がこんなにものんきでいられるのか、マルタはイライラし始めました。きっとこういう状況は初めてではなかったでしょう、マルタは自分が妹に頼んでも、手伝ってくれないのを分かっていたから、主イエスに助けを求めました。「主よ、姉妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
さて、この出来事の中で、マルタの問題は何だったと思いますか?やっぱり、マリアのように、ちゃんと座って主イエスの話を聞くべきでしょう。いたるところで大勢の人たちは主イエスの話を聞こうと集まっていました。今はまさにその主イエスの話を聞く特等席が用意されていて、マルタはこのせっかくのチャンスをつかむべきです。
おそらく多くの人はそう思っているでしょう、私は実にそう思っていました。しかし、主イエスは何とおっしゃったか聞いてみましょう。
マルタは家の主で、主イエスを客として自分の家に迎え入れて、その客の足を洗ったり、お茶を注いだり、食事を用意したりするのは、客に対する尊敬の意で、ごく当たり前のことです。今日の旧約聖書の創世記では、神の一行がアブラハムの前に現れた時、アブラハムは終始神をもてなしました。主イエスをもてなす、つまり主イエスに仕えることは、とても素晴らしいことです。ですから、主イエスはマルタに仕えるのを止めて、座って話を聞くように求められませんでした。もし、マルタも最初から座って主イエスの話を聞いていたら、みんなお腹が空くでしょう。
マルタの根本的な問題は、主イエスから引き離されてしまったことです。マルタはいろいろもてなしのために忙しくしていたとありますが、この忙しいのギリシャ語には、引き離すという意味もあります。つまり、マルタはいろいろもてなしのために、心が主イエスから引き離されてしまったのです。マルタは主イエスのことだけではなくて、妹のことも気にして、自分と同じようにあってほしいと思っていたから、思い煩わってしまいました。それに対して、主イエスはマルタにこう言われました。「必要なことは一つだけである。」
これはマリアにも起こりうることで、もしマリアもいろいろなことに気を遣って、主イエスに「主よ、マルタは私を一人にして、自分だけ忙しくしていますが、何とも思いになりませんか。座って話を聞くようにおっしゃて下さい。」と話したら、間違いなく主イエスから同じことを言われるでしょう。しかしマリアは、姉のマルタとは対照的でした。彼女はいろいろなことから、一つだけ自分にとって良いほうを選びました。マリアが選んだその良いほうは、座って主イエスの話を聞くことです。それで、誰もマリアからそれを取り上げて、違うことをさせてはなりません。
主に仕えるにせよ、主の話を聞くことにせよ、大切なのは、主と一緒に過ごす時間に集中することです。心が主イエスから引き離されないために、主イエスに目を留めることです。主イエスに目を留めていれば、いろいろなことに気を遣うこともなくなって、思い煩うこともありません。
礼拝のために教会に足を踏み入れたとき、私たちに必要なことは一つだけ、主イエスに目を留めることです。遊ぶ子供たちの声や車の通り過ぎる音は聞こえるかもしれませんが、それに気を取られないように、オルガンの演奏、聖歌の歌声、み言葉だけに耳を傾けましょう。
他の人がどうであるかを見るのではなくて、私たちに必要なことは一つだけ、主イエスに目を留めることです。目の前の十字架は、主イエスが私たちのために死と復活をなさっとことを思い出させてくれます。灯されたキャンドルは、主イエスが私たちを照らしてくださることを知らせてくれます。そこに生けられた花は、その香りを嗅ぐことはできませんが、その美しさを感じることはできます。花の美しさだけではなくて、生けてくれた人たちのその心の美しさを感じることもできるのです。
礼拝の後も教会ではざまざまなプログラム、活動が用意されます。マルタのように奉仕を望む人もいれば、マリアのように信仰の話を聞きたい人もいます。すぐ家に戻って、夫、妻、親、子どもの面倒を見たい人もいます。夫、妻、親、子どもも、神さまが私たちに授けてくださったもので、その人たちの面倒を見ることは、神さまへの感謝です。ですから、皆さんそれぞれ自分にとって良いほうを選べば、それで良いのです。
そして、教会から出た後も、私たちに必要なことは一つだけ、主イエスに目を留めることです。主イエスに目を留めていれば、日常生活の中で、いろいろなことに気を遣うこともなくなって、思い煩うこともありません。
神に愛されるために、神に仕えたり、神のみ言葉を聞いたりしなければならないと私たちは思っているようです。しかし、これは間違った考えです。なぜなら、これらのことをしなくても、神は私たちを愛しておられるからです。使徒パウロは、私たちがまだ罪人であったとき、主イエスが‘私たちのために死んでくださっとことによって、神は私たちに対する愛を示されたと教えてくれました。(ロマ5:8)つまり、神がまず私たちを愛してくださったのです。しかし、この愛を一方的なものにしてはなりません、ただ神に愛されるままにしておくわけにはいきません。
マルタもマリアも主イエスを愛していました、その愛の表現が違っていただけです。今日の福音書には、マリアが単なる一人の先生ではなくて、主の足元に座ったと記されています。そして、マルタがイエスのことを主と呼んだことが記されています。二人ともイエスが主であることをはっきりと知っていたし、この主が自分たちを愛してくださっていることも知っていました。
ヨハネの手紙にはこう書かれています「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(Ⅰヨハ4:19)神がまず私たちを愛してくださったからこそ、私たちも神を愛するのです。そして、主イエスに仕えて、主イエスのみ言葉を聞くことで、神への愛を示すのです。
私たちは確かに、心配事や、気を散らすものが周りにあふれている時代に生きています。今の世界では、怒りや苦しみを抱くことはあまりにも簡単で、恐れや不安が愛や許しを押しのけてしまうことも少なくありません。
今日の福音書は、毎日毎日、本当に大切なことに再び目を留めることを教えてくれました。主イエスに目を留めましょう、主イエスに目を留めることこそ、いろいろなことに気を遣うことがなっくなって、思い煩うことから解放されます。
主イエスの足元に座って、聖書を読って、祈って、神との時間を過ごしましょう。そして、奉仕を通して、神に仕える喜びを味わいましょう。
神はイスラエル民族を神の民として、アブラハム、イサク、ヤコブと契約した(神の民=救われた民)。そして、神の民となるにふさわしい聖なる者となるために、律法を与え、それを守らせる。
律法を守り抜くことはいかにも難しく、無理である。このことから、人間はいかに無力、神の助けなしには、何もなしえないことを分からせた。
そのため、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストを受け入れることが人生に必要不可欠なことである。
主イエスがこの世に来られたことは、大変な恵みですが、これは恵みだと思われない人がほとんどです。
一万円をもらったら、大変な恵みです、しかしイーロン・マスクが一万円をもらっても、恵みを感じないでしょう。
主イエスの到来が恵みと感じるには、自分は罪人であると自覚する必要があります。
日課:ルカによる福音書10:25-37(子ども向けメッセージ)
イエスさまは神の国に入るためには神さまを愛し、隣人を愛さなければならないと言いました。ある人がイエスさまに「私の隣人とは誰ですか?」と聞きました。イエスさまは、その人の隣人が誰なのかは答えませんでした。その代わりに、他人の隣人になるよう求めました。そして、他人の隣人になるには、憐れみの心が必要だと言いました。
誰かと友だちになりたいなら、まずその人の友だちになるようにしなければなりません。つまり、自分の目線に立って物事を考えるのではなく、他人の立場に立って考えるのです。イエスさまは、憐れみの心をもって、実行することの大切さを教えてくださいました。そのように実行しましょう、きっと他の人の友だち、他の人の隣人になれるはずです。
イエスさまも憐れみのゆえに、私たちの神さまとなったのです。
先日に地域の魅力を発信する団体による取材があって、と言っても子どもたちが中心でいろいろ質問します。その中で、この教会のこれと言ったイベントは何ですかという質問があって、バザーやらコンサートと回答しました。
今考えますが、教会らしいイベントと答えられなかったことは悲しいですね。教会は教会であるために、もっと教会らしいことを行わなければならないですね。
ペトロはすべての教会を巡回し、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。そしてそこで、体が麻痺して八年前から床に着いていたアイネアと言う人に会った。ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。リダとシャロンに住む人は皆、アイネアを見て、主に立ち帰った。(使9:32-35)
私たちの口を通して、人々を救うことができるのです。主イエスが天に昇って、この世を去って後、ペトロはこの事実を私たちに示してくれました。
聖書の中で、神さまの友だちであることを唯一言及している人物はアブラハムです。アブラハムは神さまから選ばれ、神さまのみ心に従って、独り子を献げるほどです。信仰のアブラハム同様、私たちも強い信仰を持てば、神さまのともだちになれるかもしれません。
私たちは決して偶然にこの世に生まれたのではありません、創造主である神さまが私たちに命を授けてくださったのです。小さな心臓がまだ母親の胎内で鼓動を始めたとき、神さまはすでに私たちの人生を計画しておられました。私たちはこの命を見極め、この命を生かし、そして、この世に生まれてきた目的を果たすように召されているのです。