2026年2月18日水曜日

「理解を求める信仰」の祈り

 主よ、

私は、理解するために信じるのではありません。

信じるために、私は理解を求めるのです。

なぜなら、信じなければ理解することはできないからです。

2026年2月15日日曜日

説教《山を下ろう》

 日課:マタイよる福音書17:1-9

   出エジプト記24:12-18

   ペトロの手紙Ⅱ1:16-21


教会暦の中には、主イエスの変容に関わる日が二つあります。一つは、8月6日の「主イエス変容の日」です。そしてもう一つが、今日迎えている大斎節前主日です。


同じ出来事を記念する日ではありますが、そこに向けられるまなざしは、少し異なります。8月6日の「主イエス変容の日」は、主イエスの栄光そのものに、焦点が当てられる日です。それに対して、大斎節の入り口に立つこの主日は、栄光だけに目を向ける日ではなく、むしろ、その栄光が、どこへ向かっていくのかを、問いかける日なのです。


今日、この礼拝に集まっている私たちの中には、喜びのただ中にある人もいれば、先の見えない不安や、言葉にすることのできない重荷を抱えている人もいるでしょう。そのすべてを主のみ前に置きながら、今、与えられているみ言葉に、共に心を傾けていきたいと思います。


聖書は、イエス・キリストが、やがて栄光のうちに、再び来られると約束しています。しかし、そのは単なる遠い未来の出来事ではありません。今日、私たちは、主イエスの弟子ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネの目を通して、その来るべき栄光を、あらかじめ垣間見ることができるのです。


今日の第二朗読、ペトロの手紙で、ペトロは力強く証言しています。主イエスの変容の出来事は、人の心を引きつけるために、巧みに作られた作り話ではありません。彼自身がヤコブ、ヨハネと共に、その厳かな瞬間を確かに目撃した出来事だったのです。


主イエスは、三人の弟子を連れて、高い山に登られます。そこで、主イエスの姿が変わりました。その姿は、もはや「マリアの子」としての姿ではなく、まことに神の子であることを示す、栄光そのものでした。


さらにそこに、モーセとエリヤが現れ、旧約の律法と預言者を体現する二人が、主イエスと語り合っていました。ルカによる福音書は、彼らが語り合っていたのは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる十字架の死であったと記しています。栄光のただ中で語られていたのは、苦難と死への道であったのです。


ペトロは、この光景にすっかり心を奪われ、思わずこう言います。「ここに幕屋を三つ建てましょう。」思い起こせば、その六日前、主イエスが初めてご自身の死と復活について、弟子たちに打ち明けられたとき、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言って、それを受け止めることができませんでした。そのペトロにとって、この山の上で示された栄光は、あまりにも魅力的で、ここにとどまりたいと願ってしまうほどのものでした。


ペトロのこの気持ちは、私たちにもよく分かります。日々の暮らしの中で、私たちもまた、目の前の厳しい現実から目をそらし、居心地のよい場所にとどまっていたくなることがあります。この礼拝のひととき、この信仰の喜びの中にいるとき、思わず「このままでいい」と感じ、山を下ることをためらってしまうのです。


しかし、ペトロが話しているそのとき、雲が彼らを覆い、その雲の中から、声が響きました。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け。」この声は、ただ栄光に輝く姿を見つめよ、という呼びかけではありません。むしろそれは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語ってこられた、あの主イエスの言葉に、今こそ聞け、という、神ご自身からの招きなのです。


弟子たちは、ひどく恐れました。それは、神の声そのものへの恐れであったのか、それとも、自分たちもまた十字架の道へと招かれているという現実への恐れであったのか、分かりません。そのような弟子たちのもとへ、主イエスは近寄り、手を触れて言われます。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」そして、主イエスは、弟子たちを連れて山を下って行かれます。それは、栄光を捨てるためではありません。人々の罪を担い、神と関係を回復し、まことの神の栄光を、この世界にもたらすためでした。

 

弟子たちがやがて目にするのは、太陽のように輝く顔ではなく、茨の冠を被せられた主イエスの顔です。白く輝く衣ではなく、衣をはぎ取られ、十字架につけられる主イエスの姿です。そのとき、彼らは恐れ、つまずき、逃げ出してしまうでしょう。主イエスの変容は、ご自身がまことの神の子であり、この十字架の先に、確かな栄光があることを、示してくださったのです。


キリストの信仰は、山の上に残される感動ではありません。主日の礼拝は、確かに「山の上」です。ここには賛美があり、平和があります。しかし私たちは、やがて、それぞれの現実へと遣わされていきます。そこには、思い通りにならない現実が広がっています。家庭で、職場で、病の中で、不安や別れのただ中で、私たちは山を下って生きて行かなければなりません。


しかし、私たちはすでに、ペトロたちと共に、主イエスの栄光を垣間見た者です。だからこそ、どのような現実の中にあっても、主イエスの歩みの先に、必ず命と栄光があると信じて、歩み続けることができるのです。


今日の福音書に記されている主イエスの変容は、山の上で輝く栄光を見せるためだけの出来事ではありません。大斎節前主日にふさわしく、それは私たちのまなざしを、これから始まる大斎節へと向け、さらに、私たちが歩んでいかなければならない、厳しく、時に理解しがたい道を支えるために、神から与えられた希望なのです。


今週の水曜日から、大斎節が始まります。この四十日余りの歩みの中で、私たちはあらためて、主イエスの言葉に聞き、その歩みに心を向けて生きるよう招かれています。山の上で弟子たちが目撃した栄光は、決して過去の出来事にとどまりません。今度は私たち自身が、それぞれに遣わされる場所において、主イエスの栄光を証しする者として、歩み出していくのです。


兄弟姉妹の皆さん、どうか忘れないでください。山を下る弟子たちに触れた、あの温かな手は、今、ここにいる私たち一人ひとりの背中にも、確かに置かれています。主イエスは、私たちを山の上に置き去りにはなさいません。また、私たちを一人きりで山を下らせることもありません。だからこそ、恐れることはありません。


山の上で示された栄光を心に刻みながら、主イエスと共に山を下り、主イエスと共に、それぞれの日常へと出て行きましょう。家庭へ、職場へ、病や不安、別れのただ中へ。そこにこそ、大斎節の道があり、十字架を通って、命へと続く、主イエスの道が備えられているのです。

2026年2月9日月曜日

謝る対象

前の主日や、なかなか礼拝に来なかった信徒さんが私を見ると、礼拝に来なかったことについて、謝ってきました。

宗教だと捉えれば、教会の教役者(牧師など)に謝るかもしれませんが、信仰であれば、謝る対象は神様です。


2026年2月1日日曜日

信仰と宗教の違い

私はこの話を度々取り上げています。

それはあまりにも勘違いが多く、深刻だと思いますから。

ここにも一つその違いを話します。

神に頼りのが信仰、

人の力によるのが宗教。