5つのパンと2匹の魚で、5千人を満たしました。主イエスがそれらを祝福し、弟子たちを通して、会衆人配られたのです。
私たちには、5つのパンと2匹の魚で、5千人を満たすことはできない、それは神さまのみ業です。しかし、私たちは、そのパンと魚を人々に配ることができます。
5つのパンと2匹の魚で、5千人を満たしました。主イエスがそれらを祝福し、弟子たちを通して、会衆人配られたのです。
私たちには、5つのパンと2匹の魚で、5千人を満たすことはできない、それは神さまのみ業です。しかし、私たちは、そのパンと魚を人々に配ることができます。
日課:ルカによる福音書19:1-10
創世記32:4-9,23-31
私はしつこい人です。「しつこい人」と聞いて、皆さんはどんなイメージが浮かぶでしょうか?正直なところ、あまり良い印象を持たれないかもしれません。何度も頼みごとをしてきたり、断られても食い下がったりして、そんな人には、「ちょっと空気読んでよ」と思ってしまうこともありますよね。
しかし、「しつこさ」や「粘り強さ」は、必ずしも悪いことばかりではありません。子どもが「これ買って!」と何度も親におねだりして、営業マンが断れれてもあきらめずに何度も足を運び続けて、こうした場面では、ある種の熱意や一生懸命さを感じることがあるでしょう。特に、「どうしても伝えたいこと」、「どうしても実現したいこと」があるとき、人は自然と粘り強くなるものです。そして、その粘りが、思いがけない扉を開くこともあるのです。
今日の福音書では、主イエスはある一人のしつこく、粘り強いやもめのたとえを通して、弟子たちにある大切なことを教えてくださいました。このたとえに耳を傾けながら、主イエスが弟子たち、それから二千年後の私たちにどんなメッセージを語っておられるのか、心を開いて、共に受け取っていきましょう。
ある町に、神を畏れない、人をも尊重しない裁判官がいました、つまりこの裁判官は信仰心も正義感も持たない、自己中心的でわがままな人だったのです。そんな彼のもとに、一人のやもめがやってきて、自分を苦しめる相手に裁きを下してほしいと訴えました。
しかし、この裁判官は彼女の訴えを無視して、取り合おうとしませんでした。それでも、このやもめはあきらめませんでした。彼女は、毎日のように、この裁判官のもとを訪れて、裁きを下すようにしつこく、粘り強く訴え続けたのです。
そしてついに、この裁判官は根負けして、彼女の訴えに応じて裁きを下すことにします。しかし、彼がそうしたのは、良心の呵責、あるいは憐れみの心からではありませんでした。なぜなら、神を畏れない、人も尊重しない人だったからです。彼が動いた唯一の理由、それは、このやもめのしつこさ、粘り強さが、あまりにも煩わしかったからです。
主イエスはこのたとえを通じて、弟子たちに伝えたかったのは、祈りはまさにあのやもめのようにしつこく、粘り強く、つまり、絶えず祈るべきです。神を畏れない、人も尊重しない不正な裁判官でさえ、しつこく、粘り強く求め続けられれば、動かされざるを得ません。ましてや、憐れみ深く、正義の神が、昼も夜もご自分に叫び求めるご自身の民を、放っておかれるわけにはいかないでしょう。神は不正な裁判官ではありません、必ず速やかに私たちの叫びに耳を傾けてくださいます。
祈りは、単に神に願いを届けて、何かを得ようとする手段ではありません。私たちが祈るとき、私たちの内にある聖霊の力によって、御子イエス・キリストを通して、天の父なる神につながっています。つまり、私たちが祈るとき、ただ一人で言葉をつぶやいているのではなくて、三位一体の神との霊的な交わりであって、私たちが神との関係を築くために欠かせないものです。
人との関係においても、会話やコミュニケーションがなければ、親しい関係を築くことはできません。神との関係を築くことこそ、私たちキリスト者の霊的な生活において、最も大切なことの一つです。そのため、絶えず祈ることが大切です。そして、たとえ祈りがすぐに叶えられないときでも、決して落胆してはなりません。
弟子たちは主イエスに、悪霊を追い出す方法を求めませんでした。病人を癒す方法を求めませんでした。嵐を静める方法を求めませんでした。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹する方法を求めませんでした。彼らが主イエスに求めたのは、たった一つのことでした。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」(11:1)そして、主イエスが教えたのは、私たちがよく祈っている主の祈りです。
弟子たちは、「何かができるようになりたい」と願ったのではなくて、祈りにおいて神との関係を築くことを何よりも大切にしていました。なぜなら、神との関係こそがすべての祝福の源であると知っていたからです。そして、祈り続けることによって、神との関係を深まることができるのです。
皆さん、「ハドソン川の奇跡」という実話をご存じでしょうか?ハドソン川はアメリカのニューヨークを流れる川です。2009年、あるアメリカ民間航空機が離陸からわずか1分後に、鳥の群れと衝突しました。飛行機の両方のエンジンが損傷し、飛行機は完全に動力を失い、まさに絶体絶命の状態に陥りました。しかし最終的に、その飛行機はハドソン川に見事に着水し、乗員乗客全員が無事に救出されました。この出来事は「ハドソン川の奇跡」と呼ばれ、映画にもなって、多くの人々に感動を与えました。
ところが、当時の機長は、「これは決して奇跡ではありません。」と断言しました。奇跡とは、絶望的でほかに選択肢がなく、ただ運に任せるしかない状況で、運がよければ、それは奇跡であるということです。しかし、あの機長には選択肢がなかったわけではなくて、あえて川への着水を選んだのです。
事故は離陸直後に発生し、普通なら、おそらく空港に引き返すでしょう。しかしあの機長は高度が足らない、引き返すには時間が全くないと判断しました。そこで、彼はより安全な選択をしました。それは目の前のハドソン川への着水です。彼は安全に着水し、乗員乗客全員を救えるという確信を持っていました。その後の調査結果もこれを裏付けして、もし当時、飛行機が引き返していたら、間違いなく墜落していました。
なぜあの機長はそのような冷静な判断ができたのでしょうか?それは、彼が日々積み重ねてきた地道な訓練の成果でした。誰も彼に「いつか川に着水する日が来るから今から練習しろ」と言ったわけではないし、彼の訓練も川への着水方法を学ぶものではありませんでした。彼はただただ毎日普通に練習を続けるだけ、だからこそ、緊急事態や予期せぬ出来事に遭遇した時でも、彼は常に冷静な判断を下し、適切に対応することができたのです。
祈りもまた、それと同じです。毎日の祈りは、まるで筋肉を鍛えるトレーニングのようなものです。すぐに目に見える成果が出るわけではありません。しかし確実に、私たちの内なる人を強め、神との関係が深めていきます。祈りだけではありません、毎週に礼拝に来る、毎日に聖書を読む、こうした神と向き合う習慣が、信仰の土台を着実に築いていくのです。そして、その積み重ねは、やがて突然訪れる人生の危機や試練、あるいは重要な転機に、私たちをしっかりと支えるくれるのです。
前回の信徒懇談会でも皆さんに話ししました、少なくとも毎日5分間の聖書を読む時間、5分間の祈る時間を作りましょう、一日24時間のうち、たった10分間を神に献げるのは、決して無理に強いられることではありません、私たちの霊を養い、神との関係を深める非常に大切な時間です。
今日の第一朗読の創世記では、ヤコブが神の使いと格闘し、神の使いがヤコブに放すように懇願しましたが、ヤコブは「祝福してくださるまでは放しません」と頑固に拒否し、最終的にヤコブは神から祝福されました。このヤコブの姿は、まさにしつこく、粘り強い信仰の象徴です。
主イエスは私たちに、祈りにはこれほどのしつこさと粘り強さが必要だと教えられました。絶えず祈れば、神との関係は深まります。その関係が、私たちの人生に力を与えて、すべての祝福の源となるのです。
兄弟姉妹の皆さん、どうか絶えず祈り続けましょう。み国のためにも、教会のためにも、家族のためにも、そして、あなた自身の信仰のためにも、日々の生活の中で、祈りを習慣として、神との親しい交わりを大切にしていきましょう。神が必ずあなたの祈りを聞いてくださいます。その確信を持って、信仰の歩みを続けていきましょう。
もう一度言います、わたしはしつこい人です。これからもしつこく、粘り強く、皆さんにみ言葉と祈りの大切さ、そして主イエスの弟子として生きる素晴らしさを訴え続けていきたいと思っています。
あるホームレスの方が、私の牧師館に泊まってます。約2週間共に生活し、彼にはキリスト教のことを少し話をしました。
昨夜彼にあることを言われました。”この2週間で、あなたたちの会話を聞いてみると、これをやってはいけないということは全くなかった。”
彼にとって、宗教はいろんな制限があるだと想像していたでしょう。
もちろん、キリスト教は宗教ではない、キリストは私たちを解放してくださったことを、ちゃんと彼に説明しました。
今日は井の頭公園の近くにあるナザレの家で黙想会を行いました。ここは元々修道院で、修女さんがいなくなったあと、霊的な集いの場所となっています。この中に立派な回廊があって、以前修女さんが毎日歩きながら祈っていました。この回廊をイエス様と歩くという黙想会を企画しました。これはなかなか新鮮で、好評が得られました。
コロナ禍で休止していた手芸の会が再開しました。今まで皆さんが手芸に楽しみ、休憩時に歓談など、交わりの場となっていましたが、私の提案で、始まる前に、聖書1章を読むことにしました。
どんな活動でも、単にその活動だけではなく、すべて宣教のためです。そのため、少しずつ聖書に親しみ、成長していく必要があります。