教会の牧師補として就任して、あっという間に2ヶ月経ちました。生活も仕事も慣れてきましたが、逆に気が緩んだところも多々あります。
焦らず、信徒さんの変化をすぐに求めない、ただ神様を信じるだけです。
教会の牧師補として就任して、あっという間に2ヶ月経ちました。生活も仕事も慣れてきましたが、逆に気が緩んだところも多々あります。
焦らず、信徒さんの変化をすぐに求めない、ただ神様を信じるだけです。
異端は必ずしも悪いではないと思います。キリスト教の異端とは、単なる神学の解釈が異なるから、異端にされました。ちなみに異端かどうかの判断基準は何かといいますと、ニケア信経です。それは異端を認定するために、造られたものですから。
簡単に言いますと、ニケア信経を認める教会と認めない教会は、異端の分岐です。下のニケア信経を読んで、それに同意できない場合、自分が異端かも?
わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。
また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます アーメン
宗教のキリスト教と信仰のキリスト教をごちゃ混ぜ、キリスト教の本質が理解せず、教会を離れ、信仰を失うなどのことにつながります。これはすべて聖職者の責任であると痛感し、聖職者自身も分からないか、ちゃんと教えてこなかったことがすべてだと思います。
あなたが信じているのは宗教のキリスト教、それとも信仰のキリスト教?
二泊三日の人権の研修に行ってきました。主に部落差別についての研修で、マレーシアでは、若干の人種はありますが、いわゆる出身地による差別はあまり認識していません。
かつて、主イエスの弟子になる前のフィリポも、出身地による差別ともとられる発言はありました。「ナザレから何かよいものが出るだろうか」(ヨハ1:46)フィリポも主イエスに出会った、人生を変わった一人でした。私たちも主イエスに出会い、変わらなければなりません。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:32)
主イエスを信じることは、自由が得られることです。キリスト者は何かに縛られるのではなく、自由のはずです。洗礼をし、キリスト者となったものの、自由がないのなら、その信仰は間違いです。
日課:ヨハネによる福音書13:31-35
教会勤務する傍ら、神学院でいくつかの科目の聴講するように要求されました、その一つに宣教についての学びです。日本における宣教を、しっかり勉強しなさいという主教の思いだと受け止めています。とある宣教の資料によると、日本人はできる限り、神と関わらない方が平穏な生活だと理解しているようです。神に頼らないといけないのは、困ったときや、何か願いのあるときだけということだそうです。しかし一方、神と大いに関わるべきだというのがキリストの信仰です。これが宣教の妨げとなって、日本にキリスト者が少ない理由の一つなのかもしれません。
聖書によると、神はご自身の栄光のために人を創造されました。(イザ43:7)そのため、創造主である神と大いに関わって、神に栄光をもたらすことが、本来、私たちの人生の目的なのです。実際、主イエスの一生涯は、すべて神の栄光のためでした。しかし、私たちの多くは、どう神に栄光をもたらしたら良いのか分からないと思います。今日の福音書から、それを知ることができるでしょう。
今日のヨハネによる福音書は、イエスは弟子たちの足を洗って、共に最後の晩餐の席で、自分を裏切ろうとしている弟子のユダに「あなたがやろうとしていることを、今すぐやった方がよい」と言うところから始まります。(13:27)ユダが出て行った後、イエスは何を語られたのかを一緒に見ていきましょう。
神に栄光をもたらそうと願えば願うほど、困難に突き当たるでしょう。イエスは実際、それで命を落とされました。およそ三年間行動を共にしていた弟子に裏切られて、十字架の上で死なれました。
日本では少数人口である私たちキリスト者にとって、宣教は決して簡単なことではありません。迫害はないものの、キリスト者というだけで、変な目で見られることもあろうかと思います。信徒獲得のため、ときに手段を択ばない宗教もあります。それがかえって、人々を宗教から遠ざける原因となって、キリスト教にも影響を及ぼしてしまいます。この日本という大変固い土壌で、宣教の種を育てるには、どうしたら良いのでしょう?どう神に栄光をもたらすことができるのでしょう?
ユダが出て行った後、イエスはユダによる裏切りが確実なものだと確信されたとき、弟子たちに、ご自身は神から栄光を与えられて、神もそれによって栄光をお受けになったと言われました。簡単にいうと、イエスの十字架上の死によって、神は栄光をお受けになったということです。
どうしてイエスの死は神に栄光をもたらされたのか?それは、神はあらかじめイエスの死を定めておられて、イエスの死は神ご自身の人間に対する救いの計画だからです。イエスが死ななければならなかったのは、人間の罪を償い、神ご自身との和解を成し遂げられるためです。神がその独り子を惜しまずにお与えになったほどに、ご自身の創造されたこの世界を愛されたからです。(3:16)この愛によって、その独り子が死なれました、しかし、その独り子の死によって、神が栄光をお受けになりました。
私たちはどのようにしたら、神に栄光をもたらすことができるのでしょうか?主イエスは弟子たちに新しい戒めを与えられました、互いに愛し合いなさいという戒めです。これは当時の弟子たちだけに与えられたものではなくて、キリスト者である私たちすべての人に与えられた戒めでもあるのです。互いに愛し合うことで、神に栄光をもたらされるのです。互いに愛し合うことで、神が再び栄光をお受けになるのです。
人を愛する戒めは、ずっと以前からありました、「隣人を自分のように愛しなさい。」という戒めです。(レビ19:18)主イエスのこの新しい戒めが新しいのは、自分を愛するようにではなくて、主イエスが弟子たちを愛したように、人を愛するからです。しかも、一方的ではなくて、互いに愛し合うことです。それによって、私たちが主イエスの弟子であることを世間は知るようになると言われました。すなわち、互いに愛し合うことが私たちキリスト者のシンボルです。十字架を身につけるのではなくて、互いに愛し合うことで、私たちがキリスト者であることを世に知らしめるのです。
これは宣教において、非常に重要なポイントだと思います。私たちはしばしば、キリスト者として、積極的に人に福音を宣べ伝えて、主イエスの証しをしなければならないと思って、そして、宣教活動を積極的に行わなければ、信徒は増えないと考えているようです。しかし、それがすべてでしょうか?
主イエスが天に昇られた後、弟子たちはその戒めを忠実に守って、みんなが助け合って、そして、よく集まって、ひたすら心を一つにして礼拝を行いました。聖書によると、主イエスは救われる人々を日々仲間に加えてくださったそうです。(使2:44-47)主イエス自らが与えられた戒めで、ご自身は必ず祝福してくださいます。私たちも互いに愛し合うならば、この愛の共同体に入りたい、私たちの仲間になりたいという人たちは必ずいます。主イエスは必ず教会を成長させて、信徒の数を増やしてくださいます。これこそ、まことの宣教です。これこそ、神に栄光をもたらす道です。
主イエスの愛は、自己犠牲的かつ謙遜な愛です。私たちはどのように互いに愛し合えば良いのか、少し戸惑うのかもしれません。主イエスは実際、弟子たちをどのように愛されたのかを示してくださいました。それは、弟子たちの足を洗われたことです。
ヨハネによる福音書には、聖餐に関する記述はありません。しかし、他の福音書にはない聖餐のときに、主イエスが弟子たちの足を洗われる出来事が記録されています。使徒ヨハネにとって、聖餐と洗足は、実に深く関連していて、おそらく主イエスのこの行動から、聖餐のより深い意味を見い出したようです。それは、聖餐は単なる形式にとどまるのではなくて、愛に伴う行動に移さなければ意味がないということです。主イエスは弟子たちの足を洗われたことで、愛を示されたのです。そして、弟子たちに互いに足を洗い合うように告げられました。(13:14)
私は聖パウロ教会でこの愛を実際に目にしました、皆さんも見たのでしょうか?教会をきれいに掃除してくれている人々がいます。礼拝での演奏のために練習に励んでいる人々がいます。丁寧に花を飾ってくれている人々がいます。祭壇の準備、後片付けを黙々とやってくれている人々がいます。早々今日の聖書朗読を決めて、事前に練習した人々がいます。うどんを用意してくれている人々がいます。いろんな活動を計画してくれている人々がいます。これらは、皆さんに与えられた義務では全くありません。ここに来られる人たちがより良い礼拝ができるように、より良い教会になるように、皆さん自らが献げて、喜びの中で行われる奉仕です。これは、教会の兄弟姉妹に対する愛そのものです。この愛がなければ、礼拝は単なる形式にとどまって、教会も単なる建物にすぎません。皆さんは、まさに兄弟姉妹一人一人の足を洗っているのです。
コロナ禍後、教会に戻って来る信徒さんは少なくなりました。それは、教会での礼拝が休止していたからではなくて、礼拝の休止によって、人が集まれなくて、奉仕ができなくて、互いに愛し合う機会が減ってしまったことが根本な原因だと私は思います。
私たちは本当によくやっていると思います。しかし、もっとできるはずです、もっとできると信じています。今度は教会に来られない、礼拝に参加できない兄弟姉妹に対しても、この愛の行動に出る必要があります。まだ、足を洗ってくれるのを待っている孤独で、高齢で、病床にいる兄弟姉妹が大勢います。再び神が栄光をお受けになるために、行動に出ましょう、互いに愛し合いましょう。
主イエスの死によって、私たちの罪は赦されました。主イエスの死によって、神が栄光をお受けになりました。主イエスは、互いに愛し合いなさいという新しい戒めを私たちに与えられました。互いに愛し合うことで、再び神が栄光をお受けになります。
来年創立150周年を迎える聖パウロ教会は、互いに愛し合うという宣教の原点に立ち返って、そして、それに向かわなければなりません。私たち一人一人が互いに愛し合うことを心から願っています、そして、祈っています。ぜひ私たちは心を一つにして、聖パウロ教会を愛に満ち溢れる教会にしていきましょう、聖パウロ教会を神に栄光をもたらす教会にしていきましょう。
イザヤ書43:7では、神は自分の栄光のために万物を創造されたとあります。そしてコリント書一8:6では、万物はキリストのために創造されたとあります。創世記にある神の創造は、すでにキリストに深く関わっているのです。
キリストは単にある御子だけではなく、神によって創造された私たちには深く関わっているのです。
好きな作家の作品をいくつか読んだことがありますが、聖書を読んだことはありません。
追いかけているスターのためなら何でもしますが、イエスのために捧げようとは考えない。
イエスはこの人たちよりも価値はありません。
昨日の深夜一時に電話がかかってきて、なんか信徒に大変なことがあるのかと思いましたが、結局知らない大阪在住のクリスチャンの女性で、インターネットで教会を調べて、いろいろな教会に電話を掛けたそうです。
ここではあまり詳細は明かせませんが、悩みがあって、二時間ぐらい話をして、電話を切ろうとすると、見捨てないでくださいと言われました。私は神さまを信じてくださいと言い続き、神さまを信じるなら、あなた自分で電話を切って、神さまに感謝して、寝るようにして下さいと言いました。最終的に、彼女から電話を切りました。私は彼女を見捨てないし、神さまも彼女を見捨てません。
罪は、辞書で調べますと、道徳・法律などの社会規範に反する行為ということです。この定義のもとで、自分は罪人だと思いますか?一方、キリスト教のいっている罪はいわゆる神の義(正義、正しさ)に反することです。この定義のもとで、自分は罪人だと思いますか?
愛する天の父なる神様、この母の日に、世界中のすべての母のために、心からお祈りします。
母親を通して、あなたが創造されたこの美しい世界に私たちを連れてくださいました。母親を通して、私たちに輝かしく美しい人生を与えてくださいました。そして、母親の愛の中であなたを見つけることができました。
どうか世界中のすべての母親を祝福してください。若かろうが老いていようが、貧しかろうが裕福だろうが、すべての母親を祝福し、幸せにしてあげてください!そして、子供たちが自分たちを愛していることを知らせてください。
世界中のすべての母親に、あなたの特別な祝福を願い、彼女たちに幸せ、平和、健康をお与えください!そして、あなたの子供たちが、どんな時もあなたを賛美し、讃えますように!主キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン!
聖書の中で、これほど悲しい神のみ言葉はないだろう
主は言われた。「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」(創6:7)
神の創造の学びの私の私見です。
神の創造はもちろん無からの創造ですが、それだけに着目すると、単に神が世界を創造して、それで終わりだと感じるに否めません。
創世記における神の創造の主旨は、混乱から秩序あるものであることを理解し、さらに、三位一体の神を信じていれば、神は今もこの混乱の世界を創造し続け、深く関わっていることが分かります。
神は一度良しとされ、しかし再び混乱になってしまったこの世界を、秩序あるものにすることが、キリスト者の使命で、それは聖霊が私たちの内に宿られた理由でもあります。
ゆえに、私たち教会として、主日に礼拝を行うだけではなく、職場、学校、家庭、日常生活の中において、神の助けで、この混乱の世界をいかに良い世界にしていく努力をしなければなりません。
大斎節で食事制限をした関係で、ちょっと痩せましたが、よくそれは信仰、宗教の理由かと聞かれます。若干説明しますと、一部の宗教では、その宗教の法律で決められていて、それに従わないと、罰せられることもあります。そういう場合の食事制限は宗教の理由です。キリスト教の場合でも、宗派によっていろいろあるようですが、私自身がいる宗派は、推奨、指針はあるものの、まったく強制力はありません。あくまで欲を抑えるとか、集中して神様と向き合うためで、個人の意思によるものです。一応それは信仰の理由と言えるのでしょう。
説教を準備しているときに、本当にいろいろ発見があります。自分の思いを勝手にしゃべるわけにはいきませんので、それでいろいろ考えて、聖書の他の箇所と照らし合わせて、聖書解釈の本を調べるなど、その都度、なるほどなということがしばしばありました。やっぱり、説教はおろそかにしてはならない、そして大事にするからこそ、自分も勉強になります。
毎週の週報に載せている療養中、ご高齢の代祷リストがあります。毎日一人一人を覚えて祈ってますが、この方々の現状がどうなのか気になって、それで電話番号の分かる方に電話し、現状を確認しました。そして今日、その一人のお宅を訪問しました。
祈りはもちろん大事です、もっと大切なものもあります。
(ヤコブ2:15-16)もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。